2012/05/02 - 2012/05/05
353位(同エリア563件中)
倫清堂さん
春の大型連休は連続した休みを取る絶好の機会で、天気も比較的安定している時期のはずですが、今回は台風並みの暴風雨がちょうど到来する予報が出てしまいました。
しかし、2カ月も前から予定していた旅の日程は急には変えられません。
5月1日は、午前中には旅支度を終えて荷物を職場に運び、いつも通り仕事をこなし、9時に終えると同時にタクシーで仙台駅へ向かい、そこから夜行バスで名古屋に向かいました。
1年ぶりの夜行バス。
これだけは慣れるということはないようで、ほとんど眠れないどころか、事故による通行止めで一般道を走ったためにひどい揺れを起こし、気分が悪くなってしまうという始末でした。
ようやく眠れない夜も過ぎ、目的地の名古屋に着いた時には、今にも降り出しそうな暗い空。
不安を抱えながら、通勤・通学の人たちであふれている近鉄名古屋駅から特急に乗って津へ向かいました。
津でレンタカーを借り、熊野三山への参拝と徐福伝説を追うことにしていました。
PR
-
電車の中ではついうとうとしてしまいましたが、ふと外を見ると窓ガラスを大量の雨が叩きつけているではありませんか。
天気予報は当たり、今回の旅行は雨とのお付き合いになることを覚悟しました。
しかし悪い方にばかり考えてはいません。
晴れれば観光客も多いですが、悪天候ならそれは少なくなり、その分本来の雰囲気を感じることができるからです。
雨が降ることと晴れること、両方にメリットを見つけることが、人生を楽しむ小さなコツなのです。
津駅からレンタカーの営業所まではわずかな距離ですが、強い風に傘が取られてしまい、歩くのに難儀しました。
ようやく車を手に入れて走り始めますが、まだ朝のラッシュは終わっておらず、目的地の三重県護国神社にたどり着くのも一苦労。
境内に張られた縄に吊るされる鯉のぼりも、雨に濡れていました。
津藩主藤堂高猷公が戊辰の役で戦死した藩士を祀ったのが始まりで、大東亜戦争までの三重県出身の英霊をお祀りしています。三重縣護國神社 寺・神社・教会
-
車が混んでいるのは中心部だけで、少し外れるととたんに運転はスムーズになりました。
同じく津市内に鎮座する結城神社を参拝。
御祭神は結城宗広朝臣と結城親光卿一族殉難将士。
結城氏は藤原氏の流れにある関東の名族で、宗広公は陸奥白河の城主でした。
宗広公は大塔宮の令旨と後醍醐天皇の綸旨を奉じて新田義貞公とともに鎌倉を攻め、幕府滅亡後は奥州平定に身を尽くしました。
しかし足利氏が敵対することになると、多賀城に遣わされていた義良親王を奉じて北畠顕家公とともに討伐に向かい、多くの戦功を立てますが、最後は乗り込んだ船が暴風雨に遭ったために軍の壊滅を招き、打ち上げられたこの地で73歳で病死したとのことです。
その次男の親光公は「三木一草」の一人に挙げられる後醍醐天皇の側近で、やはり多くの手柄を立てましたが、今日に入った尊氏を直接斬ろうと偽って降伏し、見破られながらも裏切り者の大友貞載を討ち取り、最後は膾のように滅多斬りにされて果てた猛者です。
社宝殿があるとのことなので、神主さんにお願いし、中を拝見させていただきました。
後醍醐天皇の綸旨や宗広公直筆の書状の他、武具や絵画も展示されていましたが、中でも目を引いたのが、つい最近書かれたと思われる結城宗広公一代記とも言える絵巻物でした。
これが誰によって書かれたのかを訊くtもりでしたが、つい別な話をしてしまったために訊きそびれてしまいました。
あの絵巻物がいつ誰の手によって書かれたのかは、今も不明のままです。結城神社 寺・神社・教会
-
伊勢自動車道・紀勢自動車道を南下して終点の紀勢大内山で降りた頃には、雨はかなり強くなっていました。
幸い渋滞はなく道路はスムーズでしたが、時間が経てば経つほど雨と風は強くなります。
熊野へ続く国道42号線も、雨と風さえなければとても快適なドライブになったはずですが、なんと電光掲示板に大雨による通行止めの文字が出ているではありませんか。
まさかとは思いつつ道の駅に寄って確認すると、確かに基準の降水量を超えたために県境の峠が通行止めになっているとのことです。
しかし迂回できる国道311号線はまだ大丈夫と言われ、そちらを通れるうちに急いで熊野へ向かうことにしました。
311号線は海岸沿いを通ることもありますが基本的に山道で、大雨で上から巨石が落ちて来るのではないかと心配になるほど崖が多く、車1台がやっと通れるような細い道も多いため、地元の職員の方が大雨の中カッパを着て交互通行の交通整理をして下さっていました。
感謝の気持ちを伝える手段もなく、ただ頭を下げて通り過ぎることしか出来ませんでした。
予定より30分ほど遅れましたが、熊野速玉大社に到着することができました。熊野速玉大社 寺・神社・教会
-
熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神。
伊弉諾尊と同一神と考えられています。
もともとは神倉山の磐座を御神体とする自然崇拝でしたが、景行天皇58年に社殿を建てて神の宮としました。
