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兵庫県を主体とした、山陰の名所巡りの締め括りです。見学が終わってすぐに出石城下町は大雨になり、途中も雨でしたが、名古屋に着いた時には雨は上がっていました。名古屋も大雨だったようです。(ウィキペディア・その他)

2017夏、兵庫と島根の名所(15/15):7月24日(8):出石城下町(6):桂小五郎隠れ家

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2017/07/23 - 2017/07/24

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旅行記グループ 2017夏、山陰の名所巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

兵庫県を主体とした、山陰の名所巡りの締め括りです。見学が終わってすぐに出石城下町は大雨になり、途中も雨でしたが、名古屋に着いた時には雨は上がっていました。名古屋も大雨だったようです。(ウィキペディア・その他)

交通手段
観光バス

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  • 現在の出石は、人口2000人の小さな城下町ですが、見所は色々とありました。散策スポットは、出石城址、辰鼓楼、家老屋敷、桂小五郎の隠家址、出石蕎麦、神社・お寺巡り、土産物屋巡りなどです。出石城と同時に続日本百名城選ばれた有子山城のほか、更に古い時代の此隅山城も近くにあります。(同上)

    現在の出石は、人口2000人の小さな城下町ですが、見所は色々とありました。散策スポットは、出石城址、辰鼓楼、家老屋敷、桂小五郎の隠家址、出石蕎麦、神社・お寺巡り、土産物屋巡りなどです。出石城と同時に続日本百名城選ばれた有子山城のほか、更に古い時代の此隅山城も近くにあります。(同上)

  • 左端に見える土壁は、造り酒屋の建物です。先ほどの写真に見えていた煙突も、造り酒屋のものかも知れません。『楽々鶴(ささづる)』を醸造している出石酒造です。正面の石垣を右に折れて、その先に進みました。(同上)

    左端に見える土壁は、造り酒屋の建物です。先ほどの写真に見えていた煙突も、造り酒屋のものかも知れません。『楽々鶴(ささづる)』を醸造している出石酒造です。正面の石垣を右に折れて、その先に進みました。(同上)

  • 先程の写真で右手に見えていた、お寺の入口脇にあった、『当山縁由』の説明看板です。当山とは『舟橋山・本高寺』のことでした。康生元年(1455年)に遡るお寺の縁起が記されていました。この地に移ったのは、慶安3年(1650年)の時のようです。(同上)<br />

    先程の写真で右手に見えていた、お寺の入口脇にあった、『当山縁由』の説明看板です。当山とは『舟橋山・本高寺』のことでした。康生元年(1455年)に遡るお寺の縁起が記されていました。この地に移ったのは、慶安3年(1650年)の時のようです。(同上)

  • 石段の下から見上げた、『舟橋山・本高寺』の山門光景です。時間の都合で、山門を潜るのは端折りました。慶安3年(1650年)、出石藩主の小出吉英公の庇護により境内の整備が行われた古刹です。出城のような機能も持っているような造りでした。(同上)

    石段の下から見上げた、『舟橋山・本高寺』の山門光景です。時間の都合で、山門を潜るのは端折りました。慶安3年(1650年)、出石藩主の小出吉英公の庇護により境内の整備が行われた古刹です。出城のような機能も持っているような造りでした。(同上)

  • 石段の左脇にあった石標には、『浄土宗清船山・昌念寺』の文字がありました。城下町では、御城の前線防衛基地としてお寺や神社があることは珍しくありませんが、このお寺も、堂々とした石垣を積んだ城塞そのもののような雰囲気があります。幕末の頃、出石に隠れ住んだ桂小五郎が息抜きに碁を打っていたと伝わるお寺です。(同上)

    石段の左脇にあった石標には、『浄土宗清船山・昌念寺』の文字がありました。城下町では、御城の前線防衛基地としてお寺や神社があることは珍しくありませんが、このお寺も、堂々とした石垣を積んだ城塞そのもののような雰囲気があります。幕末の頃、出石に隠れ住んだ桂小五郎が息抜きに碁を打っていたと伝わるお寺です。(同上)

  • 『出石史料館』の建物光景です。主屋、離れ、土蔵から構成される1870年代築の豪商の旧邸を出石町が譲り受け、1977年に歴史資料館として公開された施設です。(同上)

