2011/11/04 - 2011/11/04
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上野にある寛永寺は天台宗のお寺で、東叡山寛永寺円頓院という。元和8年(1622年)、天海大僧正と2代将軍秀忠公と相談して徳川家の祈願寺として創建が決められ、寛永2年(1625年)に発足した。山号の東叡山とは東の比叡山の意味で、寺号の寛永寺は勅許を得て年号を用いたものである。寺号に年号を用いている寺は延暦寺(延暦7年(788年)創建)、弘仁寺(弘仁5年(814年)創建)、仁和寺(仁和4年(888年)創建)、長保寺(長保2年(1000年)創建)、建仁寺(建仁2年(1202年)創建)、建長寺、(建長5年(1253年)創建)弘安寺(弘安2年(1279年)創建)、長禄寺(長禄元年(1457年)創建)があるが、寛永寺が一番新しい。第2世以降は輪王寺宮が貫主となる門跡寺院である。
徳川家の祈願寺から菩提寺に変わり、藤堂高虎が寛永4年(1627年)に造営した東照宮は、慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをし、現存する社殿となっている。また、慶安8年(1655年)開基である家光公が死去すると寛永寺で葬儀が執り行われ、大猷院御霊屋が造営された。その後、4代家綱公の厳有院御霊屋、5代綱吉公の常憲院御霊屋が続けて造営された。宝樹院(3代家光公の側室、4代家綱公の生母)、高巌院(4代家綱公の御台所)、浄光院(5代綱吉公の御台所)、寿光院(5代綱吉公の側室)の霊廟も谷中の一角に造営された。浄土宗増上寺との2つの菩提寺が存在する関係で、御霊屋、霊牌所が割り振られたようで、3代家光公の側室(5代綱吉公の生母)であった桂昌院霊牌所は増上寺に設けられている。
かつては広大な境内を誇った寛永寺も明治維新後は中央部分を政府に没収され、上野公園となり、博物館、美術館、動物園などが立つ並び、上野の山の周辺部に僅かに寺域を残すのみである。
(表紙写真は寛永寺根本中堂)
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大猷院殿(3代家光公)石燈籠。
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林光院山門。
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台徳院殿(2代秀忠公)石燈籠。芝増上寺から運んだとは考えられないから上野にも台徳院殿霊廟があったのか?
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葵の紋が入る鬼瓦。
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大猷院殿(3代家光公)石燈籠と「東叡山 林光院」の寺号標石。
このあたり一帯の子院は享保 5年(1720年)に焼失した大猷院殿(3代家光公)跡の一部にあたる。では、大猷院殿に台徳院殿(2代秀忠公)霊廟が並んでいたのか? -
寒松院門柱。
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「旧津藩主藤堂高虎公開創之寺」石碑。藤堂高虎公は上野に最初の東照宮を造営した。秀吉の死去直前から徳川家康に急接近し、才と忠義を高く評価され、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用された。
また、京都・南禅寺三門楼上(2F)には徳川家康公の位牌と藤堂高虎公の位牌を始めとする藤堂家の位牌が祀られているとされる。
寒松院旧地(上野動物園内)に藤堂家の墓所がある。この墓所は大名墓所では最も状態が良いとされ、今でも寒松院が管理している。寒松院は高虎公の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」による。 -
寒松院本堂屋根の鬼瓦。
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寒松院のお堂。
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東京国立博物館庭園の大木。
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寛永寺境内に残る切り込みハギの石垣。
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切り込みハギの石垣。この向こうに将軍の宝塔が並んでいるようだ。
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寛永寺境内の墓地入口にある大木下のお地蔵さま。
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常憲院殿霊廟勅額門裏手に見える建物。
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寛永寺のお堂。
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寛永寺。
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寛永寺。
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寛永寺。
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寛永寺。
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永代供養墓光明閣。
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寛永寺寺務所。
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寛永寺玄関。
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寛永寺玄関。
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大猷院殿(3代家光公)石燈籠とお地蔵さま。
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寛永寺根本中堂裏手の亀の飾り瓦。
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寛永寺根本中堂裏手の亀の飾り瓦。
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寛永寺根本中堂の廊下。道路を跨いでいる。
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寛永寺根本中堂。寛永15年(1638年)築の川越・喜多院の本地堂を明治12年(1879年)に移築したもの。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂に架かる鰐口。
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寛永寺根本中堂に掛かる勅額「瑠璃殿」(東山天皇御宸筆)。
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寛永寺根本中堂屋根の唐獅子の飾り瓦。
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寛永寺根本中堂屋根の唐獅子の飾り瓦。
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銅燈籠。
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銅燈籠。
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「上野戦争碑記」。
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寛永寺鐘楼。
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寛永寺鐘楼の梵鐘。厳有院(4代家綱公)霊廟の梵鐘だった。
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寛永寺鐘楼屋根の上がる宝珠の飾り瓦。
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寛永寺鐘楼屋根の上がる宝珠の飾り瓦。
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寛永寺鐘楼屋根の上がる宝珠の飾り瓦。
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「銅鐘(台東区有形文化財)」。
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寛永寺根本中堂境内。
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六地蔵とお地蔵さま。
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六地蔵。
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お地蔵さま。
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碑(文政(1818年〜1830年)銘)。
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宝篋印塔。
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「慈海僧正墓(都旧跡)
台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺
墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔
執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月一六日寂」と刻む。
慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経
て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職
が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主、輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者で
あり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」
翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著書がある。
寛永元年(1624)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奉請によって大僧正の位が贈
られた。
墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和二十二年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
平成四年十一月
台東区教育委員会」。 -
慈海僧正の墓。慈海僧正は寛永寺中興の学僧。
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延命地蔵。
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お地蔵さま。
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了翁禅師塔碑。
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「都旧跡 了翁禅師塔碑
了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652-55)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、これを錦袋円と名づけて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典七千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任じられた。宝永4年(1707)5月没。ときに78歳。昭和43年10月1日建設
東京都教育委員会」 -
了翁禅師坐像。
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了翁禅師堂。
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寛永寺根本中堂境内。
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寛永寺根本中堂裏手の銀杏の木。
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寛永寺根本中堂。
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寛永寺根本中堂裏手の亀の飾り瓦。
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手水鉢。
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「蟲塚」。
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「蟲塚(都指定旧跡)
虫塚は、伊勢(現・三重県)長島藩主である増山雪斎により、写生にに使った虫類の霊をなぐさめるため、文政四年(1821)に建てられたものである。
増山雪斎は、宝暦四年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石
顛道人・巣丘隠人など多くの別名がある。江戸の文人太田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客
と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋
派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帳」は、その精緻さと本草学
にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政二年、六十六歳で没した。
虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、
現在の場所に移転した。勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺と
して創建された。
碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれ
ており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。
平成八年七月
台東区教育委員会」。 -
手水鉢。
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石碑。
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「東叡山 寛永寺」の寺号標石。
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寛永寺根本中堂の門柱。
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塀の向こうに宝篋印塔が見える。
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上野の五重塔。
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清水観音堂(重要文化財)。寛永8年建立。
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清水観音堂。
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清水観音堂。
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