2013/06/28 - 2013/06/28
62位(同エリア155件中)
ムッシュさん
古河宿を経て、野木町、間々田町を歩きます。ゴールは小山宿まで。
野木宿は、江戸から10番目、日光街道が下総から下野に入って最初の宿場。 現在、宿の面影はほとんど残っていないが、古くからの神社仏閣があ
り歴史が感じられる。
「日光・奥州・甲州道中宿村大概帳」では、町並みの長さが10町55間(約1.2㎞)、家が126軒、旅籠が25軒、本陣・脇本陣が各1間、問屋場が4軒あり、宿の人口は527人(男271人、女256人)、駄賃・賃銭荷物一駄・乗掛荷人共1疋53文、人足1人40文でした。
「当宿むかしは二分にして、【本野木】・【新野木】と号せしを、慶長年中(1596~1615)合せて一宿とせり」(日光道中略記)
最初に開けたのは【本野木】で、今の街並みの南半分にあたる。「本野木(もと野木と唱へしを、新野木に対して本の字を加ふ)は古くよりひらけし地なり。其頃は人民、漆原・大天白元屋鋪の三所に居住せしが、村民左京・内膳の二人はじめて今の本野木の地に移り家居をいとなみしかば、三所の民追々徒(うつ)りて遂に数十軒に及べり。左京・内膳の二人は熊倉氏にて中ごろ明神の神職となりしが、此地宿駅となりし時、職を転じて駅亭となりしといふ。今本陣七郎右衛門は左京が子孫にして、脇本陣兵左衛門はは内膳が後なり」
これに対して【新野木】は、「天正14年(1586)秀康御領し玉ひし時、新野木の方のみ宿駅に取立られ、諸役免 許 あ りし 」さ らに 、「 慶長 7 年(1602)に至り、松平丹波守領主のとき本野木をも駅亭とし、両野木合せて一宿とし、奥州・日光両道の数に入れ、役夫廿五人、駅馬廿五匹を置て継立のことを勤む」(日光道中略記)
また、宿の西を流れる思川は、鉄道が開通する前まで舟運が盛んで、江戸
間を高瀬舟が行き交っていた。野木には野渡河岸、友沼河岸があった。
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【古河宿 本成寺】
本成寺があり、その入口に「一、法清院殿の墓 古河城土井利益の母堂、古河市指定史跡」「河口信任の墓 解屍編の著者、古河市指定史跡」の大きな案内柱が立っている。
日蓮宗。もと猿島郡伏木村(現境町)にあったものを、古河城主土井利益(とします)の生母である法清院殿(ほうせいいんでん)の菩提を弔うため、江戸時代前期の延宝年間(1673~1680)に日禎上人が移したものという。法清院殿は、朝廷の中級官人であった中川貞長の長女で幼名を「おさな」といい、日禎上人とは兄弟であった。
境内にある河口信任(かわぐち しんにん)・小出重固(こいで しげかた)・法清院殿の墓は、それぞれ市指定史跡となっている。 -
【塩滑地蔵】(古河市松並)
塩を病んでる場所に塗り、お参りすると傷が癒えるとか。
塩滑(しおなめ)地蔵菩薩像を安置する地蔵堂です
Yショップ(小橋商店)左横の細い路地奥に塩滑地蔵がある。車庫みたいに車が停めてあるので、入口の石柱を探す。建物左にかごが置いてあり、塩が入っている。「体の悪い場所に塩を塗ると治る」といい伝えられている。 -
【野木神社への参道入口】
ここから神社まで約500m。立派な長ーい参道が続きます。
左手に野木神社がある。下野国寒川郡七郷の総鎮守であった。
江戸時代は、古河藩主土井氏により、古河藩の鎮守・祈願所とされていた
創建は仁徳天皇の時代、奈良別王が下野国造として赴任したとき莵道稚郎子命を奉じて、当地に祀ったのに始まると伝えられている
参道の途中には墳と呼ばれる宝暦10年(1760)建立の芭蕉句碑「一疋のはね馬もなし河千鳥」がある。また、山県有朋の書による社額もあります。
日本橋より64kmの標識。かつては此の辺は松並木が続いていたところである
【大イチョウ】 町指定文化財(昭和52年11月30日指定)
鳥居の右側に立つ。
この大イチョウは、今から約1200年前(平安時代延暦年間)に征夷代将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奉でました。
その奉賽として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、記念にイチョウの木を奉植したものと伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳房で祈願する民間信仰があります。
昭和五十七年三月 野木町教育委員会
【野木神社ケヤキ】 町指定文化財(平成22年3月25日指定)
野木神社は、五世紀に創建され、延暦年中(782~806)に、坂上田村麻呂が現在の二義神社の西約800メートルの所より社殿を移したといわれています。その後、足利氏の執政の末に乱にあい、神嶺を奪われて社殿も破壊しましたが、長禄三年(1459)、神官・海老沼常基により再興されたということです。
常基は、鎮守の森に育つよう社前に数多くの木々を植えたといわれますが、このケヤキは、それ以前にあったものと推測されます。
このケヤキは、高さ太さも県内の名木と言われるケヤキに匹敵する大木で、樹齢も650年以上と推定されます。
野木町教育委員会 -
【野木神社】
長ーいい参道を、500m歩いてようやく神社に到着した。
野木神社参道口、長い参道を進むと野木神社が鎮座しています、社殿は文政二年(1819年)古河藩三代藩主土井利厚によって再建されたものです。
延暦二年(783年)征夷大将軍坂上田村麻呂が社殿を造営し、下野國寒川郡7郷の総鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所でした。
日露戦争開戦2年前の明治35年(1902年)のぎの縁から陸軍大将乃木希典が参拝し指揮用サーベルを奉納しています。
社前の大ケヤキは推定樹齢650年以上です、
境内には芭蕉句碑「一疋の はね馬もなし 河千鳥」があります。
【野木神社】
代々領主の尊崇厚く、野木の鎮守であった。仁徳天皇の頃、下野国造奈良別命
(ならわけのみこと)によって今より西方に祀られたが、延暦年間(901~920)
に、征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州遠征成功のお礼として現在地に遷したと伝え
られる。寿永2年(1183)源頼朝方に立つ小山朝政と反頼朝方の志田義弘が戦っ
た野木宮合戦では戦場となった。
境内には本殿・拝殿のほか、ケヤキの巨木群、坂上田村麻呂が植えたという樹齢1200年という大イチョウがある。
日露戦争の2年前の明治35年(1902)当時54才の乃木希典対象が姓が同じこの神社に詣で、指揮用サーベルなどを奉納した。
