2011/12/23 - 2011/12/23
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忍城の築城
戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城しました。城下町行田。「忍城(おしじょう)」は古く文明年間(1469〜1486)に、山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされ、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられました。文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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JR高崎線 「行田」駅下車→市内循環バス利用
「吹上」駅下車→朝日バス利用で約15分 「熊谷」駅下車→秩父鉄道乗りかえ「行田市」駅下車 -
博物館と忍城は繋がっています。
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関が原東西武将隊の武将がお出迎えです。
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「忍城址」は、写真をたくさん掲載した別ページを用意しました。そちらをご覧いただくと判りやすいかも知れません。「忍城址」行田市郷土博物館では行田の歴史を垣間見ることができます。
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博物館と忍城は繋がっています。
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周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼び親しまれる人物であった。天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を落城させんとしていた。豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東
各地の支城の城主に篭城に参加するよう通達。支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、裏で豊臣側への降伏を内通し、篭城作戦に参加していた。 -
入場料が高校生以上200円、小・中学生が50円。9:00〜16:30(16:00以降は入館不可)が開館時間。年末年始のほか、月曜日、祝日の翌日、毎月第四金曜日が休館だそうです。駐車場もありますが、ちょっとわかりにくいかな。国道125号沿いです。
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現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。
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内側から見た大手門。
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江戸時代の忍城
天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(まつだいらただたか・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれましたが、明治6年に、なんと競売されて解体されてしまったそうです。今から考えれば信じられないことですが、当時はそんな時代でしたよね。 -
1978年(昭和63年)、忍城の本丸跡に再建され、行田市郷土博物館と合わせて広さ2.5haの区画が整備されました。再建された天守(実際は天守ではあませんが、便宜的に)は代用である御三階櫓(ごさんかいやぐら)で、現在は資料館になっています。関宿城みたいですね。行田市郷土博物館から入り、階段で4階まで上がることができます。
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今日は関が原東西武将隊がやってきます。武将隊のパホーマンスを見る為に大勢の人が並んでいます。
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司会は成田長親、掃除でも何でもやらなければ成らない。
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関が原東西武将隊の六人が揃いました。
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大谷吉継が名乗りをあげます。
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続いて井伊直政が名乗りを上げます
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続いて本多忠勝が名乗りを上げます。
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徳川家康です。
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関が原東西武将隊の六人が揃いました。一人はなれていた為五人しか映りませんでした。
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関が原の戦いのパフォーマンスです。
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関が原の戦いのパフォーマンスです。 -
関が原の戦いのパフォーマンスです。
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関が原の戦いのパフォーマンスです。
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関が原の戦いのパフォーマンスです。 -
関が原の戦いのパフォーマンスです。やっと六人が映りました。
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忍城(現在の埼玉県行田市)城主・成田氏長と、最初の正妻で上野国金山城城主・由良成繁の娘との間にできた長女。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、天正12年(1584年)金山城が北条氏に襲来された際、71歳で篭城戦を指揮した女傑とされる。
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三成はその後も幾度となく忍城に攻撃を仕掛けたがことごとく撃退され、城内に入ることすら出来なかった。だが、7月5日(8月4日)、本城・小田原城が秀吉軍に降伏し、開城する。本城開城を知らない忍城はその後も籠城し続けていたが、7月15日(8月14日)頃に父・氏長から小田原開城の報と忍城開城の指示を受けたため、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出たと伝えられている。この際、往時には珍しく籠城兵たちの罪は問われず、財産も保証されたとされる。
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「謀反者討伐」とその後 [編集]その後、甲斐姫は氏長と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に移る。ところが、氏長の留守中に家臣の浜田将監と弟・十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠、義母も殺される。秀吉は、姫を大変気に入り側室にした。氏長は姫の口添えもあって天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の大名になれたとされる(後の烏山藩)。
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関が原東西武将隊と忍城隊との尻尾取りゲームを展開。
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大将戦になり歴史通り関が原東西武将隊が勝ちました。
イベント終了後撮影会があるそうです。 -
裏門。
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今月7日、新たな武将隊が登場しました。その名も「関ヶ原東西武将隊」です。お披露目されたのは、笹尾山特設ステージ(※笹尾山は関ヶ原の戦いの際、石田三成が本陣を敷いた場所)活動拠点もこの笹尾山を中心とした関ヶ原古戦場(岐阜県)になるようです。メンバーは、以下東軍西軍3人ずつの、合計6名となっています。
■西軍 石田三成 島左近 大谷吉継
■東軍 徳川家康 本多忠勝 井伊直政 -
具体的な活動内容としては、
①毎週日曜日、笹尾山特設ステージでパフォーマンス。
②東西軍にわかれ、関ヶ原古戦場の各所で、来場客をおもてなし。
ということですが、特にお客さんと共にイベントをすることを目指しており、毎週日曜日のパフォーマンスの際に、お客さんと一緒に芝居やクイズなどをやって行きたいとのこと。クイズはなんとなくわかりますが、お芝居などはどうするのか、興味深いところですね。 今後の活躍に期待です。 -
入場料が高校生以上200円、小・中学生が50円。9:00〜16:30(16:00以降は入館不可)が開館時間。年末年始のほか、月曜日、祝日の翌日、毎月第四金曜日が休館だそうです。駐車場もありますが、ちょっとわかりにくいかな。国道125号沿いです。
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周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。忍城の外堀の沼を利用して整備された公園です。
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浮き釣り専用の釣り場として開放されているしのぶ池や、薄紫色の絨毯を敷きつめたかのようなホテイアオイが美しいあおいの池などがあり、心がなごむ癒しの場となっています。
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永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。
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忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
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6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
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しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。
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現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
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その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
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三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています。
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行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて残存している。現在は埼玉県指定史跡となっている。旧吹上町(現鴻巣市)が町内に残る一部を保存して石田堤史跡公園として整備している。最寄り駅は吹上駅だが、直線距離でも2kmほどある。また、丸墓山古墳から南に延びる歩道も石田堤の名残である。
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当初は2011年9月17日公開の予定だったが、「水攻め」のシーンがあることから、東日本大震災による被害に配慮し、2012年秋に公開を延期することが2011年4月22日に発表された(映画「のぼうの城」オフィシャルサイト)。震災の影響で公開が延期された映画の多くが比較的早期に公開決定したのに対し、本作は最も遅めの時期に延期される事となった。
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「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、石田三成は成田氏が降伏しているとは露知らず、戦を仕掛けんとする。城はすぐに落ちるはずだった。だが軍使長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将・長親は「戦」を選択。当主氏長より降伏を知らされていた重臣たちは初め混乱するが覚悟を決め、かくて忍城戦は幕を開けた。
三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても二千強の成田勢。総大将たる長親は、将に求められる智も仁も勇も持たない、その名の通りでくのぼうのような男。だがこの男にはただ一つの才能、異常なほどの民からの「人気」があった…。
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