そのため「新宮」の地名を定めたと伝えられます。 -
宝物殿の前では武蔵坊弁慶の木造が睨みを利かせていました。
この地に残る伝承では、弁慶は速玉大神に仕えた熊野三党のひとつ、鈴木家の一族とされます。
宝物殿の中は薄暗く展示ケースも相当古いものでしたが、その内容は国宝の玉佩をはじめとする歴史的価値の高いものでした。
若い人が宝物殿を見学している姿を見ると、つい嬉しくなってしまいます。 -
境内にある梛(なぎ)の木は、樹齢800年を超えています。
「なぎ」は主祭神の伊弉諾尊を連想させるため、熊野の修験者たちはこの葉をお守りとして持ち歩いたとのことです。 -
雨はますます強くなり、本宮へ行くための道路も通行止めになっているという情報が入りました。
翌日の本宮大社参拝は、中止となる可能性が出てしまったのです。
くよくよしても天気だけはどうにもならないので、当初の目的地である神倉神社を目指しました。
神倉神社の御神体までは、延々と続く石段を登らなければなりません。
横殴りの雨と、水たまりを踏んで跳ね返った水しぶきで、頂上へ行くよりも早く全身ずぶ濡れとなってしまいました。神倉神社 寺・神社・教会
-
イチオシ
そして到着した山頂には、社殿とゴトビキ岩が鎮座していました。
このゴトビキ岩は古代から信仰の対象であったと考えられますが、『古事記』には伝説が残されています。
熊野に上陸した神武天皇の皇軍は、土地を支配する土蜘蛛たちに手こずって危機を迎えますが、高天原の天照大御神がタケミカヅチに命じて神剣を授けることで、ようやく平定することができたのでした。
神剣は直接神武天皇に授けられたのではなく、タケミカヅチが熊野の住人の高倉下という人物の夢に出て、倉の中に置かれていることを教えたのでした。
夢のお告げの通りに倉の中に神剣を発見した高倉下は、神武天皇に神剣を献上しますが、その場所がこのゴトビキ岩の上であったと伝えられているのです。
後に日本の国の境が定められた時、熊野の国造には高倉下の子孫の大阿斗宿禰が任命されました。
なお『日本書紀』にも、神武天皇が熊野の神邑に到って天磐盾に登ったと書かれています。 -
靴の中にまで水が入り込んでいるような状態なので、一刻も早くホテルに入って身につけているものを乾かしたいところですが、まだ行くべき場所がいくつも残されています。
車のエアコンを全開にして、次の目的地に向けて出発しました。
よくもこれほど降ると感心させられるほどの大量の雨。
到着した阿須賀神社の境内は水たまりばかりで、社殿の前まで行こうとする足をさえぎらんばかりです。
阿須賀神社は熊野速玉大社の境外摂社で、神倉山に降臨した熊野権現が次に遷座した蓬莱山のふもとに鎮座しています。
蓬莱山と言えば、秦の始皇帝が不老長寿の仙薬があると信じた山で、徐福という人物が始皇帝の命によって船出し、ついに祖国に戻ることはなかったのですが、実は日本の熊野の地に上陸していたという伝承が残されているのです。
徐福に直接関係あるわけではないですが、伊勢湾台風で蓬莱山の一部が崩れた際、地中に埋もれていた複数の仏像が偶然発見されました。
それらは御祭神の本地仏(御正体・みしょうたい)とされ、隣接する新宮市立歴史民俗資料館で展示されています。
資料館の方の話によると、発掘されていない遺跡がまだ眠っている可能性があるとのこと。
古代人の信仰を見て感じることができるのは幸せですが、表に出さずに眠らせておくことも、一時代を生きる日本人の務めではないかと思います。阿須賀神社 寺・神社・教会
-
徐福の上陸伝説をもとに整備されたのが、徐福公園です。
阿須賀神社からすぐの所にありました。
阿須賀神社境内には徐福を祀る徐福之宮が鎮座していましたが、こちらには徐福の墓があります。
墓は江戸時代に入ってから、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣公によって建立されたもの。
シナ風の門があり、売店では徐福グッズまで売られています。
公園内で目を引いたのは、徐福の従者7名がそれぞれ大陸から持参した宝物を埋めたという七塚をモチーフにした碑。
七塚のある場所を線で結ぶと北斗七星が現れることから、この石碑も北斗七星形に配置されています。徐福公園 公園・植物園
-
気になるのは、徐福が不老長寿の仙薬を見つけることができたかどうかです。
シナの文献を見ると、司馬遷の『史記』には「平原広沢を得て、王となって帰らなかった」と書かれています。
また同じ『史記』の別な章には、命を受けても実際は出航しておらず、始皇帝は改めて命令しましたが、その帰りに崩御したとも書かれています。
日本の正史である『日本書紀』に徐福は登場しませんが、まるで鏡に移したように似た説話があります。
それは朝鮮からの渡来人、天日槍の曾孫にあたる田道間守です。
田道間守は第11代垂仁天皇の命によって非時香菓を求めて新羅に渡り、それを手に入れて帰国したところ、既に垂仁天皇は亡くなっており、悲しみに嘆きながら死んでしまった人物です。
徐福は実際に日本に来ていながらも、何かの理由でその生涯は正史に記録されず、反転させた説話として残されたと考えられはしないでしょうか。
