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JR小山駅西口から西方に徒歩10分、思川(おもいがわ)を渡る観晃橋詰の右手に位置する丘陵地、下野国名門小山氏の本拠小山城(おやまじょう、栃木県小山市城山町)を訪問しました。<br /><br />平安時代に藤原秀郷(ふじわらひでさと)が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半の頃からです。<br /><br />この城を築いた時、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)を祀った事から、別称「祇園城(ぎおんじょう)」とも呼ばれるようになったと伝えられています。<br /><br />城は西端に流れる思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城された頃は現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀初期頃と思われます。<br /><br />小山氏は源頼朝挙兵時から頼朝に味方し、鎌倉幕府成立後小山朝政(おやま・ともまさ、1155~1238)は下野守護をつとめる中、幕府宿老として重きを成していきます。<br /><br />元弘3年(1333)上野の新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338の挙兵を機に後醍醐天皇方となり、幕府滅亡後は小山氏は平安時代以来よりの大豪族としての独立性を維持します。<br /><br />南北朝時代では後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に与しますが、奥州の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)軍に小山城攻略受け小山朝郷(おやま・ともさt、生誕不詳~1346)は捕縛され、南朝側に付く事で許されます。<br /><br />室町幕府創設後、足利尊氏と実弟である直義(ただよし、1306~1352)との争いが発生、小山氏政は宇都宮朝綱と共に尊氏軍に参陣し忠勤により伝統の所領を確保しています。<br /><br />小山氏政の家督を受けた義政は対立していた宇都宮基綱を攻撃し基綱は敗死、私闘を禁じた鎌倉公方足利氏満の追討を受け義政は耐え切れず自害、その嫡男も会津で自殺し小山氏嫡流は断絶となります。<br /><br />その後足利氏満は小山氏同族結城(ゆうき)氏から泰朝を迎え断絶した小山氏を再興させますが、かつての勢力はなく結城氏支配下で勢力回復に努めます。<br /><br />幕府と鎌倉公方との争い「永享の乱」勃発により幕府側についた小山氏と鎌倉公方側についた結城氏とに別れ、結果幕府軍勝利により結城氏は没落、小山氏は結城氏から独立を果たしその後かつての下野守護を勝ち取ります。<br />打ちのめされた鎌倉公方に代わり上杉氏の勢力拡大、これに不満を抱く勢力が鎌倉公方遺児を担ぎ関東一円に公方陣と管領陣に別れ「享徳の乱」として小山氏もその乱に巻き込まれることになります。<br /><br />この関東での争いに室町幕府は当然介入して参ります。その結果鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)は鎌倉拠点を放棄せざるをえず、小山氏や結城氏所領に隣接する古河に移転し以降「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれます。<br /><br />文明10年(1478)古河公方と上杉氏の和睦、更に文明14年(1482)には古河公方と室町幕府の和解ができ約30年に亘る戦乱は収束するかに見えますが、今度は上杉氏内紛が起こります。<br /><br />一方は山内上杉氏、他方は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏であり、この2派で抗争が起き小山氏も当然ながらこの中に巻き込まれます。<br />その頃伊豆韮山から小田原に進出した北条氏は、関東全土に勢力を有する山内・扇谷上杉氏と古河公方の三つ巴の覇権争いに対し、是々非々の曖昧な立場を取りながら、3勢力の潰し合いによる勢力消耗を狙います。<br /><br />天文14年(1545)に古河公方足利晴氏と山内・扇谷上杉らが連合して北進する小田原北条軍を阻止するため武蔵国河越(かわごえ)で迎え撃ちます。<br /><br />この新旧勢力の雌雄を決する象徴的な「河越合戦」で勝利した北条氏康はその後、河越を拠点として上野・下野・常陸攻略の足掛りとします。<br /><br />天正3年(1575)小田原北条氏4代当主北条氏政(ほうじょう・うじまさ、1539~1590)実弟である北条氏照(ほうじょう・うじてる、1542~1590)の攻撃によって小山城は陥落、小山秀綱(おやま・ひでつな、1529~1603)は追放され、当該城はその後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。<br /><br />やがて豊臣秀吉による小田原征伐によって5代にわたる北条氏は滅亡、北条氏に加担していた小山氏は領地没収、そして江戸幕府成立後は家康の懐刀である本多正信(ほんだ・まさのぶ、1538~1616)の息子正純(まさずみ、1565~1637)が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西役400m、南北700mに及ぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり小山城は廃城となります。<br /><br />小山市は交通の要地であり経済活動が盛んであるが故、上述の歴史の慌しい変遷が示すように覇権争いが絶えなかった事は、当地周辺を本領とする小山氏の歴代当主にとっては厳しい立場だったと想像しています。その歴代当主たちはかつては城郭の一角に配置された天翁院の墓所にひっそりと眠っています。<br /><br /><br />2022年3月7日追記<br /><br />城郭内に設置の説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「 小山城址案内<br /><br />         築城年代  応永~寛正(1460~65)ごろ<br />         築城者   第二次 小山氏 (持政のころ拡張)<br /><br />小山城(祗園城とも言われる)は小山駅の西方500m、思川東岸の台地上<br />にある南北に長く西側は思川の段丘にあって切り立った崖になっていて、天然の要害をうまく利用している。東側は宅地化が進んで旧状を失っているが、台地の部分には中世の名城の面影がよく残っており、史跡として保存が計られ、城山公園の名で市民に親しまれている。<br /><br />縄張りとしては幅10m以上の空堀と土塁で仕切られた廓が並び、天翁院の北側の塁帯が城の北限を示している。南は思水荘の一帯に及んでいるが南限の線は明確ではない。<br /><br />小山氏は関東有数の語族領主として知られ、初代正光以来、鎌倉幕府内で勢威を張ってきたが、第一次義政にいたって関東管領足利氏満に反したため滅亡した。やがて、室町幕府の配慮により、同族結城氏から基光の次男泰朝が小山に入って第二次小山氏の祖となった。<br /><br />泰朝はおそらく城址の一部に居を持したと考えられるが、場所は不明、その後第三代政政のとき、時勢にかんがみて大いに拡張整備された模様である。動乱の戦国時代の末期、豊臣秀吉の小田原征伐では小田原の北条氏に加担したため、秀吉の怒りにふれ、没収改易の身とな理、天正18年(1590)7月第二次小山は滅びた。天翁院には小山氏累代の墓地があり、多数の宝物(文化財)が保管されている。<br />                    昭和56年3月 」<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

