如己堂 永井隆記念館
美術館・博物館
3.42
如己堂 永井隆記念館 クチコミ・アクセス・周辺情報
長崎市 観光 満足度ランキング 45位
2畳一間の小さな庵は聖書の一節「己の如く人を愛せよ」という言葉により如己(にょこ)堂と名付けられた。如己堂の隣にはこれらの資料を収めた永井隆記念館があります。
ピックアップ クチコミ
-
満足度の高いクチコミ
医学博士で長崎市名誉市民第一号の永井隆博士の記念館と住居跡
4.0
- 旅行時期 2023/07
- by teratanichoさん
平和公園の平和祈念像から東へ徒歩5分に建つ医学博士永井隆の記念館と住居跡・如古堂。永井隆は放射線医学者で、戦時中レントゲン... 続きを読むフィルム不足により多量の放射線を受けて、白血病と診断され余命3年の宣告を受けながらも診察を続けたそうです。爆心地から700mの長崎医科大学で被爆し、重傷を負いながら救護活動をしたそうです。白血病の悪化で寝たきりとなってカトリック信者の厚意で建てられたのが記念館の隣の木造の如古堂です。 閉じる
クチコミ・評判 2ページ目
21~40件(全53件中)
-
永井の高潔さに頭が下がる
- 5.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
- 0
-
如己堂は暗くなっても間近で眺めることが可能です
- 4.0
- 旅行時期:2018/12(約7年前)
- 0
-
ここはぜひ訪れたい
- 5.0
- 旅行時期:2018/09(約7年前)
- 0
-
-
平和公園近くにあります。
- 3.5
- 旅行時期:2018/04(約8年前)
- 0
-
偉人の家
- 3.0
- 旅行時期:2018/02(約8年前)
- 0
-
長崎の偉人であり聖人でもある大先生です。
- 5.0
- 旅行時期:2017/09(約8年前)
- 19
永井隆博士、島根県に生まれ長崎医大(現長崎大医学部)を卒業した医師であり随筆家でもあります。大学時代に浦上にあるカトリック... 続きを読むの森山家に下宿したことでカトリックの教えに帰依を深めるようになります。医大卒業時に早大として当時を読む予定が、急性中耳炎になったことで聴力が低下してしまい、当初希望していた内科医を諦めて、聴診器を使わないという理由で放射線科医になりました。
その後短期軍医として満州事変に従事し、除隊後に医大研究室助手に復帰し、まもなく洗礼を受けることになりました。同年8月には森山緑と結婚し、洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会に入会し、無料診断・無料奉仕活動などを行いました。この頃に培った奉仕の精神が晩年の行動へと結びついて行ったとされています。その後再び日中戦争に軍医中尉として従軍し、日本軍のみならず中国人への医療も行っておられたそうです。
除隊して帰国した後の第二次世界大戦中は結核のX線検診に従事していましたが、フィルム不足により透視による診断を行っていたため、被曝による白血病と診断され余命3年と宣告されることになります。そして昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、勤務先の長崎医大で被爆し、右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻き付けて救護活動に当たられました。しかし白血病は博士の体を蝕んでおり、悪化しつつも奇跡的に復活したりという状態を繰り返していたそうです。しかし翌年1月には長崎駅前で倒れ、その後は病床に伏すことになります。
昭和23(1948)年3月に博士が療養を行うための庵として『如己堂(にょこどう)』が浦上の住民やカトリック関係者の手によって完成します。同年10月には来日中のヘレン・ケラーのアポなしでの見舞いを受けています。その後長崎大教授を辞した永井博士は長崎市名誉市民の称号を与えられています。
昭和26(1951)年4月には右肩内出血により執筆が不可能になります。そして5月1日、医学生に白血病の最後を見せるために長崎大病院に入院し、一旦は症状が安定したため自宅に戻るも、夜に再び意識不明となり病院へと運ばれます。そして一度意識を取り戻した際に十字架を受け取り、『祈って下さい』と叫んで亡くなられたそうです。享年43歳でした。
『己の如く人を愛せよ』と永井博士自らが名付けた『如己堂』、今なお内部が見学できるものではありますが、お世辞にも奇麗だとは言えません。粗末で本当に小さなスペースしか持たない建物ですが、それを愛した永井博士の『想い』は、到底私たち凡人が想像すらできないレベルのことだと思います。
