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栃木県に入り、小山城を中心に栄えた小山宿から、それに続く新田宿を経て小金井宿へと歩いた。<br /><br /><br />【小山宿】<br />江戸から12番目の宿場で、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、<br />街並みの長さが12町13間(約1.3㎞)、家が423軒(旅籠74軒、本陣1軒・脇本陣2軒・問屋場1軒)、町の人口は1392人(男636人、女756人)。<br />小山はかって「五街道追分」と呼ばれたように、日光道中のほか、日光道中壬生通り、結城道、佐野道が集中する街道交通の要衝であった。<br />小山は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した小山氏の本拠地でした。江戸時代初期には譜代大名の本多正純が小山城主となり、城下の整備が行われて現在の小山市街地の基礎が造られた。本田氏の転封後に城は廃城となり、城跡には小山御殿が造られて徳川将軍の日光社参の際に休憩所となった。<br />日光道中略記によると「小山の名は和名抄(わみょうしょう)にも見えたれば、ふるき地名なることを知るべし」とあり、和名抄は承平年間(931~38)に成立した和名類聚抄のことだから、たしかに古い土地である。「天慶3年(940)田原藤太秀郷、平将門追討の宣旨を蒙り、東国に下りし時はじめて築城あり」思川畔の城山公園のお城である。依頼秀郷の子孫小山氏が守り、攻防をくり返し、後北条氏の持城になったが、北条氏滅亡と共に廃城となった。<br />「落城ののち、今の街道ひらけし故、人民も次第に往還の左右に移りて、元和3年(1617)日光御鎮座の後、宿駅の数に入り…宿内日光の方を上として上(城山町)中(中央町)下(宮本町)三町ならびに新町、横町を合わせて小山宿と唱ふ」<br />また、日光名勝記によると「小山の町長し。此町昔は甚(はなはだ)広<br />かりしといふ。町中に所々寺あり」上野下野道の記では「当今貸座敷<br />(5軒)娼妓の玉は1分2朱なり。(昔は女郎や15軒あり)芸者は見番<br />にて2朱と云ふ。明治より学校建築にて進歩の駅なり」学校施行から4<br />年目の明治9年(1876)のことである

日光街道古道を歩く no8. 小山宿(22)から新田宿(23)を抜けて小金井宿(24)へ。

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2013/09/26 - 2013/09/26

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ムッシュ

ムッシュさん

栃木県に入り、小山城を中心に栄えた小山宿から、それに続く新田宿を経て小金井宿へと歩いた。


【小山宿】
江戸から12番目の宿場で、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、
街並みの長さが12町13間(約1.3㎞)、家が423軒(旅籠74軒、本陣1軒・脇本陣2軒・問屋場1軒)、町の人口は1392人(男636人、女756人)。
小山はかって「五街道追分」と呼ばれたように、日光道中のほか、日光道中壬生通り、結城道、佐野道が集中する街道交通の要衝であった。
小山は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した小山氏の本拠地でした。江戸時代初期には譜代大名の本多正純が小山城主となり、城下の整備が行われて現在の小山市街地の基礎が造られた。本田氏の転封後に城は廃城となり、城跡には小山御殿が造られて徳川将軍の日光社参の際に休憩所となった。
日光道中略記によると「小山の名は和名抄(わみょうしょう)にも見えたれば、ふるき地名なることを知るべし」とあり、和名抄は承平年間(931~38)に成立した和名類聚抄のことだから、たしかに古い土地である。「天慶3年(940)田原藤太秀郷、平将門追討の宣旨を蒙り、東国に下りし時はじめて築城あり」思川畔の城山公園のお城である。依頼秀郷の子孫小山氏が守り、攻防をくり返し、後北条氏の持城になったが、北条氏滅亡と共に廃城となった。
「落城ののち、今の街道ひらけし故、人民も次第に往還の左右に移りて、元和3年(1617)日光御鎮座の後、宿駅の数に入り…宿内日光の方を上として上(城山町)中(中央町)下(宮本町)三町ならびに新町、横町を合わせて小山宿と唱ふ」
また、日光名勝記によると「小山の町長し。此町昔は甚(はなはだ)広
かりしといふ。町中に所々寺あり」上野下野道の記では「当今貸座敷
(5軒)娼妓の玉は1分2朱なり。(昔は女郎や15軒あり)芸者は見番
にて2朱と云ふ。明治より学校建築にて進歩の駅なり」学校施行から4
年目の明治9年(1876)のことである

旅行の満足度
4.0
交通手段
観光バス 徒歩
  • 【持宝寺】<br />奈良時代に弓削道鏡が開基と伝える。もとは御殿跡付近にあったが、本多正純が祇<br />園城を改修したときに現在地に移転したという。「もと小山家の祈願寺にて、そのかみ小山城の南(今の御殿跡)にありしを、慶長5年(1600)本田上野介の指揮によりて今の地に移され」(日光道中略記)<br /> 享保13年(1728)4月15日、8代将軍徳川吉宗が日光社山時に休息所「有徳院様御小休所跡」とした。その時、栗毛の馬に乗り、稲葉郷の北の出口、上石塚村の掃除場に来たとき、掃除人足が平伏していたので「是より東に見える山は何山か」と尋ねると「筑波山です」と答え、「続いて見える山は何山か」と尋ねると「加波山です」と答えたところ「絵図に印がある常陸国の筑波、加波山はあれなり、絵図の通りなり」と感心したといわれている。元禄2年(1689)に製作され、寛政4年(1792)再鋳造の梵鐘は戦時中に供出を免れた。<br />

