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小金井宿から石橋宿を経て、宇都宮直前の不動前まで歩く。

日光街道古道を歩く no9.石橋宿(25)から雀宮宿(26)を抜けて宇都宮(27)に向う。

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2013/09/27 - 2013/09/27

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ムッシュ

ムッシュさん

小金井宿から石橋宿を経て、宇都宮直前の不動前まで歩く。

旅行の満足度
4.0
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 【下石橋地区の夕顔橋の石仏群】<br />現在の車道を背にして立つ。ってことは、街道は車道の反対側だ。<br />享保3年(1747年)銘の地蔵菩薩立像や1747年銘の十九夜塔など10体の石仏。<br />この外れに宝永七年(1710)と享保三年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享四年(1747)建立の如意輪観音像等の石仏群が国道側に背を向けて祀られています。<br />街道左手に墓所、そして県道352号線との交差点「下石橋北」の手前に石仏群<br />享保3年(1718)、延享4年(1747)等と刻まれていた<br />石橋はかんぴょうの特産地であるので、夕顔橋とつけた様だ<br />

    【下石橋地区の夕顔橋の石仏群】
    現在の車道を背にして立つ。ってことは、街道は車道の反対側だ。
    享保3年(1747年)銘の地蔵菩薩立像や1747年銘の十九夜塔など10体の石仏。
    この外れに宝永七年(1710)と享保三年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享四年(1747)建立の如意輪観音像等の石仏群が国道側に背を向けて祀られています。
    街道左手に墓所、そして県道352号線との交差点「下石橋北」の手前に石仏群
    享保3年(1718)、延享4年(1747)等と刻まれていた
    石橋はかんぴょうの特産地であるので、夕顔橋とつけた様だ

  • 石橋駅手前の【愛宕神社】<br />この辺りが石橋宿の江戸(南)口です、石橋宿に到着です!<br />石橋の地名は池上明神前の石橋に由来しています、石橋宿は幕府領で代官北条雄之助が支配しました。<br />天保14年(1843年)の頃、宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は414人で干瓢、瓢箪細工が名産でした。<br />愛宕神社は徳川三代将軍家光より朱印状を拝領し、石橋宿の鎮守でした、元は下石橋愛宕塚古墳上に鎮座していましたが大正2年(1913年)に遷座しました。<br /><br />本町交差点、此の辺から日光道中の15番目の宿場石橋宿である<br />石橋の地名は街道東に、かつてあった池上明神に当時としては珍しい石の橋があったからとのこと<br /><br />愛宕神社<br />創建は天平宝宇3年(759)という古社で、境内には天照大神・素戔嗚尊・熊野大神の4社が祀られています。もとは下石橋愛宕塚古墳の上にあったが、東北本線の複線化により参拝に支障が出たため、大正2年(1913)に稲荷神社境内に合祀・遷<br />座した。

    石橋駅手前の【愛宕神社】
    この辺りが石橋宿の江戸(南)口です、石橋宿に到着です!
    石橋の地名は池上明神前の石橋に由来しています、石橋宿は幕府領で代官北条雄之助が支配しました。
    天保14年(1843年)の頃、宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は414人で干瓢、瓢箪細工が名産でした。
    愛宕神社は徳川三代将軍家光より朱印状を拝領し、石橋宿の鎮守でした、元は下石橋愛宕塚古墳上に鎮座していましたが大正2年(1913年)に遷座しました。

    本町交差点、此の辺から日光道中の15番目の宿場石橋宿である
    石橋の地名は街道東に、かつてあった池上明神に当時としては珍しい石の橋があったからとのこと

    愛宕神社
    創建は天平宝宇3年(759)という古社で、境内には天照大神・素戔嗚尊・熊野大神の4社が祀られています。もとは下石橋愛宕塚古墳の上にあったが、東北本線の複線化により参拝に支障が出たため、大正2年(1913)に稲荷神社境内に合祀・遷
    座した。

  • この街道には大きな屋敷、広い庭の家が多い

    この街道には大きな屋敷、広い庭の家が多い

  • 家も、塀も立派!

