2010/01/30 - 2010/02/08
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azianokazeさん
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チェンライからの1日ツアーで、ラオス国境のチェンセーン、ミャンマー国境のメーサイを訪ねます。
本編では、ツアー前半のチェンセーンのゴールデン・トライアングル、オピウム博物館を記録。
次編で、ラオス・ミャンマー越境を記録します。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 航空会社
- タイ国際航空
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定番観光コースではありますが、ラオス・ミャンマーへの2回の越境・国境越えを含みますので、万一のことも考えて現地旅行会社「J.TRAVEL SERVICE」に現地ツアーをお願いしました。
1名催行ということで、どうしても割高(2600B 7540円 2名の場合ひとり1500B)になりますが、思いがけず日本語ができるガイドさんを付けてもらえました。(ツアーは、基本的には英語ガイド)
写真はガイドのドゥアンさん(旅行中は“ルアンさん”かと思っていました)です。運転手はトゥイさん。
ドゥアンさんは本来英語ガイドですが、数年日本語学校に通っているとのことで、大体の日本語会話が可能です。
英語が苦手な私としては、非常に助かりました。 -
写真はチェンライから国境のチェンセーンに向かう道。
舗装道路ですが、拡張工事が行われています。
ゴールデン・トライアングルのタイ側玄関であるチェンセーンから直線距離で西へ40kmほど行くと、ラオス側フアイサイとメコン川をはさんで向き合うチェンコーンに至ります。
ラオス・フアイサイを起点として、ラオス北部の県を通る国道3号線として知られる228キロの道路は、中国との国境ボーテンまで続いていますが、従来は雨季の4か月間は閉鎖されてしまう狭くて未舗装の道路でした。
この道路を中国の資金援助で整備して、中国・昆明からラオスを縦断して、更には、タイ・バンコクへ、そして昆明からはベトナム・ハノイへ通じるメコン川流域の流通の大動脈を形成しようという、中国の南進政策・南北回廊の計画が進行しています。
写真のタイ領内の道路拡張工事も、そうした計画の一環ではないでしょうか。
現在はタイ・チェンコーンとラオス・フアイサイの間は船によっていますが、すでに橋を建設する工事が動きだしており、今年1月14日には受注業者の選定も行われたようです。今年3月にも着工と報じられていますので、バンコク・ラオス・昆明・ハノイの物流は、現在のノーンカーイ−ビエンチャンルートに加えて、更に増加するものと思われます。
なお、タイ東北部ナコンパノムとラオス中部カムアン県タケーク間に第3メコン国際橋も、2011年の完成に向け建設されています。 -
車内からの望遠写真のため、手ブレしてます。
メコン流域開発については、中国の南進・南北回廊に対し、日本はベトナム中部・ダナンからタイ中部を横断し、ミャンマー・モーラメインに至る東西回廊、更に、ベトナム南部・ホーチミンシティからカンボジア・プノンペンを経由してタイ・バンコクに至る第二東西回廊で対抗しています。
かつてのアフリカ大陸におけるイギリスの縦断政策と、フランスの横断政策の衝突をも彷彿とさせます。
しかし、中国からの物資の流れは圧倒的に見えます。この日、タイ・メーサイからミャンマー・タチレイに越境し、タチレイ側のマーケットを見学しましたが、そこで売られている商品の多くは中国製(コピー商品が多いようですが)です。 -
しょうもない道路工事写真ばかりお見せしてすみません。
チェンセーンに到着しました。
チェンセーン王国の都として1328年に開かれた町で、チェンセーン様式と呼ばれる仏塔・寺院が残っています。【歩き方より】
確かに、お寺の跡と思われるものが道路沿い左右に散見されます。
写真は、そうした寺院のひとつ、「ワット・チェディ・ルアン」 -
八角形の台座に立つ高さ18mの仏塔。草むした雰囲気が日本人好みです。
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チェンセーン様式の御本尊。
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脇の仏像はスコータイ様式。チェンセーン様式より胴体がスリムで、頭部の飾りが異なります。表情の微笑みも少し異なります。ドゥアンさんが、そんなことを言っていたような・・・。
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こちらは参拝客が、良くなってほしい部分に金箔を貼る仏像。
私は貼りたい場所があまり多すぎて、金箔がいくらあっても足りないのでパス。 -
境内に木々はチークです。
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チェンセーンは静かなお寺などゆっくりまわれば、いいところのように思われます。
現在はチェンセーン北に位置するメコン川沿いの村が、“ゴールデン・トライアングル観光”で売りだしてします。写真はその展望台。 -
タイとラオス(写真右岸)を隔てるメコン川(写真中央)、タイとミャンマー(中洲から左岸)を隔てるルアク川(メコン川支流 写真手前)が合流するポイントです。
