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秀吉軍と。織田・徳川連合軍が戦った、『小牧・長久手の戦い』の主戦場となった、長久手古戦場紹介の締め括りです。園内には、縮景という手法で古戦場を模した広場がありました。

2010春、長久手古戦場(3/3):池田公戦死の碑、長久手古戦場石碑、染井吉野の花吹雪

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2010/04/09 - 2010/04/09

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旅行記グループ 2010春、尾張の桜名所

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

秀吉軍と。織田・徳川連合軍が戦った、『小牧・長久手の戦い』の主戦場となった、長久手古戦場紹介の締め括りです。園内には、縮景という手法で古戦場を模した広場がありました。

交通手段
自家用車

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  • 長久手古戦場は『古戦場公園』として整備され、『日本の歴史公園100選』に選ばれています。左端の建物は、長久手市郷土資料室です。『日本の歴史公園100選』は、『都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会』によって選定された歴史公園です。現在250件が選定されています。愛知県では10箇所です。

    長久手古戦場は『古戦場公園』として整備され、『日本の歴史公園100選』に選ばれています。左端の建物は、長久手市郷土資料室です。『日本の歴史公園100選』は、『都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会』によって選定された歴史公園です。現在250件が選定されています。愛知県では10箇所です。

  • 先にも紹介した、『史跡・長久手古戦場』の大きな石碑です。『史跡』は、文化財保護法第109条第1項で定められ、次の9項目です。<br />①貝塚、集落跡、古墳、墓地等<br />②都城跡、国郡庁、城跡、官公庁、戦跡、その他政治に関する遺跡<br />③社寺跡、その他祭祀信仰に関する遺跡<br />④学校、研究施設、文化施設、その他教育・学術・文化に関する遺跡<br />⑤医療・福祉施設、生活関連施設等<br />⑥交通・通信施設、治山治水施設、生産遺跡、その他経済・生産活動に関する遺跡<br />⑦墳墓(大名・著名人)・碑<br />⑧旧宅、園池<br />⑨外国及び外国人に関する遺跡<br />現在、全国で1700件余が指定されています。長久手古戦場は1939年に指定されました。<br />

    先にも紹介した、『史跡・長久手古戦場』の大きな石碑です。『史跡』は、文化財保護法第109条第1項で定められ、次の9項目です。
    ①貝塚、集落跡、古墳、墓地等
    ②都城跡、国郡庁、城跡、官公庁、戦跡、その他政治に関する遺跡
    ③社寺跡、その他祭祀信仰に関する遺跡
    ④学校、研究施設、文化施設、その他教育・学術・文化に関する遺跡
    ⑤医療・福祉施設、生活関連施設等
    ⑥交通・通信施設、治山治水施設、生産遺跡、その他経済・生産活動に関する遺跡
    ⑦墳墓(大名・著名人)・碑
    ⑧旧宅、園池
    ⑨外国及び外国人に関する遺跡
    現在、全国で1700件余が指定されています。長久手古戦場は1939年に指定されました。

  • 『古戦場公園』として整備された、長久手古戦場址の光景です。桜の木以外には、ケヤキ(欅)などの高木の姿もありました。

    『古戦場公園』として整備された、長久手古戦場址の光景です。桜の木以外には、ケヤキ(欅)などの高木の姿もありました。

  • 『長久手古戦場』に隣接する場所には、住宅地が並んだ一角もありました。その住宅が桜の木の先に見えています。

    『長久手古戦場』に隣接する場所には、住宅地が並んだ一角もありました。その住宅が桜の木の先に見えています。

  • 『ナガクテ・ガイド』の英語表記の看板です。現地ですぐに情報が確認できるよう、二次元バーコードがプリントされていました。1994年にデンソーが開発したQRコードです。

    『ナガクテ・ガイド』の英語表記の看板です。現地ですぐに情報が確認できるよう、二次元バーコードがプリントされていました。1994年にデンソーが開発したQRコードです。

  • この石碑も、すでに紹介済の『勝入池田公戦死』の場所の碑です。『ナガクテ・ガイド』のQRコードからアクセスしましたら、明治24年に恒興の子孫が建立したことが紹介されていました。花などが供えられていました。

    この石碑も、すでに紹介済の『勝入池田公戦死』の場所の碑です。『ナガクテ・ガイド』のQRコードからアクセスしましたら、明治24年に恒興の子孫が建立したことが紹介されていました。花などが供えられていました。

