2026/05/31 - 2026/05/31
587位(同エリア755件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/05/31
-
車での移動
レンタカー
-
長安寺
-
車での移動
レンタカー
-
富貴寺
-
車での移動
レンタカー
-
大分県立歴史博物館
-
車での移動
レンタカー
-
龍岩寺
-
車での移動
レンタカー
-
宇佐神宮
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
国東半島の、八幡信仰と天台修験が融合し発達した独自の宗教文化「六郷満山文化」を今に伝える寺院、宇佐八幡宮などを訪ねました。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:羽田空港→大分空港→泉福寺、両子寺、天念寺、福真磨崖仏、応暦寺・堂ノ迫磨崖仏(豊後高田泊)
2日目:長安寺、富貴寺、大分県立歴史博物館、龍岩寺、宇佐神宮(豊後高田泊)
3日目:中津城、大楽寺、熊野摩崖仏、真木大堂、元宮磨崖仏、杵築城下町→大分空港→羽田空港
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
豊後高田市街地から、山道を上って長安寺にやって来ました。
-
よい眺めです。
-
お寺の方に扉を開けていただいて、収蔵庫に安置されている神像などを拝観します。
-
収蔵庫です。
-
木造太郎天 及 二童子立像(国指定重要文化財)
【ぶんごたかだ文化財ライブラリーより(写真も)】長安寺は屋山(別名八面山。標高543m)の中腹に位置し、中世までは「屋山寺」と呼ばれた六郷山の中核寺院でした。太郎天二童子像は、もとは同寺の鎮守である六所権現社(現・身濯神社)の祭神として祀られていたもので、明治時代の神仏分離で長安寺に移されました。三尊とも榧材の一木造で、いずれも両腕・足先は別材を接合しています。像高は太郎天が161㎝、右脇侍(鬼形)が96.5㎝、左脇侍(童子形)が97.5㎝です。太郎天像は頭を美豆良に結った童子の姿で、左手には三つ葉の付いた小枝を持ち、右手は団扇状の葉形に宝珠の付いた杖を持っています。切れ長の眼に引き締まった口元の端正な顔立ちをしています。二童子のうち向かって右側は、逆立つ髪に腰巻を身に着け、目を怒らせた鬼形に表されるのに対し、左の像は太郎天と同様に美豆良を結い、あどけない笑みを浮かべており、それぞれ太郎天の脇侍として配されています。
この一風変わった三尊像は、どのような存在として造られたのでしょうか? 太郎天像の胎内には、頭部・体部の全面にわたってびっしりと墨書銘が記されており、本像が「屋山太郎惣大行事」と称する神像として1130年に、天台僧や宇佐神宮の神職をはじめ100名以上が結縁し、2月15日から3月18日まで約1ヶ月で造りあげたことが分かります。また、頭頂内部に不動明王を表す種字「カーン」や、不動明王に関する墨書もあり、本像が不動明王の化身として祀られていたことを表しています。したがって、二童子像は不動明王の脇侍である矜羯羅童子・制多迦童子の化身を示しています。こうした造像から、当時の六郷山には独特な山岳信仰・不動信仰があったと思われ、本像が屋山寺及び六郷山全体の守護神として制作されたと考えられます。 -
写真は、九州歴史資料館「豊後くにさき長安寺」からの借用です。
【長安寺のパンフレットより】銅板経(国指定重要文化財)
タテ20.9cmヨコ 18.8cm厚さ0.3cm の銅板に法華経を刻入し供養祈願のため、 土中に埋納保存を永遠ならしめるため作られたものと伝えられ、現在19枚保管されている。 -
経筥(国指定重要文化財)
銅板経を納めるための筥で、銅板経よりタテ ヨコ 共 0.3cm大きく馬頭、不空羅索、千手如意輪、 十一面、聖観音の六観音の像を毛彫してあり、保延七年 (1141) の銘がある。4枚保管されている。 -
