日比谷公園
公園・植物園
4.23
日比谷公園 クチコミ・アクセス・周辺情報
銀座・有楽町・日比谷 観光 満足度ランキング 1位
クチコミ・評判 19ページ目
361~380件(全2162件中)
-
もうすぐ桜のシーズンですが
- 4.5
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
- 0
-
見所たっぷりの都心のオアシス
- 5.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
分かりづらい彫刻
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
-
日本全国の県の木と一部の市の木
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
桜のお礼にアメリカから贈られてきた
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
フィリピンの国民的英雄
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
無造作に置かれている南極の片麻岩
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
-
古代北欧文字
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
仙台藩の外桜田上屋敷があった
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
立派な公園
- 4.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
すっきり綺麗な公園
- 3.5
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
- 0
-
江戸時代から昭和中期まで存在した京橋川を代表する橋梁(明治期)の遺構です!
- 3.5
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 2
『日比谷公園 京橋の欄干柱』は、現在の東京高速道路の「西銀座ジャンクション」付近(江戸城を囲む外濠)から「京橋ジャンクショ... 続きを読むン」(八丁堀・桜川に合流)付近まで、延長およそ600メートルの区間を西側から東側に流れる江戸時代に開削された運河として存在した「京橋川」を跨いで北側「日本橋」を起点とする「日本橋」エリアと南側「銀座」エリアを南北に結ぶ「中央通り(国道15号線)」の橋梁として1875年(明治8年)に架橋(現在の「銀座通り口」交差点付近)された石造アーチ橋(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートルの)である『京橋』の「欄干柱」部分で、1922年(大正11年)に照明設備付きの新たな「親柱」が設置された際に歴史を伝える遺物として、明治期の『京橋』の銘板が刻まれた「親柱」とあわせて「日比谷公園」に移設されています。
なお、明治期の「親柱」については、1934年(昭和9年)に『京橋』橋台などの整備にあわせて「日比谷公園」から再度『京橋』に移設されています。
その後に『京橋』は、東京高速道路の建設に伴い1959年(昭和34年)に「京橋川」の埋め立てとともに撤去され、『京橋』北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に1875年(明治8年)架橋の「親柱」が遺物として設置されています。
また『京橋』南橋詰跡東側には、大正期の照明設備付き「親柱」が設置されています。
そのほか『京橋』の歴史については、「日本橋」の架橋と同時期となる「徳川幕府」が誕生した1603年(慶長8年)に木造橋として架橋されたと伝わり、東海道の起点である「日本橋」から京へ上る最初の橋であったことから『京橋』の名が付けられたとされています。
江戸時代に『京橋』が描かれている浮世絵でも木造太鼓橋の「親柱」に「擬宝珠」が飾られていることが確認でき、江戸時代から重視されていた橋であることが伺えます。
ちなみに江戸府内で「擬宝珠」が飾られていた橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみで、徳川幕府による「御普請橋」として修復費などは徳川幕府が負担していました。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に「日比谷公園」西側の「霞門」から北東側の「有楽門」まで公園敷地内を通り抜けする際に『日比谷公園 京橋の欄干柱』の前を通り写真撮影をしました。
「欄干柱」だけを見ても『京橋』の文字などが刻まれていないので『京橋』の遺構であることが分かりませんでしたが、脇にある「解説板」を読み「欄干柱」上部に「擬宝珠」を施したデザインとすることで江戸時代の木造太鼓橋であった『京橋』の面影を表現していると感じました。
「日比谷公園」の園内には、『日比谷公園 京橋の欄干柱』のほかにもさまざまな遺構・記念碑など点在しているので四季折々の草花や樹木などの植物で癒されながら江戸時代から明治・大正・昭和の近代史などの歴史探索で楽しめる公園です。
機会があれば、「日比谷公園」敷地内の各所や『京橋』跡の「銀座通り口」交差点周辺を廻りながら歴史探索をしてみたいと思います・・・ 閉じる投稿日:2021/01/04
-
江戸城・濠跡の面影を偲び日比谷公園の開園にあわせて整備された和風池です!
