jugiさんへのコメント一覧全2件
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生田神社。
jugiさん、今晩は。
街中にある社寺に付いて。
そもそも社寺には、僧兵が必ず居て兵糧確保のために領地を持っていた。
さらに、商工業を奨励させた社寺領地も有った。
庶民にとって社寺領地に住むことは、税金が安い、僧兵が居て比較的治安が良い、戦争の時庶民は動員されない(まず、僧兵が戦うから)。
この理由から、社寺領地に住む人が多くなっていきます。
一番大変なのは、武家領地に住むこと。
不作に成ると、年貢の取り立てが厳しくなる。
戦争の時、庶民も動員される。
社寺領地では、不作の時は全国各地の末社寺領地から寄進を受けるので、年貢に苦しむことがない。
もちろん、この逆も有りで、末社寺領が不作の場合、本社本山から賜米を受けることが出来る。
その名残で、生田神社近辺が栄えた街を形成しています。
こう言うような場所は、日本国中に残っています。
源平由来の来歴を置いて有るのは、鎌倉幕府以来の歴史を江戸幕府に豈に、当てつけてる。
墨水。 -
人手がいる。
初めまして、jugiさん今晩は。
丑の刻詣りするぐらいの気力が有れば、夜討ちとか・・・。
ん〜っ、夜討ちやるには人手が要るし、酒手を弾まないといけないし。
経費が掛かるよ〜〜っ。(笑)
経費掛けないで、強い恨みだけで事を終わらすには、丑の刻詣りしか無かったんじゃないかな。(笑)
京都御所は、応仁の乱で完全に灰燼に帰してしまい、暫くはこぢんまりとした館(正確には館とは言えない位の家)に住んでいて、室町幕府が再興するが時は戦国、戦火に焼かれる度に時の権力者達が増改築を繰り返して、最終的には江戸幕府が現在の形に整えた。
この時も、朝廷側が色々注文を出して来たのに対して、ヘキヘキした幕府が勝手なデザインの門を造って朝廷側を黙らせたとか、駆け引きが凄かったようです。
平清盛、木曾義仲、九郎判官義経、足利尊氏。
結局みんな、朝廷側の権謀術策に翻弄されていく。
だから、源頼朝は鎌倉に、徳川家康は江戸に幕府を置いた。
豊臣秀吉の大阪は、やはり京都に近すぎたと思う。
墨水。