【野木神社由緒沿革】
仁徳天皇の時代(約1600年前)、下総国造奈良別命が当国赴任の折、莬道稚郎子命の遺骸を奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(約1200年前)に坂上田村麻呂が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奉じ、その報賽として現在の地に社殿を造り遷座したと伝えられる。
鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元寇の際、北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合せ祀った。
文化三年(約190年前)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の協力を得、現在の社殿を再建した。
明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所緑の品々を御神宝として奉納した。
平成十一年五月建之 -
天保14年(1843年)の頃、野木宿の宿内家数は126軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は527人でした、宿並は本野木と新野木で構成され慶長年間(1596~1615)合わせて一宿になりました。
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【満願寺入口と十九夜石塔】
真言宗満徳山自性院満願寺があります、元和2年(1616年)の創建で本尊は大日如来です、門前には元治元年(1864年)建立の十九夜塔があります。
⑦満願寺
満徳山自性院と号する真言宗の自院。宿の中央、街道西側にあり、元和2年(1615)の創建とも伝えられる。野木神社や友沼八幡宮の別当を努め、野木宿の旅宿に支障があったときは休泊所にもなったという。古図によると満願寺の南側には本陣と問屋、その向かいに脇本陣があったが、現在は本陣跡と伝えられる解説板が立つのみ。 -
【野木宿道標】 町指定文化財(平成22年3月25日指定)
本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、栃木へ向う日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州会街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思われる。
なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村への侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より大平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内としての性格が強く、江戸時代の人々の大平山神社に対する信仰の厚さを知ることができる。
野木町教育委員会 -
【法音寺石柱】
真言宗地蔵山法音寺、応永二年(1395年)の創建で大林坊と呼ば、御朱印地で寺領五石を拝領しました。
山 門 の 左 に は 安 永 9 年(1780)に建てられた【松尾芭蕉の句碑】があり。「道の辺のむくげは馬に喰われけり」と刻まれてる。奥の細道に旅立つ5年前の芭蕉41才の貞享元年(1684)に小夜の中山(静岡県掛川市)を超える時、馬上で詠んだもの。 -
法音寺本堂(野木町近く)
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【法音寺に立つ芭蕉句碑】
芭蕉翁 ”道ばたの むくげは馬に 喰われけり” 安永九年(1780年)建立
句の内容: 目の前に咲いていた槿(むくげ)の花を、思いがけなく馬が首をのばしてパクッと喰ってしまったの意。
【法音寺の芭蕉句碑】
「芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰われけり」
法音寺にあるこの句碑は、安永9年子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人である秋本性李叟( = 翁)が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿(むくげ)である。
松尾芭蕉(1644~94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野生れである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉翁をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」、「漂泊の詩人」といわれる。
「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月、芭蕉庵を人に譲り、河合曽良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。『曽良日記』によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
間々田出立後、室の八島(現 栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白河の関を越え、松島へ向った。
ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」のたびに出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って、東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向った際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)越えをする前に、馬上から読まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
野木教育委員会
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「芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰われけり」
法音寺にあるこの句碑は、安永9年子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人である秋本性李叟( = 翁)が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿(むくげ)である。
松尾芭蕉(1644~94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野生れである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉翁をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」、「漂泊の詩人」といわれる。
「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月、芭蕉庵を人に譲り、河合曽良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。『曽良日記』によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
間々田出立後、室の八島(現 栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白河の関を越え、松島へ向った。
ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」のたびに出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って、東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向った際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)越えをする前に、馬上から読まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
野木教育委員会 -
【友沼八幡神社】
「日光御参詣の時は、社辺に神輿をとゞめさせらるゝ事旧例なり」(日光道中
略記)いつも将軍の御小休所となり、「此辺よりしては漸(ようやく)山ども
連れり」(道芝の記)と眺めのよさを記している。
源頼義・義家親子が、前九年の役(1051~1062)戦勝の折に勧請したという。
境内に運西庵(うんせいあん)という建物があって日光社参の際に古河城を出発した将軍が最初に小休止をした場所となった。昼食は小金井の慈眼寺でとった。また、ここからの眺めは徳にす
ばらしく『日光道中記』には、正面に筑波山が眺望できるなど、景勝の地である
と記されている。友沼村の総鎮守。旧友沼村の中心で、「宿通」という池名が残
っている。
【友沼八幡神社「将軍御休所跡」】
元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へ改葬した。
東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十四日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍をはじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで十九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参から行列の規模も拡大された。
社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが慣例となった。それとともに昼食・休憩の宿や神社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止した場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
ところで、近世における八幡神社は『日光道中記』によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年(1616)に別当満願寺の支配がはじまるから八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっていたとすれば運西庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(1804~17)の宿駅のようすを描いたといわれる『日光道中分間絵図』では運西案となっている。
八幡神社からの眺めはすばらしく、『日光道中略記』では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
天保十四年(1843)四月、『続徳川実記』によると、十二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所まで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。
平成三年三月二十五日 野木教育委員会 -
【乙女の一里塚(西塚)】大けやきの一里塚
両塚共乙女村地内です、エノキの大木の根方に鳥居、石燈籠があり石祠が祀られています、江戸日本橋より数えて18里目です。 -
【仏光寺】の入口。
真言宗豊山派絵唐山佛光寺があります、徳川二代将軍秀忠から十石の寺領を拝領しました、参道には文久元年(1861年)建立の十九夜供養塔があり、境内の観音堂には十一面観音像が安置されています。
徳川2代将軍秀忠から10万石の寺領を与えられた。「十九夜女人講中」「十九夜供養講中」と刻まれた石塔がある。また、本来の日光街道は寺の南付近から乙女一里塚付近まで国道4号の西側を通っていた。現在は畑や宅地になっている。 -
【乙女八幡宮】
参道入口。お宮さんは全く見えないので、ここの参道も200m以上ありそうです。さあ、歩いて奥に進みます。
佛光寺の向いに乙女八幡宮が鎮座しています、乙女村の鎮守です、乙女河岸で働く人々の信仰が篤く、鳥居は元禄十六年(1703年)船問屋が寄進したものです、境内の狛犬は文化10年(1813年)の建立です。
乙女村は当初古河藩領、正徳二年(1712年)より幕府領となりました、村内に乙女河岸があり、下流からは大型の高瀬舟が着き、ここから荷を小舟に積み替えて上流に向かう中継地として賑わいました。 -
参道二の鳥居。奥に宮らしき建物が見えてきた。
参道の2番目にある鳥居は元禄16年(1703)の明神形式の石造り。手水石は正徳元年(1711)のもので市内最古。 -
狛犬に狛カエル??