    【持宝寺】
    奈良時代に弓削道鏡が開基と伝える。もとは御殿跡付近にあったが、本多正純が祇
    園城を改修したときに現在地に移転したという。「もと小山家の祈願寺にて、そのかみ小山城の南(今の御殿跡)にありしを、慶長5年(1600)本田上野介の指揮によりて今の地に移され」(日光道中略記)
    享保13年(1728)4月15日、8代将軍徳川吉宗が日光社山時に休息所「有徳院様御小休所跡」とした。その時、栗毛の馬に乗り、稲葉郷の北の出口、上石塚村の掃除場に来たとき、掃除人足が平伏していたので「是より東に見える山は何山か」と尋ねると「筑波山です」と答え、「続いて見える山は何山か」と尋ねると「加波山です」と答えたところ「絵図に印がある常陸国の筑波、加波山はあれなり、絵図の通りなり」と感心したといわれている。元禄2年(1689)に製作され、寛政4年(1792)再鋳造の梵鐘は戦時中に供出を免れた。

  • 小山宿入口に近い【須賀神社参道】<br />朱塗りの燈籠が並ぶ参道を進むと須賀神社が鎮座しています、平将門の乱を平定した小山氏の祖藤原秀郷が天慶3年(940年)京八坂神社(祇園社)を勧請し小山城の鎮守としました。<br />

    小山宿入口に近い【須賀神社参道】
    朱塗りの燈籠が並ぶ参道を進むと須賀神社が鎮座しています、平将門の乱を平定した小山氏の祖藤原秀郷が天慶3年(940年)京八坂神社(祇園社)を勧請し小山城の鎮守としました。

  • 鳥居の更に奥に神社はあります。街道よりかなり離れてる。

    鳥居の更に奥に神社はあります。街道よりかなり離れてる。

  • 鳥居に近づいてきました。

    鳥居に近づいてきました。

  • ここが須賀神社入口。<br />【須賀神社鳥居】 小山市指定有形文化財-建造物(平成12年12月20日指定) 正面でなく神社右手の駐車場側に建つ鳥居<br /><br /> 須賀神社は牛頭天王社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。<br /> 承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。<br /> 鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。<br /> この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。<br /> 県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。<br /> 当所は当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。<br /> 柱間 3.34m   中心高 4.10m<br /><br />                          小山市教育委員会

    ここが須賀神社入口。
    【須賀神社鳥居】 小山市指定有形文化財-建造物(平成12年12月20日指定) 正面でなく神社右手の駐車場側に建つ鳥居

     須賀神社は牛頭天王社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。
     承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。
     鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。
     この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。
     県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。
     当所は当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。
     柱間 3.34m   中心高 4.10m

                              小山市教育委員会

  • 本堂の前の表門。これを潜ると本堂が見えてきます。小山66郷の総鎮守。以前は小山城内に有ったが、本多正純の小山城改修時に現在の地点に移転した。<br /><br />【須賀神社由緒】<br />  当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞鳴命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創祀した。<br /> 当初は宇北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159~60)に当地へ遷座された。以来、六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。<br /> 徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社嶺を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。<br />  昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。<br /> 平成二年四月に創建1050年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊下造営事業に着手し、同八年五月に竣工した。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎当の屋根銅板葺替工事、並びに、境内森林の檜苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。<br /> 参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。<br /> 境内には、小山の伝説で有名な「七ッ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木春雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、檜、欅、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が生息している。

    本堂の前の表門。これを潜ると本堂が見えてきます。小山66郷の総鎮守。以前は小山城内に有ったが、本多正純の小山城改修時に現在の地点に移転した。

    【須賀神社由緒】
      当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞鳴命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創祀した。
     当初は宇北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159~60)に当地へ遷座された。以来、六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
     徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社嶺を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。
      昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
     平成二年四月に創建1050年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊下造営事業に着手し、同八年五月に竣工した。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎当の屋根銅板葺替工事、並びに、境内森林の檜苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。
     参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。
     境内には、小山の伝説で有名な「七ッ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木春雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、檜、欅、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が生息している。

  • 【須賀神社本堂】<br />関ケ原の合戦に勝利した家康は当社に51石の社地を寄進しました。<br />須賀神社<br />小山66郷の総鎮守とされてきた。牛頭天王とも呼ばれ、藤原秀郷が天慶3年(940)に、戦勝祈願のため京都祇園社を勧請した。もとは小山城内にあったが、本多正純が慶長6年(1601)に現在地 に 移 し た 。 石 の 鳥 居 は 承 応 2 年(1653)、小山町旦那衆よる奉納で高さ4.1m。境内には七つ石(夜泣き石)がある。

