2014/10/25 - 2014/10/25
72位(同エリア154件中)
滝山氏照さん
証誠山・正定寺(しょうじょうじ、茨城県古河市大手町)は譜代大名で家康・秀忠・家光の三将軍に仕える中、幕府の老中・大老として絶大な権勢を背景に確たる幕藩体制を築いた初代古河藩主土井利勝(どい・としかつ、1573~1644)開基による土井家歴代当主の菩提寺です。
当寺の創建は正和3年(1314)浄土宗鎮西流藤田派の学僧である持阿良心の開山、あるいは応永年間(1394~1428)同じ藤田派の良笈見日の開山と考えられており、室町時代には藤田派の壇林(学問所を有する大規模寺院)として発展し、自派の学問所だけでなく他の名越派や白旗派の交流拠点でもありました。
さて当該寺院開基の土井利勝は元亀4年(1573)に水野信元(みずの・のぶもと、生誕不詳~1576)の三男として生まれます。然しながら天正3年(1575)信元が武田氏との内通を信長に疑われ家康によって殺害され、その後家康の計らいで家臣の土井利昌(どい・としまさ)の養子となります。
利勝は幼少の時期から家康が好んでいた鷹狩に随行を許されるなどして普段より破格の待遇を受けていたことから利勝は家康の息子という説もあります。
天正7年(1579)に秀忠(ひでただ、1579~1632)が生まれると7歳の利勝は秀忠の傳役を命ぜられ、天正19年(1591)に相模国に千石の知行を与えられます。
慶長10年(1605)秀忠が上洛し征夷大将軍に任ぜられる際には利勝も秀忠に随行し従五位下大炊頭に叙位・任官し、その後も秀忠の側近として勤めます。
上述の如く将軍秀忠の厚い信任を受け数々の手腕を発揮し知行は慶長7年(1602)に1万石を以て大名となり下総国小見川藩主、慶長15年(1610)に3万2千石で下総国佐倉藩に加増転封となります。
慶長20年(1615)大坂の陣では利勝は終始秀忠に付き添い、戦後においては加増されて6万2千5百石に、その後老中として青山、酒井両氏と共に家光の傳役を命ぜられます。
元和9年(1623)秀忠は将軍職を長男の家光に譲りますが、利勝は前述の青山・酒井氏と共に引き続き家光を支え幕政を推進してまいります。
そして寛永10年(1633)、利勝は下総古河知行は16万石に加増される一方、寛永12年(1635)、秀忠時代に出した武家諸法度の大改訂を行い、当該諸法度に参勤交代制度を組み入れるなどして幕府の支配体制を確実なものにします。
寛永14年(1637)頃から利勝は体調を崩しこれを理由に老中辞任を家光に申出るも、家光から慰留され撤回しますが、翌年には家光の配慮によって名誉職的な立場として大老に昇格、寛永21年(1644)7月江戸屋敷にて72歳を以て死去、家督は長男の利隆(としたか、1619~1685)が継ぎます。
2023年1月4日追記
境内に配された土井家墓所の傍らには下記の説明板が建っています。
『 古河市指定文化財・史跡
土 井 家 墓 所
昭和50年2月26日指定
古河市大手町7番1号
歴代古河藩主のなかでももっとも古河に深いかかわりを有したのは土井家である。土井家の治世は前後2期にわたり、廃藩に至るまであわせて155年におよんだ。
土井家墓所はもと東京浅草の誓願寺にあったが、大正12年(1923)の関東大震災後の東京復興計画によって墓所のp移転をせまられ、昭和2年(1927)12月20日当正定寺の現在地に移された。
墓所の正面には、初代土井利勝夫妻の宝篋印塔2基を配し、向かって左側に歴代の土井家当主を供養した宝篋印塔、右側には13代利則夫妻の宝篋印塔などがある。
平成20年1月
古河市教育委員会 』
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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正定寺・入口
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正定寺・寺門
石柱左に寺号の「正定寺」、右に宗号の「浄土宗」がそれぞれ刻されています。 -
正定寺・石標(近景)
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正定寺・山門と鐘楼
石柱を過ぎると駐車場が広がり、その彼方には左側に山門、右側に鐘楼堂が控えており、山門は現在修復工事中の模様です。 -
正定寺・山門(全景)
石段を上がると山門があり、現在は足場を組立てて修復工事中の状況です。 -
正定寺・山門(近景)
修復中の山門は朱色に塗られていたようです。 -
大老土井大炊頭利勝墓所石柱
山門右脇には老中を経て大老に昇格した土井利勝墓所である旨石柱が立っています。 -
正定寺・説明板
陽光が反射して記載内容が読めません。(もともと文字が薄い状況であった) -
正定寺・参道
山門から山道風景を眺めます。 -
正定寺・本堂
正式には山号を証誠山、院号を等持院、寺号を正定寺という浄土宗の寺院です。 -
正定寺・寺額
寺号である「正定寺」が掲示されています。 -
正定寺・境内
本堂から山門方向を一望します。 -
正定寺・鐘楼堂
正保3年(1646)家督を継いだ利隆(としたか)は亡き父の利勝を冥福を祈るため、当該寺院に梵鐘を寄進建立します。しかしながら太平洋戦争による徴用のためなくなります。(訪問時は修復作業の為境内に業者車輌が入っています。) -
法然上人像と共に並ぶ利勝像
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法然上人立像
正式山号は証誠山ですが台座には山号が「利勝山」と刻されており土井利勝の菩提寺という経緯で別名となっています。 -
イチオシ
土井利勝座像
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侍従樅碑(土井利勝公御代記)全景
