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嵐で吹浦に宿を強いられた芭蕉達は、翌朝早く奥の細道の旅の最北端象潟に向けて出発する。<br /><br />その為には”馬足不通(かよわず)”と云われた難所旧三崎街道を越えなければならない。<br /><br />それを承知の上で芭蕉を象潟に向かわせたのは、象潟が芭蕉憧れの能因法師と西行の所縁の草枕の地として知られていたからに他ならない。<br /><br />我々は吹浦から直接象潟の宿舎に向かい、翌日象潟観光終了後、酒田に戻る途上旧三崎街道を散策したが、象潟への強い思いを抱きながら旧三崎街道に挑んだ芭蕉の気持を少しでも理解出来ればと、敢えて我々の実行程とは逆に、芭蕉の旅程に添って辿ってみることにした。<br /><br />時間のずれ等多少生ずる矛盾はご容赦下さい。<br /><br />芭蕉達は吹浦を発って、現吹浦小学校の東を通り、唐船場のあった断崖を越えての滝の浦・女鹿の海岸線に下る。<br /><br />女鹿から旧三崎街道に入り口までは、海岸線に沿った現浜州街道の東側に旧道三崎峠が有るのだが、ここは地震によるがけ崩れが有ったらしく通行が禁止されていた。<br /><br />ここではその旧道の北端から旧三崎街道に入る。<br /><br />この辺りは岩山という所だが、名の通り海に鳥海山噴火の溶岩で出来た岩山がせり出し、荒海に晒され奇岩となっており、その間を遊歩道が造られ、景勝地三崎公園となっていた。<br /><br />いよいよ旧三崎街道に足を踏み入れる。<br /><br />タブノ木の原生林が繁り、落ち葉で敷き詰められた坂の小道を昇る。<br /><br />急坂の石段を登りそろそろ息が上がって来た所に慈覚大師が開いたと云う太子堂の祠が現れる。<br /><br />道は一段と狭まり草薮をかき分けて進むと視野が開け、今登って来た道の向こうに三崎公園、更にその先に日本海が望める場所に出る。<br /><br />そこの道筋に建つ朽ちかけた道標を良く見ると、<象潟町 I 遊佐町> となっており、真ん中の縦棒が山形県と新潟県の県境を示す。<br /><br />そこからの道は次第に枯れ葉に覆われた石の塊が一段と多くなり、雨上がりで滑りやすい。<br /><br />芭蕉達もやはり雨上がりの三崎街道に難儀したことであろう。<br /><br />やや広がりに出た地点に一里塚が有った。<br />江戸時代に徳川幕府が設置したものだと云う。<br /><br />道は益々石の塊が多くなり、昔は馬にさえ草鞋を履かせて通った程の難所だったらしい。<br /><br />芭蕉達は難所旧三崎街道をなんとか越えた後も雨に祟られ、関の手前の船小屋に暫しの雨宿りを余儀なくされるが、それでも昼ごろには象潟に到着する。<br /><br />象潟は当時塩越と呼ばれ、本庄藩2万石の城下町であった。<br /><br />象潟に着いた芭蕉達は最初に旅籠能登屋(佐々木孫左衛門宅)を訪れ、雨に濡れた衣服を干し、その間うどんの食事を所望する。<br /><br />しかし当日は近所の熊野神社の祭りで、能登屋は女客で一杯でになったため、紹介されて向屋(佐々木左右衛門次郎宅)に宿を移転する。<br /><br />向屋に移った芭蕉は早速象潟橋(欄干橋)に出向き、待望の九十九島の夕暮れを楽しんだ。<br />

奥の細道を訪ねて第12回⑧芭蕉が歩いた難所旧三崎街道

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2011/10/14 - 2011/10/14

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WT信

WT信さん

嵐で吹浦に宿を強いられた芭蕉達は、翌朝早く奥の細道の旅の最北端象潟に向けて出発する。

その為には”馬足不通(かよわず)”と云われた難所旧三崎街道を越えなければならない。

それを承知の上で芭蕉を象潟に向かわせたのは、象潟が芭蕉憧れの能因法師と西行の所縁の草枕の地として知られていたからに他ならない。

我々は吹浦から直接象潟の宿舎に向かい、翌日象潟観光終了後、酒田に戻る途上旧三崎街道を散策したが、象潟への強い思いを抱きながら旧三崎街道に挑んだ芭蕉の気持を少しでも理解出来ればと、敢えて我々の実行程とは逆に、芭蕉の旅程に添って辿ってみることにした。

時間のずれ等多少生ずる矛盾はご容赦下さい。

芭蕉達は吹浦を発って、現吹浦小学校の東を通り、唐船場のあった断崖を越えての滝の浦・女鹿の海岸線に下る。

女鹿から旧三崎街道に入り口までは、海岸線に沿った現浜州街道の東側に旧道三崎峠が有るのだが、ここは地震によるがけ崩れが有ったらしく通行が禁止されていた。

ここではその旧道の北端から旧三崎街道に入る。

この辺りは岩山という所だが、名の通り海に鳥海山噴火の溶岩で出来た岩山がせり出し、荒海に晒され奇岩となっており、その間を遊歩道が造られ、景勝地三崎公園となっていた。

いよいよ旧三崎街道に足を踏み入れる。

タブノ木の原生林が繁り、落ち葉で敷き詰められた坂の小道を昇る。

急坂の石段を登りそろそろ息が上がって来た所に慈覚大師が開いたと云う太子堂の祠が現れる。

道は一段と狭まり草薮をかき分けて進むと視野が開け、今登って来た道の向こうに三崎公園、更にその先に日本海が望める場所に出る。

そこの道筋に建つ朽ちかけた道標を良く見ると、<象潟町 I 遊佐町> となっており、真ん中の縦棒が山形県と新潟県の県境を示す。

そこからの道は次第に枯れ葉に覆われた石の塊が一段と多くなり、雨上がりで滑りやすい。

芭蕉達もやはり雨上がりの三崎街道に難儀したことであろう。

やや広がりに出た地点に一里塚が有った。
江戸時代に徳川幕府が設置したものだと云う。

道は益々石の塊が多くなり、昔は馬にさえ草鞋を履かせて通った程の難所だったらしい。

芭蕉達は難所旧三崎街道をなんとか越えた後も雨に祟られ、関の手前の船小屋に暫しの雨宿りを余儀なくされるが、それでも昼ごろには象潟に到着する。

象潟は当時塩越と呼ばれ、本庄藩2万石の城下町であった。

象潟に着いた芭蕉達は最初に旅籠能登屋(佐々木孫左衛門宅)を訪れ、雨に濡れた衣服を干し、その間うどんの食事を所望する。

しかし当日は近所の熊野神社の祭りで、能登屋は女客で一杯でになったため、紹介されて向屋(佐々木左右衛門次郎宅)に宿を移転する。

向屋に移った芭蕉は早速象潟橋(欄干橋)に出向き、待望の九十九島の夕暮れを楽しんだ。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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