2008/08/11 - 2008/08/11
3225位(同エリア4071件中)
離島民さん
出島を見学後、再び市電に一駅だけ乗って築町で下車。先日の横浜中華街に続いて、長崎新地中華街へ。
街を一回りして、長崎ちゃんぽんを食べて早めの昼食を。すぐ向かいの店で角煮まんとぶたまんのセットが売っていたので購入。でもさすがに食べたばかりだったので、後で食べることに。
食後は歩いて唐人屋敷跡を散策。当時の名残はかなり少なく、土神堂、福建会館、天后堂、観音堂などが改修されたり、再建された形で残っていた。
まあ、天后堂などは香港でよく見るので別に僕にとっては珍しいものではなかったけど、日本で見ているのはちょっと不思議な感じがした。
その他、昔唐人屋敷を取り囲んでいた堀の跡を見たり、居留地との境界の碑を見たりして見学終了。
そのまま歩いてオランダ坂へ。
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出島から市電に一駅だけ乗って築町へ。
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中華街が見えてきました。
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新地橋と北門。
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東西南北約250メートルと思ったよりこじんまりとしています。
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すぐに南門に到着。
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こちらは東門。
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ちょうどお昼時ということで、中華街のほぼ中心にある「西湖」という店で昼ご飯。折角長崎に来たのでちゃんぽんを注文。
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幸瓶というびいどろ屋さんの前で売られていた角煮まんとぶたまんのセットを購入。
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広馬場商店街。ここからが唐人屋敷通り。
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唐人屋敷跡の碑。この辺りにかつては唐人屋敷があったそうですが、出島同様、当時の建物はほとんど残っていません。こちらも今や100円パーキング。
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土神堂。元禄4年(1691年)に唐船の船頭たちにより創建されたもの。その後火事で消失したりした後に老朽化で解体。現在の建物は1977年に復元したものだそうです。
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石殿は昔からのものだそうです。
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土神堂の近くにある福建会館。
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明治元年(1868)福建省泉州出身者によって創建された八閩会所がその後火災で焼失、明治30年(1897年)に再建された際に改称されたもの。会館の本館は原爆で倒壊してしまったそうです。こちらの正門は明治30年から現存するもの。
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裏手にある天后堂。こちらも明治30年に建てられたもの。
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坂の上の方にある「天后堂」。元文元年(1736年)に南京の人々によって創建されたもので、寛政2年(1790年)に修修されたそうです。現在の建物は、明治39年(1906年)に全国の華僑から寄付で再建され、今では関羽も祀られていて、関帝堂とも呼ばれているそうです。
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「天后廟」じゃなくて「天后堂」であることにちょっと違和感があるだけで、雰囲気は香港で普段見かけるものとよく似ているが、巨大なぐるぐる巻きの線香がない点がちょっと違和感が。
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この「修復」具合なんかそっくり。
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乾隆五十六年とありますから、結構古そうです。
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天后堂の前にて。
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観音堂へやってきました。この石門も古そうな感じです。
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元文2年(1737年)に建立されたと言われており、その後焼失。再建、改修を重ね、現在のものは大正6年(1917年)に改築されたものなのだそうです。
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全体的には天后堂に似た雰囲気です。
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こちらのは大清嘉慶二十三年とあります。
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保育園の敷地内にあるというのがちょっと不思議な感じがします。
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観音堂の隣にある市営住宅のエレベーターを使って上に行くと唐人屋敷の南東端のモニュメントの所に出ます。
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こちらがそのモニュメント。
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かつて唐人屋敷があった辺りを一望できます。
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南東端を目指して歩いていると、かつて唐人屋敷の周囲にあった堀の跡を示すグリーンベルトが。
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こちらには空掘りが残っています。
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森伊橋。
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南西端のモニュメント。
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唐人屋敷の範囲をちょっと外れたところには広済寺というお寺が。
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道路を挟んだ所には住之江稲荷神社が。
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長崎らしい坂道が続きます。
これからオランダ坂・居留地の方へ向かっていきます。 -
坂の名前はみさき道。
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折りたたみ式のゴミ置き場。
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「ピエル・ロチ 寓居の地」。かつてフランスの文豪がここに2ヶ月ほど滞在し、その時の体験を基に「お菊さん」という小説を書いたのだそうです。それが「蝶々婦人」のモデルのひとつになったのだとか。
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