2007/03/15 - 2007/03/15
8718位(同エリア17017件中)
スキピオさん
ペール=ラシェーズ墓地は広大なので、二つに分けて、紹介します。
【オスカー・ワイルドの墓】
ワイルド(1856-1900)はアイルランド出身のイギリスの作家でしたが、ホモセクシヤルのために、告発され、2年間の強制労働の判決を受けました(『獄中記』は傑作です)。こうなるとロンドンは彼にとって、安住の地ではなくなりました。晩年、彼はパリに移り住み、静かに世を去ります。こうして、スキャンダラスな作家はここペール=ラシェーズ墓地で永眠することになったのです。
彼が物語った王子と哀れなツバメの話、盆にのったヨハネの首とサロメの話は、だれの心をもとらえ続けることでしょう。
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【ワイルドの墓】
人気者の彼の墓にはいつもファンがお参りに来ています。と、書いてみましたが、もしかすると彼の風変わりな墓を見に来ているのかも知れません。
確かに、この墓は「ペール=ラシェーズ墓地」で一番の変わり種です。
ワイルドの作品中最も有名なのは「幸福王子」でしょうか。または、お盆に載った洗礼者ヨハネの生首に口づける美少女サロメの登場する、劇作「サロメ」でしょうか。
彼は美貌と、才能と、洗練さとで群を抜いていました。ところがどんなに恵まれていても、ひとは苦しむものなのですね。そんな自分の密かな苦しみを書いたのが、耽美的な作品『ドリアン・グレイの肖像』です。現実の自分と肖像画の自分との年齢の乖離が恐ろしいまでの筆致(文体)で描かれています。 -
【ワイルドの墓】
写真でご覧のように、彼の全裸の姿が墓に彫られています。噂によりますと、これを見て憤慨したPTAのおばさんのようにお堅いご婦人が、手にしていた傘で、ワイルドの大切な部分を叩き折ってしまったとか。確かに、よく見ると折れています。
世界中からやって来る、熱烈なワイルドファンは本当にすごいです。白い墓石が、キスマークだらけになっています。キスしているのは、もしかすると女性ではなくて・・・ -
【小説家マルセル・プルーストの墓】
20世紀最大の作家は誰か?
その答えは、もちろんさまざまとなることでしょう。でも、必ず候補に挙がるのはジェームズ・ジョイスとプルースト(1871-1922)であることは疑いを入れません。
彼の長大な作品『失われた時を求めて』は、文庫本13冊です。マドレーヌのお菓子が紅茶とともに口の中に広がり、そのまま過去がよみがえる。19世紀末から20世紀初頭の上流社会が鮮やかに描かれます。
「カルナヴァレ美術館」に彼の部屋(有名なコルクの壁です)が復元され、展示されています。 -
【物理学者ゲイ=リュサックの墓】
ゲイ=リュサック(1778-1850)は気体の温度と体積に関する法則を発表(ゲイ=リュサックの法則)、膨張係数の決定(0.00375)、気球による上昇(7000m)など、輝かしい業績を残しました。特に僕たちにとってなじみ深いのは、酒中のアルコール濃度の決定法を作ってくれたことです。今でも42°GLいう表示に彼の名が記されています(G=Gay L=Lussac)。 -
【ラスパイユの墓】
7区から14区まで延びる大通りの名前となっている(「ラスパイユ大通り」)ラスパイユ(1794-1878)は生物学者にして化学者でしたが、1830年の革命から政治に参加します。とくに48年のときには社会主義者として大統領に立候補するも、ルイ=ナポレオンに敗れてしまいます。後、亡命生活をしましたが、1869年には国会議員になりました。 -
【モリエールとラ・フォンテーヌの墓】
手前にあるのが劇作家モリエール(1622-73)の墓です。ルイ大王の時代、彼の作品はどれほど観客の笑いを取り、喝采を浴びたことでしょう。現在でも何度でも上演されています。『才女気取り』『タルチュフ』『守銭奴』『ドン・ジュアン』作品をあげたら切りがありません。