    【須賀神社本堂】
    関ケ原の合戦に勝利した家康は当社に51石の社地を寄進しました。
    須賀神社
    小山66郷の総鎮守とされてきた。牛頭天王とも呼ばれ、藤原秀郷が天慶3年(940)に、戦勝祈願のため京都祇園社を勧請した。もとは小山城内にあったが、本多正純が慶長6年(1601)に現在地 に 移 し た 。 石 の 鳥 居 は 承 応 2 年(1653)、小山町旦那衆よる奉納で高さ4.1m。境内には七つ石(夜泣き石)がある。

  • 本堂前から振り返り見た表門

    本堂前から振り返り見た表門

  • 小山評定跡の石碑は、小山市の市役所にある。石碑には、<br /> 「慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。<br /> このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。<br /> 軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。<br /> 同年9月25日、関ヶ原の戦いがおこななわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です」

    小山評定跡の石碑は、小山市の市役所にある。石碑には、
     「慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。
     このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。
     軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。
     同年9月25日、関ヶ原の戦いがおこななわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です」

  • 須賀神社の隣、【妙建寺】<br />日蓮宗法頂山妙建寺、本堂は享保2年(1717年)の再建で、格天井には百人一首の絵と歌が59枚ある描かれています。の絵と歌が59枚ある<br />建武元年(1334)の開基。灯籠・手水石は小山宿の遊女たちが奉納した。

    須賀神社の隣、【妙建寺】
    日蓮宗法頂山妙建寺、本堂は享保2年(1717年)の再建で、格天井には百人一首の絵と歌が59枚ある描かれています。の絵と歌が59枚ある
    建武元年(1334)の開基。灯籠・手水石は小山宿の遊女たちが奉納した。

  • 妙建寺の隣、【愛宕神社】<br />室町時代、康暦元年(1379年)小山義政の創建と伝える。石の鳥居は寛文7年(1667年)のもの。

    妙建寺の隣、【愛宕神社】
    室町時代、康暦元年(1379年)小山義政の創建と伝える。石の鳥居は寛文7年(1667年)のもの。

  • 愛宕神社参道には大きな欅があります。小山指定の天然記念物。<br />この木は、小山義政が、1379年(康暦元年)に、この地に愛宕神社を勧請した時に植えた神木と伝える。

    愛宕神社参道には大きな欅があります。小山指定の天然記念物。
    この木は、小山義政が、1379年(康暦元年)に、この地に愛宕神社を勧請した時に植えた神木と伝える。

  • 芭蕉門下生の宝井其角の句碑<br /> 「 ほととぎす  十二の橋の 夜明けかな」

    芭蕉門下生の宝井其角の句碑
    「 ほととぎす 十二の橋の 夜明けかな」

  • 日光街道に戻り、本陣跡付近に【明治天皇行在所跡碑】<br />肝心の本陣跡、脇本陣跡碑は見当たらない。<br />【明治天皇小山行在所碑と自然石の明治天皇御駐蹕之碑】<br />明治8年(1875年)明治天皇の奥州巡行の際に宿所となりました。

    日光街道に戻り、本陣跡付近に【明治天皇行在所跡碑】
    肝心の本陣跡、脇本陣跡碑は見当たらない。
    【明治天皇小山行在所碑と自然石の明治天皇御駐蹕之碑】
    明治8年(1875年)明治天皇の奥州巡行の際に宿所となりました。

  • 【本郷町の興法寺】<br />小山城主の本多や徳川家光から寺領を与えられた。<br />天台宗徳王山妙楽院興法寺(こうぼうじ)、嘉祥二年(849年)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊です、元は小山城内にあり小山氏代々の祈願寺でした。<br />境内の地蔵尊には戊辰戦役小山の戦いの被弾痕があります。<br /><br /><br />【興法寺縁起】<br />  天台宗、徳王山妙楽院と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥二年(1317年前)慈覚大師円仁(天台宗三世壬生出身)が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一字を建立して妙楽院と号したのが始まり。その後、天慶三年に藤原秀郷が小山城を築城すると、城内に移転して徳王山妙楽院興法寺と号したという。(旧県史四)亦一説には、小山城主の帰依を受けた天台宗層興海の中興開山と伝えられる。慶安二年八月、徳川家光から朱印で九石の寺領が寄進され、寺中山林竹木諸役なども免除された。(稲葉郷興法寺嶺朱印状現存)<br />  天和三年火災のため堂宇を焼失、貞享四年覚栄法師によって再建された。第五十七世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第六皇子)がしばしば休泊した所として知られ、元禄八年には阿弥陀三尊像厨子、比叡山中興の慈恵大師良源像厨子、当山施餓鬼会本尊地蔵菩薩像厨子、門額などを寄進したといわれる。<br />  また天和三年焼失後の再興も公弁法親王の助力によるものと伝える。かつて七月二十二日~二十三日に聖霊会(法界大施餓鬼会)があり、老若の参詣が多かった。<br />  文化五年にも類焼したが、明治十八年慈湛法印が堂宇を再建、山門は焼失を免れた。<br />  寺宝としては、阿弥陀如来三尊金銅佛(鎌倉期県文化財)・絹本著色羅漢図(元・鎌倉期県文化財)・同不動明王像(南北朝期県文化財)・同文殊菩薩像(室町期県文化財)・同涅槃図(室町期県文化財)・同如意輪観音像(江戸期県文化財)・同千手観音像(江戸期県文化財)。<br />                    (角川日本地名大辞典・栃木県より)