  • 『勝入池田公戦死』の場所の碑のアップ光景です。明和の碑は、先に尾張半紙によって建てられた木製の碑が朽ちていたため、尾張藩士の人見氏が急遽石柱を注文して建てた碑と紹介されていました。明和8年(1771年)のことです。その碑は、すでに紹介した『池田勝入信輝戦死場』の文字が刻まれた石柱です。

    『勝入池田公戦死』の場所の碑のアップ光景です。明和の碑は、先に尾張半紙によって建てられた木製の碑が朽ちていたため、尾張藩士の人見氏が急遽石柱を注文して建てた碑と紹介されていました。明和8年(1771年)のことです。その碑は、すでに紹介した『池田勝入信輝戦死場』の文字が刻まれた石柱です。

  • 『長久手古戦場公園』の外から眺めた光園内の光景です。『火気厳禁』の看板がありましたが、公園内ではバーベキューなどが禁止されていました。

    『長久手古戦場公園』の外から眺めた光園内の光景です。『火気厳禁』の看板がありましたが、公園内ではバーベキューなどが禁止されていました。

  • 夜間照明用の器具が、桜の木に直接取り付けられていました。樹を傷める恐れがありますので、この工事方法は感心しません。

    夜間照明用の器具が、桜の木に直接取り付けられていました。樹を傷める恐れがありますので、この工事方法は感心しません。

  • 桜のトンネルの光景です。地元の女子大の皆さん方のフィールドワークをアップしたHPには、約70本の染井吉野と紹介されていました。

    桜のトンネルの光景です。地元の女子大の皆さん方のフィールドワークをアップしたHPには、約70本の染井吉野と紹介されていました。

  • 根元が雨で洗い流されたのではなく、表面を這う性質の樹木のようです。四方に根を伸ばしていました。

    根元が雨で洗い流されたのではなく、表面を這う性質の樹木のようです。四方に根を伸ばしていました。

  • 長久手古戦場址の散策路の光景です。雨の時に泥濘にならないよう、小石が敷き詰めてありました。その脇には、落葉による自然の腐葉土ができていました。

    長久手古戦場址の散策路の光景です。雨の時に泥濘にならないよう、小石が敷き詰めてありました。その脇には、落葉による自然の腐葉土ができていました。

  • 花吹雪の最中の地面の光景です。芽吹いたばかりの下草を覆うように散り敷いていました。

    花吹雪の最中の地面の光景です。芽吹いたばかりの下草を覆うように散り敷いていました。

  • 丸ごと落花した染井吉野の花の光景です。多分、花喰鳥の鵯さんの仕業です。

    丸ごと落花した染井吉野の花の光景です。多分、花喰鳥の鵯さんの仕業です。

  • 野草のオオイヌノフグリの光景です。オオバコ科クワガタソウ属の越年草です。瑠璃唐草、天人唐草や星の瞳等の別名を持ちます。

    野草のオオイヌノフグリの光景です。オオバコ科クワガタソウ属の越年草です。瑠璃唐草、天人唐草や星の瞳等の別名を持ちます。

  • ユキヤナギ(雪柳)の光景です。バラ科シモツケ属の落葉低木です。コゴメバナやコゴメヤナギ等の別名を持ちます。

    ユキヤナギ(雪柳)の光景です。バラ科シモツケ属の落葉低木です。コゴメバナやコゴメヤナギ等の別名を持ちます。

  • ユキヤナギ(雪柳)の花のズームアップ光景です。岩肌や岩の裂け目などに生える様から、昔は『岩柳』とも呼ばれたようです。

    ユキヤナギ(雪柳)の花のズームアップ光景です。岩肌や岩の裂け目などに生える様から、昔は『岩柳』とも呼ばれたようです。

  • 見た目には満開ですが、既に花吹雪が舞い始めた染井吉野の光景です。

    見た目には満開ですが、既に花吹雪が舞い始めた染井吉野の光景です。

  • 生垣のように剪定された雪柳と花吹雪が始まっていた染井吉野の光景です。花見を楽しむグループの姿もありました。

    生垣のように剪定された雪柳と花吹雪が始まっていた染井吉野の光景です。花見を楽しむグループの姿もありました。

  • 花吹雪の下で宴会を楽しんでいた2グループのアップ光景です。ノンアルコールの女性の会のようでした。

    花吹雪の下で宴会を楽しんでいた2グループのアップ光景です。ノンアルコールの女性の会のようでした。

  • 半分以上の花が落花し、全体が赤っぽく見えていた染井吉野の花のピックアップ光景です。開いてはいませんでしたが、新芽が出始めていました。

    半分以上の花が落花し、全体が赤っぽく見えていた染井吉野の花のピックアップ光景です。開いてはいませんでしたが、新芽が出始めていました。

  • 4月には桜まつりが開かれているようです。長久手商工会のHPには、長久手古戦場桜まつりでは、棒の手保存会による『棒の手披露』や、弓道大会などが開かれることが紹介されていました。火縄銃の実演もあるようです。