次は、恐らく国東半島で最も名高い訪問先の富貴寺です。
-
-
【現地説明板より】
国宝 阿弥陀堂(通称 富貴寺大堂)
国指定重要文化財 大堂壁画 阿弥陀如来坐像
古くは「蕗寺」、また「蕗浦阿弥陀寺」と称した。寺伝では養老二年(718年)仁聞菩薩の開基という。
創建については詳らかではないが、古文書によれば「富貴寺は宇佐神宮大宮司家であった宇佐氏代々の祈願所であり、除災招福の祈祷が滞りなく行われている」とあり、富貴寺は宇佐氏によって除災招福の祈願所として、また極楽往生を願うため創建されたことがうかがわれる。
富貴寺の阿弥陀堂は建築様式や壁画の描法などから平安時代末、約九百年前の創建とみなされ、堂内の約3分の2が創建当時のものであることから、九州に現存する最古の木造建築として国宝に指定されている。
阿弥陀如来を本尊とし、極楽往生を願うための修法、あるいはこの世にいながら極楽浄土の世界を体験する為に作られた堂宇は阿弥陀堂と呼ばれ、浄土信仰が高まった平安時代に盛んに建立された。
本尊阿弥陀如来は薄く滑らかな身体つきや、丸く盛り上がる肉髻、細やかに刻まれる螺髪、浅く流れるように刻まれた衣文などから、お堂の建立と同じく平安時代後期の制作とみられる。
本尊の周りは極楽浄土の様子や、様々な仏、菩薩の姿を描いた壁画で飾られている。
内陣後壁に極楽浄土、四本の柱には胎蔵界曼荼羅の中心仏、外陣小壁は一枚板で、東方薬師、南方釈迦、西方阿弥陀、北方弥勒の四方浄土が描かれている。長い年月を経てきたことによる傷みや、第二次世界大戦における空襲の被害などによりほぼすべての絵具が剥落しているが創建当時は極彩色で彩られていた。極彩色の創建当時の様子が宇佐の県立博物館にお堂とほぼ同じ大きさで復元されている。
創建当初、一歩この堂に足を踏み入れれば、そこは苦しみに満ちた現実世界でなく、麗しき極楽浄土であった。その中で浄土を体験し、往生を遂げることが出来るようにと祈りを捧げていたのであろう。 -
-
-
【豊後高田市のサイトより(写真も)】本尊の阿弥陀如来坐像は、一体の姿で長年親しまれてきましたが、富貴寺本堂の改修に伴って脇侍の観音菩薩と勢至菩薩を伴った「阿弥陀三尊像」の姿で御開帳されています。約100年ぶりとなる富貴寺大堂の本来の姿が拝めるまたとない機会となっています。
-
本尊一体の姿です。
-
大分県立歴史博物館に展示されている本尊の複製です。
【博物館の説明板より】現在、富貴寺大堂の本尊として安置されている阿弥陀如来坐像です。
榧 [かや] 材の寄木造りで、 漆を塗った上に金箔を押した漆箔 [しっぱく]像でしたが、現在はほとんど剥落して木地があらわれています。両手を重ねて親指と人差し指で輪を作る定印の印相をしていますが、心静かに精神を集中していることをあらわすお姿です。ふくよかな円満相を帯び、 切れ長の伏眼は優しく、よく整ったお姿は京都府の宇治平等院鳳凰堂本尊に代表される定朝様阿弥陀如来像の像容を受け継いだものと考えられます。 -
大分県立歴史博物館に忠実に再現されている創建時の姿です。(両脇侍は再現されていません。)
四天柱には胎蔵界曼荼羅の中心部が描かれています。 -
四壁には五十仏、
-
内陣後壁には浄土変相図が描かれています。
-
浄土変相図の裏面は、十九面千手観音像です。
-
外陣長押は一枚板で、東は薬師浄土、南は釈迦浄土、西は阿弥陀浄土、北は弥勒浄土が描かれています。
-
-
-
富貴寺境内には、多数の貴重な石造物が祀られています。
以下、河合哲雄さんのサイトに基づいて記述しています。 -
六面石幢(せきどう)(室町時代、凝灰岩、高さ 215cm)です。
-
龕部の六面に六地蔵立像が半肉彫りされています。
-
石灯籠です。
-
十王石殿 東殿(県指定文化財、室町時代前期、凝灰岩、高さ 130cm)です。
道服を着た坐像を、軸部南面輪郭内に3体、西面に2体半肉彫りしています。 -
