2026/05/11 - 2026/05/15
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しにあの旅人さん
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中宮寺前の大黒屋です。
「大和路・信濃路」の一遍「10月」にたびたび出てくる宿屋です。
「奈良からの手紙」にもあります。「奈良からの手紙」は私の命名で、詳しくは「堀辰雄紀行 歌姫 (奈良1)」をご覧になってください。
1943年(昭和18年)の建物で、そんなものが今もあるはずがないと思っていましたが、法隆寺Iセンター(観光案内所)にダメもとで聞いてみました。相手をしてくださった中年の方は、「ん?」という表情ですが、手応えありそう。奥に引っ込みました。たぶんそこには法隆寺の生き字引みたいな方がいらっしゃるのでしょう。
「今もあるそうです。CAFÉ鍼灸ZADANがそうです」
地図をくださいました。
一書に曰く、
大黒屋のことは、まず、ホテルのフロントに聞きました。
お若いホテルマンはご存じない。
このホテルは、文化講座を催したり、団体を組んでガイドをつけてくれたりする文化ホテルだから聞いたのですがね。
まあ、いかに文化を標榜するホテルだとて、あらゆる文人墨客を網羅するわけにもいきますまい。
法隆寺は、歴史的に、ず~~~~と、観光地なわけで。
訪問しただけの人なんか数え切れないだろうに。
内心「ふふん。わかるわけないや。」と確信していたby妻ちゃん。
一応、貞女の仮面をかぶって、夫に観光案内所を勧めてみます。
そしたら、当たっちゃったのですよね!
すごいです。
前日のガイドさんも、実によく研究していらっしゃいまして、by夫の、ただの観光客にはいらんだろ、そんな知識。という質問にも、ビシッと、お答えくださいましたよ。
By妻
参考書は
「堀辰雄全集第3巻・大和路・信濃路より10月」/福永武彦・中村真一郎編集/筑摩書房/昭和52年
「葉鶏頭」堀多恵子/ 麥書房/昭和45年
引用に際し僭越ながら敬称は略させていただきました。
地図は別記以外グーグル・マップです。
投稿日:2026/06/06
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JALグループ JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
これがもらった地図で、中宮寺の↑が大黒屋です。
-
裏面の一部。
★16 CAFÉ鍼灸ZANDAN★
な~んだ、大黒屋の跡地に縁もゆかりもないカフェがあるだけだ、と思いました。
法隆寺旧地区の古く狭い路地をたどります。細い道路が直角に曲がっている、軽自動車でも無理じゃない、などと言い合いながら、やっと広い道路に出ました。
すると、 -
大黒屋だあ! と二人で合唱してしまいました。
一書に曰く、
ここまでくると、修学旅行も団体旅行もきません。
静かなお寺わきの人家。
ここで、欣喜雀躍する人っていうのは、珍しいでしょうね。
ふつーの通り、ふつーの人家。ふつーのパーキング。
で、大黒屋の文字。
この文字を求めてさまよいました。私たち。
だから何なんだ?とか言いたいでしょ?
言いたいよね。
でもね、by夫は、はるばるイタリアはフィレンツェの郊外、サンタンドレア・イン・ペルキュシーナまで行って、マキャベリの机に触って、マキャベリと時代を超えて握手したとかいう人なのです。
机だよ。机だよね。マキャベリじゃないよ。とか冷静にならないでくださいよ。
そういう人が、大黒屋の文字に大喜びでありました。
一般旅行ガイドには、載らないだろうなあ。
By妻 -
カフェでも鍼灸院でも「大黒屋」の名は残っていたのです。
80年の歴史が一気につながりました。 -
法隆寺駅
▲▲▲▲
写真は現在の法隆寺駅。堀辰雄のころはホーム2本を陸橋が結んでいる貧相な駅だったみたい。
今は新しすぎて面影なし。 -
北口出て20分は変わらない。
-
一書に曰く、
法隆寺門前のホテルから駅まで、歩きたかったのですが、タクシーにしました。文人墨客は歩いたと思うのよ。
少なくとも堀辰雄は歩いた。
でも、我々は、タクシーにしました。
哀しいですね。年取るということは。
駅は。
別に法隆寺という駅でなくともいい駅舎でした。
ただひとつ、郵便ポストが黒っぽい茶色で、街の雰囲気をまもっておりました。
さりげなく。
こういう配慮が、古都です。
By妻
はるかなり万葉
▲▲▲▲▲▲▲
前回の「堀辰雄紀行 歌姫」で書いたように、堀辰雄は万葉の時代を背景にした小説を書きたいと思い、奈良に来たのでした。
