魅々さんのクチコミ(4ページ)全380件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
職人さんの作業の見学、機織りの体験、製品の購入などが出来ます。
投稿日 2014年02月13日
-
投稿日 2014年02月13日
-
川底や川岸にできる円形の深い穴が数百メートルにわたり連なって、非常に珍しいケースです。
投稿日 2014年02月12日
-
正面にそびえる三原山をはじめ、空港や港などを一望する大パノラマが楽しめます。
投稿日 2014年02月10日
-
さまざまな展示や映像により、地熱発電のみならず、八丈島の生い立ちなどを知ることが出来ます。
投稿日 2014年02月10日
総合評価:4.5
「TEPCO八丈島地熱館」は現在は、八丈町が取得し「八丈島地熱館」に名称が代わっています。
ここでは、さまざまな展示や映像により、地熱発電のみならず、八丈島の生い立ちなどを知ることが出来ます。
同じ敷地にある地熱発電所の起こす電力は、島のベース電源にあたる約2.000KW(25%)を賄っています。
坂上地域では地熱を活用した農業の先駆的な取組が展開され、地熱発電所の周辺には廃熱利用を行う農業用温室団地をはじめ展示温室、生産者直売所などもあります。- 旅行時期
- 2014年01月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
-
投稿日 2014年02月10日
-
大坂トンネル展望台からの壮大で秀麗な景色は八丈八景のひとつに数えられています。
投稿日 2014年02月09日
-
投稿日 2014年02月09日
-
投稿日 2014年02月09日
-
投稿日 2014年02月09日
-
八丈島に芋焼酎の製法を伝えた丹宗庄右衛門翁の徳をたたえるために作られました。
投稿日 2014年02月09日
-
天気が良ければ、遠くの三宅島や御蔵島が望める八丈島随一の展望台です。
投稿日 2014年02月08日
-
投稿日 2013年12月27日
総合評価:5.0
義士祭は年二回、12月と4月に行われています。
12月の義士祭は、毎年赤穂浪士の討ち入りのあった12月14日に行われます。
行事概要は
11時 墓前供養 浅野長矩公之墓所
12時 献茶式 東阿部流献茶式(本堂)一般非公開
献茶式引き続き 義士追善供養(本堂)一般非公開
その他、義士行列なども行われます。
参道には、多くの露店が並び、にぎわいます。
春の義士祭は、毎年 4月1日~7日に行われます。
行事概要
11時 義士追善供養(本堂)一般非公開
12時頃 寺宝展開始
16時頃 寺宝展終了
寺宝展は、泉岳寺所蔵の寺宝が公開されます。本堂に上がることが出来るのは、義士祭(春)の時だけです。
大石内蔵助の守り本尊でもある摩利支天(秘仏)や幕末の三舟・良寛和尚・藤田東湖などの書、お経文で描かれている蓮舟観音図なを見ることが出来ます。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 催し物の規模:
- 5.0
- 雰囲気:
- 5.0
-
日本初の鉄道開業駅として誕生した「旧新橋停車場」の駅舎外観とホームの一部を再現したものです。
投稿日 2013年12月24日
総合評価:4.0
「旧新橋停車場」は日本最初の鉄道路線の起点として開業し、長らく東京のターミナル駅として機能していました。
しかし、1914年(大正3年)に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止されました。駅構内が広大だったこの駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称されました。
宅配便やコンテナー輸送が増え、1986年(昭和61年)汐留駅も、その長い歴史に幕を閉じました。
現在の建物は、2003年(平成15年)に「旧新橋停車場」跡地の上に開業当時の駅舎の一部を再現したものです。内部は鉄道の歴史に関する「鉄道歴史展示室」があります。また中華料理の「Imperial Treasure」などもあります。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 4.0
-
地上7階、地下1階、隣の国技館との調和を考え高床式のユニークな構造になっています。
投稿日 2013年12月24日
総合評価:4.0
江戸東京博物館は、JR両国駅から徒歩3分、国技館の隣に位置しています。
失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に、平成5年(1993年)3月28日に開館しました。
1階に企画展示室、3階(屋外)に「江戸東京ひろば」、吹き抜け構造の5階と6階に常設展示室があり、江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれています。
また、7階に図書室、1階の映像ホールや7階の映像ライブラリーなどの学習施設なども設置されています。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 5.0
-
明暦の大火による犠牲者を弔うために回向院に造られた供養塔ですが、この火災の原因については諸説あります。
投稿日 2013年12月23日
総合評価:4.0
明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために回向院に造られたものです。この火災の犠牲者は10万人以上といわれています。火災の原因は良くわかっていませんが、次の3つが伝えられています。
第1にこの火災が「振袖火災」とも呼ばれ以下のような伝承があります。
ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。そして、恋の病に臥せったまま17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、その振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように7歳で亡くなった。
イクの葬儀に至って三家は相談し、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという説。
第2は、幕府放火説で、幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説
第3が、本妙寺火元引受説で、実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたという説です。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
関東大震災にも耐えた橋ですが、老朽化のため震災復興計画により現在の橋に架け替えられました。
投稿日 2013年12月21日
総合評価:4.0
萬年橋は、隅田川から横に伸びる小名木川にかかる橋です。
関東大震災の直前まで木橋が架けられていました。
震災時も被害はうけたものの耐え切った勇者ですが、老朽化のため震災復興計画により現在の橋に架け替えられました。
萬年橋は江戸地図には「元番所のはし」として記載があります。
小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていました。
江戸時代には、船の航行を妨げないように橋脚を高くし、大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿を愛されていました。
また万年橋からは、隅田川と小名木川が合流する景色が見られます。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2013年12月19日
-
大正6年の台風の高潮の後、「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土したところです。
投稿日 2013年12月19日
-
我が国の最初の船員教育は、明治初期にこの橋のたもとに係留した船を校舎として行われました。
投稿日 2013年12月19日
総合評価:4.0
船員教育発祥の地記念碑 は永代橋の日本橋側の袂にあります。
記念碑には、次のように書かれています。
内務卿大久保利通が、明治政府の自主的な開運政策を進めるのあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月この地に商船学校を開設させた。
当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に成妙丸を係留して校舎とし、全員を船内に起居させて行われた・・・・- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0