考えすぎかも知れませんが、徐福の事績が明らかになることで、日本の神代史や建国神話に揺らぎが出てしまうのかも知れません。 -
この日最後の目的地、新宮城跡に着いた頃には、雨は小降りになっていました。
新宮城の前の道路は通行止めになっており、行き止まりになっているおかげで路上駐車が可能でした。
その通行止めの原因は城に登ってから知ったのですが、少し驚きました。
新宮城の真下のトンネルは紀勢本線が走っているのですが、その線路をまたぐための橋の工事が行われていたのです。新宮城跡(丹鶴城公園) 公園・植物園
-
しばらく石段が続きますが、暴風雨の中でしかももっと急な神倉神社の石段を登り終えたばかりの自分にとっては、全く苦になりませんでした。
もともと源為義の子、丹鶴姫の住まいがあったことから、丹鶴城と呼ばれていました。
丹鶴姫の弟である新宮十郎行家公とその子孫が本拠地としていましたが、江戸時代には浅野氏が入り、2代目重良公の時に天守閣が築かれました。
新宮城の散策も終え、宿泊地である那智勝浦まで更に車を走らせます。
空がうす暗くなって来た頃、ようやく宿泊先のホテルに到着しました。
勝浦では寿司屋に入り、海鮮丼と食べました。
イルカの刺身も出してくれるそうですが、食べる勇気が出ませんでした。 -
寝不足のはずなのに早く目が覚めてしまった2日目朝。
まさに台風一過の好天となっていました。
フロントの方の情報では、雨さえやめが本宮へ行く道路が通行止めになることはないとのこと。
あとはなるべく観光客の少ない時間帯にたどり着けるかどうかが課題です。
ホテルでは朝食を用意してくれているはずでしたが、時間の方を大事にして食べずに出発しました。
まず、ホテルからほど近い補陀落山寺へ。
補陀落渡海の出発点で、ここから25人の僧が渡海船に乗って生きながら海へ流されたのでした。
それは、補陀落山に到って永遠の命を得るという願いよりも、憂世の人々の罪・穢れを一身に受けて身を捨てる捨身の行の意味合いが強いのです。
何か、神風特攻隊にもつながる崇高さをそこに感じることができます。
源平合戦に敗れた平惟盛も、渡海によって入水往生した一人です。補陀洛山寺 寺・神社・教会
-
補陀落山寺と同じ境内に鎮座するのが、熊野三所大神社。
行者たちは熊野灘で禊を行い、ここから那智参詣道へと入るのが習わしだったそうです。
そのため、「浜の宮」とか「渚の宮」などと呼ばれています。
歴史的には、欽明天皇24年に熊野三所神社、同じく30年に補陀落山寺が創始されたと伝えられます。
浜の宮から那智の滝まで、車で30分ほど走ります。
あまりに便利すぎると、信仰よりも観光が主になってしまいがちです。
常に戒めの気持ちを保ち続けるよう努力するのですが、初めての場所へ向かう心はつい高揚してしまいます。
参道は那智川沿いに伸びていますが、ところどころ崩れて片側通行となっています。
川沿いの森は土がえぐられ、上流から流れて来た流木があちこちに放置されています。
昨年、平成23年の台風によって記録的な大雨に見舞われ、いくつかの集落は孤立し、土砂災害によって和歌山県だけでも50名の命が失われました。
今回熊野を目指したのは、三山を参拝することで少しでも地元の復興に貢献できはしないかと考えたためでもあります。熊野三所大神社 寺・神社・教会
-
那智の滝から一番近い駐車場に車を停め、飛瀧神社へと参拝に向かいました。
まだ7時前なので、参拝客の姿は数えるほどしかありません。
飛瀧神社には社殿がなく、那智の滝が御神体として信仰の対象になっています。
那智の滝は、神武天皇によって大穴牟遅神の御神体として信仰が始められたと伝えられます。
瀧拝所に立つと、前日の大雨のためか水量の多い滝の水が、全身に飛び散って来ます。
美しい姿であった那智の滝も、昨年の台風で木が流されて、水の落ちる辺りには瓦礫が手つかずで残されていました。
しかし、自然というものは必ず再生するものです。
ちょうど自分が生きている時代に、東日本大震災や巨大台風に巡り遭ったことは、これも一つの縁なのだと思います。
いつか再生する自然に対し、人が育てて来た信仰はもろいものです。
神仏を敬う精神を絶やさないためには、人の努力が欠かせないのです。飛瀧神社 寺・神社・教会
-
イチオシ
車を移動するほどでもないので、青岸渡寺へ続く山道を登ることにしました。
どこにいても滝の水の轟音が響いて来る空間というのは、思えば不思議なものです。
道の途中に、御滝の遥拝所がありました。
熊野那智大社の例大祭で、扇立て神事が行われる場所です。
更に登ると、青岸渡寺の三重塔が見えて来ました。
もとは平安時代に建立されましたが、兵火によって焼失し、現在の三重塔は昭和47年に再建されたものです。
それにしても、那智の御滝を背景にして朱色の三重塔が置かれた景色の、息をのむ程の美しさ。
自然と人工の調和による美という意味で、世界にも稀な芸術作品だと思いました。那智山青岸渡寺 寺・神社・教会
-
石段を登り切った所に、青岸渡寺の本堂がありました。
御創建から6回も建て替えられ、現在の建物は桃山時代に豊臣秀長公によって着工されたものです。