どうもそれは難航したようです。
「10月」10月13日
★僕は万葉集をひらいたり埴輪の写真を並べたりしながら、12時近くまで起きてゐて、五つか六つぐらい物語の筋を熱心に立ててみたが、どれもこれも、いざ手に取って仔細に見てみてゐると、大変な難物のやうに思えてくるばかりなので、とうとう観念して、寝床に入った。★
(P115)
結局万葉の時代の勉強不足を痛感し、あきらめかけました。
この旅で堀辰雄が法隆寺に行ったのは10月23日。往生際悪く、法隆寺に行けば局面が打開できるかと思ったみたいです。「最後のとっておき」と書いています。
★けふは法隆寺へいって、壁画を模写してゐるところをよく見せてもらって、大黒屋という追分の油屋みたいな古い宿屋があるから、そこで半日小説を考えてくる。★
(「奈良からの手紙」P264)
それも空しい努力でした。
奈良で万葉小説を書くのはあきらめて、多恵子の待つ東京へ帰ることにしました。東京で遮二無二書くつもりです。要するに多恵子さんが恋しかったのでしょう。
「不要になった本や洗濯物を送ろう」と手紙にある。
洗濯くらい自分でしろよ。
「お前が言うな!」By妻が言いそう。
一書に曰く、
他人のことは、言えるんだよねえ。
by夫は、目薬を自分で点せない人でしたが、今年になってできるようになりました。
ぱちぱちぱち
by妻が、再三再四、私がいなくなった時、ひとりでどうするの?と脅した結果です。
ああ、われダンテの才なくも、、、芭蕉のさびを喜ばず。
なんて言ってられない年ですからね。
さびが嬉しい年になっちゃいましたねー。
By妻
「10月」の10月26日によれば、
★法隆寺駅についた。僕は法隆寺へ行く松並木の途中から、村のほうへはひって、道に迷ったやうにわざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿の方へ向かった。★
(P132) -
法隆寺駅から左、つきあたりを右に行くとまっすぐ法隆寺です。
-
この松並木の参道を南大門に向かいました。
-
正面が南大門です。
一書に曰く、
この参道、昔からこんなにきれいだったでしょうかね。
わたくし、独身時代にも来たことありますが、ほこりっぽくて、もっと荒れた感じであった気がします。
法隆寺の境内も、チリ一つ落ちていなくて、さすが法隆寺なのですが、昔は、もっと普通のお寺の感じだったような。
今は、さすが奈良。さすが法隆寺であります。
一点の翳りなく、品よく格式高く、世界の日本でありました。
By妻 -
一書に曰く、
法隆寺は、今日も修学旅行の若者であふれております。
詰襟にセーラー服という制服は、今は少ないようで、ブレザーが主流ですね。
そこで思い出すのは、大英博物館の少年たち。
紺ブレにネクタイの制服でした。
もう!かっこいいの!!
さすが英国紳士の国。
スーツは、やっぱり欧米の衣服なんだな。
日本男児は、裃にでもしないと負けるわー。
子育てが終わった我々には、青少年の団体は、まぶしい。
by夫は、高校生でしょ。と、丸めてすべて高校生というけれど、今どきの高校が、団体で法隆寺に来るかぁ。
中学生に決まってるじゃない。
だいたい、列組んで歩いてるところで中学生に決まってる。
なのに、とうとう聞いちゃいましたよ。
あなた達、高校生?
あ~あ、ばかですね。このおじいさん。変質者と思われちゃうところですよ。
中学生で、四国は丸亀から来たんだと。←フォローにあたったおばあさんが聞き出しました。
おばあさんは、そつなく「楽しい旅を!」とか言っときました。
法隆寺は、若い人たちにきらめいておりました。
By妻 -
現在の松並木両側の舗装道路は昭和30年代に造られたもので、当時はありません。
「松並木の途中から、村のほうへはひって、道に迷ったやうにわざと民家の裏などを抜けたりしているうちに・・・」つまり私たちが通った細い道です。
「まんまえの例の古い宿屋」はさすがにもうありません。
壊されて、いまは駐車場になっているようです。 -
大黒屋
▲▲▲
昭和18年の大黒屋は、
「奈良からの手紙」10月24日付 奈良ホテルより(封書)
★それから(H・S氏)と一しょに大黒屋にいって昼飯をくった。けふは割合に感じがよかった。すこし苦労したので好くなったのだろう。(中略)大黒屋っていうのはもうこはれかかって、半分家が傾いてしまってゐる。三階建てのがらんとした古い大きな家で、廊下など歩くのが危ない位だ。しかしその廊下に立つと、見晴らしがなかなか好い。ヤマト平野が一帯に見渡せる。こんな廃墟のやうな宿屋に、壁絵を模写中の絵描きさんなどが泊っているらしい。僕もすっかり気に入ったので、奈良ホテルをすこし早めに(27日)引き上げて、東京に帰る前に一晩か二晩此処へ泊ってみたい。★