西面の2体は、中央に浄玻璃(じょうはり)の鏡を刻み、冥府の庁の有様を表現しています。
十王像は、正面と石段参道側にだけ刻まれており、参詣者に見えない東面と北面には何も刻まれていません。 -
十王石殿 西殿 (県指定文化財、室町時代前期、凝灰岩、高さ 130cm)
こちらには、南面に3体、東面に2体が彫られており、東面の2体の中央には人頭幢を刻み、冥府の庁の有様を表現しています。
十王は冥界で死者の罪を裁く十人の王で、初七日に秦広王、二七日に初江王、三七日に宋帝王、四七日に伍官王、五七日に閻魔王、六七日に変成王、七七日に太山王、百箇日に平等王、一周年に都市王、三周年に五道転輪王のところで裁きを受けるとされています。 -
不動明王石仏です。
-
庚申塔(享保十五(1730)年、高さ 160cm)です。身部の向かって右面に「享保十五庚戌天、十月廿五日講中」の刻銘が大きく刻まれています。
【Wikipediaより】庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。 -
仁王像です。
-
阿弥陀三尊種子笠塔婆(県指定文化財、仁治二(1241)年、安山岩、高さ145cm)です。
富貴寺にある五基の古い笠塔婆の中で一番古いもので、鎌倉時代中期 仁治二(1241)年の銘があります。
自然石を半截して塔身とし、上に笠と宝珠を載せ笠塔婆としています。
上方に阿弥陀如来の種子「キリーク」、向かって右下に観音菩薩の種子「サ」、左下に勢至菩薩の種子「サク」を刻み、阿弥陀三尊としています。
笠塔婆には、「造立者 広増」の名が刻まれており、富貴寺にある他の4基の笠塔婆にも、同じ広増の名が造立者として刻まれています。
塔身下方の銘文:「造立者 広増」「仁治二年辛丑八月十二日」「彼岸第二日」
笠塔婆の原始的な形状で、塔身の前面を平たく削り、塔身は土中に深く埋められています。 -
大堂の西側に、4基の笠塔婆が立っています。
-
阿弥陀三尊種子笠塔婆(県指定文化財、仁治四(1243)年、安山岩、高さ190cm)
上方に阿弥陀如来の種子「キリーク」、向かって右下に観音菩薩の種子「サ」、左下に勢至菩薩の種子「サク」を平底彫りし、阿弥陀三尊としています。
背面は荒く自然石のままで、他の三面は表面を整形、刻銘が刻まれています。
塔身正面下方の銘文:「造立者 阿仏房広増」「仁治四年卯月廿五日」「右為志者極楽往生」 -
不動種子笠塔婆(県指定文化財、文永五(1268)年、安山岩、高さ136cm)です。
塔身は、上部が尖った自然石の表面を平らにし、上方に不動明王の種子「カーンマーン」を平底彫りし、下方に銘文を刻んでいます。
宝珠はやや先が尖った球形で、下に小さめの請花を作っています。
笠は、傾斜はなだらか、軒口は厚く、下面の両端で反っています。
塔身正面下方の銘文:「造立者 広増」「文永五年」「二月八日」 -
釈迦三尊種子笠塔婆(県指定文化財、鎌倉時代中期 文永五(1268)年、安山岩、高さ115cm)
笠と宝珠は欠失しています。塔身は台形の板状で、正面上方に釈迦三尊の種子「バク(釈迦)、アン(普賢)、マン(文珠)」、下方に銘文を刻んでいます。
銘文:「造立者 広増」「文永五年戊辰」「二月八日」「右為志者、往生、極楽」 -
阿弥陀三尊種子笠塔婆(県指定文化財、文永五(1268)年、安山岩、高さ124cm)
笠と宝珠は欠失しています。塔身の正面上方に阿弥陀三尊の種子「キリーク(阿弥陀)、サ(観音)、サク(勢至)」、下方に銘文を刻んでいます。
銘文:「造立者 広増」「文永五年戊辰二月八日」「彼岸第五日」 -
胎蔵界大日種子板碑(県指定文化財、延文六(1361)年、安山岩、高さ135cm)です。
※位置図には②板碑として石段登り口の右側にあることになっていますが、現在は大堂の東側に移設されています。
中世の国東で最も多く造られた石造物は板碑と五輪塔です。板碑は、ある特定の仏菩薩に対する信仰を表したもので、板状の碑面に仏の象徴である梵字を表し、人々のさまざまな願いをこめた経文や願文を記します。