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 4
『日比谷公園 心字池(しんじいけ)』は、「皇居外苑」の南側に広がる面積161,636.66平方メートルの敷地に日本初の「洋... 続きを読む風近代式公園」(洋風7割・和風3割)として1903年(明治36年)に開園した「日比谷公園」の園内北東側「有楽門」から東側「日比谷門」付近に開園当初から整備されている和風池です。
『心字池』とは、上から眺めるとその名前の通り「心」という文字をくずしたかのような形状をしているのが特長とされる池であり、鎌倉時代から室町時代に造られた庭園に見られる禅宗の影響を受けた日本庭園の伝統的な庭園作法のひとつとされています。
ちなみに「徳川家康」が江戸に入府する以前の「日比谷公園」一帯は、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がる地域であり、「徳川幕府」が開府された1603年(慶長8年)から本格的に行われた「江戸城」外濠や運河の開削工事などの江戸府内の大改造に伴い埋め立てられ幕末を向えるまでのおよそ400年に渡り各大名の上屋敷が建ち並ぶ地域に生まれ変わっています。
また『心字池』の北側部分となる現在の公園北東側「有楽門」付近には、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代に完成したとされる「江戸城」を囲むように外濠および内濠の要所に90箇所程度の見張り役の番兵が駐在する城門(門の内側に番兵が滞在できる番所を設置)が設置されていた中で特に「江戸城三十六見附」と呼ばれていた主要な見附のひとつとなる江戸城外郭城門の「日比谷御門(通称:日比谷見附)」が整備されていた場所でもあります。
この「日比谷見附跡」から現在の公園東側「日比谷門」付近までの「日比谷通り」沿いに残る「石垣」は、江戸時代初期の1627年(寛永4年)に「江戸城」の濠に沿って自然石を加工せずにそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」工法を用いて築造されたもので江戸時代初期の歴史的に貴重な遺構であり、「江戸城」の濠であった部分は「日比谷公園」を造成する際に濠の面影を偲び一部分を『心字池』として和風池に形を変えて「日比谷公園」に残されています。
そのほか「日比谷公園」は、1989年(平成元年)に「日本公園緑地協会」などにより「日本の都市公園100選」に選定されたほか、2006年(平成18年)に「都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会」により「日本の歴史公園100選」にも選定され、2007年(平成19年)になると景観法による「景観重要公共施設(景観重要都市公園)」に指定されるなど開園当初から現在に至るまで100年以上にわたり”東京のシンボル的公園”として庶民に親しまれている都立公園です。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に「日比谷公園」西側の「霞門」から公園敷地内を通り『心字池』や「日比谷見附跡」に立ち寄りました。
短時間でしたが、歴史などに関することを学ぶとともに江戸時代に大名屋敷が建ち並んでいた現在の「日比谷公園」から「江戸城」の濠の一部であった『心字池』や「日比谷交差点」にかかる位置にあった「日比谷御門」を通り「江戸城」に登城する大名たちの様子を想像して楽しむことができました。
「日比谷公園」の園内には、和風池の『心字池』や「日比谷見附跡」、洋風池の「雲形池」のほかに、さまざまな記念碑など点在しているので四季折々の草花や樹木などの植物で癒されながら江戸時代から明治・大正・昭和の近代史などの歴史探索で楽しめる公園であり、機会があれば再度「日比谷公園」敷地内の各所を廻りながら歴史探索をしてみたいと思います・・・ 閉じる投稿日:2020/09/27
-
日本で3番目に古い装飾用噴水として制作されたものです!
