2008/08 - 2010/01
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法華堂跡には白旗神社が建っている。文治5年(1189年)、聖観音を本尊とした源頼朝の持仏堂として建てられ、頼朝の死後、その墓になり法華堂と称されるようになった。
現在、石段を登った山腹に建つ多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が建てたものである。いつも源頼朝会の旗が立っている。一般には、源頼朝の墓と思われているが、実際に頼朝が埋葬されたのは法華堂で、今、白旗神社が建っている山の下の平地である。石段の途中には鳥居が建つが、これは昭和39年(1964年)に建立された新しいものである。明治維新後から関東大震災まで、頼朝墓前に鳥居があったかは不明である。
源頼朝は久安3年(1147年)、源義朝の三男として生まれる。
治承4年(1180年)、富士川の戦い。
文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する。
文治5年(1189年)、奥州合戦、奥州平泉の藤原氏が滅亡する。
建久3年(1192年)、征夷大将軍へと任ぜられ、鎌倉幕府が開かれたとされる。しかし、壇ノ浦の戦いに勝利した平家亡き後は鎌倉時代と見なす考え方が順当であろう。
建久10年(1199年)1月に死去した。享年53(満51歳没)。
(表紙写真は白旗神社)
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白旗神社。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年(1970年)に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。 -
白旗神社に懸かる「白旗明神」の扁額。
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白旗神社由緒記。
「白旗神社 由緒記
祭神
源頼朝公
由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻(もとどり)の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(1199)1月13日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)「相承(そうしょう)院」が奉仕して祭祀を続け 明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。」 -
歌碑「君出でて 民もしずまり 九重の 塵もおさまる 世とはなりにけり」。
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「法華堂跡」石碑(大正13年3月、鎌倉町青年団)。
「法華堂跡
堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル
健保5年5月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
實治元年6月5日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス
大正13年3月建
鎌倉町青年團」 -
「御大礼記念松樹植奉祀」石碑。法華堂手前の公園の片隅にある。
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「源頼朝公顕彰碑」石碑(平成12年(2000年)7月、源頼朝会)。
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「源頼朝の墓」説明板。
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「源頼朝公顕彰碑」説明板。
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石段途中に鳥居が見える。昭和39年(1964年)に建立。
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多層塔(供養塔)。
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多層塔(供養塔)。
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「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道」石碑。下の歌碑裏にある。上の多層塔(供養塔)(源頼朝墓)横には「元祖島津豊後守忠久石塔道」石碑が建っている。
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