2011/01/22 - 2011/01/24
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korotamaさん
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4時間あれば見終わるかな、と思った熊本城。
6時間でも足りませんでしたー。
次に訪れるときは、1日で足りるか?
- 交通手段
- ANAグループ 私鉄
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2005年に復元された「飯田丸五階櫓」。
本丸の南西に位置し、南は竹の丸、西は備前掘に面する高い石垣の上にそびえています。
三層五階の隅櫓。
熊本城は築城当時、五階櫓が6棟あったそうです。熊本城 名所・史跡
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二重に折り曲げられた虎口(こぐち)から石段を昇り、飯田丸五階櫓の北側にやって来ました。
北と東に付櫓を備えています。
本来の入り口は東側(写真左側)の付櫓の1階部分ですが、見学用の入り口は北側です。 -
東側の付櫓から入ると、内部はこのようになっています。
石段の上にはスライド式の床が設けてあります。
万が一、敵が侵入してきても、ここで頭をドンと打ちます。 -
明治に入って、不要建物として取り壊されてしまった飯田丸五階櫓は、古写真などを元に復元されました。
この中で暮らしたくなるような風合いです。 -
石落としや狭間が設けられている武者走り。
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確か、見学できるのは3階までだったか。。。
上へと続く階段はかなり急なもの。 -
台風に備えて、屋根瓦を白漆喰で固めています。
熊本城の屋根が全体的に白く見えるのは、このためなのですね。 -
飯田丸五階櫓、北の付櫓(出入口)からの眺めです。
この先に続く「百間櫓」「西櫓御門」もそのうち復元されるのだそうです。
次に来るときは景観が変わっていますね。
楽しみだー(^O^)/ -
本丸の1段下、数奇屋丸に建つ、
「数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)」。
飯田丸五階櫓と同様、明治に入ってから撤去された建物ですが、1989年に復元されました。
茶会、歌会、能などが行われた建物です。 -
1階からの入り口。
飯田丸五階櫓と同じように、ここも床が閉まるのかな。 -
茶会、歌会などが行われた建物ではありますが、南側には狭間や石落としを備えた長い廊下が設けてあります。
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優雅な時が流れた二階御広間。
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数奇屋丸二階御広間長廊下の窓から、飯田丸五階櫓を眺めます。
五階櫓の前に鎮座しているのは、樹齢800年と言われるクスノキ。
何年かのちには、この石垣の上に復元された百間櫓と西櫓御門が続きます。
江戸時代にタイムスリップできるのですねー。
枡形になっている西櫓門の石垣に、扉が見えます。 -
枡形で右往左往する敵を、ここからバッと飛び出して奇襲したのでしょうか。
それとも、密やかなる脱出路? -
西から見た数奇屋丸二階御広間。
往時、この場所にも「数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)」が守りを固めていました。
その櫓も、いずれ復元してくれるのだそうです。 -
数奇屋丸二階御広間の東から、本丸御殿を眺めました。
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そして、本丸御殿へ・・・。
2つの石垣をまたぐように建てられた本丸御殿へ上がるには、まずは「闇り(くらがり)通路」と呼ばれる地下通路を通らなければなりません。
その入り口は、唐破風の屋根をもつ「闇り御門」。 -
「闇り(くらがり)通路」
今は電気による照明ですからそれなりに明るいですけれども、当時は、蝋燭? 油?