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オピウム博物館の地図で見ると、位置関係はこうなります。
緑がミャンマー、黄色がタイ、ピンクがラオスです。この三国が接するポイントが、ここゴールデン・トライアングルです。
この地域は、かつてケシ栽培・アヘン製造でも世界的に有名な地域で、政府の支配も及ばない世界でした。
現在はケシ栽培は禁止されています。 -
ケシに代わって、現在この地で盛んなのはカジノ。
写真右岸のラオス領域に立つ建物はカジノのオフィスだそうです。 -
一方、左岸ミャンマー領の赤い屋根の建物もミャンマー側カジノだそうです。
ラオスのカジノには中国女性が、ミャンマーのカジノにはタイ女性が働いているとか。
いずれにせよ、この地域に来るタイ人観光客のお目当てはカジノだそうです。 -
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ガイドのドゥアンさん。
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裏手の丘の上にあるお寺跡を通って、オピウム博物館まで歩いて行くことにしました。
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山上のお寺跡です。
女人禁制です。 -
祠の仏様。旅の無事と帰国後のことをお祈りします。
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石段を下ります。
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ほどなくオピウム(アヘン)博物館に着きます。
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建物外のブーゲンビリアがきれいです。
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先ずはアヘンの歴史。
知りませんでしたが、アヘンは地中海原産とされています。 -
この説明にもそのような地中海起源のことが書いてあります
ただ、別資料によれば、現存する最初のアヘンの記録は、楔形文字 で書かれたシュメール人 の粘土板だそうです。
メソポタミアで人類最古の都市文明を築いたシュメール人は、BC3500年頃、楔形文字を使い始めたとされています。
粘土板には、ケシの栽培、早朝のケシ汁の採集、アヘンの産生法について記載されていて、メソポタミアにいたシュメール人が、最も古くケシを栽培と考えられているようです。とすると、アヘンの使用もBC3000年頃からでしょうか。
シュメール人はケシを“歓喜、至福(Gil)をもたらす植物(Hul)”と呼んでいたとも。
(http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/history-opium.html 「痛みと鎮痛の歴史年表」より)
痛みに苦しむ人類の歴史とともに、痛みを和らげるアヘンの歴史はあった・・・ということでしょう。
なお、説明文にもあるように、キプロスでアヘン用パイプが発掘されています。時代的にはBC1200頃。この時代のキプロスの壺には、傷を付けたケシ坊主の絵が描かれています。 -
ずいぶんリアルな展示です。
前出「痛みと鎮痛の歴史年表」からアヘンの歴史をもう少し紹介すると、地中海クレタ島のクノッソスの西のGoziの小さい村の神社から、「ケシの女神像」が1936年に発見されています。ミノア文明(前3500〜1500年)のものとみられるこの女神像は、高さ79cmの像で、3本のケシ坊主がついたティアラをつけ、両手を上にあげています。
クレタ島では、ケシの実の皮膜から抽出した液体の鎮静作用が知られていました。 -
アヘン1kgは金1kgと等価だったとか。
アヘンを計る天秤です。
古代エジプトの古文書 Evers Papyrusには、アヘンと他のハーブとの混合方法も書かれています。
古代エジプトの人々は、鎮痛や睡眠のために、アヘンを広く用いていました。泣いている子供をなだめるために、ハエの糞のペーストにケシ汁を混合して与えていたも言われています。
以後、エジプト、インドや広くヨーロッパで、子供をなだめるために、乳首にアヘンを塗って吸わせる習慣がひろまります。 -
これはオピウム博物館ではなく、チェンライの山岳民族博物館に展示されていたものです。
アヘンを咳止めなどのほか、むずがる子供をなだめるために使う商品の広告のようです。
薬物の危険性に関する社会の認識は、時代によって変わります。
現在では“子どもにアヘンを”なんて、とんでもない話ですが、写真の広告は(わかりませんが)つい100〜150年ぐらい前ではないでしょうか。 -
天秤で使う青銅製の重り。
古代エジプトの女神イシスは太陽神ラーの頭痛を治すため、アヘンを用いたといわれています。
アヘンのラテン名Opium Thebaicum、アヘンアルカロイドの一つテバインはいずれも古代エジプトの町Thebes(テーベ)に由来するといわれています。 -
アヘンを入れる容器のようです。
ギリシャ神話でもケシは重要な役割を演じています。“農業と豊穣の女神デメテルの弟である冥王ハーデスは、デメテルの娘のペルセポネをさらって妻にした。デメテルは最愛の娘を奪われ怒りと哀しみにより、仕事を放棄し眠ることさえ忘れ、娘を探し世界をさ迷ったため、大地は荒れ果ててしまった。眠りの神ヒュプノスはデメテルを心配しケシを与えると、デメテルは深い眠りにつき夢のうちに娘と再会した。やがてケシはデメテルそのものを表すようになり、彼女の絵には、豊穣を象徴する麦の穂とともにケシの花が描かれるようになった。” -
