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関東鉄道常総線守谷駅下車徒歩約20分、下総相馬氏の本拠守谷城(もりやじょう、茨城県守谷市本町)を訪問しました。<br /><br />相馬氏初代師常(もろつね、1139~1205)は、治承4年(1180)源頼朝が平氏に対し挙兵し石橋山で敗戦、安房に逃れた頼朝から加勢を求められ、これに応じてその後の平家との戦いや奥州合戦にも参画、頼朝から信頼を得て重要御家人となった千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)の二男で、父より相馬郡相馬御厨(現鎌ヶ谷から野田に至る一帯)を相続しそれを機に所領の地名から相馬氏と称することになります。<br /><br />ところがその後相馬氏に内紛が起こり相馬氏は分裂します。即ち4代目胤村の死後先妻の子胤氏(たねうじ)と後妻の子師胤(もろたね)の家督争いが起こります。<br /><br />師胤は亡父の譲書状を幕府に提出するも幕府はこれを認めず、胤氏を後継者と認定します。<br /><br />幕府の信任を得られなかった師胤の子重胤は遠祖所領の陸奥行方郡に本拠を構え奥州相馬氏を称し、下総相馬氏とに分かれます。<br /><br />室町時代には下総相馬氏は分裂により弱体化したものの、鎌倉から古河に拠点を変えた足利公方の下で守谷城を中心に勢力拡大をめざします。<br /><br />戦国時代に入りますと小田原から河越・岩付を経て北進する小田原北条氏の勢力が守谷城にも迫ります。<br /><br />ここで小田原北条氏に付くか否かで内紛が起こり、遂には反北条側の治胤(はるたね)が他家より養子として家督を譲受け小田原北条軍を迎え撃ちますが敵わず降伏し小田原北条氏の支配下に置かれます。<br /><br />やがて豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では下総相馬氏は北条氏に属していため改易となりますが江戸時代には徳川家の旗本として生き残ります。<br /><br />今回の訪問で一つの城跡に二つの異なった城郭を味わう事ができました。<br />一つは公園化されたとは言え、室町時代の雰囲気が漂う平台山城郭、もう一つは守谷小学校周辺(こちらは市街化が早く遺構は限定されてます)の台地基部城郭で自分としては楽しく見学できました。<br /><br /><br />現場に配された説明板には下記のごとく記述がなされています。<br />                                                      <br />「守谷城は守谷市城内地区と平台山と称する島状の台地とを併せて呼ばれています。鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されましたが、戦国時代になりますと戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に築城、移転する事になります。<br />平台山に最初に築城された城の事を守谷本城と呼ばれています。<br />この守谷城は鎌倉時代になって、平将門の叔父にあたる平良文(よしふみ)の子孫、相馬師常(そうま・もろつね)によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城であります。<br />師常は源頼朝の旗揚げに最先かけて参陣し、頼朝の重臣として幕政に参画して、その功によって相馬郡の他に結城、猿島、豊田(一部)の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのですが、守谷城はそれらの領地を統括する本城としての役割を演じたものであります。<br />本城の面積約21,254m2で、それを3郭に分割し各部は大規模な土塁、堀等によって区画されその堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されています。<br />なおその3郭には妙見社も建てられ相馬野馬追いの行事はその社前で実施されたといわれている。<br />なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、その後は守谷城の出城として使用されていたようです。<br />本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第6郭の発掘調査によって判明しました。<br />この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘ってその機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等が検出され、多くの貴重な遺物が出土されました。<br />なお図面によってみると、小見川より配流一台水系は満々たる水を堪えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれます。<br />永禄9年(1566)城主相馬治胤(そうまはるたね)がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城でありました。<br />この城は北条氏の勢力化にあったので、小田原落城後、豊臣秀吉の進攻により廃城となります。」<br /><br />

下総守谷 平氏に石橋山にて敗退し絶望感を抱いて房総に逃れた頼朝に参陣臣従を誓った千葉常胤後衛の千葉相馬氏本拠『守谷城』訪問

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2012/01/07 - 2012/01/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

