2011/09/15 - 2011/09/15
254位(同エリア311件中)
WT信さん
境の明神を参拝した芭蕉達は、旗宿の旅籠に1泊し、翌朝旅籠の主人の案内で”白河の関”(古関)を訪ねる。
現在の”白河の関”は芭蕉達がここを訪れた後のおよそ100年後に、当時の白河藩主松平定信が自ら調査し、この地を”白河の関跡”定めた、「古関蹟」の碑が建立されており、”白河神社”への急な石段とは別に、”白河神社”へ辿る緩やかな遊歩道が整備され、誰でも難儀したり、迷ったりすることなく、”白河神社”を参拝する事が出来る。
しかし芭蕉達には当時の鬱蒼とした森が、陸奥の国への旅の第一歩だと云う印象を一層強くしたに違いない。
芭蕉の胸の内にはここで詠んだ古の歌人たちの歌が甦り、「白川の関にかゝりて旅ごころ定まりぬ」とその新たな決意を記す。
我々は急な石段の参道を避けて、予想に反して小振りな「古関蹟」の碑の前を、右に伸びる遊歩道を辿る。
藤原家隆が植えたと伝えられる「従二位の杉」の辺りで遊歩道を左に旋回すると、空堀跡と云われる凹凸の大きい丘が現れ、その中腹に加藤楸邨の筆で書かれた、奥の細道の「白川の関の段」の一節を刻んだ文学碑が建っている。
文中の”三関”とは”白河の関”(福島県)、”勿来の関”(福島県)、”念珠の関”(山形県)を云い、”奥州三古関”と呼ばれ、奥州藤原三代の頃までは重要な役割を果たしたと云う。
”白河の関”で芭蕉自ら詠んだ句は無いが、文中の最後に曾良が”白河の関”で詠んだ
卯の花をかざして関の晴れ着かな
の句を掲げ、”能因法師の名歌”に対する芭蕉の強い敬慕の念を代弁させている。
この辺りは昭和になってからの発掘跡。
その奥に伊達家により改築奉納されたと云う”白河神社”の本殿がひっそり佇んでいた。
正面左の木陰に、芭蕉の心を揺るがしたであろう平兼盛、能因法師、梶原景季が”白河の関”を詠んだ歌碑が建っていた。
その碑の前に相撲の土俵跡とみられる輪型が残っていた。
毎年ここで二所の関部屋の奉納相撲が有るらしい。
再び空堀跡を抜けて、東隣りの白河関の森公園に向かった。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス JRローカル
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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