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 2
『日比谷公園 鶴の噴水』は、もともと「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がる地形であり、「徳川家康」が江戸に入府した以... 続きを読む降に埋め立てられ幕末まで大名の上屋敷が立ち並び明治維新後には「大日本帝国陸軍近衛師団練兵場」が設置されましたが、1903年(明治36年)にドイツの公園を範としながら部分的に日本庭園の手法も加えた日本初の「洋風近代式公園」(洋風7割・和風3割)として開園した「日比谷公園」西側部分の緑地帯に整備されたドイツ風庭園洋式の池「雲形池(くもがたいけ)」の中央部分に設置されている噴水です。
鶴が翼を広げて天を仰ぎくちばしから水を噴く姿の『鶴の噴水』は、園内の案内板によると1905年(明治38年)ごろに日本を代表する鋳金・鋳造の工芸家・彫金家であった東京美術学校(現在の東京芸術大学)の「津田信夫」氏と「岡崎雪声」氏の共同制作によるブロンズ製の装飾用噴水とされていますが、「日比谷公園」開園当初に設置されていたとされる資料もあるようです。
その後に昭和初期の太平洋戦時下になると『鶴の噴水』台座部分のブロンズが戦局の激化に伴う武器生産に必要な金属資源などの不足を補うための金属類回収令によって、現在の石造台座に改修されていまが、日本における装飾用噴水の設置された歴史として『鶴の噴水』が3番目に古い制作と言われています。
ちなみに日本最古と言われている装飾用噴水は、1878年(明治11年)ごろ「鎮西大社諏訪神社(長崎)」境内に奉納(現在は長崎公園内に復元された噴水が設置されています)されたものとされ、詳細は定かではありませんが1898年(明治31年)に開園した「箕面公園(大阪)」に設置(現存していません)されていたとされる噴水が2番目に古いと言われています。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に向かう際に「日比谷公園」の西側「霞門」から「雲形池」に立ち寄り北東側「有楽門」までの公園敷地内の区間を徒歩で通りました。
短時間でしたが、木々に囲まれた「雲形池」に響く『鶴の噴水』の心地よい水音に耳を傾けて和むことができました。
『鶴の噴水』が設置されている「雲形池」周辺は、四季折々の草花や樹木のほかにもさまざまな記念碑などがあるので、機会があればゆっくりと四季折々の「雲形池」周辺の景観とともに近代史について歴史探索などをしながら楽しみたいと思います・・・
ちなみに「日比谷公園」は、1989年(平成元年)に公園に対する愛護の精神を高め整備を推進するために「日本公園緑地協会」などが選定した「日本の都市公園100選」に選ばれ、2007年(平成19年)になると景観法による「景観重要公共施設(景観重要都市公園)」に指定されている都立公園であり、開園当初から現在に至るまで100年以上にわたり”東京のシンボル的公園”として庶民に親しまれています。 閉じる投稿日:2020/08/02
-
3つある
- 3.5
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 0
-
日本初の洋風近代式公園です!
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 4
皇居外苑の南側に広がる『日比谷公園』のある地域一帯は、江戸時代を向える以前まで「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がる... 続きを読む地形であり、その当時の名残りとなるのが「日比谷」の地名とされており、魚を追い込んだり海苔や牡蠣などを付着させるために竹などを浅瀬の海中に立て並べた漁法の呼び名である「ひび」に由来し、この漁法が盛んに行われていた漁村として「ひび」が沢山立ち並んでいたといわれています。
「徳川家康」が江戸に入府した2年後の1592年(天正20年)になると江戸城拡張(西の丸築城)工事により残土で「日比谷入江」の埋め立てが開始され、さらに「徳川幕府」が誕生した1603年(慶長8年)以降から外濠や運河の開削など江戸の街の大改造に伴い本格化した埋め立て事業により、「日比谷入江」は完全に姿を消しています。
その後、幕末を向えるまでの400年以上にわたり「萩藩・毛利家」をはじめとした大名の上屋敷が立ち並ぶようになり、明治維新後の1871年(明治4年)から1886年(明治19年)までの15年間にわたり「大日本帝国陸軍近衛師団練兵場」が設置されています。
江戸から東京に代わり近代化による開発が進む中、練兵場周辺に新しい建物が建ち始めると「大日本帝国陸軍近衛師団練兵場」が青山に移転され、埋め立て地である軟弱地盤で建物の建築が不適とされていた「大日本帝国陸軍近衛師団練兵場」跡地(敷地面積:161,636.66 平方メートル)については、「日比谷通り」など周辺の道路道路整備と合わせて1889年(明治22年)に『日比谷公園』として整備することが決定され、1903年(明治36年)にドイツの公園を範としながら部分的に日本庭園の手法も加えた日本初の「洋風近代式公園」(洋風7割・和風3割)として開園した『日比谷公園』が、その後の国内における都市公園モデルにもなっています。