    『出石史料館』の建物光景です。主屋、離れ、土蔵から構成される1870年代築の豪商の旧邸を出石町が譲り受け、1977年に歴史資料館として公開された施設です。(同上)

  • 『出石史料館』の建物の玄関付近のズームアップ光景です。見学する時間の余裕はありませんでしたから、建物だけの紹介です。館内には、仙石騒動や藩政の記録をはじめとする出石藩関係の史料、古地図、武具、茶臼山古墳からの出土品等が展示されています。『仙石騒動』は、『江戸時代の三大お家騒動』の一つとされる出石藩の御家騒動です。(同上)

    『出石史料館』の建物の玄関付近のズームアップ光景です。見学する時間の余裕はありませんでしたから、建物だけの紹介です。館内には、仙石騒動や藩政の記録をはじめとする出石藩関係の史料、古地図、武具、茶臼山古墳からの出土品等が展示されています。『仙石騒動』は、『江戸時代の三大お家騒動』の一つとされる出石藩の御家騒動です。(同上)

  • 出石城下町の古い街並み光景が続きます。このお店には、『手打ち皿蕎麦・古都』の看板がありました。50軒はあると言われる、出石皿蕎麦のお店の内の一軒です。(同上)

    出石城下町の古い街並み光景が続きます。このお店には、『手打ち皿蕎麦・古都』の看板がありました。50軒はあると言われる、出石皿蕎麦のお店の内の一軒です。(同上)

  • 平べったい花を咲かせた、フヨウかハイビスカスのような花です。白地に薄いピンク色が入っていました。アメリカフヨウ(アメリカ芙蓉)のようでした。クサフヨウ(草芙蓉)の呼び名もあります。(同上)<br />

    イチオシ

    平べったい花を咲かせた、フヨウかハイビスカスのような花です。白地に薄いピンク色が入っていました。アメリカフヨウ(アメリカ芙蓉)のようでした。クサフヨウ(草芙蓉)の呼び名もあります。(同上)

  • こちらも、大きくて平べったい紅い花を咲かせた、アメリカフヨウです。アオイ科フヨウ属(ハイビスカス属)の植物です。アメリカのアラバマ州が原産地とされます。(同上)

    こちらも、大きくて平べったい紅い花を咲かせた、アメリカフヨウです。アオイ科フヨウ属(ハイビスカス属)の植物です。アメリカのアラバマ州が原産地とされます。(同上)

  • 『ハンゲショウ(半夏生)』のようなイメージの葉を持った植物の紹介です。黄色の小さな花が咲いていました。『コンロンカ(崑崙花)』でした。中国原産のアカネ科コンロンカ属の植物です。マレーシアで泊まったホテルの庭で目にした記憶があります。白い部分は花ではなく、萼片です。(同上)

    『ハンゲショウ(半夏生)』のようなイメージの葉を持った植物の紹介です。黄色の小さな花が咲いていました。『コンロンカ(崑崙花)』でした。中国原産のアカネ科コンロンカ属の植物です。マレーシアで泊まったホテルの庭で目にした記憶があります。白い部分は花ではなく、萼片です。(同上)

  • 外から眺めただけですが、庭木の手入れなどが行き届いていたように見受けたお寺の光景です。三門右の黒い石盤に記された由縁の末尾に『西方寺』の文字がありました。浄土真宗本願寺派のお寺のようです。(同上)

    外から眺めただけですが、庭木の手入れなどが行き届いていたように見受けたお寺の光景です。三門右の黒い石盤に記された由縁の末尾に『西方寺』の文字がありました。浄土真宗本願寺派のお寺のようです。(同上)

  • 正面奥の山の中腹に白い建物が見えていました。屋根の向きから見て、出石城址に再建された本丸西隅櫓のようでした。この場所から南側に向けての街並み光景になります。(同上)

    正面奥の山の中腹に白い建物が見えていました。屋根の向きから見て、出石城址に再建された本丸西隅櫓のようでした。この場所から南側に向けての街並み光景になります。(同上)

  • 出石城下町に数多くあったお寺の紹介です。実は、後で気が付きましたが、先に裏側から入って見学した『祇林山・高福寺』でした。右端が鐘楼、中央奥が本堂、左端が正門になる山門です。(同上)

    出石城下町に数多くあったお寺の紹介です。実は、後で気が付きましたが、先に裏側から入って見学した『祇林山・高福寺』でした。右端が鐘楼、中央奥が本堂、左端が正門になる山門です。(同上)

  • 『祇林山・高福寺』の山門光景です。右手の石標に、『浄土真宗本願寺派・祇林山・高福寺』の文字が刻まれていました。(同上)

    『祇林山・高福寺』の山門光景です。右手の石標に、『浄土真宗本願寺派・祇林山・高福寺』の文字が刻まれていました。(同上)

  • 写真の中央付近に見える箱庭のような場所が、幕末の時代、桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』です。石碑や説明立札が建っていました。 桂小五郎(1833~1877年)は、長州藩出身、吉田松陰の教えを受け、藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物となりました。幕府側から常時命を狙われていましたが、京都で活動を続けました。(同上)

    写真の中央付近に見える箱庭のような場所が、幕末の時代、桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』です。石碑や説明立札が建っていました。 桂小五郎(1833~1877年)は、長州藩出身、吉田松陰の教えを受け、藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物となりました。幕府側から常時命を狙われていましたが、京都で活動を続けました。(同上)

  • 少しズームアップした、箱庭のような桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』の光景です。桂小五郎は、毛利元就の七男・天野元政の血を引く藩医・和田昌景の長男として、長門国萩城下で生まれました。剣術に励み、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎と名乗りました。(同上)

    イチオシ

    少しズームアップした、箱庭のような桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』の光景です。桂小五郎は、毛利元就の七男・天野元政の血を引く藩医・和田昌景の長男として、長門国萩城下で生まれました。剣術に励み、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎と名乗りました。(同上)

  • 『桂小五郎居住跡(荒物屋跡)』のタイトルがあった説明立看板の光景です。少し拾い読みしますと、元治元年(1864年)、『禁門の変』に敗れた長州藩は朝敵となり、桂小五郎(後の木戸孝允)も境を逃れ、この地に隠れ住みました。この説明文には記されていませんが、この地を含め、転々と移り住んだようです。出石観光協会名での立札でした。(同上)

    『桂小五郎居住跡(荒物屋跡)』のタイトルがあった説明立看板の光景です。少し拾い読みしますと、元治元年(1864年)、『禁門の変』に敗れた長州藩は朝敵となり、桂小五郎(後の木戸孝允)も境を逃れ、この地に隠れ住みました。この説明文には記されていませんが、この地を含め、転々と移り住んだようです。出石観光協会名での立札でした。(同上)

  • 中央の縦長の石碑には、読み取れない文字がたくさんありましたが、大意で、『勤王の志士の桂小五郎が再生した地』と記されているようでした。明治維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から『政体書』による『官吏公選』などの諸施策を建言し続けました。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して亡くなりました。政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったと伝わります。(同上)

    中央の縦長の石碑には、読み取れない文字がたくさんありましたが、大意で、『勤王の志士の桂小五郎が再生した地』と記されているようでした。明治維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から『政体書』による『官吏公選』などの諸施策を建言し続けました。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して亡くなりました。政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったと伝わります。(同上)

  • 幕末の時代、桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』付近の街並み光景です。若い頃によく読んだ作家の一人が司馬遼太郎さんでしたが、知らない内に、明治維新では司馬史観が沁み込んでしまっていたようです。最近読んだ明治維新を再考させる原田さんの本には強い刺激を受けました。(同上)

    幕末の時代、桂小五郎が隠れ住んだとされる『荒物屋跡』付近の街並み光景です。若い頃によく読んだ作家の一人が司馬遼太郎さんでしたが、知らない内に、明治維新では司馬史観が沁み込んでしまっていたようです。最近読んだ明治維新を再考させる原田さんの本には強い刺激を受けました。(同上)

  • 賑やかな飾りがあったお店の前の光景です。飾られていたのではなく、『延命地蔵尊』が祀られていました。小さな石像も置かれ、花も手向けられていました。(同上)

    賑やかな飾りがあったお店の前の光景です。飾られていたのではなく、『延命地蔵尊』が祀られていました。小さな石像も置かれ、花も手向けられていました。(同上)

