2012/05/12 - 2012/05/13
1288位(同エリア1785件中)
倫清堂さん
大阪での研修会。
4回目は飛行機で往復ですが、朝1番の便は席が取れなかったため、今回は少し遅い到着です。
研修会の期間中、1度は行きたいと思っていた大坂城へ。
高校2年生の頃に部活の全国大会で来て以来となります。
もう20年近くも前のことなので、大会への取り組みはともかく、おまけで見学した時のことはほとんど覚えていません。
今回も脳裏に焼き付けるほどの時間を確保できないので、また10年後くらいには忘れてしまいそうなのですが。
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谷町四丁目駅で地下鉄を降り、そこから徒歩で移動。
先に豊國神社に参拝するつもりで歩きましたが、経路がよく分からないため南外堀の南側を遠回りする格好になってしまいました。
六番櫓と一番櫓を眺めながらの散歩です。
二・三・四・五・七番櫓は、戦災によって焼けおちてしまいました。
天守閣の方向を背に、小さな祠が建っていました。
案内板がないため、どのような祠なのかは不明です。
そのまま歩き続け、玉造口から城内に入りました。 -
天守閣の上の部分だけは見えますが、まだかなり距離があるためそこまで行くのは難しそうです。
納得できるまで散策するとなると、天守閣に登って内部の博物館を見学する時間まで含めて、半日は必要になるでしょう。
大坂城の歴史を簡単におさらいすると、蓮如によって築かれた石山本願寺が一向宗の本拠地となり、それを信長公が攻めて開城させ、信長公は新たな築城の構想を抱きながら本能寺で無念の死を迎えます。
その後、天下統一を果たした豊臣秀吉公によって信長公の構想が実現し、大坂城が完成。
秀吉公が死去すると嫡子の秀頼公が後を継ぎますが、関ヶ原の役に勝利した徳川家康公が実質上は天下を握り、大坂城はそれを不満とする浪人たちを引き寄せて、不穏な空気に包まれます。
家康公は、秀頼公に豊臣家を存続させるつもりでしたが、大坂城を本拠地とすることで野望だけが膨らむのを憂い、大和郡山城への転封を働きかけるも、淀殿がこれを拒み続け、2度の大阪の陣で豊臣家は滅亡。
大坂城は幕府直轄となりますが、家康公の嫡子松平忠輝公が伊達政宗公と結んで大坂城を手に入れ、兄秀忠公の天下を覆すことを疑われたため、家康公から絶縁されます。
幕末には、鳥羽伏見の戦いで敗走した慶喜公が大坂城に籠城する案もありましたが、飽くまで恭順の姿勢を貫いた慶喜公はその案をとらず、大坂城は新政府軍によって焼かれてしまったのでした。
現在の天守閣は、昭和6年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。 -
かなり遠回りになりましたが、豊國神社に到着しました。
御祭神は、豊臣秀吉公・豊臣秀頼公・豊臣秀長公。
秀吉公は死後、京都東山に豊国大明神として祀られますが、徳川の世となってから神号を剥奪され、神社も衰退することとなりました。
しかし維新の明治元年、明治天皇が豊太閤への祀りを復興するよう思し召され、京都の豊国神社が再建されると、大阪の中之島にも別社が建てられて後に独立。
隣接する大阪市役所が拡張するのに合わせ、昭和36年に現在地に遷座されたという経緯があります。豊國神社 寺・神社・教会
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参拝を終えて、大手門から城外へ。
大手門は寛永5年の造営。
大手門も含め、豊臣時代の痕跡はほとんど残されていません。
軽食屋があったので、蕎麦を食べました。 -
千貫櫓は石山本願寺を攻めた際、これを落とした者に千貫与えても惜しくはないと言った場所です。
もっとも、場所は同じでも櫓は建て直されています。
大坂城の南側を駆け足で散策しましたが、本丸などは次のお楽しみとなりました。
時計を確認すると、研修会まであまり時間もありません。
あわてて会場へと向かったのでした。大阪城 名所・史跡
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