    4月には桜まつりが開かれているようです。長久手商工会のHPには、長久手古戦場桜まつりでは、棒の手保存会による『棒の手披露』や、弓道大会などが開かれることが紹介されていました。火縄銃の実演もあるようです。

  • 三分ほどは散ってしまった染井吉野の光景です。まだたくさん残っていましたが、先に散った枝先の新芽が大きくなっていました。

    三分ほどは散ってしまった染井吉野の光景です。まだたくさん残っていましたが、先に散った枝先の新芽が大きくなっていました。

  • 花吹雪を目一杯にまき散らしていた染井吉野の光景です。同じような大きさの染井吉野の大木が、同寺に花吹雪になっていました。

    花吹雪を目一杯にまき散らしていた染井吉野の光景です。同じような大きさの染井吉野の大木が、同寺に花吹雪になっていました。

  • 豊臣政権下で重要な役割を担った人物に、異母弟の豊臣秀長(1540〜1591年)がいます。秀吉の信頼厚く、豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍し、天下統一に大きく貢献しました。110万石の大大名で、官位も従二位権大納言に栄進、大和大納言と尊称されました。天正19年(1591年)、大和郡山城内で病死、享年52歳でした。秀長は温厚、真面目、寛容であり、秀吉の名補佐役でした。上洛を拒み続けた家康が大坂に到着し、宿泊したのは秀長邸です。家康との調整役、秀吉に対するブレーキ役でもありました。『秀長亡き後の豊臣政権では、何もよいことがなかった』とまで言われるほどです。秀長の死から1か月後には千利休が切腹、さらに朝鮮出兵により諸大名を疲弊させ、後継者に迎えていた秀次一族を虐殺しました。秀長の死は、平清盛が重盛を失った平氏政権にも例えられます。

    豊臣政権下で重要な役割を担った人物に、異母弟の豊臣秀長(1540〜1591年)がいます。秀吉の信頼厚く、豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍し、天下統一に大きく貢献しました。110万石の大大名で、官位も従二位権大納言に栄進、大和大納言と尊称されました。天正19年(1591年)、大和郡山城内で病死、享年52歳でした。秀長は温厚、真面目、寛容であり、秀吉の名補佐役でした。上洛を拒み続けた家康が大坂に到着し、宿泊したのは秀長邸です。家康との調整役、秀吉に対するブレーキ役でもありました。『秀長亡き後の豊臣政権では、何もよいことがなかった』とまで言われるほどです。秀長の死から1か月後には千利休が切腹、さらに朝鮮出兵により諸大名を疲弊させ、後継者に迎えていた秀次一族を虐殺しました。秀長の死は、平清盛が重盛を失った平氏政権にも例えられます。

  • 豊臣政権下で特に重要な役割を担った人物に、前田利家がいます。江戸時代に入ってからも加賀百万石として幕末を迎えることが出来た基礎を築いた人です。利家は、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕えました。青年時代の利家は血気盛んで、槍の又左衞門などの異名を持ちました。<br />長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫しましたが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に北陸方面の守備を委ねられていた利家は、北陸を動きませんでした。<br />また、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻しましたが、9月の『末森城での戦い』では、成政を撃破しました。<br />

    豊臣政権下で特に重要な役割を担った人物に、前田利家がいます。江戸時代に入ってからも加賀百万石として幕末を迎えることが出来た基礎を築いた人です。利家は、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕えました。青年時代の利家は血気盛んで、槍の又左衞門などの異名を持ちました。
    長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫しましたが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に北陸方面の守備を委ねられていた利家は、北陸を動きませんでした。
    また、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻しましたが、9月の『末森城での戦い』では、成政を撃破しました。