    【本郷町の興法寺】
    小山城主の本多や徳川家光から寺領を与えられた。
    天台宗徳王山妙楽院興法寺(こうぼうじ)、嘉祥二年(849年)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊です、元は小山城内にあり小山氏代々の祈願寺でした。
    境内の地蔵尊には戊辰戦役小山の戦いの被弾痕があります。


    【興法寺縁起】
      天台宗、徳王山妙楽院と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥二年(1317年前)慈覚大師円仁(天台宗三世壬生出身)が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一字を建立して妙楽院と号したのが始まり。その後、天慶三年に藤原秀郷が小山城を築城すると、城内に移転して徳王山妙楽院興法寺と号したという。(旧県史四)亦一説には、小山城主の帰依を受けた天台宗層興海の中興開山と伝えられる。慶安二年八月、徳川家光から朱印で九石の寺領が寄進され、寺中山林竹木諸役なども免除された。(稲葉郷興法寺嶺朱印状現存)
      天和三年火災のため堂宇を焼失、貞享四年覚栄法師によって再建された。第五十七世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第六皇子)がしばしば休泊した所として知られ、元禄八年には阿弥陀三尊像厨子、比叡山中興の慈恵大師良源像厨子、当山施餓鬼会本尊地蔵菩薩像厨子、門額などを寄進したといわれる。
      また天和三年焼失後の再興も公弁法親王の助力によるものと伝える。かつて七月二十二日~二十三日に聖霊会(法界大施餓鬼会)があり、老若の参詣が多かった。
      文化五年にも類焼したが、明治十八年慈湛法印が堂宇を再建、山門は焼失を免れた。
      寺宝としては、阿弥陀如来三尊金銅佛(鎌倉期県文化財)・絹本著色羅漢図(元・鎌倉期県文化財)・同不動明王像(南北朝期県文化財)・同文殊菩薩像(室町期県文化財)・同涅槃図(室町期県文化財)・同如意輪観音像(江戸期県文化財)・同千手観音像(江戸期県文化財)。
                        (角川日本地名大辞典・栃木県より)

  • 【興法寺】境内に浅草から移転した十三層塔。立派な鐘楼も。<br />	<br />【十三層塔の由来】<br />  この塔はかつて数百年間、浅草の観音様で有名な浅草寺山内に安置されておりました。ゆえあって古河市須藤家の大庭園に移されておりましたが、今般小山市半田伊沢造園様のご寄進により当山境内に安置されました。ここに釈尊四大仏跡の品々を基壇に納入し深く祈念いたします。<br /> この塔をお参りするには  南無大恩教主釈迦牟尼如来  三遍お唱え下さい。<br />                平成二年六月十一日 当山五拾八世 俊憲代

    【興法寺】境内に浅草から移転した十三層塔。立派な鐘楼も。

    【十三層塔の由来】
      この塔はかつて数百年間、浅草の観音様で有名な浅草寺山内に安置されておりました。ゆえあって古河市須藤家の大庭園に移されておりましたが、今般小山市半田伊沢造園様のご寄進により当山境内に安置されました。ここに釈尊四大仏跡の品々を基壇に納入し深く祈念いたします。
     この塔をお参りするには  南無大恩教主釈迦牟尼如来  三遍お唱え下さい。
                    平成二年六月十一日 当山五拾八世 俊憲代

  • 鐘楼の脇に6地蔵<br /><br />「興法寺」<br /> 第3代点台座主・慈覚大師が嘉祥2年(849)に建立した妙楽院が起源と伝わる。小山氏代々の祈願所として城内に置かれたが、江戸時代に移転した。<br /> 境内の地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾跡がある。

    鐘楼の脇に6地蔵

    「興法寺」
     第3代点台座主・慈覚大師が嘉祥2年(849)に建立した妙楽院が起源と伝わる。小山氏代々の祈願所として城内に置かれたが、江戸時代に移転した。
     境内の地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾跡がある。

  • 喜沢追分の五差路手前にある【日枝神社】参道に残る【大ケヤキ】<br />樹齢400年以上、樹高30数m、の大ケヤキが参道の左に2本、右に1本ある。<br />この辺りは、神社を中心に中世の小山城の北の守りとしての役割を担った。

    喜沢追分の五差路手前にある【日枝神社】参道に残る【大ケヤキ】
    樹齢400年以上、樹高30数m、の大ケヤキが参道の左に2本、右に1本ある。
    この辺りは、神社を中心に中世の小山城の北の守りとしての役割を担った。

  • 日枝神社ケヤキの説明板<br /><br />【日枝神社】<br />江戸時代には山王といわれた。参道に樹齢400年以上、樹高30数mの大きなケヤキが左に2本、右に1本ある。神社を中心とした付近一帯は、中世の小山城(祇園城)の北の守りとして支城の役割も果たしていた。社殿裏の土塁の上には明治45年(1912)まで追分にあった大きな男体山碑(道標)がある。