頭部山形は欠損し平になっています。下に二条線が入り、額部は長く、身部上方に胎蔵界大日の種子「アーク」を薬研彫し、下方に銘文を刻んでいます。種子の中央で折れ、修理が施されています。
刻銘:「右志者為祐禅大徳」「延文六年七月廿五日」「七秊忌造立如件」
刻銘の「祐禅」は、1353年大堂修造の際、棟木に名を残しているといいます。板碑は七年忌の造立ですから、祐禅は1355年に没しています。 -
五輪塔群です。五輪塔は、宇宙の根源である空風火水地の五元素を五つの部材で象徴的に表したもので、本来は経典の供養や地鎮のために建てられましたが、中世には墓塔として多く用いられています。
-
写真左側は、宝塔(国東塔)(市指定文化財、室町時代前期、安山岩、高さ 319cm)です。
各部の調和がとれた美しい作品です。
相輪は下から、請花・九輪・請花・火焔宝珠で、最下の伏鉢は見当たりません。
笠の形は工芸的、傾斜はやや深く、両端で強く反り、上端に露盤を刻出しています。
笠上端の露盤は台形で、側面は四面とも二区に分かち内に格狭間をつくっています。
塔身は壺型で、低い首部を作り出しています。側面は無地で、首部に納入孔が穿たれています。
反花座は基礎と一石で作り、別石の請花を載せています。
反花座は全面、請花は南面等の蓮弁が刻まれておらず未完成塔といわれています。
石塔に刻銘はなく、造形的に室町時代前期の作品と見られています。
写真右側は、小型宝塔(国東塔)(慶長八(1603)年、安山岩、高さ150cm) です。
相輪は五輪を残し、上部は欠損しています。また、塔身と下の請花が極端に小さくバランスを欠いています。塔身に、「慶長八年癸卯」「口口禅定門、神儀」「口月五日」の墨書銘があります。 -
十王像です。
-
種子石です。
-
大分県立歴史博物館です。
-
建物に入って正面の無料ゾーンに熊野磨崖仏の複製があり、毎時30分から6分ほどのプロジェクションマッピングの上映が行われます。
-
常設展の有料ゾーンでは、富貴寺大堂の創建当時の姿が実物大で再現されています。
-
ここでも、毎時00分からプロジェクションマッピングの上映がわれます。
-
その他にも、レプリカが中心ですが、様々な展示・説明が行われています。
なお、2026年12月1日から2028年4月中旬まで、工事のため休館になるとのことです。 -
かつての宇佐神宮と弥勒寺の姿です。
-
宇佐神宮と弥勒寺の荘園の分布図です。九州全域に分布していて、その強大な力の源になっていました。
-
臼杵石仏のレプリカもあります。
-
博物館は、史跡公園「宇佐風土記の丘」の中にあります。
-
展望室からは、「川部・高森古墳群」が見渡せます。
これは、3世紀から6世紀の間に築かれた、6基の前方後円墳を中心として周辺に約120基の円墳や周溝墓が集積した古墳群で、九州では宮崎県の西都原古墳群に次ぐ規模を有しています。 -
博物館から南へ20数km、龍岩寺です。
746年に、宇佐神宮を参詣した行基が龍女に導かれ、一夜にして阿弥陀如来、薬師如来、不動明王の三尊を刻み、開山となって諸堂を建立したと言い伝えられています。天正年間にキリシタン大名大友宗麟による焼討ちに遭い焼失しましたが、奥の院とその本尊の三尊は難を逃れ、重要文化財に指定されています。 -
しばらく階段を登り、本堂で拝観料を支払いました。この先の奥の院までさらに登っていきます。竹の杖を貸してもらえます。
-
-
のみ跡の残るトンネルです。
-
奥の院が見えて来ました。
-
手前に見えているのは「きざはし」と呼ばれる階段です。
-
三尊を刻んだ残りの丸太を削って造られたものと伝承されるもので、非常に珍しい様式のものです。安全のため、現在では別のルートが整備されています。
-
-
奥の院礼拝堂(国指定重要文化財)です。