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【史跡乙女不動原瓦窯(かわらかま)跡】
昔はここで、瓦を焼いた窯場。
間々田駅入口交差点が間々田宿の起点です。
ここから宿並に入らず、更に直進し突当りを右折し、一本目を左折すると正面に【乙女不動原瓦窯跡】があります。
⑥乙女不動瓦窯跡
奈良時代、この窯でつくられた瓦は下野薬師寺など重要な寺院で用いられた。現在は史跡公園になり、窯や工房が復元されている。国指定史跡。
乙女不動原瓦窯跡は古代下野国の寒川郡に位置し、古瓦が出土する遺跡として古くから注目されていました。
昭和52年の確認調査や昭和63年から5ヵ年にわたる発掘調査の結果、瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘抗・粘土溜・瓦集積場・灰原など、瓦生産に関するさまざまな遺構が発掘されました。また、出土品には丸瓦や平瓦が多数ありますが、八葉複弁蓮華文軒丸瓦や笵傷のある均正唐草文平瓦、文字の書かれた文字瓦も見つかっています。
ここで焼かれた瓦は、下野薬師寺や下野国分寺などの寺跡、あるいは宇都宮市の水道山瓦窯跡から出土した瓦と共通した特徴をもち、供給先や工人の動きを知ることができました。
また、当窯跡には有牀(ゆうしょう)式平窯と呼ばれる最新式の窯がいち早く導入されています。このことからも、国家的な事業であった下野薬師寺の再建や国分寺造営の一躍を担った当窯跡の重要性を物語ることができます。 -
奈良時代、日本三戒壇の1つであった下野薬師寺の建立にあたり、瓦を製造し、供給した瓦窯跡。
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【小山市 龍昌寺】
“寝起き不動尊”を祀る寺
1606(慶長11)年に創建し、その後1度落雷により焼失するも1677(寛文7)年に再建。昭和・平成の改修工事を経て、本堂内部の柱は再建時のもの。
元亀年間に不動明王像を背負い旅をしていた模庵和尚が、旅の途中に衰弱で倒れた際、枕元に現れた不動明王のお告げを聞き、旅を続け、この地に尊像を祀ったと伝わる。
「寝起き不動尊」は33年ごとに御開帳され、次回は2040年。 -
【泉龍寺】
13番札所:泉龍寺(通称:乙女不動尊)
泉龍寺、真言宗豊山派御瀧山明王院泉龍寺不動坊と号します。
この地で疫病が流行り、本尊の不動尊に祈ると清らかな泉が湧き出し、病がたちまち平癒したところから泉龍と称するようになりました、朱塗りの鐘楼門は享保5年(1720年)の建立です。
江戸時代の乙女村は日光街道と思川の乙女河岸を結ぶ水陸交通の要衝であった。日光街道から乙女河岸へ行くには、泉龍寺の南側に街道と河岸を往来する道があり、そのため泉龍寺は河岸関係者や河岸を往来する大名や商人から篤い信仰を集めた。乙女河岸問屋の青木覚左衛門や山中八郎兵衛、江戸日本橋の回送問屋乙女屋金兵衛、白河藩主松平定賢、同藩主で寛政の改革の松平定信、また、日光東照宮へ往来するおりに泉龍寺へ参拝した薩摩藩主島津光久や近江膳所藩主本多康恒など、江戸との多くの往来者の名前を知ることができる。なかでも白河松平家は参勤交代の折、泉龍寺にて休息をするのを例としていた。
境内には松尾芭蕉の句碑「川上とこの川下や月の友」があるほか、江戸時代
の刻経塔、手水石、灯籠などの石像物が並んでいる
【泉龍寺】
正慶二年(1333)に建立されたが、観応二年(1351)兵火のため灰じんに帰す。
永徳二年(1382)再度建立したもつかの間、小山下野守義政が反逆を起こした際、鎌倉管領佐兵衛督源氏満政が兵を率いて討伐にうって出た。 しかし、山野に放火した火が聖堂に引火し、それを焼失してしまう。
以来、数度におよぶ戦火に遭遇。それでも、不動明王の尊像は、厳然として戦火の中に出ていき、慈救の威相はますます輝きを増していった。 このため、火伏の不動ともいわれる。
時はくだって、慶長十一年(1606)御朱印地として寺領を賜り、さらに葵の御定紋を許され、現在に至る。
ところで、寺号の由来もなかなか興味深い。
あるとき、疫病に悩む庶民の苦しみを救うため本尊に祈ったところ、この地に清らかなる泉が湧き出てて、病がたちまちにして平癒したことから、泉龍と称するようになった、と伝えられる。
山門を出て、泉龍寺を遠目に眺めると、あたかも異次元の世界に迷い込んだよう。その姿は、まさに華麗にして荘厳。 その寺院を訪れた者は必ずや、大聖不動明王をぜひとも見てみたい、と思うはず。 -
【泉龍寺本堂】 間々田
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境内に芭蕉句碑
「川上と川下や月の友 はせを」 -
【逢いの榎】
逢乃榎(あいのえのき)碑、「江戸より18里(72km)、日光まで18里」と,
江戸と日光の中間点にあたるところから間の榎と呼ばれ、いつしか逢の榎となり、縁結びの木として信仰を集めるようになりました。
