2010/04/09 - 2010/04/09
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旅人のくまさんさん
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花吹雪の時期の長久手古戦場紹介です。『小牧・長久手の戦い』は、本能寺の変の2年後の天正12年(1584年)に、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われました。
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長久手古戦場址で咲く桜の光景です。既に落花が始まっていました。『小牧・長久手の戦い』は、天正11年(1583年)、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い)』で柴田勝家を破り、信長の後継者としての力を付けた羽柴秀吉と、信長の次男、織田信雄(のぶかつ)との軋轢が背景にありました。
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散り始めた染井吉野の枝先のピックアップ光景です。まだたくさんの花が残っていました。天正12年(1584)、秀吉は大坂城を築城し諸将を招きましたが、織田信雄は秀吉の主家を自認していて、秀吉の招きに応じませんでした。これに対し、秀吉は信雄の三家老が秀吉に通じたというデマを流しました。信雄が親秀吉派の三家老を処刑したため、秀吉に攻撃の口実を与えたとされます。
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同じく、散り始めた染井吉野の枝先のピックアップ光景です。織田信雄は、家康に援軍を求めたため、家康は8000の兵を率いて、天正12年(1584年)3月7日浜松城から出陣しました。
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スポットライトが上を向いた、自走式の照明器具です。バッテリー式ではなく、発電機を車載しているようでした。
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昭和14年(1939年)に国の史跡に指定された、長久手古戦場址に生える、桜の古木の根元の光景です。地表を這った根の光景もありました。
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桜吹雪になっていた、染井吉野の光景です。一帯は、『古戦場公園』として整備されています。
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『長久手古戦場』の文字と家紋らしいものが染め抜かれた幟の光景です。少し調べてみましたが、家紋に該当する武家は見つかりませんでした。
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『国史跡・長久手古戦場址・勝入塚』のタイトルがあった標識です。勝入斉こと、池田恒興(1536〜1584年)の戦死の場所であることが記されていました。
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『勝入池田公戦死』の場所らしい文字が刻まれた大きな石碑の光景です。尾張犬山城主、摂津兵庫城主を務め、戦死した時期には美濃大垣城主でした。子には播磨姫路藩の初代藩主で、姫路城を今日の姿に修築したことで知られる輝政公がいます。輝政は、秀吉の仲介で家康の娘の督姫を娶りました。秀吉没後に家康に接近し、池田家は明治まで隆盛を極めました。
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『勝入池田公戦死』の場所らしい文字が刻まれた大きな石碑の周りを囲む、石の柵の光景です。池田家は江戸幕府で重用されましたから、『小牧・長久手の戦い』では秀吉軍でしたが、江戸時代でも石碑等が守られてきたのかも知れません。
(追記)明治時代に華族になった池田公が建立したとのネット情報もありました。 -
『池田勝入信輝戦死場』らしい文字が刻まれた古い石碑の光景です。『勝入』は、入道した時の号、『信輝』は、諡(おくりな)です。長久手の戦いにおける羽柴軍の死者は2500余人、織田・徳川連合軍の死者は590余人と伝わります。
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グループで見学されていた皆さん方です。説明役の方もいたようです。秀吉の天下人としての歩みを進め、後の徳川時代を予見させる歴史上重要な戦いですから、説明される内容には事欠かないでしょう。
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古戦場跡らしい雰囲気を持った、荒々しい木々の光景です。斜めになった木は、台風で傾いたのでしょうか。
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雪洞の列の先に見える長久手郊外の光景です。周辺には、戦死した豊臣軍の武将の塚や無名戦士の首塚、家康が軍議を開いた時に腰かけたと伝わる色金山の床机石などの史跡が点在します。
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地面には桜の花びらが散り敷いていますが、まだまだ見応え十分の染井吉野木々の光景です。江戸時代の国文学者の頼山陽(1780〜1832年)は、『日本外史』の中で、『公(神君家康)の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり』と、『小牧・長久手の戦い』こそが、家康を天下人へ押し上げた原動力になったと述べています。『小牧・長久手の戦い』のことは、第20巻・第1部に記されていました。
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同じく、古戦場跡の桜並木の光景です。『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書です。源平二氏から徳川氏までの武家盛衰史です。幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼした著書です。『徳川氏正記』は、前記部分の織田信長・豊臣秀吉主体の5巻を含め、第13巻から第22巻までの10巻です。