    日枝神社ケヤキの説明板

    【日枝神社】
    江戸時代には山王といわれた。参道に樹齢400年以上、樹高30数mの大きなケヤキが左に2本、右に1本ある。神社を中心とした付近一帯は、中世の小山城(祇園城)の北の守りとして支城の役割も果たしていた。社殿裏の土塁の上には明治45年(1912)まで追分にあった大きな男体山碑(道標)がある。

  • 【喜沢の追分】<br />振り返る日光街道。交差点は五差路を形成している。<br />壬生通りとの分岐点。左は天明5年(1785)の道標を兼ねた供養塔。中は明治27年(1894)の馬頭観世音碑、右は日清日露日支出徒馬碑。ここには茶屋や立(たてば)があり、駕籠や馬はここで休息した。将軍日光ご参詣時には警護所となる<br />要衝だった。

    【喜沢の追分】
    振り返る日光街道。交差点は五差路を形成している。
    壬生通りとの分岐点。左は天明5年(1785)の道標を兼ねた供養塔。中は明治27年(1894)の馬頭観世音碑、右は日清日露日支出徒馬碑。ここには茶屋や立(たてば)があり、駕籠や馬はここで休息した。将軍日光ご参詣時には警護所となる
    要衝だった。

  • 五差路交差点を少し進んで、右側の小路に進みます。これが旧日光街道の小路。<br />左は新日光街道。

    五差路交差点を少し進んで、右側の小路に進みます。これが旧日光街道の小路。
    左は新日光街道。

  • 【喜沢の一里塚】<br />こんもりした塚状の小山だけが残ってます。日本橋から21里。これは西側の塚です。とくに案内説明板はありません。<br />日光・奥州・甲州道中宿村大概帳によると左右二つの盛り土があるとされ、西の<br />塚には雑木林、東には杉が植えられていたと記されている。

    【喜沢の一里塚】
    こんもりした塚状の小山だけが残ってます。日本橋から21里。これは西側の塚です。とくに案内説明板はありません。
    日光・奥州・甲州道中宿村大概帳によると左右二つの盛り土があるとされ、西の
    塚には雑木林、東には杉が植えられていたと記されている。

  • 【新田宿の本陣跡、本陣門】<br />国道4号と合流した街道を数百m進むと、古風な4脚門があり本陣跡と伝えられている。建坪は83坪でした。<br />新田宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒の宿場であった<br />②本陣跡<br />西側道路沿いに古風な四脚門があり、ここが新田宿の本陣跡と伝えられている。『日光道中分間延絵図』ではこの付近に問屋場や高札場が記されており、向かい側が脇本陣となっている。この付近が新田宿の中心部だった<br /><br /><br />新田(しんでん)宿は、江戸から13番目の宿場。ここは芋柄新田・大町新田・大町村とも呼ばれた。天保14年(1843)の日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが3町(約330m)、家が59軒(旅籠が11軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒)、宿の人口は244人(男127人、女117人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共36文、軽尻馬1疋23文、人足1人18文でした。日光街道では最も小さな宿で人家が少なかったため、近隣の半田村・新井村も宿場の勤めをした。「宿入口往還より左の方、曠野にて日光山・赤城山・大平山などの眺望最よし」(日光道中略記)宿場の東側には野が広がっていて、「日光山、赤城山、大平山などの眺望もよし」といわれた。<br />

    【新田宿の本陣跡、本陣門】
    国道4号と合流した街道を数百m進むと、古風な4脚門があり本陣跡と伝えられている。建坪は83坪でした。
    新田宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒の宿場であった
    ②本陣跡
    西側道路沿いに古風な四脚門があり、ここが新田宿の本陣跡と伝えられている。『日光道中分間延絵図』ではこの付近に問屋場や高札場が記されており、向かい側が脇本陣となっている。この付近が新田宿の中心部だった


    新田(しんでん)宿は、江戸から13番目の宿場。ここは芋柄新田・大町新田・大町村とも呼ばれた。天保14年(1843)の日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが3町(約330m)、家が59軒(旅籠が11軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒)、宿の人口は244人(男127人、女117人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共36文、軽尻馬1疋23文、人足1人18文でした。日光街道では最も小さな宿で人家が少なかったため、近隣の半田村・新井村も宿場の勤めをした。「宿入口往還より左の方、曠野にて日光山・赤城山・大平山などの眺望最よし」(日光道中略記)宿場の東側には野が広がっていて、「日光山、赤城山、大平山などの眺望もよし」といわれた。

  • 【橿原神社(星宮) 】小山市<br />江戸時代の絵図には、「星宮」と 記 さ れ て い る が 、 明 治 5 年(1872)に神武天皇を鎮座崇敬したいとの村役人の願いにより橿原神社になったといわれる。<br />参道奥が橿原神社、その左が星宮です。明治39年(1906)東北線の列車の飛び火によって焼失、再建。神社参道の入口を少し北に進むと、まもなく川中子村に入り、新田宿はここで終わる。

    【橿原神社(星宮) 】小山市
    江戸時代の絵図には、「星宮」と 記 さ れ て い る が 、 明 治 5 年(1872)に神武天皇を鎮座崇敬したいとの村役人の願いにより橿原神社になったといわれる。
    参道奥が橿原神社、その左が星宮です。明治39年(1906)東北線の列車の飛び火によって焼失、再建。神社参道の入口を少し北に進むと、まもなく川中子村に入り、新田宿はここで終わる。

