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如己堂 永井隆記念館

美術館・博物館

如己堂 永井隆記念館 施設情報・クチコミに戻る

長崎の偉人であり聖人でもある大先生です。

  • 5.0
  • 旅行時期:2017/09(約8年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

長崎市 クチコミ:57件

永井隆博士、島根県に生まれ長崎医大(現長崎大医学部)を卒業した医師であり随筆家でもあります。大学時代に浦上にあるカトリックの森山家に下宿したことでカトリックの教えに帰依を深めるようになります。医大卒業時に早大として当時を読む予定が、急性中耳炎になったことで聴力が低下してしまい、当初希望していた内科医を諦めて、聴診器を使わないという理由で放射線科医になりました。

その後短期軍医として満州事変に従事し、除隊後に医大研究室助手に復帰し、まもなく洗礼を受けることになりました。同年8月には森山緑と結婚し、洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会に入会し、無料診断・無料奉仕活動などを行いました。この頃に培った奉仕の精神が晩年の行動へと結びついて行ったとされています。その後再び日中戦争に軍医中尉として従軍し、日本軍のみならず中国人への医療も行っておられたそうです。

除隊して帰国した後の第二次世界大戦中は結核のX線検診に従事していましたが、フィルム不足により透視による診断を行っていたため、被曝による白血病と診断され余命3年と宣告されることになります。そして昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、勤務先の長崎医大で被爆し、右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻き付けて救護活動に当たられました。しかし白血病は博士の体を蝕んでおり、悪化しつつも奇跡的に復活したりという状態を繰り返していたそうです。しかし翌年1月には長崎駅前で倒れ、その後は病床に伏すことになります。

昭和23(1948)年3月に博士が療養を行うための庵として『如己堂(にょこどう)』が浦上の住民やカトリック関係者の手によって完成します。同年10月には来日中のヘレン・ケラーのアポなしでの見舞いを受けています。その後長崎大教授を辞した永井博士は長崎市名誉市民の称号を与えられています。

昭和26(1951)年4月には右肩内出血により執筆が不可能になります。そして5月1日、医学生に白血病の最後を見せるために長崎大病院に入院し、一旦は症状が安定したため自宅に戻るも、夜に再び意識不明となり病院へと運ばれます。そして一度意識を取り戻した際に十字架を受け取り、『祈って下さい』と叫んで亡くなられたそうです。享年43歳でした。

『己の如く人を愛せよ』と永井博士自らが名付けた『如己堂』、今なお内部が見学できるものではありますが、お世辞にも奇麗だとは言えません。粗末で本当に小さなスペースしか持たない建物ですが、それを愛した永井博士の『想い』は、到底私たち凡人が想像すらできないレベルのことだと思います。

確かに死の直接な原因が原爆による被爆とするには無理があるようにも考えらえます。しかし自らの危険を顧みずに医師として治療行為を行い、同時に核兵器の廃絶を『子供』に掛けて論じ、加えてカトリックの奉仕精神を説いた永井博士の偉業を一言で言おうとしても言葉が見つかりません。永井博士の大切なものとして説いた『子供』に纏わるものとして、永井隆記念館内の子供図書館、そして山里小学校構内にある『あの子らの碑』等があります。博士のことを少しでもよく知りたいのであれば、やはりこれらガイドブックに載らない場所も訪れる必要を感じました。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
大橋電停より徒歩5分位。
コストパフォーマンス:
5.0
永井隆記念館は入館料100円です。
人混みの少なさ:
1.0
修学旅行とかち合いました。
展示内容:
5.0
永井博士の心に触れられた気がします。
バリアフリー:
5.0
スロープが切ってあります。

クチコミ投稿日:2017/10/07

いいね!:19

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