西国三十三所の第1番札所です。
西国三十三所巡りとは、養老2年のある日、大和長谷寺の徳道上人が危篤となった際に夢で閻魔大王にお告げを受け、人々を救うために33か所の観音霊場を定めたものです。
上人の努力にもかかわらず巡礼は人々の間に定着しませんでしたが、後に第65代花山天皇が譲位して法王となられ、各地の高僧を伴って正暦年間に巡礼されたことで再興されました。 -
那智熊野大社は青岸渡寺に隣接しています。
那智大社の主祭神は熊野夫須美大神。
伊弉冉尊と同一神と考えられています。
御滝からこの地へ社殿を遷したのは、仁徳天皇5年のことと伝えられています。
御本殿は第一から第五殿までが横一列に並び、第六殿の八社殿だけが少しずれた所に建っています。
現在の社殿は、こちらも豊臣氏による再興です。熊野那智大社 寺・神社・教会
-
青岸渡寺と通じる門の前には、熊野三山造営の勅使であった平重盛の手植による大樟があります。
幹には洞穴があり、くぐることが出来るよう脚立がかけられていました。
帰りは表参道の石段を降りることにします。
参道の脇には多くの土産物屋が軒を連ねていますが、その多くで売られているのが硯です。
書道とは縁のない生活ですが、記念にひとつ買うことにしました。
お店の主人が硯の下の面に日付を削ってくれている間、雑談で宮城から来たことを告げると、雄勝町の硯のことをとても評価して話してくれました。
東京駅の屋根に使われるスレートが雄勝産であることも、それが大津波の被害をまぬがれたことも、よくご存じでした。 -
御滝と那智大社を参拝しましたが、まだ一日は始まったばかり。
これから国道168号線を本宮へと向かいます。
そこは昨年の台風で最も被害を受けた地域の一つ。
昨日の雨もすごかったですが、それとは比較にならない量の雨がこの山深い地域を襲ったのでした。
168号線は熊野側に沿って走っており、その両側は常に山に挟まれていますが、その山があちこちでごっそり削られています。
山の土が蓄えておけるよりも何倍もの水が、一気に降り注いだのでしょう。
あとで本宮大社で聞いた話では、やはり流木などの瓦礫の処理がまだまだ追いつかない状況なのだそうです。
しかし地元の方たちは、東北が大震災で苦しんでいることを慮って、国に強く要望を出さないでいるらしいのです。
日本は一つ、その精神が国民の心に共通していることを実感する一方で、なぜか被災地に対して冷たい民主党政権の異常さが際立ちます。 -
通行量も少なく、快適なドライブを楽しむことができました。
そしていよいよ熊野本宮大社に到着です。
前日の天気とは打って変わって、日差しが熱いくらいの快晴となりました。
鳥居をくぐると、石段が続いています。熊野本宮大社 寺・神社・教会
-
石段を登り終えた所には神門。
その横には、日輪の中に八咫烏を描いた神旗が掲げられていました。
神旗は以前は鳥居の横に立てられていたはずですが、いつの間にか移動したようです。
八咫烏は足が3本ある烏で、高天原から高御産巣日神のよって遣わされ、熊野に上陸された神武天皇を橿原まで道案内したと『古事記』に記されています。
もちろん実際に3本足の烏がいたとは考えられず、神武天皇に従った有力な豪族をモデルとして、その優れた能力をこの世には無い3本足の烏として描かれたものと思われます。
ただ、やはり気になるのは3という数。
八咫烏を説明する案内板には真・善・美を表わすと書かれており、それは確かに真実の一つに違いありませんが、神道における3という数はもっと深い意味を持っていることを思い出さなければなりません。
熊野三山もなぜ3社によって構成されるのか、その特別な3という数を神道に組み込んだのは誰なのか、まだ知られていない歴史があるはずです。 -
本宮大社の御本殿は茅葺です。
第一殿から第三殿まで熊野三山の主祭神を祀ります。
本宮大社の主祭神は家津御子大神で、素戔嗚尊と同一神とされます。
『紀伊続風土記』には髪の毛から木を生じさせて熊野の豊かな森を生成したと伝えられており、五十猛神との共通点を見ることができます。
五十猛神は素戔嗚尊の御子であり、大国主神と同一神とも解釈できることから、那智御滝とのつながりも見えてきます。
天照大神が祀られる第四殿までを含め、本宮大社の上四社とされます。 -
本宮大社は、御創始から今の場所に鎮座していたのではありません。
かつては熊野川と音無川に挟まれた土地に鎮座していましたが、明治22年の大洪水によって社殿のほとんどが流出してしまい、現在の高台に遷座したという経緯があります。
かつての鎮座地は大斎原として、静寂につつまれた空間が残されています。
大斎原の境内地は現在の本宮大社からすぐの場所で、そこが聖域であることの目印として巨大な鳥居が建てられていますが、鳥居がなくてもただならぬ場所であることが感じられます。旧社地 (大斎原) 名所・史跡
-
かつては上四社の他に、オシホミミ・ニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアエズが祀られる中四社・カグツチ・ハニヤマヒメ・ミヅハノメ・ワクムスビが祀られる下四社が鎮座していました。