  • 【薬師堂】<br />かつて問屋場・高札場があり、近くに天台宗玉性院があって、宿の安全を願いお堂を建立し薬師如来を奉納したといわれる。薬師堂の右側に、国学者で橿原神社の建立にもかかわった中里遜齋墓碑がある。薬師堂の南側にこの地域の天領を支配<br />した幕府代官支配所の代官陣屋があった。<br />

    【薬師堂】
    かつて問屋場・高札場があり、近くに天台宗玉性院があって、宿の安全を願いお堂を建立し薬師如来を奉納したといわれる。薬師堂の右側に、国学者で橿原神社の建立にもかかわった中里遜齋墓碑がある。薬師堂の南側にこの地域の天領を支配
    した幕府代官支配所の代官陣屋があった。

  • 【新田宿北口の石仏群】<br />寛政12年(1800年)の馬頭観音と宝暦2年(1752年)の六十六部供養塔が建っているこくぶ。馬頭観音には「左 おざく」とし、供養塔には「左 おざく こくぶんじ」と記し、道標を兼ねる。<br /><br />寛政12年(1800年)の道標を兼ねた馬頭観世音には「左おざく道」宝暦2年(1752年)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれているおざくは現在の鹿沼市石裂(おざく)のことのようだその近くに石裂山(879m)がある此処が新田宿の出口であった<br />以前は、これらの石仏の正面側が街道筋であった。現在の道路は石仏群の背面に面している。

    【新田宿北口の石仏群】
    寛政12年(1800年)の馬頭観音と宝暦2年(1752年)の六十六部供養塔が建っているこくぶ。馬頭観音には「左 おざく」とし、供養塔には「左 おざく こくぶんじ」と記し、道標を兼ねる。

    寛政12年(1800年)の道標を兼ねた馬頭観世音には「左おざく道」宝暦2年(1752年)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれているおざくは現在の鹿沼市石裂(おざく)のことのようだその近くに石裂山(879m)がある此処が新田宿の出口であった
    以前は、これらの石仏の正面側が街道筋であった。現在の道路は石仏群の背面に面している。

  • 畑の向こうに見えるのは【小金井一里塚】<br />街道はこの畑で寸断されている。<br />江戸より22番目(約88km)の一里塚である<br />完全な形で保存されており、日光道中で唯一国指定史跡となっている

    畑の向こうに見えるのは【小金井一里塚】
    街道はこの畑で寸断されている。
    江戸より22番目(約88km)の一里塚である
    完全な形で保存されており、日光道中で唯一国指定史跡となっている

  • 日光街道で最も立派な一里塚。

    日光街道で最も立派な一里塚。

  • 【小金井一里塚説明板】日本橋から22里の塚。距離にして約90km。<br />この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。<br />  一里塚は、江戸の日本橋を基点として一里(約三・九ニ七キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその二十二番目の塚で、江戸から二十二里(約八六・四キロメートル)の地点であることを示したています。(実際の距離は九〇キロメートル以上あります)<br />一里塚は五間(約九・一メートル)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と檪(くぬぎ)の巨木が同居しています。<br />  一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になった、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとって町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。<br />             平成二年(1990)建立 下野市教育委員会

    【小金井一里塚説明板】日本橋から22里の塚。距離にして約90km。
    この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。
      一里塚は、江戸の日本橋を基点として一里(約三・九ニ七キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその二十二番目の塚で、江戸から二十二里(約八六・四キロメートル)の地点であることを示したています。(実際の距離は九〇キロメートル以上あります)
    一里塚は五間(約九・一メートル)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と檪(くぬぎ)の巨木が同居しています。
      一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になった、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとって町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。
                 平成二年(1990)建立 下野市教育委員会

  • 小金井一里塚案内

    小金井一里塚案内

  • 小金井一里塚史跡公園

    小金井一里塚史跡公園

  • 小金井一里塚史跡公園<br /><br />天保14年(1843年)頃、小金井宿の宿内家数は165軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠43軒で宿内人口は767人でした。

    小金井一里塚史跡公園

    天保14年(1843年)頃、小金井宿の宿内家数は165軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠43軒で宿内人口は767人でした。

  • 慈眼寺参道入口付近にある、小金井宿の門番の様な大きな石像だ<br />大きな袋(堪忍袋)は無いが、顔貌と大きなお腹は布袋様か<br />そして石仏群である。旧街道筋の石仏がここに集められたようだ<br /><br />【小金井宿は、江戸から14番目の宿場】 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが6町42間(約730m)、家が165軒(旅籠43軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒)、宿の人口は767人(男374人、女393人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共67文、軽尻馬1疋43文、人足1人33文でした。<br />江戸時代後期以降には、宿と周辺の村々を領地とした佐倉藩(千葉県佐倉市)の出張陣屋が置かれていた。また、街道沿いにはわずかに宿の面影を残しており、江戸時代の姿をとどめる一里塚も残ってる。日光道中略記には「むかしは人家も磯宮のあたりにありしが、元和年中(1615~1624)日光街道ひらけしより次第に往還の左右に移り住みしといふ。延宝9年(1681)より宿駅の数に入りて」とあり、宿駅となったのはかなり後のこと。<br />