ゆるい坂の下に「逢いの榎ここにあり」と刻まれた石碑が建っている。江戸と日光のちょうど中間(どちらへ行くにも18里 約72㎞)に当たることから「間の榎」と呼ばれていたが、いつからか願いをかけると男女が結ばれる「逢いの榎」と呼ばれ縁結びの榎として祖師堂が建てられ参拝する男女も多かった。
【日光街道中間点 逢の榎】
元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。
宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
間々田宿では、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。
天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。 -
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間々田ひも”製造のお宅。個人宅。
入っていいのか分からず、玄関の呼び鈴を押すと若い主人(組み紐職人さん)が出て見えた。
組紐で刀の下げ緒や甲冑に用いられました、今は帯紐や羽織紐として珍重されています、栃木県無形文化財です。快く作業場見学させていただきました。 -
この和室が作業場。組紐スタンドが2組あったかな?
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壁に架かってた絵画です。組紐作業の様子が覗えます。一つ一つ手編みの様子。伝統工芸品です。
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組紐製品が陳列されてる。女性には人気ですが、手間を要するので高価!
⑩間々田ひも
手編みの組紐で、その技法は鎌倉時代の伝統を引き継いでいます。刀の下げ緒、甲冑の紐として使われましたが、今は帯紐や羽織紐など民芸品として珍重されています。 -
【問屋場跡碑】
間々田交差点を越すと左手の駐車場が間々田宿問屋場跡(解説板)です、上原家が代々勤め、名主を兼ねました。
本陣・脇本陣・問屋場跡
小山間々田三郵便局向かい付近に、本陣・脇本陣の説明板がある。江戸後期の
絵図では、本陣前に高札場、南に脇本陣、街道東側に問屋場が描かれている。
街道が南北に走る間々田宿や小山宿・新田宿といった宿駅では、本陣や脇本陣
が街道の西側に設けられる場合が多かった。これは冬の北西の風に対して、風上
になるよう配慮したもの -
【本陣跡碑】
右手の小山間々田三郵便局向いのクリハラ電気が間々田宿本陣跡(解説板)です、代々青木家が勤め建坪は157坪で、本陣前には高札場がありました、明治天皇巡幸の際には休息所となりました。
【間々田宿】は、江戸から11番目の宿場で元和4年(1618)に宿駅となった。江戸時代はじめは結城藩領、その後古河藩領や幕府代官の支配を経て、江戸後期は宇都宮藩領となった。「宿内日光の方を上として、土手向町・上町・中町・下町と四町にわかてり」(日光道中略記)
これは他の宿でも同じで、いかに徳川家康を尊敬していたかがうかがえる。、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳によると、町並みの長さが9町50間(約1.1㎞)、家が175軒、旅籠が50軒、本陣・脇本陣が各1軒、問屋場が3軒あり宿の人口は947人(男440人、女507人)でした。 -
間々田八幡宮説明板
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【浄光院】
真言宗豊山派浄光院、本尊は阿弥陀如来です。
十一面観世音菩薩を安置する観音堂脇には宝永元年(1704年)建立の青面金剛像庚申塔や文政七年(1824年)建立の十九夜塔等があります。
浄光院
境 内 に は 宝 永 元 年(1704)の邪気・二鶏・三猿像を彫った青面金剛や多数の石仏、嘉永6年(1853)建立の芭蕉句碑がある。寺の前を過ぎるとまもなく間々田宿の北の出口。 -
【西堀酒造】さんの入口、長屋門
滋賀県東近江の西堀家の10代目当主源次郎が、日光連山からの天然水と豊かな水田に目を付けて明治5年に開業。3500坪の広さ。
銘酒若盛、門外不出、奥座敷の蔵元です、酒蔵は国登録有形文化財指定です。 -
西堀酒造に立つレンガ造りの煙突。(文化財)
【西堀酒造】
滋賀県東近江に居を構える西堀家の10代目当主「源治郎」が、栃木県小山市の日光連山より湧き出す天然水と豊かな水田に魅せられ、江戸時代幕末から明治維新の激動期に 間 も な い 明 治 5 年(1872)に今の酒蔵を譲り受けました。
小山市南部の日光街道沿いに位置する約3,500坪の敷地内にある蔵のほとんどは、創業以前からこの地で、道行く徳川幕府の行列を眺めた遙か昔から現代までの長い歴史を見つめつつ、日本酒を造り続けています。 -
【安房神社】の入口と参道。ここの参道も長い。
安房神社、式内社で粟宮村の鎮守です、天慶二年(939年)藤原秀郷が平将門討伐に際し戦勝を祈願し守護神としました、小山氏や古河公方の信仰が篤かったといいます、境内のモミの群落は小山市天然記念物です。