関東鉄道常総線守谷駅下車徒歩約20分、下総相馬氏の本拠守谷城(もりやじょう、茨城県守谷市本町)を訪問しました。

相馬氏初代師常(もろつね、1139~1205)は、治承4年(1180)源頼朝が平氏に対し挙兵し石橋山で敗戦、安房に逃れた頼朝から加勢を求められ、これに応じてその後の平家との戦いや奥州合戦にも参画、頼朝から信頼を得て重要御家人となった千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)の二男で、父より相馬郡相馬御厨(現鎌ヶ谷から野田に至る一帯)を相続しそれを機に所領の地名から相馬氏と称することになります。

ところがその後相馬氏に内紛が起こり相馬氏は分裂します。即ち4代目胤村の死後先妻の子胤氏(たねうじ)と後妻の子師胤(もろたね)の家督争いが起こります。

師胤は亡父の譲書状を幕府に提出するも幕府はこれを認めず、胤氏を後継者と認定します。

幕府の信任を得られなかった師胤の子重胤は遠祖所領の陸奥行方郡に本拠を構え奥州相馬氏を称し、下総相馬氏とに分かれます。

室町時代には下総相馬氏は分裂により弱体化したものの、鎌倉から古河に拠点を変えた足利公方の下で守谷城を中心に勢力拡大をめざします。

戦国時代に入りますと小田原から河越・岩付を経て北進する小田原北条氏の勢力が守谷城にも迫ります。

ここで小田原北条氏に付くか否かで内紛が起こり、遂には反北条側の治胤(はるたね)が他家より養子として家督を譲受け小田原北条軍を迎え撃ちますが敵わず降伏し小田原北条氏の支配下に置かれます。

やがて豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では下総相馬氏は北条氏に属していため改易となりますが江戸時代には徳川家の旗本として生き残ります。

今回の訪問で一つの城跡に二つの異なった城郭を味わう事ができました。
一つは公園化されたとは言え、室町時代の雰囲気が漂う平台山城郭、もう一つは守谷小学校周辺(こちらは市街化が早く遺構は限定されてます)の台地基部城郭で自分としては楽しく見学できました。


現場に配された説明板には下記のごとく記述がなされています。
                                                      
「守谷城は守谷市城内地区と平台山と称する島状の台地とを併せて呼ばれています。鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されましたが、戦国時代になりますと戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に築城、移転する事になります。
平台山に最初に築城された城の事を守谷本城と呼ばれています。
この守谷城は鎌倉時代になって、平将門の叔父にあたる平良文(よしふみ)の子孫、相馬師常(そうま・もろつね)によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城であります。
師常は源頼朝の旗揚げに最先かけて参陣し、頼朝の重臣として幕政に参画して、その功によって相馬郡の他に結城、猿島、豊田(一部)の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのですが、守谷城はそれらの領地を統括する本城としての役割を演じたものであります。
本城の面積約21,254m2で、それを3郭に分割し各部は大規模な土塁、堀等によって区画されその堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されています。
なおその3郭には妙見社も建てられ相馬野馬追いの行事はその社前で実施されたといわれている。
なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、その後は守谷城の出城として使用されていたようです。
本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第6郭の発掘調査によって判明しました。
この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘ってその機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等が検出され、多くの貴重な遺物が出土されました。
なお図面によってみると、小見川より配流一台水系は満々たる水を堪えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれます。
永禄9年(1566)城主相馬治胤(そうまはるたね)がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城でありました。
この城は北条氏の勢力化にあったので、小田原落城後、豊臣秀吉の進攻により廃城となります。」

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 守谷城跡石碑<br /><br />守谷城は台地先端部の戦国期の城郭と台地基部の近世に拡大された城郭とで成り立っていまして、石碑が建ってる所は近世に建てた台地基部に当たります。

    イチオシ

    守谷城跡石碑

    守谷城は台地先端部の戦国期の城郭と台地基部の近世に拡大された城郭とで成り立っていまして、石碑が建ってる所は近世に建てた台地基部に当たります。

  • 大きな土塁<br /><br />台地基部に残された数少ない土塁の一部が見られます。基部の部分は市街化が進んでおりまして隣接する小学校が城郭の大部分を占めているようです。

    大きな土塁

    台地基部に残された数少ない土塁の一部が見られます。基部の部分は市街化が進んでおりまして隣接する小学校が城郭の大部分を占めているようです。

  • 平将門城跡石碑<br /><br />隣接の小学校の一隅にフェンスに囲まれて平将門城跡石碑がありますが、実際にこの周辺に平将門の城があったかどうかは不明です。