利勝の生涯にわたる履歴が刻された石碑は14代当主利与により建立されています。 -
侍従樅碑
傍らの説明では石碑には家康居城の浜松城で生まれ、家康の御子と刻されているそうです。「侍従」は利勝の役職名、「樅」は利勝逝去して別邸内に衣冠を埋めた所に大樅の木が在ったためです。当石碑は昭和8年に当寺に移築されています。 -
「侍従樅碑」説明
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イチオシ
正定寺黒門(市指定文化財)
もと江戸本郷にあった古河藩主土井家の旧江戸下屋敷の表門でしたが、昭和8年(1933)に土井家の菩提寺である正定寺に移築して寄進されます。 -
「土井家累代墓所正定寺」石標
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正定寺・黒門と社塀
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イチオシ
正定寺・黒門
当門はもとは東京本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷表門で、昭和8年(1933)に土井家菩提寺である当寺に移築寄進されたものです。 -
「正定寺黒門」石標と説明板
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黒門説明板
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黒門扉
当然ながら扉の痛みは激しいものの歴史の重みを一層感じさせます。 -
境内に立つ鐘楼
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鐘楼
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正定寺・本堂と土井利勝像
鐘楼台から再び本堂方向を捉えます。 -
念仏塚(南無阿弥陀仏の塔)
説明では古河城主利勝の供養と「時の鐘」としてその子利隆らにより鐘つき堂が建立されます。 -
念仏塚(南無阿弥陀仏の塔)説明
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釈迦涅槃像
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六地蔵
境内に建立されてまだ新しい六地蔵が並んでいます。 -
三界萬霊塔
奉納者の河口信順の自宅改築中に不明人骨数体が掘り出され正定寺に埋葬され、代々の住職から毎朝供養を受けています。 -
三界萬霊塔説明
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土井家墓所
墓地には案内板で導かれ高い塀に囲まれた墓所が視野に入ってきます。 -
土井利勝公360回忌法会實塔
土井家墓所案内板と共に360回忌法会實塔の記念柱が建立されています。 -
土井利勝墓所入口
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土井利勝夫妻石塔(全景)
正面には利勝と室の宝篋印塔が建っています。 -
土井利勝夫妻石塔(近景)
左側が利勝、右側が室の宝篋印塔となっています。 -
イチオシ
土井利勝宝篋印塔
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利勝室宝篋印塔
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土井家歴代当主宝篋印塔
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土井家歴代当主宝篋印塔
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土井家十三代当主利則夫妻宝篋印塔
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土井家十三代当主利則宝篋印塔(全景)
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土井利則宝篋印塔(近景)
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土井家十三代利則室宝篋印塔(全景)
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土井利則室宝篋印塔(近景)
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土井家墓所風景
勝利夫妻の宝篋印塔から入口を捉えます。 -
土井家歴代当主墓石
説明板によれば土井家墓所の正面向かって左側は歴代当主の宝篋印塔となっています。 -
土井利則夫妻墓石
同様に説明板によれば右側は十三代当主利則夫妻の宝篋印塔に当たります。 -
土井家墓所説明
もともと浅草誓願寺にあったが大正12年(1923)の関東大震災後の復興計画のため墓所の移転を迫られ、昭和2年(1927)当該寺院の現在地に移転されます。 -
土井家墓石群
一般墓地にも土井家に繋がると思われる墓石が建ち並んでいます。 -
土井斎宮利禄石塔
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土井乗游軒石塔
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土井内蔵允利物石塔
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