令和2年1月12日(日)に母と参拝。
毎年、鬼を払い福を呼ぶ効果のある最強のお札、牛玉寳印(ごおうほういん・お志1000...
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拝観料400円を入り口の授与所で納めると、早速見えてくるのが、三基の鳥居。
壱の鳥居は江戸時代に建立、弐と参の鳥居は平成10年(1998)の再建で、本体と支え棒に屋根のかかった造り。
なんだか厳島神社(広島)の大鳥居をミニチュアにしたようなデザイン。
境内に辯天堂があり、厳島神社の御祭神の一柱である、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が神仏習合の世界では辯天様と御同体とされているからかなあ。
ともあれ参の鳥居をくぐると、縁起や田村信仰について詳しいパネルがあった。
それによると、時は第五十代・桓武天皇の御代。
悪路王らがこの窟に城を構え、良民を苦しめ、女子供をかすめる悪行三昧。
そこへ坂上田村麿大将軍が現れ、延暦20年(801)ついに、悪路王一味を征伐。
毘沙門天の御加護と感謝し、当地に清水寺を模したお堂を建立なさったのが始まりだとか。
蝦夷の英雄と呼ばれた「アテルイ」も朝廷側から見ればまあそりゃ朝敵だが、馬賊にも劣らん書かれようをされると憐れだなあ。
まあ、そのアテルイの除名嘆願をし、統治に活用しようとしたのが何を隠そう坂上大将軍なのだから、人格者であるには変わりなかろうに。
次に毘沙門堂の階(きざはし)を昇るために向かうと、その入り口に阿吽の狛犬が、こんなところにまで神仏混淆なり。
毘沙門堂の内部は撮影禁止なり。
内部の様子はとういうと、毘沙門さまが奥にずらっと鎮座しており、三十三間堂には劣るが、それに近い雰囲気。
真ん中らへんに目が白黒はっきりして眼力を感じる毘沙門さまが、右に顔が肌色の毘沙門さま、左に顔が黒い毘沙門さまが。
特に右の毘沙門さまは安置されてから日が浅いせいか色が艶やかで、「坂上大将軍もこのような方だったのかなあ、スーパーマンみたいだなあ」と思わずにはいられまいに。
祭壇の上部をみあげれば、ごつごつしたものが、ここが岩肌につくられたお堂だと言うことを思い知らされる。
昨年は毘沙門さまとお札のお蔭で無事に過ごせたことを感謝し、灯明(お志50円)を捧げる。
そのとなりには、参拝の目的である牛玉寳印が大量にストックされていた。
お志を納め、今年もお札を頂けたことに感謝。
このお札は、1月8日の大体14時以降に修正会の御祈祷が結願して以降頂ける。
11月末には御祈祷のため結界がはられて、頂けなくなるので注意が必要。
まあ、その前の9月ぐらいにストックは切れるらしいが。
また、遠方の方には郵送していただけるので、興味のある方は是非お札の霊験に授かれるといいですね。
最後にまとめて。
昭和21年に大火があって、毘沙門堂や辯天堂が焼失したので、昔ながらの建物は姫待不動堂(寛政元年・1789)や鐘楼(慶長20年・1615)くらいなものである。
しかしながら、何もない殺風景な境内にしないように工夫されており(手っ取り早い言い方をすれば元々あった毘沙門堂や辯天堂、金堂の再建)、その点のご苦労が忍ばるる。
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投稿日:2020/01/12