    慈眼寺参道入口付近にある、小金井宿の門番の様な大きな石像だ
    大きな袋(堪忍袋)は無いが、顔貌と大きなお腹は布袋様か
    そして石仏群である。旧街道筋の石仏がここに集められたようだ

    【小金井宿は、江戸から14番目の宿場】 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが6町42間(約730m)、家が165軒(旅籠43軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒)、宿の人口は767人(男374人、女393人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共67文、軽尻馬1疋43文、人足1人33文でした。
    江戸時代後期以降には、宿と周辺の村々を領地とした佐倉藩(千葉県佐倉市)の出張陣屋が置かれていた。また、街道沿いにはわずかに宿の面影を残しており、江戸時代の姿をとどめる一里塚も残ってる。日光道中略記には「むかしは人家も磯宮のあたりにありしが、元和年中(1615~1624)日光街道ひらけしより次第に往還の左右に移り住みしといふ。延宝9年(1681)より宿駅の数に入りて」とあり、宿駅となったのはかなり後のこと。

  • 小金井宿本陣に近い、【慈眼寺(じげんじ)】<br />上野国の豪族である新田義兼により建久7年(1196年)に創建された古刹。コロンブスがアメリカを発見したり、鎌倉幕府が出来たころですね。また、歴代将軍のお休み処だったそうです。<br />宿並の左手に真言宗智山派慈眼寺(じげんじ)、建久七年(1196年)新田義兼が祈願寺として創建した真言宗の古刹です、本尊は勢至菩薩です。<br /><br />徳川三代将軍家光より御朱印二十石を拝領し、境内には御成御殿(御座所)があり、日光社参の将軍はここで昼食を摂りました。<br /><br />*上野国の豪族である新田義兼により建久7年(1196)に創建された古刹。<br />日光道中略記に「建久7年(1196)の起立なり、慶安2年(1649)日光御参詣のとき連日雨天なりしかば、晴れを祈るべしととの命ありしより、住僧丹誠を抽て不動尊に祈願せしが、たちまち快晴す。此時の常として寺領弐拾石の御朱印を賜へりといふ。今其不動を日乞の不動と称す」とある。<br />江戸時代の観音堂と鐘楼が残る。日光道中分間延絵図に「御社参之節御昼休所」とあり、将軍社参の際に使用され、御成御殿(御座所)が現在の本堂南側にあったと伝えられる。「宿の内に慈眼寺と云、裏2町程有処に小池に水の涌て出る所あり。流れ絶る事なく4、5丁の田にかゝる。享保の御社参の節(享保13年 1728)は、御上り水に成しと。これ小金井也」とある。ツゲの木の根元から湧いていたが、昭和16年頃(1941)の農地工事で水が出なくなった。

    小金井宿本陣に近い、【慈眼寺(じげんじ)】
    上野国の豪族である新田義兼により建久7年(1196年)に創建された古刹。コロンブスがアメリカを発見したり、鎌倉幕府が出来たころですね。また、歴代将軍のお休み処だったそうです。
    宿並の左手に真言宗智山派慈眼寺(じげんじ)、建久七年(1196年)新田義兼が祈願寺として創建した真言宗の古刹です、本尊は勢至菩薩です。

    徳川三代将軍家光より御朱印二十石を拝領し、境内には御成御殿(御座所)があり、日光社参の将軍はここで昼食を摂りました。

    *上野国の豪族である新田義兼により建久7年(1196)に創建された古刹。
    日光道中略記に「建久7年(1196)の起立なり、慶安2年(1649)日光御参詣のとき連日雨天なりしかば、晴れを祈るべしととの命ありしより、住僧丹誠を抽て不動尊に祈願せしが、たちまち快晴す。此時の常として寺領弐拾石の御朱印を賜へりといふ。今其不動を日乞の不動と称す」とある。
    江戸時代の観音堂と鐘楼が残る。日光道中分間延絵図に「御社参之節御昼休所」とあり、将軍社参の際に使用され、御成御殿(御座所)が現在の本堂南側にあったと伝えられる。「宿の内に慈眼寺と云、裏2町程有処に小池に水の涌て出る所あり。流れ絶る事なく4、5丁の田にかゝる。享保の御社参の節(享保13年 1728)は、御上り水に成しと。これ小金井也」とある。ツゲの木の根元から湧いていたが、昭和16年頃(1941)の農地工事で水が出なくなった。

  • 慈眼寺境内に建つ【朱塗りの観音堂】 江戸時代に建築。<br />この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約二八〇年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。<br /><br /> 

    慈眼寺境内に建つ【朱塗りの観音堂】 江戸時代に建築。
    この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約二八〇年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。

     

  • 慈眼寺境内に建つ総ヒノキ造りの【鐘楼】江戸時代に建築。

    慈眼寺境内に建つ総ヒノキ造りの【鐘楼】江戸時代に建築。

  • 慈眼寺の本堂<br />【慈眼寺】<br /> 建久7年(1196)、関東の豪族新田義兼公により新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹。慶安2年(1649)の徳川家綱の日光社参までは将軍の小休所とされていて、享保13年(1728)の8代将軍吉宗の日光社参以降は昼休所となった。境内には御成御殿が建てられていた。<br /> 広い境内には本堂をはじめ、江戸時代に建てられた観音堂や鐘楼などが整然と並んでいる。本尊は十一面観世音菩薩。