同時代の偉大な詩人ラ・フォンテーヌ(1621-95)は何よりも『寓話』で有名です。イソップの寓話をフランス語の詩にしたこの寓話集はフランス人に最も知られ、親しまれている作品です。最初の話が『蝉と蟻』です。もっとも日本では「アリとキリギリス」で知られていますが・・・(イソップの原話は「セミ」です。セミのいないイギリスやオランダではわからないので「セミ」という語を使えませんでした) -
【作家シャルル・ノディエの墓】
ノディエ(1780-1844)の怪奇小説集はおもしろい。彼は後のデュマやユゴーたち、ロマン派の先駆者兼リーダーとなりました。 -
【アルフレッド・ド・ミュッセの墓】
ロマン派といえば、早熟の天才詩人ミュッセ(1810-1857)がいます。ジョルジュ・サンドとの恋に破れたのは彼にとってひどい痛手でした。サンドはショパンと恋仲になりますから、なおさらです。サンドに愛された二人の天才がこの墓地に眠っているのですね。 -
【詩人ネルヴァルの墓】
詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-55)は小説も優れた作品を残しました(『火の娘』『オーレリア』)。
彼はフランスでは珍しく自殺という手段でこの世を去りました。ですから、当時大ニュースだったらしいです。 -
【ユゴー家の墓】
ロマン派の大詩人にして、小説『ノートルダム』『レ・ミゼラブル』の作者、巨人ヴィクトール・ユゴーは、今は偉人の霊廟「パンテオン」に眠っています。ここは彼の家族のものたちの墓です。
ところで、彼の愛する娘、恋に狂った(文字通り)アデールはここに眠っているのでしょうか(映画『アデールの恋の物語』をご覧ください。傑作です)。 -
【歌手マルセル・ムールジの墓】
僕にとってムールジ(1922-1994)の傑作はいつでも『小さなヒナゲシの花』です。
晴れ渡った空の下、真っ赤なヒナゲシの花のような血のしみを胸に残して死んでいく美しい乙女を歌ったこの歌はまさに耽美の極地です。 -
【歌手ジルベール・ベコーの墓】
ピアノの名手ジルベール・ベコー(1927-2001)は、数知れない曲を作曲しました。
僕個人としては、彼が「ソワレ・デ・ザンフォワレ(愚者たちのコンサート)」で陽気にピアノを弾いてコメディアンのスマインと掛け合いの歌を歌っている姿が印象的でした。 -
【音楽家ルマルクの墓】
フランシス・ルマルク(1917-2001)は三百曲以上は作曲したでしょう。「パリにて A Paris」はイヴ・モンタンも歌ったスタンダードです。 -
【嘆きの壁】
1871年5月22日から28日は「血の週間」と呼ばれています。
帝政崩壊後、プロシャに対し、屈辱的な講和条約(アルザス・ロレーヌ割譲)をよしとせず、徹底抗戦を叫んだ共和主義者たちが先鋭化し、ついに史上初めての労働者政府をパリに打ち立てました。世に言う「パリ・コミューン」です。
対して、ヴェルサイユに政府を移動したブルジョワ政府はコミューンへの徹底弾圧に乗り出しました。こうしてパリ市内を舞台にした壮烈な市街戦が勃発しました。
もともと劣勢のコミューン側はたちまちこのペール=ラシェーズ墓地に追いつめられてしまいました。墓地での戦いの結果、コミューン側は投降しましたが、この壁に並ばされて、即銃殺の憂き目にあったのです。この壁が「嘆きの壁」と呼ばれるのはそのためです。今だこの下に、花束が絶えません。
フランスが民主主義を樹立するためには、高い代価を払わねばならなかったのです。
合掌 -
【社会主義者ルドリュ=ロランの墓】
ルドリュ=ロラン(1807-74)は1848年の二月革命の立役者でしたが、ナポレオン3世と対立し、亡命を余儀なくされます。帝政崩壊とともに帰国し、国会議員に選出されますが、コミューンに加わりませんでした。 -
【マッセナの墓】