しかし大洪水によって中四社と下四社は流されてしまい、流出をまぬがれた上四社だけを高台の現在地へと遷座させたのです。
中四社と下四社の御祭神は、大斎原のもとの場所にある石祠に祀られています。
明治22年の大洪水を体験した方たちにとって、本宮大社の社殿が流されてしまうという事態は、この世の終わりに匹敵するくらいの衝撃であったことが想像できます。
大斎原の雰囲気は、他のどの神社とも寺院とも違う特別なものです。
明治22年と言えば、アジアで初めての近代憲法である第日本帝国憲法が発布された年。
日本にとって理想的な条文であったものの、それを運用する人間がいつまでも優れたままであるという保証はなく、後の亡国はここから始まっていたと見えなくもありません。
日本の歴史を知らず、偽りの言葉で国民の心をもてあそび、その痛みや苦しみに鈍い政権が続くなら、敗戦以上の亡国へ一直線に転がり落ちる運命は避けられません。
日本各地の聖地が、大斎原のような無の空間になる日が来ないよう、国民は命がけで独立と信仰を守らなければならないのです。 -
大斎原には一遍上人の顕彰碑が立っていました。
文永11年に高野山から本宮を目指す一遍の前に、老僧が現れました。
一遍は、一念の信を起こして名号札を受け取るよう伝えますが、老僧は一念の信が起こらないと言ってそれを拒みます。
一遍は名号札を押し付けてその場を去りますが、その行動が正しかったのかに悩みながら本宮に参拝すると、そこに熊野権現が現れて「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」と告げられました。
これを期に、時宗は誕生したのでした。
顕彰碑には「南無阿弥陀仏」の6文字が刻まれています。 -
まだ昼食には早い時間ですが、これから長時間のドライブが待っているし、せっかく本宮に来たら名物も食べたいので、中途半端な時間にもかかわらず営業しているレストランを見つけて入りました。
注文したのは、めはりずし。
白飯を高菜漬けの葉でくるんだにぎり飯の一種で、熊野川流域で力仕事をする人たちのための弁当として生まれた郷土料理です。
素朴な味わいがありました。 -
次の目的地へ行くために、国道168号線を途中から抜けて、わずかに奈良県南部をかすめる道路を通りました。
前日の311号線よりも道幅が細い所が何カ所もありましたが、天気が良いので通行には何ら問題なく、対向車もほとんどありません。
小さな集落を時々通りかかる程度で、本当にこの道でよいのか心配になりながら、車を走らせました。
野生の猿を見るという、初めての経験もしました。
道路はいつの間にか311号線へとつながっており、目的地の花の窟神社へ無事にたどり着くことができました。
花の窟神社の御祭神は伊弉冉尊と軻遇突智尊。
伊弉諾尊とともに国産みと神産みを続ける伊弉冉尊は、火の神である軻遇突智尊を産んだ時、自らもその熱によって焼け死んでしまいました。
伊弉諾尊が伊弉冉尊のいる黄泉国へ行き、変わり果てた妻の姿を見てしまったために命を狙われる神話は有名です。
花の窟神社には社殿がなく、巨大な岩を御神体としてお祀りしており、それが伊弉冉尊の墓であるとも言われています。
この土地の人々が、季節の花を飾って伊弉冉尊の御霊を慰めたことから、いつしか花の窟神社と呼ばれるようになりました。花の窟神社 寺・神社・教会
-
花の窟神社では毎年2月と10月に、御綱掛け神事という儀式が人々の手によって行われます。
それは、定められた様式による縄を編み、そこに花や扇などを吊るして、御神体の頂上から海側に向かって上空を渡すのです。
その縄とは全部で7本の縄を合わせたもので、風・海・木・草・火・土・水という伊弉冉尊から産まれた7神を意味します。
そこに、天照大神・月読尊・素戔嗚尊を意味する3本の縄を垂らしますが、かつてその縄は朝廷から献上されており、この神社が重視されていたことがそこからも理解できます。
参拝を終えて空を見上げると、確かに古式を守った綱が張られていました。 -
イチオシ
このまま国道42号線を進めば、宿泊地の伊勢方面へ向かうことが出来るのですが、前日に迂回路として利用した311号線に寄り道します。
向かった先は、波田須。
観光地ではないため、旅行雑誌などに取り上げられることはまずありません。
まったくその存在すら知らなかった集落ですが、徐福伝説を追ううちに、ここへとたどり着いてしまったのでした。
波田須にも徐福の墓があり、こちらの方が本物なのではないかと直感に訴えるものがあるのです。
前日通った時は大雨でしたが、その風景には少し見覚えもあります。
目指す徐福の墓は、どんな詳しい地図にも載っていません。
インターネットで調べましたが、どうやら波田須駅から徒歩圏内にあるという情報しか得られませんでした。
その波田須駅は、地図上では車道にアクセスしていないようなので、とにかく車で行ける所まで行って、あとは歩いて探索することになります。
311号線から一つ脇の道に入ると、車がすれ違うことも出来ないような細い生活道路になります。
道端に「徐福ノ宮」と書かれた案内が見えたので、目指す場所はすぐ近くだということが確信できました。