    家も、塀も立派!

  • 石橋駅の先に建つ【開雲寺の表門】 下野市石橋<br />徳川将軍の日光社参の時、休息所になった寺。新義真言宗石橋山開雲寺<br />慶長9年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、葵紋の使用が許され、土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)があります。<br />仁王門前には明治天皇御駐輦之處碑があります。<br /><br />【開雲寺】<br />日光道中略記に「慶安年中(1648~1652)日光御参詣のとき、境内新に御殿後造立ありて御旅籠となし玉ひ、寛文年中(1665)再び御修営ありて御休所となし玉ひしが、…其後とりはらひになりそのときの御門は時の住僧に下し玉ふ。当寺の表門、是なりとて、左右の塀に矢狭間などあり」そして、将軍家治がほめたという大椿は「近き頃枯たりと云」徳川将軍の日光社参のとき、休息所となった寺。3代将軍家光の社参の際に境内に御殿所が立てられ、後に下賜された。そのため寺門に葵を用い、土塀が城郭様式で御殿塀には矢狭間や鉄砲狭間がある。寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建である。

    石橋駅の先に建つ【開雲寺の表門】 下野市石橋
    徳川将軍の日光社参の時、休息所になった寺。新義真言宗石橋山開雲寺
    慶長9年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、葵紋の使用が許され、土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)があります。
    仁王門前には明治天皇御駐輦之處碑があります。

    【開雲寺】
    日光道中略記に「慶安年中(1648~1652)日光御参詣のとき、境内新に御殿後造立ありて御旅籠となし玉ひ、寛文年中(1665)再び御修営ありて御休所となし玉ひしが、…其後とりはらひになりそのときの御門は時の住僧に下し玉ふ。当寺の表門、是なりとて、左右の塀に矢狭間などあり」そして、将軍家治がほめたという大椿は「近き頃枯たりと云」徳川将軍の日光社参のとき、休息所となった寺。3代将軍家光の社参の際に境内に御殿所が立てられ、後に下賜された。そのため寺門に葵を用い、土塀が城郭様式で御殿塀には矢狭間や鉄砲狭間がある。寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建である。

  • 【開雲寺境内の七福人の像】<br />旧街道右側にある開雲寺<br />天応1年(781年)東光寺として開山、文亀2年(1502年)にこの地に移り、江戸時代の慶長9年(1604年)には幕府より寺領7石を賜っている<br />境内に御殿所が造られ将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となっていた<br />山門の横や、寺を囲む土塀には丸や四角の銃眼や矢狭間が設けられている<br />なお、此処の寺紋は徳川家と同じく葵となっている<br />

    【開雲寺境内の七福人の像】
    旧街道右側にある開雲寺
    天応1年(781年)東光寺として開山、文亀2年(1502年)にこの地に移り、江戸時代の慶長9年(1604年)には幕府より寺領7石を賜っている
    境内に御殿所が造られ将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となっていた
    山門の横や、寺を囲む土塀には丸や四角の銃眼や矢狭間が設けられている
    なお、此処の寺紋は徳川家と同じく葵となっている

  • 【開雲寺本堂】<br />葵の御紋のお出迎え<br />開雲寺は、781年下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師が開山。江戸時代の1604年には徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、日光廟造営後、徳川将軍家の日光社参の休泊所となる。<br /><br /> 1649年、宇都宮城主奥平忠昌が将軍の休泊所として御殿所を構築。<br /> 1850年と1854年に殿堂を焼失して以来、仮の建物だったが、1971年に本堂が落慶。<br /> 1876年、明治天皇の奥羽御巡幸に際して休憩所として使われた。

    【開雲寺本堂】
    葵の御紋のお出迎え
    開雲寺は、781年下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師が開山。江戸時代の1604年には徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、日光廟造営後、徳川将軍家の日光社参の休泊所となる。