本当に暗かったでしょうね。
本丸御殿への玄関もこの闇り通路内にありました。 -
見学の入り口は、本丸東側に設けられています。
御殿の前に、やはり井戸。
約40mの深さの井戸をお嬢さん方が覗きこむ姿がなんとも微笑ましく…。
この井戸の横には、築城を記念して加藤清正がお手植えしたと言われるイチョウの木があります。
熊本城の別名が「銀杏城」と呼ばれる所以でもあります。
清正がなくなるときに、このイチョウの木が天守と同じ高さになったときに異変が起こる、と予言したそうで、ちょうどそれが西南戦争のときだったそうです。
そのとき、このイチョウの木も焼失しましたが、焼け残った根元からわき芽が成長しました。 -
本丸御殿全体像。
復元されたのは、一部分です。
左手前の平らな部分には実際には天守が建っており、御殿とはつながっていました。 -
本丸御殿では、藩主が生活したり、会見を行ったり、政が行われました。
復元された「大御台所(おおおんだいどころ)」の囲炉裏。
隣接して土間、かまどもありますが、板の間に囲炉裏。
掃除も大変だったでしょうねぇ。 -
囲炉裏がありますから、大御台所の小屋裏には煙出しの窓がある吹抜け。
巨大な丸太を使った小屋組みはすごい。 -
「対面所(大広間)」
お抱えカメラマンが建っているこの部屋から順に、
鶴之間、梅之間、櫻之間、桐之間、若松之間と続き、突き当りが藩主が座る若松之間。
この位置からは見えない、若松之間の右隣に、昭君之間があります。 -
対面所の南側は「大広間椽ヶ輪(えんがわ)」。
部屋側から順に広縁、落縁、濡縁、と、3段構えとなっています。 -
縁側に面して、「露地」と呼ばれる中庭。
防火用と推測される水槽もあります。 -
対面所の西の端、「若松之間」と、北奥に「昭君之間(しょうくんのま)」
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「若松之間」
床の間や襖には若松が描かれています。
この絵の前に、藩主が座りました。
じゃぁ、「昭君之間」は? -
「昭君之間」
本丸御殿の中で最も格式高い部屋です。
一般的には藩主の居間かつ対面所となるのですが、一段高い鉤上段(かぎじょうだん)、天井も一段高くした折上格天井という造りから、加藤清正が、まさかのときに豊臣秀頼を迎えるために用意した部屋ではないか、との見方があるそうです。
昭君(しょうくん)=将軍(しょうぐん)、だそうな。 -
昭君之間の床の間や襖には中国の故事「王昭君」の物語が描かれています。
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花木が描かれた折上格天井
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予想以上に見学に時間を要してしまった熊本城。
昼ごはんを食べる時間など当然なく、天守横の売店で見かけた熊本名物?「いきなり団子」を1個だけ買って空腹をごまかしました。
紫芋あん。
甘さ控えめで、これが結構美味しかった(^。^) -
一通り、建物内の見学を終えて、最後は外回りをぐるりと。
東竹の丸の北奥に位置する「不開門(あかずのもん)」。
城の北東に位置しますが、この方角は塞いでも開け放してもいけないとされるため、門は設けるが普段は閉ざしたまま。不浄なものを運ぶときだけ開門する、ということから、「不開門(あかずのもん)」だそうです。
今は、入城口となって、開園中は常時開門、のようです。 -
「不開門」を下ると、料金所。
石垣の上には「平櫓(ひらやぐら)」。
東竹の丸には西南の役の戦禍を免れた櫓群があり、その一つです。
あまり櫓っぽくない、民家のような外観です。 -
東竹の丸から竹の丸へと下る辺りだったか。
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西南の役の戦禍を免れたこれらの櫓たちも、宇土櫓同様、国指定重要文化財に指定されています。
東竹の丸、本丸御殿の南東に位置する場所には、
源乃進櫓(げんのしんやぐら)、
四間櫓(よんけんやぐら)、
十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、
七間櫓(しちけんやぐら)、
田子櫓(たごやぐら)が連なります。 -
高い石垣の上に造られたこれらの櫓には狭間や石落しが設けられ、守りを固めています。
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東竹の丸から本丸御殿を見上げます。
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石垣、石垣、石垣、、、
「二様の石垣」まで戻ってきました。 -
西の「頬当御門(ほほあてごもん)」から帰路につきました。
熊本城には、本丸西側の南北に長い方形状の西出丸の南北に3つも大手門があります。
「南大手門(みなみおおてもん)」は2002年に復元されました。 -
3つの大手門の中では最も格式の高いらしい「西大手門(にしおおてもん)」は2003年に復元されました。
北大手門は現在はありませんが、こちらもいずれは復元されるそうです。 -
大天守、小天守、宇土櫓が並ぶ姿を見たくて、西大手門をくぐり三の丸へ向かいました。
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おぉ!
軒瓦に復元工事をした年が記されている〜〜。 -
西出丸の北西を守る、二重三階の「戌亥櫓(いぬいやぐら)」。
2003年に復元完成。
一層目がどっしりとしていて安定感がありますね。
ちょっと、スカートをはいているようにも見える? -
登城前に渡った坪井川にかかる行幸橋の北に位置する桜の馬場には、2011年3月、『桜の馬場 城彩苑』なる観光施設がオープンするそうで、建物はほとんど出来上がっているようでした。
次に訪れるのは何年後になるかわからないけれど、きっと、今回よりも江戸時代を感じることができることでしょう。
楽しみです。
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