橋がかかっている所が少し道幅が広くなっていたので、そこに車を停めて歩き出します。
途中、熊野灘の海が輝いているのが見えました。 -
斜面が多い集落のため、坂を登ったり降ったりしながらしばらく歩き続けると、目の前にこんもり盛りあがった丘と、赤い鳥居が見えました。
ここが徐福の墓と伝えられる徐福ノ宮です。
小さな祠の左側に、徐福の墓と彫られた石が立てられています。
徐福が眠る丘そのものが、蓬莱山なのではないかと思いました。
ここが気になった理由は、波田須という地名にあります。
波田須、は秦が住むと捉えることができ、渡来人秦氏が移り住んだ土地であることを意味します。
徐福は大陸から、たくさんの人々を引き連れて蓬莱山を目指しました。
記録上、秦氏は応神天皇の時代に日本に渡来したとされますが、それよりはるか以前、すでに日本に上陸して一つの集落をなしていたのではないでしょうか。
これを仮に前期秦氏とすると、彼らは高天原の天津神と婚姻関係を結んで大陸の文化を教える一方、九州に降臨した天孫族が平定に手間取っている間に高天原で主導権を握り、神武天皇が高天原を奪い返すために御東征をされたというようにストーリーがつながります。
大和(=高天原)を支配していたニギハヤヒも天孫族であることを自称していたことも、全く矛盾がなくなります。
また、神武天皇に神剣を献上した高倉下や道案内をした八咫烏は、もともと天津神に仕えていたものの前期秦氏の政権に不満を持っていたために、神武天皇に協力したのではないかと推測できます。
それから時代が下り後期秦氏が大陸から渡来した時、前期秦氏が築いていた多くの文化と合流して、神社信仰が今の形とほぼ同じになったにではないかと思われます。
以上はほとんどが個人的な推測ですが、古代史にこれほどのロマンを与えてくれる程、徐福や秦氏は謎ばかりなのです。
おそらく大雨が続いていたら、こうした妄想を楽しみながら徐福の墓参りをすることも出来なかったでしょう。
本当に恵まれていました。 -
尾鷲を通過するので、尾鷲神社に参拝に行きました。
このあたりは初日も通ったはずで、たしか昼食をとったのも尾鷲だったはずですが、景色にほとんど見覚えがありません。
あの大雨で、視界はほとんど利かなかったためです。
しかしこの日は快晴。
天気は1日違うだけでこうも変化するのかと感心させられました。
尾鷲神社の入り口には、樹齢千年以上と推定される大楠がありました。
かつて本殿はこの大楠の西側にあったものの、宝永4年の大津波によって流されたため、現在の場所に遷ったとのことです。
ということは、この大楠は津波にも耐えたということなのでしょう。
現在の社殿の後ろにも、立派な木が見えます。
尾鷲神社の主祭神は武速須佐之男命。
毎年2月には、日本の奇祭として知られる「ヤーヤ祭」が行われます。尾鷲神社 寺・神社・教会
-
紀勢自動車道の現在の終点、紀勢大内山インターの近くに鎮座する頭之宮四方神社に参拝。
どことなく伊勢神宮に似た雰囲気のある神社です。
御祭神の唐橋中将光盛卿は、桓武天皇の子孫。
すぐそばを流れる唐子川の上流には、かつて唐橋中将の居城がありました。
ある時代の子供たちが唐子川で遊んでいると、上流から流れて来る髑髏を発見して水に浮かべて遊んでいました。
そこに現れた老人が注意すると突然なにものかが憑依し、髑髏の主である唐橋中将を名乗って、髑髏を祀るよう託宣したのでした。
これを畏れた村人たちが社殿を建てて祀るようになったのが、頭之宮四方神社の始まりなのだそうです。頭之宮四方神社 寺・神社・教会
-
御本殿の脇には湧水が出ていて、罪穢れを清める水として大切にされています。
その近くには、お頭さんと呼ばれる大きな岩が置かれていますが、よく見ると人の顔のような形をしています。
これは唐子川から見つけられた岩なのだそうです。
唐橋中将の髑髏ではありません。 -
イチオシ
せっかく伊勢まで来たので、瀧原宮に参拝することにします。
前回、母を連れて初めて伊勢参宮をした時は、瀧原宮は雨でした。
雨に濡れる聖地も風情がありましたが、今回は晴天の下での参拝です。
同じ場所でも、こうしていくつもの表情を見ることが出来るというのは素晴らしいことです。
平成25年の御遷宮を間近に控え、瀧原宮も新しい社殿の準備が進んでいるのかと思いましたが、前回来た時と同じでした。
神宮の摂社はたくさんあるので、それぞれ遷宮は時期をずらして行われているようです。皇大神宮別宮瀧原宮 寺・神社・教会
-
参道の若葉は、日差しを浴びてきらきらと輝いていました。
-
次に向かったのは三瀬谷。
波田須と同様、観光地としてはほとんど無名ですが、歴史好きにとっては一度は訪れてみたい場所があります。
それは、北畠具教公の居館があった場所です。
徐福ノ宮もそうでしたが、詳しい場所を地図で知ることができなかったため、足で調べることになります。
ただ、波田須よりは大きな集落(というより街)なので、観光案内をしてくれる場所を見つけることができました。
目的地を話すと、さすがに普通の観光客とは違うと思ったのでしょう。
居館跡以外の北畠具教公にまつわる史跡を、一つ一つ丁寧に教えてくれました。