下野小山 藤原秀郷を遠祖とする名門ながら小田原北条氏に組み込まれ領地没収改易となった小山氏本拠『祗園城』訪問

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2012/01/07 - 2012/01/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR小山駅西口から西方に徒歩10分、思川(おもいがわ)を渡る観晃橋詰の右手に位置する丘陵地、下野国名門小山氏の本拠小山城(おやまじょう、栃木県小山市城山町)を訪問しました。

平安時代に藤原秀郷(ふじわらひでさと)が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半の頃からです。

この城を築いた時、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)を祀った事から、別称「祇園城(ぎおんじょう)」とも呼ばれるようになったと伝えられています。

城は西端に流れる思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城された頃は現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀初期頃と思われます。

小山氏は源頼朝挙兵時から頼朝に味方し、鎌倉幕府成立後小山朝政(おやま・ともまさ、1155~1238)は下野守護をつとめる中、幕府宿老として重きを成していきます。

元弘3年(1333)上野の新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338の挙兵を機に後醍醐天皇方となり、幕府滅亡後は小山氏は平安時代以来よりの大豪族としての独立性を維持します。

南北朝時代では後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に与しますが、奥州の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)軍に小山城攻略受け小山朝郷(おやま・ともさt、生誕不詳~1346)は捕縛され、南朝側に付く事で許されます。

室町幕府創設後、足利尊氏と実弟である直義(ただよし、1306~1352)との争いが発生、小山氏政は宇都宮朝綱と共に尊氏軍に参陣し忠勤により伝統の所領を確保しています。

小山氏政の家督を受けた義政は対立していた宇都宮基綱を攻撃し基綱は敗死、私闘を禁じた鎌倉公方足利氏満の追討を受け義政は耐え切れず自害、その嫡男も会津で自殺し小山氏嫡流は断絶となります。