【Wikipediaより】奥院は、大分県内唯一の鎌倉時代(1286年)の木造建築である。岩の窪みに張り付くように建てられた正面3間、側面2間で、屋根は緩やかな片流れ板葺の懸造仏堂で、三仏寺投入堂(鳥取県、国宝)や不動院岩屋堂(鳥取県、重要文化財)とともに「日本三大投入堂」に括られている。 -
奥の院の内部です。格子のため、三尊像はよく見えません。
-
写真右側は薬師如来坐像、左側は阿弥陀如来坐像です。
-
不動明王坐像です。
【Wikipediaより】阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、不動明王坐像の三尊は、平安時代後期の作とされる、樟の一木造・白木の像で、一本の楠の大木から作られたと伝えられる。彩色、切金等の装飾を一切行わず、衣文の細部を略して平面的に処理する、特異な様式の像である。奥院礼堂内に自然の岩壁を背景に安置されている。 -
-
宇佐神宮の有料駐車場に車を停め、「こおした旅館」で食事にします。
-
-
大分名物とり天、大分名物だんご汁、宇佐名物あみご飯です。
-
宇佐神宮に参拝します。
【現地説明板より】当神宮は全国に四万社あまりある八幡社の総本宮であります。
神代に比売大神が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇三十二年(五七一)に応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち、神亀二年(七二五)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。
また、天平五年(七三三)比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁十四年(八二三) 神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。
皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く、特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麻呂公が皇統護持にかかわる神託を授かった故事などから、伊勢の
神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。 -
-
-
-
-
-
-
【宇佐神宮のサイトより】宇佐鳥居(西大門鳥居)
西大門前のこの木造鳥居は宇佐鳥居と称し大鳥居をはじめ他の鳥居はすべてこれと同じ形式のものです。この鳥居は宇佐古来の形式をもつ鳥居として有名で、額束はなく、台輪を柱上に置いています。宇佐の鳥居の規格となるものです。 -
【宇佐神宮のサイトより】 西大門
西大門は文禄のころ(1592~)改築されたといわれ、以来この桃山風の華麗な構造となっています。屋根は切妻及び向唐破風造りで桧皮葺、内部はとくに極彩色が多用されています。国宝の本殿、勅使門などと共に宇佐神宮の景観を象徴する建物です。 -
-
【宇佐神宮のサイトより(写真も)】 国宝 本殿
御祭神 一之御殿 八幡大神(はちまんおおかみ)、二之御殿 比売大神(ひめおおかみ)、三之御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
宇佐神宮の建築様式は八幡造とよばれています。八幡造は、二棟の切妻造平入の建物が前後に接続した形で、両殿の間に一間の相の間(馬道)がつき、その上の両軒に接するところに大きな金の雨樋が渡されています。桧皮葺で白壁朱漆塗柱の華麗な建物が、横一列に並んでいます。奥殿を「内院」・前殿を「外院」といいます。内院には御帳台があり、外院には御椅子が置かれ、いずれも御神座となっています。御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられています。神様が昼は前殿、夜は奥殿に移動することが八幡造の特徴です。また、八幡造のもととなったのは、二之御殿の脇殿・北辰神社の建物ではないかといわれています。一之御殿が725年、二之御殿が733年、三之御殿が823年にそれぞれ建てられました。