『日比谷公園』の園内には、江戸城外郭城門であった「日比谷御門(通称:日比谷見附)」の石垣とともに江戸城中濠の一部が「心字池」として残されているほか、開園当初から開業している老舗洋風レストラン「松本楼」、1905年(明治38年)に初演が行われた国内初の野外音楽堂「日比谷音楽堂(現在の小音楽堂)」、1908年(明治41年)に開館した「日比谷図書館」、1923年(大正12年)に「日比谷大音楽堂(通称:野音・やおん)」が開設されるなど、開園当初から現在に至るまで100年以上にわたり”東京のシンボル的公園”として庶民に親しまれており、2007年(平成19年)に景観法による「景観重要公共施設(景観重要都市公園)」に指定されている都立公園です。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に『日比谷公園』の西側「霞門」から北東側「有楽門」までの公園敷地内を通りました。
『日比谷公園』の代表的な景観として雑誌などメディアで紹介される際の撮影スポットでもある「大噴水・第二花壇」周辺エリアなどが整備工事中でしたが、四季折々の草花や樹木、各種イベントのほかにの各所にさまざまな記念碑などがあり江戸時代から明治・大正・昭和の近代史までの歴史探索などで楽しめる公園です。
以前にも「丸の内音頭大盆踊り大会」のイベントを目的に訪れたことがありますが、機会があれば再度『日比谷公園』の園内各所を廻りながら記念碑など探索をしてみたいと思います・・・ 閉じる投稿日:2020/06/21
-
冬場の日比谷公園
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 0
-
江戸時代初期の築造とされる貴重な遺構です!
- 3.5
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 6
『日比谷見附跡』は、江戸時代初期である徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代に完成したとされる「江戸城」を囲むように外濠およ... 続きを読むび内濠の要所に90箇所程度設置されていたとされる見張り役の番兵が駐在する城門(門の内側に番兵が滞在できる番所を設置)で、特に「江戸城三十六見附」と呼ばれていた見附の中のひとつとなる江戸城外郭城門・『日比谷御門(通称:日比谷見附)』であった石垣の一部が、現在の「日比谷公園」敷地内・北東部に位置する「心字池(しんじいけ)」に沿って残されています。
この石垣は、江戸時代初期の1627年(寛永4年)に安芸広島藩初代藩主である「浅野長晟」が幕府の命により濠に沿って自然石を加工せずにそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」工法を用いて築造された貴重な遺構であり、「日比谷公園」を造成する際に濠の面影を偲び石垣とともに濠の一部も「心字池」として残されています。
『日比谷見附跡』へのアクセスは、東京メトロ日比谷線・千代田線および都営地下鉄三田線「日比谷駅」のA10出入口から「丸の内警察署 日比谷公園前交番」がある「日比谷交差点」の「有楽門」から「日比谷公園」敷地内に入ってすぐの場所に位置します。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に「日比谷公園」西側の「霞門」から公園敷地内を通り『日比谷見附跡』に立ち寄り歴史などに関することを学ぶとともに江戸時代に大名屋敷であった現在の「日比谷公園」から「日比谷交差点」にかかる位置にあった『日比谷御門』を通り「江戸城」に登城する大名たちの様子を想像して楽しむことができました。
1903年(明治36年)に日本初の「洋風近代式公園」として開園した「日比谷公園」敷地内には、『日比谷見附跡』のほかにも江戸時代から明治・大正・昭和の近代史までの歴史探索などで楽しめる公園です。
機会があれば再度「日比谷公園」敷地内の各所を廻りながら歴史探索をしてみたいと思います・・・ 閉じる投稿日:2020/04/12
-
工事中?でした
- 3.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 0
-
ひっそり佇むホセリサール博士の像
- 3.5
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
- 0
投稿写真
基本情報(地図・住所・アクセス)
このスポットに関するQ&A(0件)
日比谷公園について質問してみよう!
銀座・有楽町・日比谷に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
-
さきさん
-
Masakatsu Yoshidaさん
-
糸の切れた凧さん
-
はくかるかるさん
-
shojiさん
-
Clearwaterさん
- …他
周辺スポット
周辺のおすすめホテル
-
地図で見る