2011/10/28 - 2011/10/28
2633位(同エリア7344件中)
滝山氏照さん
江ノ島電鉄「和田塚」駅下車、鎌倉幕府有力御家人和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)ら一族が北条氏との合戦で討ち取られた和田塚を訪問しました。
坂東八平氏の一つで三浦氏の庶流である和田義盛は源頼朝挙兵当時から彼を支え、幕府成立時には侍所別当(御家人の進退・賞罰全体を司る責任者)という幕府中枢機関を担当し絶大なる影響力を発揮します。
然しながら余りにも個性の強い性格が故にその他有力御家人からは冷ややかな眼を向けられ次第に指導力を失っていきます。
その中で3代目将軍実朝(さねとも)の時代、2代目将軍頼家(よりいえ)遺児を担ぎ出して謀反を起こそうとする事件が起こり、この事件に義盛の息子義直・義重と甥の胤長(たねなが)が関係している事が発覚し身柄を拘束され彼らを含め多数の逮捕状が出される事態に陥ります。
これを知った義盛は実朝に会見し息子達の赦免を乞い、実朝は義盛の率直な態度に感銘を受け不問に付すとしこれを許すも甥については張本人と断定、奥州に配流に至り義盛の面目丸つぶれとなります。
その後配流となった甥の所領地の処分を廻り幕府と義盛との間でごたごたが起きますが幕府窓口はかの北条義時であります。
激情家の義盛は「義時が意図的に俺の面目をつぶす」としか見ず、ついに意を決して北条氏打倒を画策します。
しかも日頃から北条氏の台頭を快く思っていない反北条御家人達をも巻き込むことになり、単なる義盛と北条氏との対立ではなく幕府の根底を揺さぶる程の戦いに発展します。
義盛はさすがに侍所別当職を背景に兵動員力は抜群で予想としては義盛の圧倒的な勝利と思われましたが、開戦直前に立場を変えて北条氏支持に回った同族の三浦義村が投入した兵力により義時勢を優勢に導き、結果義盛勢は敗色濃くして義直が討取られるに及んで義盛は死を決し自ら敵陣に突入して壮烈な最期を遂げます。
往時の相模武士の「面目」に対する受止め方があまりにも狂信的で、すざまじい権力闘争に発展するその心理がよく判りませんが自分としては「一所懸命」に通じる武士の生き様の一端を垣間見たような気がします。
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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鎌倉駅前広場
JR八王子駅から横浜線にて横浜駅で横須賀線に乗換え、約90分で鎌倉駅到着江ノ電に乗り換えます。 -
鎌倉周辺観光地図
一方は相模湾に面し三方は山に囲まれた鎌倉には神社仏閣その他様々な訪問地があります。 -
和田塚駅
江ノ電にて「鎌倉駅」の次の駅「和田塚」下車。 -
和田塚交差点
通りを南へ歩きますと和田塚の交差点に着きます。 -
和田塚案内板
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和田塚全景
先生に引率されて小学校生徒10数人が見学に来ていました。 -
和田一族戦没地石碑
和田一族に同調したのは妻の縁に連なる横山党(東京都八王子周辺所領)の他大庭氏・土屋氏・土肥氏・岡崎氏・梶原氏などであります。 -
イチオシ
和田義盛一族石碑
義盛は三浦氏の領袖三浦義明の長男、義宗の長男で系図的に見れば三浦一族の嫡孫ですが父義宗が若くして世を去り嫡流は叔父義澄に譲った形になります。
義盛は父譲りのバイタリティに溢れた開拓者として現在の三浦市和田周辺を本拠として嫡流のあり方とは別の三浦半島の西部、相模湾沿いに開拓を進めていたようです。 -
和田一族石碑
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御成小学校正門
さすが古都鎌倉の雰囲気が醸し出されています。思わずシャッターを押してしまいました。武家屋敷の風情があります。 -
御成小学校舎
独特な味わいのある校舎ですね。愛着を感じます。ここは皇室の鎌倉御用邸跡に建てられた御成小学校に併設された講堂です。鎌倉時代の遺跡が発見され取壊しを免れて保存されています。屋根に取り付けられた望楼がとても印象的です。 -
問注所旧蹟を示す石碑
鎌倉幕府の裁判機関で1184年(元暦元年)頼朝邸内の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所と称します。問注所では言争いや喧嘩が絶えなかった事から2代目将軍頼家はこれを嫌い1199年に建物は屋敷の外に移転されこの場所がその跡地となります。尚問注所の執事(責任者)は三善康信が就任、以降三善氏が執事を世襲する事になります。
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