「10月」P128にもこのエピソードはありますが、一緒に昼飯を食ったのは詩人のH君。メニューは鳥めしでした。「奈良からの手紙」ではH・S氏。実名で書いてありますが、フランス語を頻繁に会話に混ぜるので、堀辰雄が苦手とする人でした。
彼が知人の好き嫌いを明らかにするのは多恵子への手紙だけです。
「10月」でもこの宿屋に泊まりたいと言っていますが、それはかないませんでした。
夜の法隆寺周辺は真っ暗です。月夜なら五重塔のシルエットが夜空にそびえたはず。 -
駐車場の隣には観光協会でもらった地図にあった「CAFÉ鍼灸ZANDAN」がありました。
-
文字通りカフェと鍼灸を営んでいるようです。
-
カフェと鍼灸の組み合わせがよく分かりません。
この日はお休み。
ここでコーヒーを飲んでみたかったなあ。堀辰雄の時代の話などきけたかもしれません。
建物はとても80年以上前のものとは思えません。建て直されたものでしょう。
大黒屋はかなり大きな宿屋だったので、となりの駐車場と合わせたおおきな建物だったはず。
カフェの経営者が大黒屋さんと同じだったかは分かりませんが、駐車場の名前にでも「大黒屋」をのこしていただいて、遠くからの旅人は感謝です。 -
「大黒屋」の正面は東伽藍の南門です。工事中でした。
夢殿や中宮寺はすぐ近く。 -
現代の金堂です。
壁画の模写
▲▲▲▲▲
このあと堀辰雄は金堂の壁画の模写を見学しています。
この日はちょうど10人ほどの画家が模写をしていました。昭和24年の火災前ですから、剥落が激しいとはいえ、無傷の壁画です。しかも蛍光灯の明るい光に浮かび上がった、鮮やかな色彩が残った壁画でした。
Sさんという画家が仕事中の櫓に上げてくれました。1日の仕事で1寸平方の模写しかできないこともあるという。何もない痕跡ばかりを描いてゐるうちに1ヶ月ばかりたってしまうこともある。
★僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼を言って、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をかうやって必死になってその儘に残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。★
P127)
一書に曰く、
法隆寺版のトキワ荘ですかね。
法隆寺を中心に、若き人々が集ったのであります。
この法隆寺という、圧倒的な美を語り、賛美し、また、自分とは違う美の発見を喜び、いつまでも語り合ったことでしょう。
こういう修復する人は、どこで、どのような勉強をするのでしょうか。
また、そういう仕事をする人は、自分自身の作品を残したくはないのでしょうかね。
我々一般人の知らないところで、沢山の人が法隆寺の建物や塔や仏像を守っていたこと、そして、それは今現在も続いていることを教えられる、堀辰雄の文章です。
By妻 -
子規の茶屋趾
▲▲▲▲▲▲
西院鑑池の近くに「正岡子規の茶屋趾」というのがあります。明治28年に茶屋が建てられたそうです。
句碑があって、北面に、
★
法隆寺の茶店に憩いて
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
★
とあります。
ここに茶屋らしきものがありました。堀辰雄もこの日ここで詩人のH君に出会いました。茶屋で一緒に柿を食べたそうです。
(P127)
茶屋があったのは間違いありませんが、聖霊院に近すぎ、火災の時延焼の危険があるということで、その後現在の場所に移されたそうです。堀辰雄がH君と柿を食べたのはどちらか分かりません。 -
俳句ファンの巡礼地らしい。
-
ガイドつきで訪ねてくる人がおりました。
一書に曰く、
ここに茶店があったとは、ずいぶん、当時の法隆寺は、俗っぽかったのですね。
正岡子規が、ここで柿を食べたと、ガイドさんが説明したとき、あまりに出来すぎていない?って思ってしまいました。
子規が発病する前だろうか。
と思ったのですが、
ガイドさんは、真剣に、「本当に、正岡子規は、ここで柿を食べました!」と、この句が、味覚、聴覚、視覚を表現している素晴らしい俳句なのだと、力説していました。
子規が柿好きだったのは有名です。
鐘つけば銀杏散るなり建長寺
は、漱石です。
By妻 -
東院伽藍の現代の夢殿です。
自由に入れた夢殿
▲▲▲▲▲▲▲▲
「10月」の10月26日に、現代なら驚くべき記事があります。
★
このまえ来たとき」無残にも解体されてゐた夢殿だけは、もうっすっかり修理ができあ上がっていゐた。・・・・(中略)
