伊賀・上野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
日本百名城の一つ、三重県の伊賀上野城の紹介です。伊賀上野の城下町は、俳聖・芭蕉の生まれ故郷としても知られます。

2017初夏、日本百名城の伊賀上野城(1/10):名古屋からバスで伊賀上野へ、芭蕉像、昼食

35いいね!

2017/06/03 - 2017/06/03

59位(同エリア452件中)

旅行記グループ 2017年、三重の百名城巡り

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

日本百名城の一つ、三重県の伊賀上野城の紹介です。伊賀上野の城下町は、俳聖・芭蕉の生まれ故郷としても知られます。

交通手段
高速・路線バス

PR

  • 名古屋駅の名鉄バスセンターを10時5分に出発し、ほぼ2時間で目的地の伊賀上野の駅前に到着しました。到着寸前に目にした、『伊賀上野城・東大手門跡』の石標の光景です。バスの中からも撮影しましたが、改めて撮影しておきました。

    名古屋駅の名鉄バスセンターを10時5分に出発し、ほぼ2時間で目的地の伊賀上野の駅前に到着しました。到着寸前に目にした、『伊賀上野城・東大手門跡』の石標の光景です。バスの中からも撮影しましたが、改めて撮影しておきました。

  • 伊賀上野城・東大手門跡』の石標があった場所から眺めた、北側方向になる伊賀上野城方面の街並み光景です。お城がある伊賀上野城公園は、写真の左手方面になります。

    伊賀上野城・東大手門跡』の石標があった場所から眺めた、北側方向になる伊賀上野城方面の街並み光景です。お城がある伊賀上野城公園は、写真の左手方面になります。

  • 伊賀市の駅前にあった、俳聖・松尾芭蕉の立像です。松尾芭蕉(1644~1694年)は、江戸時代前期の俳諧師です。世界的にも名を知られた、日本史上最高の俳諧師です。

    伊賀市の駅前にあった、俳聖・松尾芭蕉の立像です。松尾芭蕉(1644~1694年)は、江戸時代前期の俳諧師です。世界的にも名を知られた、日本史上最高の俳諧師です。

  • 松尾芭蕉の旅姿像のズームアップ光景です。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の二説があるようです。二説に分かれた理由は、芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしたことに因ります。引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明とされます。

    イチオシ

    松尾芭蕉の旅姿像のズームアップ光景です。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の二説があるようです。二説に分かれた理由は、芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしたことに因ります。引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明とされます。

  • 場所象の足元から眺めた、駅前の錦多方面の光景です。写真の右端に見えている建物が、第三セクターの伊賀線の上野市駅です。

    場所象の足元から眺めた、駅前の錦多方面の光景です。写真の右端に見えている建物が、第三セクターの伊賀線の上野市駅です。

  • 上野市駅に近寄った場所からの撮影です。この方角に伊賀上野城がある、上野公園がありました。

    上野市駅に近寄った場所からの撮影です。この方角に伊賀上野城がある、上野公園がありました。

  • 『城下町いがうえのの散策マップ』のタイトルが案内表示の光景です。予め調べてはいましたが、バスを降りた上野駅前に隣接するほどの近距離に伊賀上野城がありました。

    『城下町いがうえのの散策マップ』のタイトルが案内表示の光景です。予め調べてはいましたが、バスを降りた上野駅前に隣接するほどの近距離に伊賀上野城がありました。

  • 伊賀牛を柔らかくなるまで煮込んだ、カレーの昼食です。伊賀上野城見学の前に、伊賀上野駅前のお店で腹拵えをしました。新鮮で美味しい野菜を使ったサラダの取り合わせでした。

    イチオシ

    伊賀牛を柔らかくなるまで煮込んだ、カレーの昼食です。伊賀上野城見学の前に、伊賀上野駅前のお店で腹拵えをしました。新鮮で美味しい野菜を使ったサラダの取り合わせでした。

  • 振り返って眺めた、美味しいカレーを食した喫茶・軽食のお店の光景です。店の前の赤い幟に、『飛騨牛』の文字がありました。

    振り返って眺めた、美味しいカレーを食した喫茶・軽食のお店の光景です。店の前の赤い幟に、『飛騨牛』の文字がありました。

  • 『鉄郎・メーテルブロンズ像』とその解説パネルの光景です。基本デザインは、銀河鉄道999で有名な、漫画家の松本零士(1938~)氏です。この場所に移設されたいきさつなどが記されていました。

    『鉄郎・メーテルブロンズ像』とその解説パネルの光景です。基本デザインは、銀河鉄道999で有名な、漫画家の松本零士(1938~)氏です。この場所に移設されたいきさつなどが記されていました。