その後足利氏満は小山氏同族結城(ゆうき)氏から泰朝を迎え断絶した小山氏を再興させますが、かつての勢力はなく結城氏支配下で勢力回復に努めます。

幕府と鎌倉公方との争い「永享の乱」勃発により幕府側についた小山氏と鎌倉公方側についた結城氏とに別れ、結果幕府軍勝利により結城氏は没落、小山氏は結城氏から独立を果たしその後かつての下野守護を勝ち取ります。
打ちのめされた鎌倉公方に代わり上杉氏の勢力拡大、これに不満を抱く勢力が鎌倉公方遺児を担ぎ関東一円に公方陣と管領陣に別れ「享徳の乱」として小山氏もその乱に巻き込まれることになります。

この関東での争いに室町幕府は当然介入して参ります。その結果鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)は鎌倉拠点を放棄せざるをえず、小山氏や結城氏所領に隣接する古河に移転し以降「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれます。

文明10年(1478)古河公方と上杉氏の和睦、更に文明14年(1482)には古河公方と室町幕府の和解ができ約30年に亘る戦乱は収束するかに見えますが、今度は上杉氏内紛が起こります。

一方は山内上杉氏、他方は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏であり、この2派で抗争が起き小山氏も当然ながらこの中に巻き込まれます。
その頃伊豆韮山から小田原に進出した北条氏は、関東全土に勢力を有する山内・扇谷上杉氏と古河公方の三つ巴の覇権争いに対し、是々非々の曖昧な立場を取りながら、3勢力の潰し合いによる勢力消耗を狙います。

天文14年(1545)に古河公方足利晴氏と山内・扇谷上杉らが連合して北進する小田原北条軍を阻止するため武蔵国河越(かわごえ)で迎え撃ちます。

この新旧勢力の雌雄を決する象徴的な「河越合戦」で勝利した北条氏康はその後、河越を拠点として上野・下野・常陸攻略の足掛りとします。

天正3年(1575)小田原北条氏4代当主北条氏政(ほうじょう・うじまさ、1539~1590)実弟である北条氏照(ほうじょう・うじてる、1542~1590)の攻撃によって小山城は陥落、小山秀綱(おやま・ひでつな、1529~1603)は追放され、当該城はその後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。

やがて豊臣秀吉による小田原征伐によって5代にわたる北条氏は滅亡、北条氏に加担していた小山氏は領地没収、そして江戸幕府成立後は家康の懐刀である本多正信(ほんだ・まさのぶ、1538~1616)の息子正純(まさずみ、1565~1637)が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西役400m、南北700mに及ぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり小山城は廃城となります。

小山市は交通の要地であり経済活動が盛んであるが故、上述の歴史の慌しい変遷が示すように覇権争いが絶えなかった事は、当地周辺を本領とする小山氏の歴代当主にとっては厳しい立場だったと想像しています。その歴代当主たちはかつては城郭の一角に配置された天翁院の墓所にひっそりと眠っています。


2022年3月7日追記

城郭内に設置の説明板には下記の通り記載されています。

「 小山城址案内

         築城年代  応永~寛正(1460~65)ごろ
         築城者   第二次 小山氏 (持政のころ拡張)

小山城(祗園城とも言われる)は小山駅の西方500m、思川東岸の台地上
にある南北に長く西側は思川の段丘にあって切り立った崖になっていて、天然の要害をうまく利用している。東側は宅地化が進んで旧状を失っているが、台地の部分には中世の名城の面影がよく残っており、史跡として保存が計られ、城山公園の名で市民に親しまれている。

縄張りとしては幅10m以上の空堀と土塁で仕切られた廓が並び、天翁院の北側の塁帯が城の北限を示している。南は思水荘の一帯に及んでいるが南限の線は明確ではない。

小山氏は関東有数の語族領主として知られ、初代正光以来、鎌倉幕府内で勢威を張ってきたが、第一次義政にいたって関東管領足利氏満に反したため滅亡した。やがて、室町幕府の配慮により、同族結城氏から基光の次男泰朝が小山に入って第二次小山氏の祖となった。