     1649年、宇都宮城主奥平忠昌が将軍の休泊所として御殿所を構築。
     1850年と1854年に殿堂を焼失して以来、仮の建物だったが、1971年に本堂が落慶。
     1876年、明治天皇の奥羽御巡幸に際して休憩所として使われた。

  • 境内から見た【開雲寺表門】<br />門の両側には、矢狭間や鉄砲狭間がある。四角穴は矢、●穴は鉄砲用。

    境内から見た【開雲寺表門】
    門の両側には、矢狭間や鉄砲狭間がある。四角穴は矢、●穴は鉄砲用。

  • 栃木県上三川町の【鞘堂地蔵 さやどう】<br />上三川町には入ると、右手に地名となっている鞘(さや)堂がある<br /><br />鞘堂新田 日光道中略記に「元和年中(1615~1624)此地日光街道となりし頃、多巧村の民往還の左右に移り住て、おのづから一村となり、鞘堂地蔵あるをもて鞘堂新田と唱へ来たれり。又下古山村の枝郷なりともいふ」<br /><br />南北朝時代(1380年)、南朝方となった小山義政が宇都宮基綱を破った時<br />戦死者の鞘を集めて此処に埋め、お堂を建てたという<br />この時は、基綱の一族三百騎余が全員討ち死にという壮絶な戦いであったようだ<br />なお、上三川町は明治26年より町制を敷いた古い町である建長1年(1249年)、宇都宮氏が築いた上三川城のあったところだ<br />(栃木県上三川町鞘堂)<br /><br />【鞘堂地蔵】<br />「是は小山・宇都宮合戦の刻、戦死のものゝ鞘を埋みて上に堂を立、地蔵を安置せし故、鞘堂地蔵と云。安産の願をかくれば霊験ありと云」(日光駅程見聞雑記)<br />鞘堂の名は、天授6年(1380)に小山義政が、宇都宮氏との領地争いが発端で、宇都宮基綱を殺害したことにより、鎌倉公方の足利氏満が義政追討例を出した。この「小山義政の乱」と呼ばれる戦いは3度におよび、結局、小山義政は追討され小山<br />市嫡流は滅亡する。「小山義政の乱小山・宇都宮合戦」の際、戦死した兵の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建て地蔵を安置した。この地蔵の名前がそのまま地名になった。<br /><br />【鞘堂地蔵尊の由来】 (句読点等原文通り記す)<br />  寛政六年(1794)に書かれた天保十四年(184)に発行された紀行文によれば室町時代には足利義満が将軍の時代には将軍と将軍が争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地となったところです<br />茂原合戦ともいわれています<br />  この地内には地蔵院とゆうお寺がありました戦争で焼かれた多くの人々が亡くなりました村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め小さなお堂を造りその中に石仏の地蔵様を安置しました<br /> それが鞘堂とゆう地名になったそうです<br /> 明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手づくりの舞台で演劇や踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました地蔵尊の中には地蔵様の頭五~六寸大と、日本画で全身像が額縁で安置されています<br /><br /> 鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と、細い紐を作り安産のあとに二本かいすことになっています<br />  このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているようです。<br /><br />  お祭り(縁日)旧三月二十四日<br />      壱万灯  六月二十四日<br />                         鞘堂自治会<br />	 <br /> 

    栃木県上三川町の【鞘堂地蔵 さやどう】
    上三川町には入ると、右手に地名となっている鞘(さや)堂がある

    鞘堂新田 日光道中略記に「元和年中(1615~1624)此地日光街道となりし頃、多巧村の民往還の左右に移り住て、おのづから一村となり、鞘堂地蔵あるをもて鞘堂新田と唱へ来たれり。又下古山村の枝郷なりともいふ」

    南北朝時代(1380年)、南朝方となった小山義政が宇都宮基綱を破った時
    戦死者の鞘を集めて此処に埋め、お堂を建てたという
    この時は、基綱の一族三百騎余が全員討ち死にという壮絶な戦いであったようだ
    なお、上三川町は明治26年より町制を敷いた古い町である建長1年(1249年)、宇都宮氏が築いた上三川城のあったところだ
    (栃木県上三川町鞘堂)

