
2006/08/20 - 2006/08/20
8495位(同エリア16739件中)
スキピオさん
パリはルーヴル美術館のある1区から、カタツムリのように時計まわりに回って、20区まであります。
僕の滞在地はいつも東側の20区、高級住宅街のある西側の16区とは対極の地です。庶民の匂いのするそんな地域をカメラ片手に散歩しました。
《テレグラフ通りの『子供を背負う白い男』メスナジェ作》
ジェローム・メスナジェ(1961生)は20区を中心に活躍する落書き芸術家、次々と〈白い男〉シリーズを作り上げます。
写真の建物は幼稚園、その壁に彼は、『黄金伝説』中で語られた〈イエスを背負うクリストフォロス〉を彷佛とさせる〈白い男〉を描きました。彼のセンスの良さがうかがい知れます。
優しさと逞しさ、詩情とメランコリー、町の芸術家たちは道行く人にさり気なくそんなメッセージを送リ続けます。
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僕の住処(所有しているのではなく友人から空いている時借りています、念のため)の最寄りのメトロ駅は、ベルヴィル通りとテレグラフ通りの交差点にあります。
ではなぜ「テレグラフ」かと言いますと・・・
クロ−ド・シャップ Claude Chappe という人をご存知でしょうか。この人はまだモ−スのテレグラフ(電信・電報)が発明される(1837・45年)前、電信柱ようのものの上に腕木信号機を付けて、電報のさきがけとしました。フランス大革命の真っ最中の1792、93年に彼は、このテレグラフ駅の近くで「高所腕木信号機」の実験をしました。そのためにここを通る通りにテレグラフの名が付いたというわけです。ちなみに、革命中、並びにナポレオン時代、フランス陸軍が無敵を誇った理由の一つに迅速に情報を伝達するこの「信号機」の活用があったという説があります。
ではなぜシャップはこの地点で実験を行なったのか?
ご推察の通り「テレグラフ駅」あたりはパリ北東部で最も高い位置にあって、海抜128メートルあります。シャップの実験にはうってつけの場所というわけです。参考ですが、モンマルトルの丘は130メートルですからほぼ同じ高さということになります。
《11号線の「テレグラフ駅」》
緑の木立のあるところが「ベルヴィルの墓地」、シャップはここで実験をしました。 -
そのもっとも高い「テレグラフ駅」から、メトロで3駅分くらいの長さの「ベルヴィル通り」を下ろうと思います。
この界隈は位置こそ高所にありますが、人情は下町です。一方通行の狭い通りを八百屋やパン屋、寝具屋や酒屋などが軒を列ねています。
《ベルヴィル通りの八百屋さん》 -
ベルヴィル通りを歩いていると途中に写真のようなおもしろい〈だまし絵〉ではなく〈だましオプジェ〉がありました。
看板を取り付ける作業をしているのかと思って「あぶないな」などと見ていても、彼らはいっかな動こうとしません。
右の壁に描かれているのはこのあたりを調査している探偵です。 -
それもそのはずです。何年もそのままでいるのですから。
彼らが取り付けている看板の文字は「言葉を信用してはいけない」と読めます。最初の看板と文言は変わったそうです。 -
少し行きますと、左側の72番地に不世出の天才歌手エディット・ピアフ Edith Piaf の生家があります(番地はセーヌ河を背にして左が1、右が2と数えます。ですから僕達は河に向かっていますから、左側が偶数番になります)。
日本でも『愛の讃歌』『バラ色の人生』で有名な歌手ですからご存知の方も多いと思います。
彼女はこのベルヴィル界隈で5・6歳から街角やカフェーのテーブルの上で歌っていたそうです。本当か嘘か知りませんが、今や伝説となった感のある話では、彼女は家計の足しになればと、街角で歌おうとした時、歌詞を覚えている唯一の歌は国歌の「ラ・マルセイエーズ」だったので、それを歌ったとか。
「1915年12月19日、赤貧洗うがごときなか、エディット・ピアフはこの家の階段上で生まれしも、やがてその声は世界を仰天せしめることとなる」こう書かれています。 -
ベルヴィル通りは下るにつれて(都心に近づくにつれて)、中国・ベトナム人の店が増え(中華のスーパーマーケットもあります)、通りの終点(つまりベルヴィル大通りとの交差点)にあるメトロの「ベルヴィル駅」周辺は、中華・ベトナム料理店が多数占めて、中華街の様相を呈しています。
焼そばやフォを召し上がりたい方はこのあたりに足を延ばして下さい。プラス・ディタリーの南にある中華街よりも安価な気がします。 -
火曜と金曜日にはベルヴィル大通りで市場が開かれ、大変なにぎわいを見せてくれます。バスチーユの市場と同様、何十mもの広さの大通りの中央にびっしり屋台が並びます。
《美味しそうなスイカ》(8月18日撮影) -
魚も豊富に並んでいます。店先で魚の単語をチェックして、レストランで生かします。
この市場から〈ベルヴィル公園〉に足を延ばすのも一興です。 -
フランス語を少しでも学んだ方なら Belleville という名の意味が「美しい町」だとおわかりになるかも知れません。ところが、Belleville は Belle vue が変形したのだそうです。つまり「美しい眺め」という意味だったのです。そうです、この町から、パリを一望できる「美しい眺め」を楽しめるのです。
《ベルヴィル公園からパリを一望》
エリック・ロメール監督の映画『パリのランデヴー』の舞台にもなりました。ベルヴィル・メニルモンタン地域の斜面にできた傾斜になった珍しい公園です。
珍しいと言えば、ここに珍しい〈空気博物館〉があります。 -
僕の住処に程近いところに「デュエ通り」があります。長さは400m位の短い通りですが、いいことかどうかわかりませんが、落書きには恵まれています。
ベルヴィル通り、デュエ通り、メニルモンタン通りは平行して東から西に向かっています。
《デュエ通りの「メスナジェ」》 -
ベルヴィル・メニルモンタン界隈でメスナジェと並んで有名な「ネモ」の作品です。二人は時にはコラボレーションもすることがあるそうですが、残念ながら今回は目にすることができませんでした。
《デュエ通りの「ネモ」》 -
塀は大切なカンバス、町に彩りを与えてくれる落書き画家に乾杯!