住宅地を通るため道路がとても複雑で、こういう時は車はかえって邪魔になります。
しかし適当な駐車場もないため、細い道を進んだり戻ったりしながら、ようやくたどり着くことができたのでした。 -
北畠具教公は、後醍醐天皇の信頼の厚かった北畠親房卿の一族の末裔で、伊勢国司としては8代目当主。
永禄16年、織田軍に攻められて降伏。
信長公の次男、茶筅丸(後の信雄公)を北畠家の養子として迎えることを条件に、存続を認められるのでした。
しかし天正4年、信長公は具教公を殺す決意をし、実子ともどもこの居館にて惨殺されます。
具教公は塚原朴伝や上泉信綱とも交流のあった剣術の名人で、襲撃側にも多数の死傷者が出たと伝えられています。
その首級は家臣が菩提寺に埋葬するために持ち出しますが、追手が迫っていたために松阪に埋められ、残された胴体は居館すぐそばに埋葬されました。
その胴塚は民家の脇にあり、具教公の無念の思いが今も籠っているような迫力を感じます。 -
この日は最後に伊雑宮に参拝しました。
こちらも2回目の参拝です。
だいぶうす暗くなった来たため、他の参拝客はいませんでした。
伊勢は熊野と違って内宮・外宮の2社で成り立っていますが、かつては伊雑宮も含め3社構成だったという説もあります。
地図で位置関係を調べると、距離はあるものの一直線に並んだ配置をとっており、その説を無碍に否定するべきではないという気もします。伊雑宮 名所・史跡
-
旅先では、つい時間が気になって早起きしてしまいます。
この日は5時前には目が覚めてしまいました。
宿泊したホテルは、外宮から徒歩5分という恵まれた立地。
歩いて参拝に行くことが出来ます。
まだ早朝だというのに、既に境内には多くの参拝客が押し寄せていました。
遷宮を翌年に控え、やはり多くの人たちが伊勢参宮に関心を持っているということなのでしょう。
白いプレハブによって遮られていますが、新しい社殿はもうすぐ完成です。伊勢神宮外宮(豊受大神宮) 寺・神社・教会
-
チェックアウトして内宮へ向かったのは7時頃。
既に周辺の駐車場は満車です。
神宮会館の立体駐車場にまだ空きがあったので、そこへ車を入れましたが、空いているスペースは屋上にしかありませんでした。
こちらも新しい社殿が完成を待っています。
遷宮の直前には、新しい社殿の近くまで参入して白い玉石を敷き詰める、御白石持行事という儀式に参加することが出来ます。
20年に一度の神事ということで、自分はともかく親にとっては最後の機会になることを思うと、親孝行しておきたいとの気持ちになるのでした。伊勢神宮内宮(皇大神宮) 寺・神社・教会
-
前回は見つけられなかった「踏まず石」を発見。
内宮から荒祭宮に向かう下りの石段の中ほど、中央にありました。
段と段のちょうど中間の高さのため、無意識のうちに踏まないようになっていますが、それでも神様の通り道であることを知らず、中央を通って踏んづけてしまう人もいて、パワースポットブームの前に作法ブームが来てほしいと願わずにいられませんでした。 -
空は晴れ渡り、宇治橋から見る景色に見惚れてしまいそうです。
おはらい町へ入ると、既に営業を始めている店が多く、驚きました。
自宅用に伊勢うどんと和菓子、親戚に鮑ごはんの素、自分用に生姜糖、教え子たち全員にカエルのお守りを購入。 -
前回の参宮で訪れることが出来なかった場所へ、今回は行ってみることにしました。
伊勢志摩スカイラインのちょうど中間点あたりにある、朝熊山の金剛證寺です。
今は伊勢神宮ばかりが参拝客を集めていますが、かつては「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と言われ、神宮と一緒に参拝するのが普通でした。
スカイラインの通行料は少し高めだと思いましたが、便利なので利用することにします。
しばらく上り坂のくねくね道が続き、進めば進むほど標高が高くなって行くのが分かります。
途中には信号などもなく、あまりに簡単に到着することができました。
便利になった反面、なんだか有り難さが薄れるような複雑な心境です。金剛證寺 寺・神社・教会
-
お寺の場合、境内に入るために拝観料を求められることが多いですが、金剛證寺は広大な敷地を管理しているにもかかわらず、訪れる人を受け入れています。
弘法大師が掘ったと伝わる池には連珠橋という名前の橋がかかっており、その先には雨宝童子尊という神仏習合の神像が安置されています。
それは、天照大御神が日向国に16歳で降臨した時の姿を、弘法大師が感得して彫ったもので、国の重要文化財に指定されています。
神仏習合の不思議さを詠んだ松尾芭蕉の句碑がありました。
神垣やおもひもかけず涅槃像 -
イチオシ
弘法大師の伝説が多く残されている金剛證寺ですが、その創始はさらに遡り、欽明天皇の勅によって暁台上人が明星堂を建てたのが初めだと伝えられます。
第29代欽明天皇の時代というのは、朝鮮半島の百済から初めて仏教が伝わった時代です。
弘法大師が真言密教の道場として中興するも、鎌倉時代には衰退し、真言宗から臨済宗に改宗となりました。