泰朝はおそらく城址の一部に居を持したと考えられるが、場所は不明、その後第三代政政のとき、時勢にかんがみて大いに拡張整備された模様である。動乱の戦国時代の末期、豊臣秀吉の小田原征伐では小田原の北条氏に加担したため、秀吉の怒りにふれ、没収改易の身とな理、天正18年(1590)7月第二次小山は滅びた。天翁院には小山氏累代の墓地があり、多数の宝物(文化財)が保管されている。
                    昭和56年3月 」










交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 城郭跡<br /><br />城郭は「城山公園」で中央部は通路で左右は芝生が敷かれた広場となっていまして手入れも行届いています。この大通りから登り切ったやや高台がいわゆる本丸と思われます。<br /><br /><br /><br /><br />

    城郭跡

    城郭は「城山公園」で中央部は通路で左右は芝生が敷かれた広場となっていまして手入れも行届いています。この大通りから登り切ったやや高台がいわゆる本丸と思われます。




  • 祇園城跡説明板

    祇園城跡説明板

  • 思川(おもいがわ)と観晃橋(かんこうばし)<br /><br />城郭から観晃橋を一望します。江戸時代は幕府の政策により橋は掛けられず、渡し舟が唯一の交通手段でありました。また観晃橋は「日光を観る橋」という所から名付けられたそうです。

    思川(おもいがわ)と観晃橋(かんこうばし)

    城郭から観晃橋を一望します。江戸時代は幕府の政策により橋は掛けられず、渡し舟が唯一の交通手段でありました。また観晃橋は「日光を観る橋」という所から名付けられたそうです。

  • 思川を一望<br /><br />城郭の樹間を通して思川を望みます。城郭一帯は思川に沿った河岸段丘の上に築かれ、河川からの攻撃に対し確たる防御となっています。

    思川を一望

    城郭の樹間を通して思川を望みます。城郭一帯は思川に沿った河岸段丘の上に築かれ、河川からの攻撃に対し確たる防御となっています。

  • 土塁<br /><br />思川に接する城郭には土塁が連なっており、よく保存されています。

    土塁

    思川に接する城郭には土塁が連なっており、よく保存されています。

  • 歴史ハイキングコ−ス案内<br /><br />当城跡もコ−スに組み込まれており、自分が当地に到着した時間には10名程度のグル−プが出発するところでした。

    歴史ハイキングコ−ス案内

    当城跡もコ−スに組み込まれており、自分が当地に到着した時間には10名程度のグル−プが出発するところでした。

  • 祗園橋と堀切<br /><br />小山城は別名祇園城とも呼ばれ、深い堀切を祗園橋が掛かっています。<br />尚、見取図ではこの空堀は「旧結城道」と記載されています。<br /><br />