リヴォリ公、アンドレ・マッセナ(1758-1817)は革命時代に軍歴を重ね、昇進し、のち将軍、元帥になる。ナポレオンを取り巻く、猛将の一人でした。 -
【グーヴィヨン=サン=シールの墓】
グーヴィヨン=サン=シール(1764-1830)は画家から革命軍に身を投じ、ナポレオン時代に元帥にまで登り詰めました。 -
【ゴベール将軍の墓】
ジャック=ニコラ・ゴベール(1760-1808)も革命から帝政時代の将軍でした。 -
【ネー元帥の墓】
ナポレオンを取り巻く猛将の中でもひときわ光彩を放つのは、モスクワ大公の称号を与えられたミシェル・ネイ(1769-1815)でしょう。幾多の戦いで勝利したことでしょう。
ナポレオン失脚後、彼はブルボンのルイ18世に仕えることになりました。ところが、彼にとって運命的なニュースが舞い込みます。ナポレオンがエルバ島を脱出して、パリに迫っているというのです。彼は国王ルイに「ナポレオンの首にロープをつけて戻って来る」と約束し、大軍を率いて、ナポレオンに対峙します。
かつての片腕を見いだしたナポレオン、「やあ、ネイ、一緒に戦おう」
かつての盟友であり君主を見いだしたネイは、おそらくこの時死を覚悟したのでしょう。「もちろん陛下とともに」
こうして、ナポレオンの百日天下が始まりました。
ワーテルローの地で彼は獅子奮迅の戦いをしましたが、死に巡り会わず(わざと的になるようにしたと言われています)、のちに、銃殺刑に処せられました。
彼は、目の前で涙ながらに銃を構えるかつての部下たちに、「諸君、しっかり狙いたまえ、ここが心臓だ」と胸を指差して、言ったそうです。 -
【ルフェーヴルの墓】
フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル(1755-1820)は革命時代、ナポレオン時代の将軍・元帥でした。特に、ナポレオンの実質的な権力奪取となる、ブリュメールのクーデターにはルフェーヴルは後の皇帝に尽力しました。 -
【ナポリ王、ミュラの墓】
ジョアシャン・ミュラ(1767-1815)もナポレオンを取り巻く猛将の一人でした。彼は特に皇帝の信任厚く、妹カロリーヌと結婚したのでナポレオンとは義兄弟でもありました。ナポリ王としてナポリ改革にも意欲を見せました。
ナポレオン失脚後、ヨーロッパが旧体制に戻ったとき、ナポリ市民の窮状を耳にし、王位復帰を目指してナポリ帰国を果たしましたが、逮捕、銃殺されてしまいました。 -
【ナチスの犠牲者の墓】
「ここに、裏切りとナチスの暴虐の犠牲となった、一人の無名の方が眠る」と書かれています。
凱旋門の下の無名戦士の記念碑もそうでしたが、一人のひとを記念しているのは驚きます。と同時に、感心もします。というのは、一人はすべてに通じるとも言えるからです。 -
【ナチス犠牲者を悼む】
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【ナチス犠牲者を悼む】
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【アウシュヴィッツの犠牲者を悼む】
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【ナチス犠牲者を悼む】
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【ナチス犠牲者を悼む】
ペール・ラシェーズ墓地に眠る方々の冥福を祈ります。 -
【オースマン(1809-91)の墓】
パリ大改造で有名なオースマン男爵がセーヌ県知事になったのは1853年、ナポレオン三世が絶対権力を得た後だった。「花の都」パリができたのはやはり彼のおかげでしょう。 -
【記念碑】
正門からまっすぐ進みますと、正面に死者を悼むこの美しい記念碑があります。
合掌
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