    【鞘堂地蔵】
    「是は小山・宇都宮合戦の刻、戦死のものゝ鞘を埋みて上に堂を立、地蔵を安置せし故、鞘堂地蔵と云。安産の願をかくれば霊験ありと云」(日光駅程見聞雑記)
    鞘堂の名は、天授6年(1380)に小山義政が、宇都宮氏との領地争いが発端で、宇都宮基綱を殺害したことにより、鎌倉公方の足利氏満が義政追討例を出した。この「小山義政の乱」と呼ばれる戦いは3度におよび、結局、小山義政は追討され小山
    市嫡流は滅亡する。「小山義政の乱小山・宇都宮合戦」の際、戦死した兵の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建て地蔵を安置した。この地蔵の名前がそのまま地名になった。

    【鞘堂地蔵尊の由来】 (句読点等原文通り記す)
      寛政六年(1794)に書かれた天保十四年(184)に発行された紀行文によれば室町時代には足利義満が将軍の時代には将軍と将軍が争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地となったところです
    茂原合戦ともいわれています
      この地内には地蔵院とゆうお寺がありました戦争で焼かれた多くの人々が亡くなりました村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め小さなお堂を造りその中に石仏の地蔵様を安置しました
     それが鞘堂とゆう地名になったそうです
     明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手づくりの舞台で演劇や踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました地蔵尊の中には地蔵様の頭五~六寸大と、日本画で全身像が額縁で安置されています

     鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と、細い紐を作り安産のあとに二本かいすことになっています
      このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているようです。

      お祭り(縁日)旧三月二十四日
          壱万灯  六月二十四日
                            鞘堂自治会
     
     

  • 【星宮神社】栃木県上三川町<br />星宮神社、人々の背負う星々(一生)を守護しています、境内には多数の石祠があります、鞘堂新田村の鎮守です、鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村。<br /><br />日光道中略記に「鞘堂新田の鎮守なり」とある。創建年代は定かではありませが、鞘堂新田の鎮守として、古くから信仰を集めていた神社です。石の祠が本殿の裏に点在し、参道右手にも並んでいます。<br />

    【星宮神社】栃木県上三川町
    星宮神社、人々の背負う星々(一生)を守護しています、境内には多数の石祠があります、鞘堂新田村の鎮守です、鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村。

    日光道中略記に「鞘堂新田の鎮守なり」とある。創建年代は定かではありませが、鞘堂新田の鎮守として、古くから信仰を集めていた神社です。石の祠が本殿の裏に点在し、参道右手にも並んでいます。

  • 【雀宮宿本陣跡の石碑】<br />酒やまやの敷地隅に雀宮本陣跡碑があり、御本陣小倉半右衛門跡です、碑の裏面には「江戸時代(1809年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成10年8月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦」と刻まれています。<br /><br />小倉半右衛門が本陣を勤め名主、年寄を兼ね、敷地は間口15間、奥行き15間で建坪は115坪でした、小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領したが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。<br /><br />雀宮駅前交差点の手前の右手が雀宮宿脇本陣跡です、門構えや式台等を残しています、芦谷家が勤め名主、問屋を兼ね、建坪は94坪余でした。

    【雀宮宿本陣跡の石碑】
    酒やまやの敷地隅に雀宮本陣跡碑があり、御本陣小倉半右衛門跡です、碑の裏面には「江戸時代(1809年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成10年8月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦」と刻まれています。

    小倉半右衛門が本陣を勤め名主、年寄を兼ね、敷地は間口15間、奥行き15間で建坪は115坪でした、小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領したが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。