《デュエ通りの落書き》作者不詳 -
パリでもっとも狭い道「デュエ小路」(幅0.6m)に続く、家の壁と塀の上で〈白い男たち〉が躍動しています。
《もちろんメスナジェの作品》 -
デュエ通りとメニルモンタン通りを結ぶように広がる小公園、「メニルモンタン・スクエアー」
パリには庭園や公園以外にこのような小公園(フランス語で「スカール」)が至る所にあり、老人や母子、子守りと子どもたちの憩いの場となっています。
しかしヴァカンス中は写真のようにほとんど無人です。 -
メニルモンタン通りは、19世紀にアリスティード・ブリュアン(『ベルヴィル・・・メニルモンタン』1885年)、前世紀にはシャルル・トレネ(1938年)、モーリス・シュバリエ(『Mimie』1936年『La marche de Menilmontent』1942年)によって歌われた有名な通りです。それどころか、ブリュアンの曲は最近になっても色々な人、たとえばジョルジュ・ブラッサンスに歌われ(1980年)、トレネの歌は2002年にパトリック・ブリュエルのアルバム『両大戦間 Entre deux』でシャルル・アズナブールとデュエットを組んで歌われています。これが実にすばらしい(「これ」ってアルバムのこと?メニルモンタンという歌のこと?・・・両方です)。
《アルバム Entre deux の表紙》
左側に見えるのが現在最高峰の歌手のひとり、パトリック・ブリュエルです。
♪メニルモンタン、そうなんです、マダム
♪そこは、僕がハートを置いてきたところ
♪そこは、僕が魂と再会しに来るところ
♪そこは、僕の情熱のすべて、僕の幸福のすべて・・・
[シャルル・トレネ作詞・作曲](拙訳です) -
メニルモンタン界隈の特色は18世紀にまだ市税対象外の地域だったことから形成されました。つまり、安い飲み屋が軒を列ね、人が集まり、歓楽街への道を辿り、19世紀、オースマン知事以降になって市税が課せられてもその性格は残ったのです。
映画『天井桟敷の人々 Les enfants du Paradis』のヒロイン、ギャランスの出身地がメニルモンタンでした。ジャン=バチストがあの有名なパントマイムで彼女のぬれぎぬを晴らしたやったその晩、二人は偶然再会し、夜の見晴し台で語り合い恋に落ちます。
「ぼくは今晩を絶対忘れない、その瞳の光も」(ジャン=バチスト)
「光なんて、どこにでもあるわ・・・ほら、あの小さな光!メニルモンタンの小さな光よ」(はるか彼方の光を差しながら、ギャランス )
「わたしの生まれた町よ。長い間とても幸せだった・・・」(ギャランス )
《ノートル=ダム・ド・ラ・クロワ教会》メニルモンタン通り沿いの教会 -
《メニルモンタン通りの落書き》作者不詳
「でも僕の ouapiti はどこなの」と書いてあります(横文字部分は意味不明。どなたかおわかりでしたら、ご教示下さい)。 -
《メニルモンタン通りの「ネモ」の作品》
ネモの作品は、愉快な中にも詩情をたたえて、見る目を楽しませてくれます。 -
《ネモ》近撮
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メニルモンタン通りを下る途中、廃線となった線路にかかる橋のたもとに、ナチスの犠牲者を偲ぶプレートがありました。このような碑文はパリを歩いていると時々目に止まることがあります。たとえばパリのリヨン駅構内にもありました。
《1944年8月23日、ナチスの列車への勝利へと導く攻撃で倒れた英雄達を記念して。
ボルツ(フランソワ)38歳
ゴッドフレィ(ルイ)53歳
アジュマン50歳
そして二人の無名の愛国者
フランスのために命を捨てたこの勇者たちに不滅の栄光を》
こう書かれていました。 -
橋の下に今は使われていない線路が〈頑に〉通っています。この線路を通るナチスの列車に攻撃を仕掛けたのでしょう。
ド・ゴ−ル De Gaulle 将軍のパリ入城は8月25日でしたから、その二日前にパリ解放を知らないまま命を失ったことになります。なんとも惜しまれます。
この廃線は戦争のつめあととして永遠に保存されるのでしょう。 -
《メニルモンタン通りの落書き》
もちろん苛立ちを表現したような無秩序な落書きもあります。それもパリ。パリはなんでも呑み込んでしまう強靱な胃袋の持ち主です。 -
《メスナジェの作品》
マチスの『ダンス』を思わせる、楽しく、幸せそうな〈白い男たち〉。
「俺たちさ、メニルモンタンの若者は」と書いてあります。
メニルモンタン万歳!
このメスナジェの作品はメニルモンタン通りを登る時でなければ見えないかも知れません。僕は下っていましたが・・・
今年はこの通りの車線の舗装を全面的に修理していましたので車は一方通行となっています。工事が済んで石を敷き詰めたきれいな舗装になるとすばらしいのですが(まさかアスファルトやコンクリート舗装ではないでしょうね)。
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