僕は漸く心が静かになってから夢殿のなかへはいり、秘仏を拝し、そこをでると、再び板がこいの傍を通って、いかにも慎ましげに、中宮寺の観音を拝しにいった。
★
(P133) -
現代では夢殿は年に2回しか公開されていません。厳重な鉄格子ごしに拝めるだけで、中は暗くてなんだかよく見えません。
しかし昭和18年では、自由に中に入れて、まじかに拝観できたのです。フェロノサが秘仏とされていた布をとったのは明治初年ですから、現在と同じ救世観音です。
文脈上、堀辰雄が特別に法隆寺から許可を得た形跡はありません。
この時代、仏さまに危害を加えようなどとだれも考えもしなかったのです。だから法隆寺はだれにでも公開されておりました。
昭和18年。戦争中でした。しかし斑鳩の人々の心は千数百年前と変わらず、おだやかだったのです。 -
万葉小説
▲▲▲▲
★19日午後、けさはクロオデルの本を読んだ。こんどの小説は、いつだか僕のいってゐた「受胎告知」の主題がその中心のモチイフとなって来だした。ああいう人間的なものへの神的なものの侵入、そのために若い娘が犠牲になる―さういったものを万葉びととその村を背景にして書こうというのだ。なかなか難しそうだが一つやってみる、-けふは三月堂にいった。いま万葉植物園の中でこれを書いてゐる。これからホテルに帰る。★
前回の「堀辰雄紀行 歌姫 (奈良1)」の、書かれなかった万葉を背景にした小説案を再掲しました。
どうしてもこのテーマをあきらめきれなかったようです。
「10月」にこんなことを書いています。
★それは一人のふしあわせな女の物語。自分を与え与えしてゐるうちにいつしか自分を神にしてゐたやうなクロオデル好みの聖女とは反対に、自分を与えれば与えるほどいよいよはかない境遇に堕ちてゆかねばならなかった一人の女の、世にもさみしい身の上話。そういう物語の女を見出すと、僕はなんだか急に身のしまるやうな気もちになった。これならば、幸先がよい。さういう中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背伸びをしなくてもいいだろう。こんやもう一晩、この話をとっくりと考えてみる。★
(P130)
これでは万葉小説ではなくなります。
この主題は1941年(昭和16年)12月発表の「曠野」(あらの)となりますが、もはや万葉の時代をバックにした小説ではありません。
堀辰雄は結局、万葉小説を書きませんでした。
万葉と言っても広く、飛鳥、その前の葛城を舞台にするなら、強い女を登場させなければなりません。
夫と共に崇神天皇に反旗を翻した吾田媛、仁徳天皇の筋の通らない浮気を絶対にゆるさなかった磐之媛。女としての自覚をもった飯豊皇女。
飛鳥の後宮の女官が賄賂をとって、役人に便宜を図る。
飛鳥の女は普通に馬に乗っていました。横鞍じゃいやだ、唐風に馬にまたがって乗りたいと天武天皇にねじ込んだ女官。
日本書紀が描く古代の女たちはそういう強い意志をもっておりました。
もちろん持統天皇や橘美千代はこの時代の代表選手。
万葉では「曠野」の受け身一方の平安の女は不自然なのです。
そういう逞しい女たちを小説に登場させるのは、堀辰雄は苦手だったのではないか。
一書に曰く、
万葉女子は、明朗で単純だったと言いたいらしいですね。by夫は。
橘美千代、またの名は犬養美千代さんなんて、単純とはとても言えないけれど、少なくとも陰険ではなかったかもね。
光明皇后の、あの雄渾な楷書を見てごらんなさい。あの人のおかあさんですからね。
万葉時代、服装から見ても、現代くらいの女性の自由と権利は、あったのではないですかね。
動きやすそうですもんね。
十二単とか打掛とか時代が下るほど、女は、身動きができない装飾品化しますね。
洋の西でも、貴族の女は、ひとりで着ることも髪を整えることもできなくなるのは、なぜでしょう。
あれは、犬に洋服着せるのと同じで、やさしい虐待だよなあ。
By妻
多恵子ひとり
▲▲▲▲▲▲
1967年9月、多恵子は一人いかるがの里を訪れました。「大和路・信濃路」や、24年前の辰雄の手紙を持っていたでありましょう。
中宮寺から法輪寺、法起寺あたりを目指して歩いたようですが、迷子になりました。夕方でした。
★人の影はなく、あたりはもう薄暗くなっていた。辰雄はこれから書こうとする小説のことを考え考えこの辺を歩いたのだろうと、私はせつない気持ちでその姿を思い浮かべていた。私は急に何か声に出して話しかけたいような自分に気づいて、はっとして立ち止まったのだった。★
(葉鶏頭・大和路の秋P149)
夫は14年前に亡くなっていました。時間が遡る一瞬でした。
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