    雀宮駅前交差点の手前の右手が雀宮宿脇本陣跡です、門構えや式台等を残しています、芦谷家が勤め名主、問屋を兼ね、建坪は94坪余でした。

  • 【雀の宮本陣跡の本陣門】<br />日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅となりました。<br />天保14年(1843年)の頃、雀宮宿の宿内家数は72軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠38軒で、宿内人口は268人と小宿でした。<br /><br />宿長は5町20間(580m)で、日光方面から上町、中町、下町で構成され、短冊形の地割りを今に残しています。<br /><br />雀宮宿は、江戸から16番目の宿場で、街道の東西に江戸時代の短冊形の地割りがほぼ当時のまま残っています。<br /><br />「雀宮駅に入れば、芝居興行ありとて所々に番附け張出せし故、立止りて見れ<br />ば、名の知らざる俳優なり。安泊りの二階に役者7,8人居ると見るに、奥山に出<br />たる豆蔵(まめぞう 滑稽な身振りや物まねをして門付して歩いた大道芸人のこ<br />と)の類(たぐい)なり」(上野下野道の記)円朝が旅した明治中期は、芝居小<br />屋などがあって、賑やかな街だった。<br />

    【雀の宮本陣跡の本陣門】
    日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅となりました。
    天保14年(1843年)の頃、雀宮宿の宿内家数は72軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠38軒で、宿内人口は268人と小宿でした。

    宿長は5町20間(580m)で、日光方面から上町、中町、下町で構成され、短冊形の地割りを今に残しています。

    雀宮宿は、江戸から16番目の宿場で、街道の東西に江戸時代の短冊形の地割りがほぼ当時のまま残っています。

    「雀宮駅に入れば、芝居興行ありとて所々に番附け張出せし故、立止りて見れ
    ば、名の知らざる俳優なり。安泊りの二階に役者7,8人居ると見るに、奥山に出
    たる豆蔵(まめぞう 滑稽な身振りや物まねをして門付して歩いた大道芸人のこ
    と)の類(たぐい)なり」(上野下野道の記)円朝が旅した明治中期は、芝居小
    屋などがあって、賑やかな街だった。

  • 【雀の宮神社】<br />雀宮神社、長徳3年(997年)八幡太朗義家によって創建され、雀宮村の鎮守、正徳3年(1713年)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が下賜され、この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。<br />百人一首の歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死した、夫も任地で死亡、夫の霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えたといいます、里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称した、これが地名の雀宮の由来。

    【雀の宮神社】
    雀宮神社、長徳3年(997年)八幡太朗義家によって創建され、雀宮村の鎮守、正徳3年(1713年)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が下賜され、この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。
    百人一首の歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死した、夫も任地で死亡、夫の霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えたといいます、里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称した、これが地名の雀宮の由来。

  • 【神社の説明】<br />雀宮神社だ。雀宮地区の産土神である<br />長徳3年(997年)、八幡太郎義家の創建、正徳3年(1713年)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅許額が下賜された今でも社殿に保管されている由<br />この地区の「鎮めの宮」が転訛したというところであろうか(栃木県宇都宮市雀の宮)

    【神社の説明】
    雀宮神社だ。雀宮地区の産土神である
    長徳3年(997年)、八幡太郎義家の創建、正徳3年(1713年)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅許額が下賜された今でも社殿に保管されている由
    この地区の「鎮めの宮」が転訛したというところであろうか(栃木県宇都宮市雀の宮)

  • 本堂の彫刻

    本堂の彫刻

  • 東京から100Kmポスト

    東京から100Kmポスト

  • 【菅原神社】<br />菅原神社、学問の神菅原道真を祭る天神社で、この辺りは台新田村立場跡で高札場がありました、領内の名主や町年寄は当社にて宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられた。<br />

    【菅原神社】
    菅原神社、学問の神菅原道真を祭る天神社で、この辺りは台新田村立場跡で高札場がありました、領内の名主や町年寄は当社にて宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられた。

  • 大谷石で出来た蔵

    大谷石で出来た蔵

  • 本日のゴール。食事処”北海道”です。

    本日のゴール。食事処”北海道”です。

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