確かに死の直接な原因が原爆による被爆とするには無理があるようにも考えらえます。しかし自らの危険を顧みずに医師として治療行為を行い、同時に核兵器の廃絶を『子供』に掛けて論じ、加えてカトリックの奉仕精神を説いた永井博士の偉業を一言で言おうとしても言葉が見つかりません。永井博士の大切なものとして説いた『子供』に纏わるものとして、永井隆記念館内の子供図書館、そして山里小学校構内にある『あの子らの碑』等があります。博士のことを少しでもよく知りたいのであれば、やはりこれらガイドブックに載らない場所も訪れる必要を感じました。 閉じる投稿日:2017/10/07
-
時間がなかったので
- 3.0
- 旅行時期:2017/04(約9年前)
- 0
-
-
平和公園から歩いて5分
- 3.5
- 旅行時期:2017/04(約9年前)
- 1
-
長崎医大のドクター
- 4.0
- 旅行時期:2017/03(約9年前)
- 0
-
永井博士の永遠の住み家
- 3.0
- 旅行時期:2017/03(約9年前)
- 0
-
己の如く人を愛せよ…
- 5.0
- 旅行時期:2015/09(約10年前)
- 4
-
如己愛人の精神
- 4.0
- 旅行時期:2015/06(約11年前)
- 0
-
にょこどう
- 3.5
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
- 0
-
永井博士を知らない人にこそおススメ
- 4.0
- 旅行時期:2015/03(約11年前)
- 0
-
原爆被害を学ぶなら、必ず訪れたい場所です
- 4.0
- 旅行時期:2015/03(約11年前)
- 0
「長崎の鐘」で有名な永井隆博士が、逝去までの三年間を暮らした場所として有名。「如己堂」という名前の由来は「己の如く人を愛せ... 続きを読む」という言葉からきているそうだ。
実際に行ってみると、「こんなに小さな家なのか!」と驚かざるを得ない。
部屋は十字架を置く場所があり、畳の上に布団を敷き机を置くだけの広さがあるだけだ。
戦後の物資不足の時代とはいえ、長崎医科大学助教授・医学博士という肩書の人物が、ここで静かに執筆活動をしていたとは、その清貧な精神力に感嘆せざるを得ない。
私は宗教を信じるものではないし、むしろその副作用を嫌う人間だ。けれども、マザー・テレサとか、レ・ミゼラブルのミリエル司教など、ときに、いや稀に(笑)、宗教が人間離れをした人格の持ち主を産むことは否定しない。
永井博士もおそらくその一人だったのだろう。
かつて原爆投下後の荒野と化していた如己堂周辺ですが、現在はとても静かな住宅街になっています。 閉じる投稿日:2015/03/06
-
被爆を知るために
- 4.0
- 旅行時期:2014/12(約11年前)
- 1
-
是非本や映画を見てから・・・
- 3.5
- 旅行時期:2014/03(約12年前)
- 0
-
永井博士のご冥福を祈ります。
- 3.5
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
-
医師として被爆者として平和を祈って多くの著書を残した永井博士の記念館、行って良かった
- 4.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
-
長崎へ来たらぜひ訪れてほしい場所
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 3
投稿写真
基本情報(地図・住所・アクセス)
- 施設名
- 如己堂 永井隆記念館
- 住所
-
- 長崎県長崎市上野町22-6
-
- 大きな地図を見る
- 電話番号
- 095-844-3496
- アクセス
- 長崎市 路面電車 10分
- 予算
- 【料金】 100円(小中高校生無料)
- その他
- バリアフリー設備: 障がい者用P○
バリアフリー設備: 車椅子貸出○
バリアフリー設備: 車椅子対応スロープ○
バリアフリー設備: 車椅子対応トイレ○
バリアフリー設備: 盲導犬の受け入れ○
バリアフリー設備: 割引○
- 公式ページ
- 詳細情報
※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。
このスポットに関するQ&A(0件)
如己堂 永井隆記念館について質問してみよう!
長崎市に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
-
harusuさん
-
teratanichoさん
-
たびたびさん
-
ひでじいさんさん
-
sirokuma123さん
-
AAAIKOさん
- …他