九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆公が、城を失って一時身を寄せたこともあり、その後信長公に用いられて勢力を拡大するきっかけとなった場所でもあります。
江戸幕府にも重視され、江戸初期には姫路城主池田輝政公によって本堂の摩尼殿が造営されたのでした。 -
卒塔婆が並んで壁をなしている珍しい風景の奥の院には向かわずに、朝熊山の山頂を目指します。
朝熊山は、弘法大師が修行をしていた日の朝、黄金の熊に出会ったことから名付けられた名前です。
山岳信仰の聖地であり、こういう場所に入る時にはなるべく邪念を払って行かなければならないことは分かるのですが、精神的に未熟な自分にはまだそのような境地は訪れません。
リュックを背負った登山客と2名ほどすれ違いましたが、それ以外は人の気配はありません。
帰り道に迷わないよう、時々後ろを振り返って確認しながら20分ほど登ると、山頂の教ヶ峰に到着しました。
ここには、平安時代の伊勢神宮の神職が経筒を納めた経塚があります。
明治27年、経塚から「承安三年」の銘が刻まれた陶製の経筒が出土し、国宝に指定されました。
崩れかけた石塔がいくつも並び、その雰囲気は恐山に似ていると感じましたが、恐山と違うのはすぐ近くに電波塔のような文明施設が建っていることです。
信仰の対象とされる山にまで、このような汚い施設を置いてしまう現代人は、本当に罰当たりな愚か者です。
スマートフォンで道を確認しながら歩く自分も、罰当たりな現代人の一人です。朝熊山経塚群 名所・史跡
-
次に志摩一之宮、伊射波神社へと参拝する予定でした。
時間もたっぷりあるし、前回たどりつけなかった場所なので、次こそはという思いはずっと持っていました。
しかし朝熊山への登山を終え、また次に来ればよいという気持ちの方が強くなりました。
伊射波神社もたどり着けば感慨深い気持ちになるのは間違いなく、朝熊山経塚群からそれほど時間もおかずに訪れることで双方の印象を相殺してしまうことを恐れての判断でした。
スカイラインを引き返す途中で、見晴らしの良い駐車場がありました。
ここで眺めを味わいながら休憩し、宅配便で送る土産物などを整理して、最後の宿泊地である名古屋に向かうことにしました。 -
伊勢市内はだいぶ混雑が始まっています。
また、伊勢自動車道では早くも渋滞が発生していると表示されていました。
渋滞が長くならないうちに出発するのは正解かも知れません。
高速道路を利用しましたが、途中で下りて偶然見つけた迂回路を通ったため、全く渋滞に遭わずに鈴鹿市に入ることができました。
今回の旅のしめくくりは、三重県内のいくつかの神社になります。
まず訪れたのは、鈴鹿市に鎮座する加佐登神社。
御祭神は日本武尊。
一の鳥居から先は石段が続き、その先に社殿があります。
今まで晴れていたのに、急に雨が降って来ました。
他の参拝客の姿もなく、社務所で神職の方としばらく話しているうちに、雨はやんでしまいました。
神職の方はとても親切で、神社の御由緒や鈴鹿市内の見どころなどを丁寧に話して下さいました。 -
社殿の後ろの方向には、日本武尊の御陵と伝えられる白鳥塚へと続く道があります。
『古事記』には、日本武尊は能煩野で亡くなったと書かれています。
加佐登神社が鎮座するここの地名は能褒野で、『古事記』の伝説と一致しています。
日本武尊が所用していた笠と杖が御神体として納められ、笠殿と呼ばれていたのが、加佐登神社の名前の由来なのだそうです。
日本武尊の御陵は、宮内庁の管理ではありませんでした。
周辺には他にも比定地がいくつかあるそうで、明治時代の学者たちがそれぞれの説を強く主張し、国が学者の力関係に対するある種の配慮によって一ヶ所に定めたわけで、本当のところはどれが本物なのか分からないようです。白鳥塚古墳 名所・史跡
-
最後に伊勢国一之宮の都波岐神社に参拝。
椿大神社と同じく猿田彦大神をお祭りしていますが、椿大神社が鈴鹿山の山麓にあるのに対し、都波岐神社は海のそばに鎮座しています。
地名はこちらが一宮であることから、社殿の規模は椿大神社の方がずっと大きいですが、先に定められたのは都波岐神社の方なのかもしれません。
雄略天皇23年、猿田彦大神8世の孫で伊勢国造の高雄束命による御創建と伝えられます。
それと同時に天椹野命を祀る奈加等神社も創始され、ひとつの社殿で2社が相殿の神社として今に続いています。
初代祭主は天椹野命15世の孫の中跡直山部広幡で、現在の58代目までその子孫が祭を継承しているとのこと。
大雨で一時はどうなるかと危ぶまれた連休の巡礼でしたが、ほとんどの目的地へ無事に参拝に行くことができました。
四日市でレンタカーを返却し、近鉄線で名古屋へ。
名古屋駅近くのホテルにチェックイン開始時間前に入れてもらい、旅の疲れを癒しました。
行く先々で地元の方とふれあいを持つことができたことを、心から感謝しています。
翌日、中部国際空港からの飛行機で無事に帰ることができました。都波岐神社・奈加等神社 寺・神社・教会
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
52