アヘン吸引用のパイプです。
ギリシャの詩人Homerの叙事詩Ilias(イリアス)やOdyssey(オデッセイ)の中でも、アヘンの鎮痛作用について書かれています。
例えば、Iliasでは、トロイのヘレネ戦争に疲れたギリシャの戦士達に、Nepenthes(ネペンテ)をワインに溶かしたものを振る舞ったとされています。Nepenthesは、悲しみや怒りを消失され、最悪の苦悩を忘れさせる「忘却薬」として使われていましたが、Nepentheの主な原料は、アヘンであったとされます。
なお、後世、アヘンはアジアでもヨーロッパでも広く使用され中毒が社会問題となりますが、ヨーロッパには多くの麻薬中毒患者がいたにもかかわらず、廃人には至る例はアジアのようには多くありませんでした。
これは、ヨーロッパではアルコールに溶かしたアヘンチンキを経口で服用してきたのに対し、東南アジア・中国では喫煙が主流であった、摂取方法の違いによる体内吸収の差によるものだとか。 -
ヘロインの商標
アヘンの東方拡大にはマケドニアのアレキサンダー大王,(BC356 - BC323)が一役買ったようです。
大王はペルシア遠征の時、兵士の疲れを癒す目的でアヘンを持参しました。
アヘンは、アレキサンドロスが病に倒れ、ペルシアで客死したのち、程なくインドに伝えられました。
東アジアで最初にアヘンに遭遇したのは中国人ですが、それはインド経由ではなく、5世紀にアラビア人によって伝えられたとされています。 -
この地(ゴールデン・トライアングル)のアヘン栽培と言えば、アヘンから得られる資金を背景に、民兵を率いてこの地域を支配した麻薬王クンサーが連想されます。
中国国民党軍兵士とシャン族女性の間に生まれたクンサーは、国際指名手配され、タイ北部から国境未確定地帯のミャンマー奥地に逃げ込み、「シャン族独立」を掲げてミャンマー軍と永く対立。その後、1996年1月、ミャンマー政府との間で突然停戦合意をして投降しましたが、麻薬資金をビジネスに転用して、財閥を作り上げたとか。2007年10月26日に、ミャンマーのヤンゴンにて死去。【ウィキペディアより】
昔、このゴールデン・トライアングルやクンサーをモデルにした人物も登場する裏社会を扱った「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という映画がありました。ジョン・ローンが素敵だったような記憶があります。
早速、TSUTAYA宅配レンタルで取り寄せることにしました。明日には着くのでは。
あと、ゴールデン・トライアングルに関する紹介本を県立図書館に依頼しました。 -
博物館2階に展示されている、マリファナとタバコの吸引用具。
私は“軽い”喫煙家ですが、タバコとアヘンが同じ博物館で扱われることに軽い衝撃もありました。
ただ、冷静に考えれば、確かに同じようなものでしょう。アルコールなども含めて。
大体、うまいものは体に悪いと相場は決まっています。どちらをとるかは個人の問題です。 -
中国で、アヘンが独立した品目として文献に現れたのは、李時珍が著した「本草綱目」(中国の生薬学のバイブルみたいな本です。1578年に完成)です。
「前代には聞くことがまれなものであったが、この頃の処方に用いるものがある」とあり、また「これは天方国(アラビア)に産するケシから得られるもので、頭を水につからぬようにし、花が散った後に、青皮を刺してとるものだそうだ」と記載されています。
中国でははじめ、赤痢などの激しい下痢の吐瀉薬として用いられましたが、「本草綱目」では阿片を主薬とする「一粒金丹」という製剤の記載があり、万能薬として用いられたとも。 -
水タバコで使う竹パイプ。ベトナムのサパ旅行で吸ったことがあります。
注射器の発明もアヘンによる静脈内麻酔のためだったとか。
“Wrenは、ブタの膀胱にガチョウの羽軸を中空にして付けた自作の注射器で、自分の犬にアヘンなどの薬物を注入しようとしていた。召使いにもアヘンを注入しようとしたが、気を失ったので、実験を中止した。(1656年)”
あまりにアヘンの歴史が面白いので、コピペが止まらなくなってしまいました。
更に詳しく知りたい方は、http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/history-opium.html 「痛みと鎮痛の歴史年表」をご覧ください。 -
アヘンを少し離れましょう。
この地域は山岳少数民族の暮らすエリアです。
主な部族は、リス族、アカ族、ラフ族、ヤオ族、カレン族、モン族の6部族ですが、その中でもカレン族が約半数を占めています。 -
カレン族の一支族とされる“首長族”については、別編で詳しく扱います。“人間動物園”観光との批判を含めて。
今の首長族“観光村”では、こうした生き生きとした暮らしぶりは見られません。 -
アカ族の村。
村の入口には“鳥居”のような門があり、外部の邪気の侵入を防ぎます。 -
アカ族の村では、8月の中旬から9月中旬に4日間の「ブランコ祭り」が行われます。
この時は、民族衣装を着飾って行事に全員が参加します。
いわゆるブランコもありますが、写真(上)は、つかまってグルグル回る観覧車のようなものです。 -
各部族の1年間の行事を記したカレンダー。
少し小さくしたものをお土産にも売っていて欲しかったのですが、もう部屋には貼るようなスペースもなくなってきたのでパス。
次編ではチェンセーン対岸のラオス領の島に渡り、そしてメーサーイ対岸のミャンマー領タチレイにも入ります。
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