  • 年表で紹介する豊臣秀吉のその後です。<br />◎1585年(天正13年):長宗我部元親(浦戸城)征伐で四国を平定。<br />◎同年:弟の羽柴秀長が権大納言に。<br />◎1586年(天正14年):家康上洛、大坂城で秀吉に謁見。<br />◎1587年(天正15年):太政大臣(従一位)太閤に。豊臣秀吉となる。<br />◎同年:島津義弘(鹿児島城)征伐で九州を平定。<br />◎1590年(天正18年):北条氏政・氏直(小田原城)征伐で関東を平定、日本全土を平定。<br />◎1591年(天正19年):豊臣秀次(秀吉の甥)が左大臣(従二位)関白に。<br />◎1592年(文禄1年):朝鮮出兵。(文禄の役)<br />◎1596年(慶長1年):朝鮮出兵。(慶長の役)<br />◎1598年(慶長3年):伏見城で死去。(62才)<br />

    年表で紹介する豊臣秀吉のその後です。
    ◎1585年(天正13年):長宗我部元親(浦戸城)征伐で四国を平定。
    ◎同年:弟の羽柴秀長が権大納言に。
    ◎1586年(天正14年):家康上洛、大坂城で秀吉に謁見。
    ◎1587年(天正15年):太政大臣(従一位)太閤に。豊臣秀吉となる。
    ◎同年:島津義弘(鹿児島城)征伐で九州を平定。
    ◎1590年(天正18年):北条氏政・氏直(小田原城)征伐で関東を平定、日本全土を平定。
    ◎1591年(天正19年):豊臣秀次(秀吉の甥)が左大臣(従二位)関白に。
    ◎1592年(文禄1年):朝鮮出兵。(文禄の役)
    ◎1596年(慶長1年):朝鮮出兵。(慶長の役)
    ◎1598年(慶長3年):伏見城で死去。(62才)

  • 次は、年表で紹介する徳川家康のその後です。<br />◎1584年(天正12年):次子秀康を人質として秀吉に送る。<br />◎1585年(天正13年):石川数正、妻子を連れて大阪に出奔、三河将士に動揺。<br />◎1586年(天正14年):秀吉の異父妹の朝日姫を娶る。家康45歳、朝日姫44歳。<br />◎同年:秀吉の実母、大政所が人質になり、家康上洛し、秀吉と和議。<br />◎同年:浜松城から駿府城へ。<br />◎1590年(天正18年):朝日姫死去(48歳)。<br />◎同年:家康、関東に国替え。<br />◎1592年(文禄1年):朝鮮出兵の令下る〈文禄の役〉。京都に上り、肥前名護屋に行く。<br />◎1593年(文禄2年):名護屋から江戸に戻る。<br />◎1596年(慶長1年):内大臣に任じられる。<br />◎1598年(慶長3年):秀吉死去。(享年63歳)<br />◎1600年(慶長5年):関ヶ原で東軍大勝。<br />

    次は、年表で紹介する徳川家康のその後です。
    ◎1584年(天正12年):次子秀康を人質として秀吉に送る。
    ◎1585年(天正13年):石川数正、妻子を連れて大阪に出奔、三河将士に動揺。
    ◎1586年(天正14年):秀吉の異父妹の朝日姫を娶る。家康45歳、朝日姫44歳。
    ◎同年:秀吉の実母、大政所が人質になり、家康上洛し、秀吉と和議。
    ◎同年:浜松城から駿府城へ。
    ◎1590年(天正18年):朝日姫死去(48歳)。
    ◎同年:家康、関東に国替え。
    ◎1592年(文禄1年):朝鮮出兵の令下る〈文禄の役〉。京都に上り、肥前名護屋に行く。
    ◎1593年(文禄2年):名護屋から江戸に戻る。
    ◎1596年(慶長1年):内大臣に任じられる。
    ◎1598年(慶長3年):秀吉死去。(享年63歳)
    ◎1600年(慶長5年):関ヶ原で東軍大勝。

  • これで、天下分け目の『関ヶ原の戦い』や、『大阪城冬の陣・夏の陣』にも匹敵する歴史的意味合いを持つ、『小牧・長久手の戦い』の舞台となった古戦場の紹介はおしまいです。

    これで、天下分け目の『関ヶ原の戦い』や、『大阪城冬の陣・夏の陣』にも匹敵する歴史的意味合いを持つ、『小牧・長久手の戦い』の舞台となった古戦場の紹介はおしまいです。

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