    祗園橋と堀切

    小山城は別名祇園城とも呼ばれ、深い堀切を祗園橋が掛かっています。
    尚、見取図ではこの空堀は「旧結城道」と記載されています。

  • 大規模土塁<br /><br />大きく盛り上がった土塁がスゴイです。<br /><br />

    大規模土塁

    大きく盛り上がった土塁がスゴイです。

  • 堀切<br /><br />深い堀切が思川河畔に繋がっています。当時は船着場だったと思われます。

    堀切

    深い堀切が思川河畔に繋がっています。当時は船着場だったと思われます。

  • 思川<br /><br />樹間を通して思川が見渡せます。現在は流れは少ないですが往時は豊富な水量だったと思われます。

    思川

    樹間を通して思川が見渡せます。現在は流れは少ないですが往時は豊富な水量だったと思われます。

  • 空堀と本丸橋<br /><br />次の城郭を繋ぐ本丸橋、城郭を分ける空堀の深さも見応えがあります。

    空堀と本丸橋

    次の城郭を繋ぐ本丸橋、城郭を分ける空堀の深さも見応えがあります。

  • 思川に繋がる空堀

    思川に繋がる空堀

  • 土塁<br /><br />土塁が周辺を囲んでいます。

    土塁

    土塁が周辺を囲んでいます。

  • 土塁

    土塁

  • 大銀杏<br /><br />樹高15mの古木が城郭跡広場に佇んでいます。

    大銀杏

    樹高15mの古木が城郭跡広場に佇んでいます。

  • 大銀杏説明板<br /><br />小山氏落城の折、姫君が井戸に身を投げた際、目印に刺した銀杏が大きくなったと言う伝説があります。

    大銀杏説明板

    小山氏落城の折、姫君が井戸に身を投げた際、目印に刺した銀杏が大きくなったと言う伝説があります。

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 城郭広場

    城郭広場

  • 思川を展望<br /><br />城郭広場西端から思川を一望します。<br /><br />

    思川を展望

    城郭広場西端から思川を一望します。

  • 土塁と土橋<br /><br />右手に大規模土塁、左手奥には土橋が見えます。

    土塁と土橋

    右手に大規模土塁、左手奥には土橋が見えます。

  • 天翁院(てんおういん)<br /><br />小山氏累代の菩提寺で平安時代末期の久寿2年(1155)、小山正光の開祖といわれます。天正元年(1573)当時の城主である高朝が没すると彼の法名である天翁工運にちなんで天翁院に改めた経緯があります。

    天翁院(てんおういん)

    小山氏累代の菩提寺で平安時代末期の久寿2年(1155)、小山正光の開祖といわれます。天正元年(1573)当時の城主である高朝が没すると彼の法名である天翁工運にちなんで天翁院に改めた経緯があります。

  • 拝殿

    拝殿

  • 小山氏累代の墓<br /><br />(どこにあるのか判らず、やむなく探し回りました)

    小山氏累代の墓

    (どこにあるのか判らず、やむなく探し回りました)

  • 正五位小山秀朝公碑

    正五位小山秀朝公碑

  • 初代小山正光碑<br /><br />14世紀後半頃に小山城を築城しました。

    初代小山正光碑

    14世紀後半頃に小山城を築城しました。

  • 土塁<br /><br />思川に接する土塁の保存は良好です。

    土塁

    思川に接する土塁の保存は良好です。

  • 空堀と土塁

    空堀と土塁

  • 祗園橋<br /><br />堀切から思川方面に向けて祗園橋を望みます。

    祗園橋

    堀切から思川方面に向けて祗園橋を望みます。

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 土塁<br /><br />深い空堀底から土塁を見上げます。

    土塁

    深い空堀底から土塁を見上げます。

  • 城郭の東側(思川の反対側)<br /><br />かつては空堀だったと思われます。ここが城跡の東端でかつての城郭は既に宅地化されています。

    城郭の東側(思川の反対側)

    かつては空堀だったと思われます。ここが城跡の東端でかつての城郭は既に宅地化されています。

  • 小山御殿跡広場<br /><br />歴代将軍が家康を祀る日光東照宮参詣の際、当小山で宿泊をする将軍専用の宿泊所でありました。将軍家の参詣は19回、その内家光は10回の参詣を行っています。

    小山御殿跡広場

    歴代将軍が家康を祀る日光東照宮参詣の際、当小山で宿泊をする将軍専用の宿泊所でありました。将軍家の参詣は19回、その内家光は10回の参詣を行っています。

  • 小山御殿説明

    小山御殿説明

  • 小山評定跡石碑(小山市役所玄関前)<br /><br />豊臣秀吉没後、上杉景勝征伐の為豊臣恩顧諸大名を引連れた徳川家康が当地にて石田三成ら西軍が家康打倒の為挙兵したとの報を受け、畿内に引き返すべく軍議を行った歴史的な場所です。その結果畿内に戻る事となりやがて天下分け目の関ケ原戦いを迎えます。

    小山評定跡石碑(小山市役所玄関前)

    豊臣秀吉没後、上杉景勝征伐の為豊臣恩顧諸大名を引連れた徳川家康が当地にて石田三成ら西軍が家康打倒の為挙兵したとの報を受け、畿内に引き返すべく軍議を行った歴史的な場所です。その結果畿内に戻る事となりやがて天下分け目の関ケ原戦いを迎えます。

  • 小山評議説明

    小山評議説明

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