    慈眼寺の本堂
    【慈眼寺】
     建久7年(1196)、関東の豪族新田義兼公により新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹。慶安2年(1649)の徳川家綱の日光社参までは将軍の小休所とされていて、享保13年(1728)の8代将軍吉宗の日光社参以降は昼休所となった。境内には御成御殿が建てられていた。
     広い境内には本堂をはじめ、江戸時代に建てられた観音堂や鐘楼などが整然と並んでいる。本尊は十一面観世音菩薩。

  • 慈眼寺の隣は、【金井神社】<br />隣接した裏門から入ったのでいきなり奥殿から見学した。本堂裏手の奥殿には素晴らし木彫り彫刻が残る。本殿の壁面には壮麗な壁画彫刻あり。小金井宿の鎮守です、本殿は一間社三方入母屋造りです。<br /><br />⑤金井(かない)神社<br />小金井宿の鎮守。江戸時代には北進社あるいは北進宮と呼ばれ、慈眼寺が別当を努めた。本殿は一間社三方入母屋造りという建築様式で壁面には天保~嘉永期(1830~50年代)の制作と推定される。<br />壮麗な壁画彫刻があり、各彫刻には小金井宿の商家の女性と思われる人名が刻まれている。境内社として八坂神社、雷電神社、天満宮、交通安全社(旧疱瘡神)がある。<br />慈眼寺の右隣に接してあり、間の塀には境内から通り抜けられる開口がある。<br /><br />【金井神社本殿】 市指定有形文化財<br />  本殿の建築様式は一間社三方入母屋造りといい、壁面には透彫りや丸彫りなどの立派な彫刻が施されています。<br />  この彫刻は江戸末期(1800年代)の製作と考えられ、作者は磯部氏系統の彫刻師であろうと推定されています。<br />  本殿の素材にはけやきが用いられており、素木造で彩色はありません。屋根は栩(こば)葺きで壁面には当時の人々の名前が刻まれており、両側には彫刻の施された脇障子が付いています。<br />              平成二年(1990)建立 下野市教育委員会

    慈眼寺の隣は、【金井神社】
    隣接した裏門から入ったのでいきなり奥殿から見学した。本堂裏手の奥殿には素晴らし木彫り彫刻が残る。本殿の壁面には壮麗な壁画彫刻あり。小金井宿の鎮守です、本殿は一間社三方入母屋造りです。

    ⑤金井(かない)神社
    小金井宿の鎮守。江戸時代には北進社あるいは北進宮と呼ばれ、慈眼寺が別当を努めた。本殿は一間社三方入母屋造りという建築様式で壁面には天保~嘉永期(1830~50年代)の制作と推定される。
    壮麗な壁画彫刻があり、各彫刻には小金井宿の商家の女性と思われる人名が刻まれている。境内社として八坂神社、雷電神社、天満宮、交通安全社(旧疱瘡神)がある。
    慈眼寺の右隣に接してあり、間の塀には境内から通り抜けられる開口がある。

    【金井神社本殿】 市指定有形文化財
      本殿の建築様式は一間社三方入母屋造りといい、壁面には透彫りや丸彫りなどの立派な彫刻が施されています。
      この彫刻は江戸末期(1800年代)の製作と考えられ、作者は磯部氏系統の彫刻師であろうと推定されています。
      本殿の素材にはけやきが用いられており、素木造で彩色はありません。屋根は栩(こば)葺きで壁面には当時の人々の名前が刻まれており、両側には彫刻の施された脇障子が付いています。
                  平成二年(1990)建立 下野市教育委員会

  • 【金井神社の表参道】<br />小金井宿の総鎮守。裏から入って、表に向って出ていく訳。黄金の湧き出る井戸の意らしい。<br />元は金井村字余又にあったが、宝暦4年(1754年)ここに遷座した小金井宿の本陣の隣にあった

    【金井神社の表参道】
    小金井宿の総鎮守。裏から入って、表に向って出ていく訳。黄金の湧き出る井戸の意らしい。
    元は金井村字余又にあったが、宝暦4年(1754年)ここに遷座した小金井宿の本陣の隣にあった

  • 彫り物で埋め尽くされた御本殿 [金井神社] (栃木県下野市)

    彫り物で埋め尽くされた御本殿 [金井神社] (栃木県下野市)

  • 金井神社の先に屋敷門があり。【小金井宿旧本陣跡の本陣門】<br />本陣門(四脚門)を残しています、大越家が勤め建坪は百四十坪余でした。<br />本陣跡を示す四脚門が残されている。この旧本陣には、明治22年(1889)に国分寺村が発足したとき、村役場が置かれていた。

    金井神社の先に屋敷門があり。【小金井宿旧本陣跡の本陣門】
    本陣門(四脚門)を残しています、大越家が勤め建坪は百四十坪余でした。
    本陣跡を示す四脚門が残されている。この旧本陣には、明治22年(1889)に国分寺村が発足したとき、村役場が置かれていた。

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