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山桜の花だったようです。花はたくさん残っていましたが、葉の方が大きく成長していました。オオシマザクラ(大島桜)かも知れません。
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『史跡・長久手古戦場』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。『小牧・長久手の戦い』では、時系列で示す次の大きな四つの戦いがありました。
①岩崎城の戦い
②白山林の戦い
③桧ヶ根の戦い
④仏ヶ根の戦い(長久手の戦い)
この戦いでは信雄・家康連合軍側が優勢でしたが、合戦から半年以上経った11月11日、秀吉は本領安堵を条件に、織田信雄に単独講和を申し入れました。信雄は、自身が始めた合戦で、しかも家康のおかげで優勢だったにも関わらず、秀吉からの講和を独断で承諾しました。信雄の講和を知った家康は、戦の大義名分を失ったため、11月21日に兵を引き上げました。 -
長久手古戦場址に設置された、大きな時計塔です。弓矢を連想させるようなデザインでした。時計の針は、丁度お昼時です。
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長久手古戦場址散策の光景です。長久手(仏ヶ根)の戦では、秀吉軍が池田・森隊など9千名、家康・信雄連合軍が家康・井伊・織田郡の9千3百名のほぼ互角の勢力が激突しました。
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長久手古戦場址散策の光景です。緩やかな丘陵地が目立つ地形でした。家康本隊は、富士ケ根(御旗山)から仏ケ根、前山に陣を構え、右翼に家康自身が3300、左翼に井伊直政が3000、更に信雄勢が3000の計9300の兵を配置しました。既に布陣を終えた家康軍に対し、秀吉軍は右翼に恒興の嫡男・池田元助、次男・輝政隊4000、左翼に長可隊3000、後方に恒興隊2000と、計9000の兵が対峙しました。そのまま両者睨みあった状態が、約2時間続いたとされます。
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ヤマザクラ(山桜)の枝先光景だったようです。咲き残った花と、大きく育ってきた葉の光景です。
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午前10時頃、両軍入り乱れての死闘が始まり、戦闘は約2時間続きました。暫く一進一退を繰り返していました。均衡が破れたのは、森長可が井伊直政勢の銃弾を浴び戦死した時からです。これで家康勢が有利となり、池田恒興も永井直勝の槍を受けて討死にし、池田元助も安藤直次によって戦死しました。秀吉軍はほぼ潰滅状態となり、家康軍が勝利しました。
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その後秀吉は、家康の居城の浜松城に、滝川雄利を使者として送り、講和を持ちかけました。家康は次男の於義丸(結城秀康)を秀吉の養子に大坂城へ送ることで和議の形を取りました。実質的な人質です。これで、この合戦は幕を閉じ、以後、秀吉政権が確立していきました。しかし、この戦いは、家康の実力を世間に見せつける結果となりました。
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少し開けた場所に出ました。前方にはリニモ(東部丘陵線)の高架道路が見えていました。ところで、秀吉に養子に出された於義丸(結城秀康:1574〜1607年)のことです。徳川家康の次男として遠州浜松で生まれましたが、家康には疎まれ、満3歳になるまで対面を果たせなかったと伝わります。
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染井吉野の花と、雪洞の光景です。於義丸(結城秀康)の話題に戻ります。天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により、家康の長男の信康が切腹させられました。その後、次男の秀康は家康の跡継ぎに指名されず、江戸幕府の第二代将軍は異母弟の徳川秀忠となりました。結城秀康は、後に越前松平家の創始者となりました。
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同じく、散り始めた染井吉野と、その間を縫うように施設された雪洞の光景です。夜桜見物用だったようですが、今年の役目はもう少しで終わりになりそうです。
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天下人目前の秀吉は、家康に配下としての上洛を再三に亘って促しましたが、家康は応じませんでした。秀吉は妹を家康の正室とし、母を人質に差し出すなどしました。
合戦終了から2年経った天正14年(1586年)10月27日、ついに家康は上洛し、大坂城で秀吉と会見し、臣従を誓いました。
羽柴秀吉は、天正15年(1587年)、太政大臣(従一位)太閤になり、豊臣秀吉と名乗りました。51才の時です。 -
かなり散ってしまった、染井吉野の枝先のピックアップ光景です。残ったガクで、全体が赤っぽく見えました。
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まだ十分に見応えがあった染井吉野の光景です。豊臣秀吉は、天正18年(1590年)、関東地方の覇者、北条氏政・氏直(小田原城)征伐で関東を平定し、日本全土の平定を成し遂げました。秀吉は、二度にわたる朝鮮出兵の後、慶長3年(1598年)8月、伏見城において62才で亡くなりました。
東軍を率いる徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利したのは、秀吉が亡くなった2年後の慶長5年(1600年)9月のことでした。
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