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 上野・寛永寺には常憲院殿霊廟勅額門がある。宝永6年(1709年)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。<br /> 常憲院とは、5代将軍徳川綱吉公(正保3年(1646年)〜宝永6年(1709年))の法号である。綱吉公は3代将軍・家光の四男であり、館林藩主から将軍の座に着いた。「生類憐れみの令」を発した犬公方として知られる。また、元禄14年(1701年)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本・吉良上野介義央に対して殿中松の廊下において刃傷に及び、内匠頭は即日切腹となり赤穂藩は改易となったが、その裁定を下したのは綱吉とされる。その後、大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良邸に討ち入った元禄赤穂事件は「忠臣蔵」として知られ、現在でも師走になると「忠臣蔵」のドラマがテレビで放映される。また、母は桂昌院(玉)であり、「玉の輿」の語源になったとされる。さらに、母桂昌院には従一位という前例のない高官位を朝廷より賜るなど特別な処遇をした。<br /> また、御陵の修復や、母桂昌院と共に奈良や京都の多くの寺社の修理を行っている。<br /> 徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された。そのため、初代は日光東照宮、2代は台徳院霊廟(増上寺)、崇源院(2代の御台所、江)御霊屋(増上寺、後に建長寺に移築)、後に崇源院霊牌所(増上寺)、3代は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代は厳有院霊廟(寛永寺)、5代は常憲院霊廟(寛永寺)、6代は文昭院霊廟(増上寺)、7代は有章院霊廟(増上寺)を数えるだけである。以降は、増上寺には、9代(惇信院)、12代(慎徳院)、14代(昭徳院)、寛永寺には8代(有徳院)、10代(浚明院)、11代(文恭院)、13代(温恭院)の各々の宝塔が建っていた。御台所の宝塔も並んで建てられたので、寛永寺には天璋院篤姫(13代家定(温恭院)の御台所)の宝塔も残っている。なお、15代慶喜公の墓所は谷中霊園にある。<br />(表紙写真は常憲院殿霊廟勅額門)

常憲院殿霊廟勅額門(上野・寛永寺)

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2011/11/04 - 2011/11/04

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 上野・寛永寺には常憲院殿霊廟勅額門がある。宝永6年(1709年)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 常憲院とは、5代将軍徳川綱吉公(正保3年(1646年)〜宝永6年(1709年))の法号である。綱吉公は3代将軍・家光の四男であり、館林藩主から将軍の座に着いた。「生類憐れみの令」を発した犬公方として知られる。また、元禄14年(1701年)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本・吉良上野介義央に対して殿中松の廊下において刃傷に及び、内匠頭は即日切腹となり赤穂藩は改易となったが、その裁定を下したのは綱吉とされる。その後、大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良邸に討ち入った元禄赤穂事件は「忠臣蔵」として知られ、現在でも師走になると「忠臣蔵」のドラマがテレビで放映される。また、母は桂昌院(玉)であり、「玉の輿」の語源になったとされる。さらに、母桂昌院には従一位という前例のない高官位を朝廷より賜るなど特別な処遇をした。
 また、御陵の修復や、母桂昌院と共に奈良や京都の多くの寺社の修理を行っている。
 徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された。そのため、初代は日光東照宮、2代は台徳院霊廟(増上寺)、崇源院(2代の御台所、江)御霊屋(増上寺、後に建長寺に移築)、後に崇源院霊牌所(増上寺)、3代は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代は厳有院霊廟(寛永寺)、5代は常憲院霊廟(寛永寺)、6代は文昭院霊廟(増上寺)、7代は有章院霊廟(増上寺)を数えるだけである。以降は、増上寺には、9代(惇信院)、12代(慎徳院)、14代(昭徳院)、寛永寺には8代(有徳院)、10代(浚明院)、11代(文恭院)、13代(温恭院)の各々の宝塔が建っていた。御台所の宝塔も並んで建てられたので、寛永寺には天璋院篤姫(13代家定(温恭院)の御台所)の宝塔も残っている。なお、15代慶喜公の墓所は谷中霊園にある。
(表紙写真は常憲院殿霊廟勅額門)

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  • 常憲院殿霊廟勅額門。

    常憲院殿霊廟勅額門。

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    常憲院殿霊廟勅額門。

  • 常憲院殿霊廟勅額門。

    常憲院殿霊廟勅額門。

  • 「徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)<br />             台東区上野桜木一丁目十六番地<br /> 五代将軍綱吉は、延宝八年(一六八○)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(一七○九)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。<br />綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。<br /> 元禄十一年(一六九八)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。<br /> 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 <br /> 平成六年三月<br />             台東区教育委員会」。

    「徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
                 台東区上野桜木一丁目十六番地
     五代将軍綱吉は、延宝八年(一六八○)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(一七○九)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。
    綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
     元禄十一年(一六九八)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
     綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
     平成六年三月
                 台東区教育委員会」。

  • 常憲院殿霊廟勅額門。

    常憲院殿霊廟勅額門。

  • 常憲院殿霊廟勅額門。

    常憲院殿霊廟勅額門。

  • 「重要文化財<br /> 寛永寺<br /> 常憲院殿霊廟<br /> 勅額門並びに水盤舎<br />江戸時代 宝永6年建立<br /> 火気厳禁<br /> HITACHI」。<br />

    「重要文化財
     寛永寺
     常憲院殿霊廟
     勅額門並びに水盤舎
    江戸時代 宝永6年建立
     火気厳禁
     HITACHI」。

  • 「天璋院 篤姫 墓所(非公開)<br /> 天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ))<br /> 嘉永六年(一八五三)、島津家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永六年(一八五三)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。<br /> その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政三年(一八五六)に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。<br /> この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずかニ年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。)<br /> また同安政五年(一八五八)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。<br /> しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。<br /> 公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。<br /> 明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十九歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。<br /> なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。<br /> 平成二十年  寛永寺教化部」。

    「天璋院 篤姫 墓所(非公開)
     天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ))
     嘉永六年(一八五三)、島津家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永六年(一八五三)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
     その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政三年(一八五六)に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
     この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずかニ年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。)
     また同安政五年(一八五八)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。
     しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
     公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。
     明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十九歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。
     なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。
     平成二十年  寛永寺教化部」。

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