  • 出石城下町の碁盤目の交差点の中から眺めた四方の街並み光景です。先に撮影して、あとから方角を特定することとしました。左手の少し先に『山本製陶』の看板が見えますから、こちら側が東方面になります。方角を特定した後で、『東西南北』の順で写真を並び替えました。(同上)

    出石城下町の碁盤目の交差点の中から眺めた四方の街並み光景です。先に撮影して、あとから方角を特定することとしました。左手の少し先に『山本製陶』の看板が見えますから、こちら側が東方面になります。方角を特定した後で、『東西南北』の順で写真を並び替えました。(同上)

  • 出石城下町の碁盤目の交差点の中から眺めた四方の街並み光景の続きです。左側に『まめいもや』の看板が見えていますから、こちら方面は西側です。(同上)

    出石城下町の碁盤目の交差点の中から眺めた四方の街並み光景の続きです。左側に『まめいもや』の看板が見えていますから、こちら方面は西側です。(同上)

  • 交差点から眺めた通りの先には、白い工事用のシートに覆われた『辰鼓楼』とさらにその先に出石城址がある山がみえました。こちらの方角が南方向であることを特定できました。再集合場所の駐車場がある方角になります。(同上)

    交差点から眺めた通りの先には、白い工事用のシートに覆われた『辰鼓楼』とさらにその先に出石城址がある山がみえました。こちらの方角が南方向であることを特定できました。再集合場所の駐車場がある方角になります。(同上)

  • 左手に『近又蕎麦』の看板が見えていますから、こちらが北側方面になります。この方角にも、遠くに山並みの裾が見えました。(同上)

    左手に『近又蕎麦』の看板が見えていますから、こちらが北側方面になります。この方角にも、遠くに山並みの裾が見えました。(同上)

  • 大きな徳利の飾りが並んでいたお店の光景です。少し字体は違いますが、『鶴屋』の看板があったお店です。本陣跡の老舗の蕎麦屋さんでしょうか、『本陣鶴屋』の表示も小さく記されていました。(同上)

    大きな徳利の飾りが並んでいたお店の光景です。少し字体は違いますが、『鶴屋』の看板があったお店です。本陣跡の老舗の蕎麦屋さんでしょうか、『本陣鶴屋』の表示も小さく記されていました。(同上)

  • 朝来市にあった道の駅、『但馬のまほろば』で目にしたコウノトリの姿の飾りですが、出石城下町にもありました。黒い屋根や壁がコウノトリの引立て役になっていました。(同上)

    朝来市にあった道の駅、『但馬のまほろば』で目にしたコウノトリの姿の飾りですが、出石城下町にもありました。黒い屋根や壁がコウノトリの引立て役になっていました。(同上)

  • 再集合場所は、出石城址の西側にある城山ガーデンの前の駐車場です。昼食の出石そばを食べたお店でした。この場所は、先ほど紹介した『本陣鶴屋』のお店の横です。こちらには大きな『本陣』の文字がありました。(同上)<br />

    再集合場所は、出石城址の西側にある城山ガーデンの前の駐車場です。昼食の出石そばを食べたお店でした。この場所は、先ほど紹介した『本陣鶴屋』のお店の横です。こちらには大きな『本陣』の文字がありました。(同上)

  • 空模様がますます怪しくなってきました。折畳み傘は用意していましたが、雨に遭う前に再集合場所の駐車場に止まったバスに向かいました。方角の目印にしていた、辰鼓楼の建物光景です。その背後に出石城址があった山が見えていました。(同上)

    イチオシ

    空模様がますます怪しくなってきました。折畳み傘は用意していましたが、雨に遭う前に再集合場所の駐車場に止まったバスに向かいました。方角の目印にしていた、辰鼓楼の建物光景です。その背後に出石城址があった山が見えていました。(同上)

  • 出石城下町の紹介はこれでおしまいです。最後の写真は、出石に50軒程あるとされる出石蕎麦のお店です。皿蕎麦の写真と、信楽焼風の狸さんがいました。左手の植物は、城下町に相応しい、砥石の代わりになるというトクサ(木賊)です。(同上)

    出石城下町の紹介はこれでおしまいです。最後の写真は、出石に50軒程あるとされる出石蕎麦のお店です。皿蕎麦の写真と、信楽焼風の狸さんがいました。左手の植物は、城下町に相応しい、砥石の代わりになるというトクサ(木賊)です。(同上)

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