【安房神社】
天慶2年(939)に藤原秀郷が平将門の討伐を祈願し、みごと戦勝し、守護神として厚く信仰したといわれる。また、中正にも小山・結城・佐野氏や古河公方足利氏などの諸氏からも崇敬を受けた神社。11年(1828)の狛犬や灯籠、文化8年(1811)石橋八個所供養塔がある。「村の鎮守也。…神躰は天太玉命。往昔天照大神に仕へ、阿波国に移し、夫より当所に勧請し、粟の神社と称す。延喜式に寒川郡安房神社とあるは此社のことなり、むかしは此あたりも寒川郡に属せしなるべし」(日光道中略記)延喜式では、「阿房神社」とある。明治以降になると安房神社。地名は粟宮というが、昔は粟宮明神とも書かれている。
天太玉命を祖とする忌部氏は、徳島阿波から、千葉の安房へ移動したとされるが、ここへは、川を利用した水上交通により、安房から人々が移動してきたと考えられる。神社の西1㎞には思川が南北に流れている。思川は、巴波川と合流し、渡良瀬川となって利根川へ流れ込む。
本殿に赤穂浪士討ち入りを描いた嘉永元年(1848)奉納の絵馬がある。安房神社の西には小山氏時代の米蔵があり、その北には当時の獄屋跡もあるという -
巨木の目印(巨大なムクノキ)
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小山宿の【須賀神社】入口に到着
宿並を進むと左手に須賀神社の参道口があります、ここには嘉永七年(1854年)建立の常夜燈があります。
朱塗りの燈籠が並ぶ参道を進むと須賀神社が鎮座、平将門の乱を平定した小山氏の祖藤原秀郷が天慶三年(940年)京八坂神社(祇園社)を勧請し小山城の鎮守としました。
本多正純が慶長六年(1601年)現在地に遷座させ小山66郷の総鎮守となった。
三成との決戦を決意した家康は当社に戦勝祈願しました。
関ケ原の合戦に勝利した家康は当社に五十一石の社地を寄進しました。
【須賀神社由緒】
当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞鳴命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創祀した。
当初は宇北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159~60)に当地へ遷座された。以来、六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社嶺を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。
昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
平成二年四月に創建1050年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊下造営事業に着手し、同八年五月に竣工した。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎当の屋根銅板葺替工事、並びに、境内森林の檜苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。
参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。
境内には、小山の伝説で有名な「七ッ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木春雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、檜、欅、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が生息している。
【須賀神社鳥居】 小山市指定有形文化財-建造物(平成12年12月20日指定) 正面でなく神社右手の駐車場側に建つ鳥居
須賀神社は牛頭天王社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。
承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。
鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。
この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。
県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。
当所は当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。
柱間 3.34m 中心高 4.10m
小山市教育委員会
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