    平将門城跡石碑

    隣接の小学校の一隅にフェンスに囲まれて平将門城跡石碑がありますが、実際にこの周辺に平将門の城があったかどうかは不明です。

  • 守谷城跡説明板

    守谷城跡説明板

  • 守谷城跡見取図

    守谷城跡見取図

  • 土塁の一部<br /><br />台地基部に残された土塁の一部が僅かに残っています。<br /><br />

    土塁の一部

    台地基部に残された土塁の一部が僅かに残っています。

  • 守谷城跡公園案内図<br /><br />台地基部から台地先端部に移動しますと周辺は公園化され、入口に案内板があります。城跡方面を見渡しますと中央の島と島を囲む広い低地が見られます。

    守谷城跡公園案内図

    台地基部から台地先端部に移動しますと周辺は公園化され、入口に案内板があります。城跡方面を見渡しますと中央の島と島を囲む広い低地が見られます。

  • 土塁の断面

    土塁の断面

  • 守谷城跡周辺<br /><br />台地先端部から望む一帯はかつて守谷城を防御する大きな沼地だったと思われます。

    守谷城跡周辺

    台地先端部から望む一帯はかつて守谷城を防御する大きな沼地だったと思われます。

  • 城郭への入口

    城郭への入口

  • 守谷城跡公園碑<br /><br />公園化された台地先端部にあたる城跡です。

    守谷城跡公園碑

    公園化された台地先端部にあたる城跡です。

  • 大型空堀<br /><br />本丸(平台)と西馬出郭の間に配置する大型空堀が現れます。入場できないように木製の門が設置されています。<br />

    大型空堀

    本丸(平台)と西馬出郭の間に配置する大型空堀が現れます。入場できないように木製の門が設置されています。

  • 本丸(平台)<br /><br />公園入口から本丸西端を見上げます。<br /><br />

    本丸(平台)

    公園入口から本丸西端を見上げます。

  • 土塁<br /><br />城郭に向かう途中の土塁が見事に残っています。

    土塁

    城郭に向かう途中の土塁が見事に残っています。

  • 城跡の現状と遺構・遺物

    城跡の現状と遺構・遺物

  • 守谷城跡内郭図

    守谷城跡内郭図

  • 土橋<br /><br />東馬出郭と本丸(平台)を繋ぐ土橋が確認できます。

    土橋

    東馬出郭と本丸(平台)を繋ぐ土橋が確認できます。

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 本丸<br /><br />北東方向に旧沼地を一望します。

    本丸

    北東方向に旧沼地を一望します。

  • 土塁<br /><br />土塁から平地を見渡します。かつては沼地となって城跡への進入を困難にしていたと思われます。

    土塁

    土塁から平地を見渡します。かつては沼地となって城跡への進入を困難にしていたと思われます。

  • 土塁<br /><br />薮に覆われていますがしっかりした土塁となっています。<br /><br />

    土塁

    薮に覆われていますがしっかりした土塁となっています。

  • 本丸への道<br /><br />偽木で造られた階段を登ります。<br /><br />

    本丸への道

    偽木で造られた階段を登ります。

  • 旧沼地<br /><br />本丸への途中から旧沼地(画面奥)を振返ります。

    旧沼地

    本丸への途中から旧沼地(画面奥)を振返ります。

  • 土塁<br /><br />見事な土塁です。

    土塁

    見事な土塁です。

  • 本丸(平台)<br /><br />左右の土塁がひじょうに見応えがあります。

    本丸(平台)

    左右の土塁がひじょうに見応えがあります。

  • 旧沼地<br /><br />公園化されて広場となっていますが、かつては沼地であったと思われる平地を一望します。

    旧沼地

    公園化されて広場となっていますが、かつては沼地であったと思われる平地を一望します。

  • 土塁<br /><br />長い土塁が台地先端部の城跡を防御します。この土塁は公園化の一環として<br />手が加えられています。

    土塁

    長い土塁が台地先端部の城跡を防御します。この土塁は公園化の一環として
    手が加えられています。

  • 西馬出郭<br /><br />外周から西馬出郭を見上げます。

    西馬出郭

    外周から西馬出郭を見上げます。

  • 台地先端部<br /><br />西側から守谷城跡の台地先端部を一望します。

    台地先端部

    西側から守谷城跡の台地先端部を一望します。

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