「比売大神」は、一般的には宗像三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)とされていますが、確証はないようです。 -
歴史博物館の関連展示物です。
-
実物は見られませんので。
-
-
【宇佐神宮のサイトより】 国指定重要文化財 摂社 若宮神社
御祭神 大鷦鷯命(おおささぎのみこと) (仁徳天皇)、大葉枝皇子(おおばえのみこと)、小葉枝皇子(こばえのみこと)、別皇子(はやぶさわけのみこと)、雌姫皇女(めどりのみこと)
天長元年(824)同7年、ご神託があって、仁壽2年(852)に造営使を派遣して造営創祀されました。応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(仁徳天皇)と皇子をお祀りしています。
除災難・厄難の神様として有名です。 -
【宇佐神宮のサイトより】 外宮(御炊宮)
嵯峨天皇の弘仁年間(810年代)勅願によって創建され、上宮の御分神をご鎮祭になったことがきっかけで、八幡大神様・比売大神様・神功皇后様は上下御両宮のご鎮座となりました。
「下宮参らにゃ片参り」と云われる所以です。下宮の八幡大神は、御饌(みけ)を司るとともに、農業や一般産業の発展、充実をお守りになるご神威を発揮されます。古くから日常の祭祀には、とくに国民一般の祈願や報賽(ほうさい)が行われてきました。 -
【宇佐神宮のサイトより】 高倉
祭器具等を納める高倉の板倉です。寄棟造り桧皮葺。下は円柱で正面二間(4.84m)、側面二間(3.95m)、柱間は黒塗りの板壁で、引込み戸を設けています。前面のみ持送りで縁を設け、擬宝珠高欄を備えています。床上が倉の本体です。 -
弥勒神宮寺の跡です。礎石が見えます。
-
【現地説明板より】 弥勒神宮寺の成立
宇佐神宮関係の史料によれば、725年に八幡神を現在の小椋山に移したとき、東方の日足の地に
弥勒禅院を建てたことが記されています。また、738年に金堂・講堂を建立しており、このころ着手して奈良時代に完成したものと考えられています。
西参道の南側に寺跡の中心遺構が保存されています。発掘調査によって金堂・講堂を南北中線上に配し、金堂の前面に東西2基の塔を並べた、いわゆる薬師寺の伽藍配置であることが確認されています。境内全体の規模は、東大門と西大門の間で約150m、南北もほぼ同じ長さであったと推定されます。 -
歴史博物館の関連展示物です。
-
【現地説明板より】 応永の八幡宮古図
この絵図は製作年が不明ですが、 建築史などの立場から室町時代の応永年間のものであることが明らかにされています。寄藻川を渡ると大鳥居から真っすぐ南へのびる参道を軸として、東側に
では八幡宮の社殿が建ち並び、西側には弥勒寺の伽藍が広がっています。
周辺には宇佐宮八箇社をはじめ、御許山、和間浮殿、薦社、奈多社などが描かれており、神仏習合の理想世界を表現しています。 -
-
【宇佐神宮のサイトより】 呉橋
呉橋は西参道にある屋根がついた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります。鎌倉時代より以前からある橋です。上記の歌は後伏見天皇正安3年(1301)の勅使、和気篤成朝臣のものです。 -
-
暑い日だったので、最後に駐車場近くのこの店でクールダウンしました。
-
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
宇佐・豊後高田(大分) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 国東半島、宇佐、中津
0
95