  • ハイトピア伊賀の建物光景です。名古屋駅の名鉄バスセンターを出発した高速バスを、この建物の前で降りました。帰りにもこの場所で乗車予定です。

    ハイトピア伊賀の建物光景です。名古屋駅の名鉄バスセンターを出発した高速バスを、この建物の前で降りました。帰りにもこの場所で乗車予定です。

  • 伊賀市の汚水マンホール蓋の光景です。三人の忍者が漫画風にデザインされていました。伊賀市は、甲賀市と並ぶ忍者の里です。

    伊賀市の汚水マンホール蓋の光景です。三人の忍者が漫画風にデザインされていました。伊賀市は、甲賀市と並ぶ忍者の里です。

  • 『大手町』の町名表示があった場所の建物光景です。木造の三階建てで、屋根の上には鯱の飾りがありました。

    イチオシ

    『大手町』の町名表示があった場所の建物光景です。木造の三階建てで、屋根の上には鯱の飾りがありました。

  • 伊賀上野城に向かう途中の街並み光景です。先程の『大手町』の町名表示があった場所からは西側方面になります。

    伊賀上野城に向かう途中の街並み光景です。先程の『大手町』の町名表示があった場所からは西側方面になります。

  • 伊賀上野城に向かう途中の光景です。伊賀市役所の建物光景ですこの辺りは、既にかつての伊賀上野城の縄張り内であることは間違いないようです。最初に目にした、『伊賀上野城・東大手門跡』の石標よりは、ずっと本丸に近い場所です。

    伊賀上野城に向かう途中の光景です。伊賀市役所の建物光景ですこの辺りは、既にかつての伊賀上野城の縄張り内であることは間違いないようです。最初に目にした、『伊賀上野城・東大手門跡』の石標よりは、ずっと本丸に近い場所です。

  • 芭蕉句碑です。『升かふて 分別かわる 月見かな』の文字が刻まれていました。

    芭蕉句碑です。『升かふて 分別かわる 月見かな』の文字が刻まれていました。

  • 芭蕉句碑の解説パネルです・『升かふて分別かわる月見かな』の句の解説です。芭蕉が晩年に大阪で詠んだ句であることと、その背景が解説されていました。

    芭蕉句碑の解説パネルです・『升かふて分別かわる月見かな』の句の解説です。芭蕉が晩年に大阪で詠んだ句であることと、その背景が解説されていました。

  • 伊賀上野城に向かう桜並木の光景です。

    伊賀上野城に向かう桜並木の光景です。

  • 伊賀上野城に向かう桜並木の脇にあった学校の光景です。入口門に『伊賀市立上野西小学校』の表示がありました。

    伊賀上野城に向かう桜並木の脇にあった学校の光景です。入口門に『伊賀市立上野西小学校』の表示がありました。

  • 『伊賀市立上野西小学校』の東北端付近の光景です。伊賀上野城に面した部分には、本瓦が乗った立派な塀が設けられていました。

    『伊賀市立上野西小学校』の東北端付近の光景です。伊賀上野城に面した部分には、本瓦が乗った立派な塀が設けられていました。

  • 芭蕉句碑です。『山里は万才遅し梅の花』の文字が刻まれているようです。元禄4年(1691年)、芭蕉、48歳の時に伊賀の里で詠まれた句です。

    芭蕉句碑です。『山里は万才遅し梅の花』の文字が刻まれているようです。元禄4年(1691年)、芭蕉、48歳の時に伊賀の里で詠まれた句です。

  • 『上野公園観光案内所』の建物光景です。伊賀上野城の観光パンフレットなどが置かれていました。

    『上野公園観光案内所』の建物光景です。伊賀上野城の観光パンフレットなどが置かれていました。

  • 『上の公園案内図』です。左手に伊賀上野城、右手に筒井古城址が記されていました。筒井古城址は、城代屋敷址とも呼ばれています。現在位置は、筒井古城址の東側になります。

    『上の公園案内図』です。左手に伊賀上野城、右手に筒井古城址が記されていました。筒井古城址は、城代屋敷址とも呼ばれています。現在位置は、筒井古城址の東側になります。

  • 筒井古城址の東側の通りの光景です。本能寺の変後、豊臣政権となり、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・脇坂安治が伊賀守護となりました。脇坂安治が天正13年(1585年)5月に摂津に移封された3か月後に、大和郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り、筒井時代が始まりました。

    筒井古城址の東側の通りの光景です。本能寺の変後、豊臣政権となり、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・脇坂安治が伊賀守護となりました。脇坂安治が天正13年(1585年)5月に摂津に移封された3か月後に、大和郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り、筒井時代が始まりました。

  • 左が筒井古城址、右側が芭蕉翁記念館があるエリアです。筒井時代の城は、高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口としたとの記録が残ります。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられています。

    左が筒井古城址、右側が芭蕉翁記念館があるエリアです。筒井時代の城は、高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口としたとの記録が残ります。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられています。

  • 通路脇にあった小さな社の光景です。この城を舞台にした栄枯盛衰を偲ばせる光景のように見えました。

    通路脇にあった小さな社の光景です。この城を舞台にした栄枯盛衰を偲ばせる光景のように見えました。

  • 同じく、通路脇にあった小さな社や石塔などの光景です。

    同じく、通路脇にあった小さな社や石塔などの光景です。

  • 筒井古城址、あるいは城代役所時代の石垣のように見えますが、建設された年代や、修復された年代などは分かりませんでした。

    筒井古城址、あるいは城代役所時代の石垣のように見えますが、建設された年代や、修復された年代などは分かりませんでした。

  • 左手向きに、天守閣と高石垣方面の近道が記された案内標識です。古い案内標識をそのままに、半ば重複するような内容の新しい標識でした。

    左手向きに、天守閣と高石垣方面の近道が記された案内標識です。古い案内標識をそのままに、半ば重複するような内容の新しい標識でした。

  • 水はありませんでしたが、堀址の様な窪みの光景です。

    水はありませんでしたが、堀址の様な窪みの光景です。

この旅行記のタグ

35いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2017年、三重の百名城巡り

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP