2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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更新記録 2026/06/08:誤記訂正 2026/06/17:添御縣坐神社の読み訂正
堀辰雄は昭和16年(1941年)10月と12月、奈良に旅行しました。そのとき東京で留守番の妻の多恵子にいっぱい手紙を書いております。「奈良からの手紙」と勝手に名付けましょう。
辰雄が多恵子に書いた手紙で有名なのは「七つの手紙」
昭和12年(1937年)二人が信濃追分で出会ったあと、辰雄が書いた手紙です。実際には9通ありますが、そのうち7通が後日書き直されて小品集「七つの手紙」となりました。実質的にこれは辰雄が多恵子に書いた恋文です。
多恵子の親友恩地美保子(みおこ)の父、版画家幸四郎が出版しろと炊きつけたものですが、妻となる女に送ったラブレターを作品にするとは、辰雄さんなかなかやってくれます。
「奈良からの手紙」をベースに書かれたのが代表作の一つ「大和路・信濃路」(昭和18年-19年)です。現在の形で1冊の本として人文書院から出版されたのは、辰雄の死後1954年(昭和29年)
多恵子はもう妻ですから、それほどデレデレしてはおりませんが、そのまま文学作品になるくらい根性入れて書いています。
辰雄は多恵子を心から愛していたのだな、と思う文章もちらほら。妻へのラブレター。
一書に曰く、
奈良という場。
外国暮らしの後、久しぶりに日本に帰って、いかにも日本というところに行ってみたいと、軽い気持ちで選んだのが、奈良でした。
最初に奈良で、それから京都、大坂と時代を下りたいと思っていたのです。
なのに、抜けられなくなってしまいました。
一回目の大仏様、鹿、阿修羅様あたりで、ひきあげるべきでした。
こういうのを、ぬまっていうそうですね。
まったく、おっしゃる通り。
底なし沼に引きずり込まれております。
奈良ほど、作家、美術家、建築家、、、とたくさんの人々に描かれた場所はないのではないですか。
美意識の高い方々を魅了してやまない、この奈良。
かの堀辰雄も描いております。
ということで、堀辰雄が見た奈良です。
凡人のby夫婦、今回、堀辰雄に導かれて旅します。
By妻
参考書は
「堀辰雄全集」福永武彦・中村真一郎編集/筑摩書房/昭和52年
書簡番号は第8巻書簡集の番号です。
引用に際し僭越ながら敬称は略させていただきました。
地図は別記以外グーグル・マップです。
投稿日:2026/05/19
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
10月12日堀辰雄は「歌姫」という美しい名の村に行っております。左端赤丸です。
(筑摩3巻P112)
「奈良からの手紙」ではこの日6時に起きて、佐保路を歩き、法華寺、海龍王寺を歩いています。片道6.5㎞くらいあります。それを往復ですから、なかなかの健脚です。このころは堀辰雄が最も元気だったころ。多恵子の健康管理のおかげです。 -
この奈良ホテルの写真は、4トラベラー前日光さんのブログ、
「年末の奈良は雪だった(O_O)」(2022年12月)
https://4travel.jp/travelogue/11810403
よりご本人の了解を得てお借りしました。
堀辰雄が泊ったのは奈良ホテル、当時も今も奈良を代表する老舗ホテルですが、昭和16年というと、戦争で食糧事情も悪く、着いたその日から「あまりうまくない食事をして」とか「朝の食事はまづい」とか文句を言っております。
★いまDinnerを了えてきた。相変わらずの代物だが栄養は十分とれそうだ。★
(10月16日書簡番号459)
ただし猿沢の池に面したいい部屋でした。
12月にまた来ると言ったら荷物を預かってくれるなど、さすがサービス満点。
一書に曰く、
戦争中でも、旅行したのですね。
戦争しているときって、全国民が、ただひたすら戦争のことを考えて、賛成だろうが反対だろうが、とにかく、ひたすら戦争を中心に生きていたのかと思っておりました。
堀辰雄としては、そういう時だからこその、奈良旅行だったのでしょうか。
そして、そういう文章だからこそ、前線に戦う若き兵士たちに読まれたのでしょうか。
堀辰雄が、夫人ぬきの一人旅をしたのは、経済的な理由だったのでしょうかね。
私の兄は、終戦前に生れて、まさに戦後の混乱の中に幼少年時代を過ごしております。
修学旅行の時は、お米を持参しておりました。
それから類推すると、堀辰雄も、お米を持って行ったのでしょうか。
By妻
By夫注。さすがに天下の奈良ホテル、お米を持ってこいと言われなかったようです。一人で来たのは、小説を書くため。多恵子と二人だとイチャイチャ遊んじゃって、仕事になりません。まだ結婚3年目です。
このホテルを出てまず北に向かいました。
★天平時代の遺物だという転害門 (てがいもん)から、まず歩き出して、法蓮というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気持ちそうに佐保路に向かひだした。★
(3巻P110)
佐保路を大伴家持の気分で歩いたらしいので、転害門 から海龍王寺まで一直線、現在の一条通りのようです。
法連町が古めかしい部落だった! 今はただの住宅街ですが、80年以上たっているので、まあしょうがないか。 -
撮影2021年。
海龍王寺が廃寺だったそうですよ!
いまでも土壁などがあちこち剝落していますが、廃寺というほどひどくはない。
海龍王寺あたりから西には茫々たる荒れ地が広がっていたでありましょう。
一書に曰く、
海龍王寺は、留学生がお参りするお寺だそうです。
僧正玄と関係があるらしいです。
お寺としては、こじんまりしていて、そんな偉い人とのつながりなぞ感じない、家庭的なお寺でした。
By妻 -
南1㎞には長屋王屋敷跡がありました。
1989年には屋敷跡の充分な調査も行われず、そごうが建設され、2000年には営業不振で潰れました。同じ建物に2003年-2017年はイトーヨーカドー奈良店がありましたが、これも撤退。
地元の方に長屋王の呪いではないかと聞きましたら、否定しませんでした。
現在はナントカという複合商業施設になっております。
2026年私たちはある事情でこの建物に入りました。出るときはお清めの塩をお互いにふりました。
一書に曰く、
ミ・ナ~ラ。
外国語かと思いました。
高市皇子の息子で、吉備内親王の夫であります長屋王の屋敷跡でございます。
二代続けての大臣、そして妻のひとりは、かの藤原不比等の娘で、また、もう一人は、当代の天皇の妹ですからね。
大変な実力者で、お金持ち。クジャクだっていたそうですよ。
なのに、不比等の息子たちに負けちゃったんです。
その屋敷跡。
というわけで、わたくし、大変たいへん期待しておりました。
この度、三回目にして初めて中に入りました。
結果、普通のショッピングセンターでございました。
えっ、何を期待していたのかと?
はい。奈良だし、長屋王だし、お隣は平城京跡だし。
豪華絢爛な銀座とかシャンゼリゼとかみたいな店揃えかな?と、なんとな~く思っていたんでしょうかね。自分でもよくは分からないのですが。
とにかく、地味な印象。
近郷近在の若者がたむろってる、田舎の普通のショッピングモールでした。
クジャクはどこ行った?くじゃくは?
By妻
法華寺からは平城京あとです。
ここも歩いたはずですが、堀辰雄はなにも書いておりません。ただの草原か雑木林だったのでしょう。
奈良文化財研究所による発掘調査が始まったのは1959年(昭和34年)ですから、やむをえません。第一次大極殿の復元が完成したのは2010年です。 -
佐紀町を通っているようです。現在なら堂々たる大極殿の北側が見えたはずです。
その後次々と平城京の復元が進んでおります。私たちにはとてもありがたいことです。
堀辰雄は万葉の時代を背景にした小説を構想しておりました。しかし仮に彼がこれを目にすることがあっても、小説には使われなかったのではないかと思いました。
10月19日(午後)付 奈良万葉植物園より、書簡番号464
★19日午後、けさはクロオデルの本を読んだ。こんどの小説は、いつだか僕のいってゐた「受胎告知」の主題がその中心のモチイフとなって来だした。ああいう人間的なものへの神的なものの侵入、そのために若い娘が犠牲になる―さういったものを万葉びととその村を背景にして書こうというのだ。なかなか難しそうだが一つやってみる、-けふは三月堂にいった。いま万葉植物園の中でこれを書いてゐる。これからホテルに帰る。★
書かれなった小説のひとつです。
これは大極殿をバックにはできない。
堀辰雄は書きたい小説を多恵子にはよく話していたようです。
彼の小説は最終的には下書の三分の一くらいになりました。浄書は多恵子がしていました。多恵子だけが読者だった小説がいっぱいあったはず。
贅沢の極み。
午後、海龍王寺を出て、柿を買い、かじりながら「歌姫」にたどり着きました。
お昼を食べたとは書いてないのですが、ひょっとしてこれが昼飯? 大きな柿だったようです。
一書に曰く、
堀辰雄、よく歩いております。
結核でさえなかったら、丈夫な人だったのでしょう。
柿しか食べ物がなかったのでしょうね。
子規なら、ここで、柿食えば、、、になるのでしょうが。
歌姫の峠は、柿をかじりつつ。
今の奈良も、柿ばかりです。
柿そうめん、柿の奈良漬、柿のようかん、柿のもなか。
そうめんと奈良漬が斬新でしたわ。
By妻
★僕は少し歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村に入った。歌姫という美しい字名だ。★
(P112)
と書いていますが、この村は今でも同じ名で残っています。
古代大和から山城、現在の京都府に行くのは、この村を通る歌姫越えがメインルートでした。
それほど古い地名なのです。
いずれ葛城の旅で改めて書きますが、4世紀初め武埴安彦(たけ・はにやすひこ)が崇神(すじん)天皇に反旗を翻したとき、天皇の命で出陣した大彦と彦国葺(ひこくにふく)は、歌姫越えで奈良山に登り、埴安彦と対陣しました。
今は通る車も少なく、坂というほど大したものではありませんが、村は峠の麓に静かに眠っております。
堀辰雄のころとたぶんたいして変わっていないでしょう。
一書に曰く、
歌姫って、初めて聞いたとき、新しい地名かと思いました。
よくある希望が丘とかみたいな。
そして、音楽堂みたいなのがあるのかと。
そしたら、ひゅ~ひゃらひゃらの雅楽の歌姫だそうです。
舞姫が存在することは知っておりましたが、歌う女性がいるとか、あまりぴんとこなかったのです。
しかも、ここにその歌姫たちが住んでいたからってことは、寮みたいなのがあったのか、それとも、代々世襲の歌姫の家系があって、その家が、ここに集まっていたとかなんですかね。
だとしたら、女性の職業があったということですわね。
女性が独立できた時代だったのでしょうか。
一夫多妻でしたが。
By妻 -
これがメインストリート。
むこうから車が来ます。すれ違いは要注意です。
枝道にも入ってみたかったのですが、奈良の古い村の狭い道の怖さは身に染みていたので、神社の駐車場に車を停めて歩きました。ただの古さじゃないですよ、4世紀です。 -
家並みはこういう古色蒼然とした感じ。
それぞれの家の門構えが大きく、中庭が広くとってあって、周囲に母屋も納屋も家畜小屋も果樹も並んでいる。裕福な家が多かったということらしい。
1600年ずっとここに住んでいる人も、もしかしたらいたかもしれません。
彼が通りかった時人々が日当たりのいい中庭で農作業をしていました。
そのなかに入って行って、女たちと話でもしてみたかったけれど、辰雄はそういうことのできる性格ではありません。
初対面の人とろくに話もできない性格だったと、多恵子が書いています。今日でいう税金の確定申告も全部多恵子がやっていました。結婚前はどうしていたんだろう。
今でいうアスパラガス、じゃなかったアスペルガーだったみたい。
私もややそういうところがあるので、その場の雰囲気、よくわかります。
★
気の小さな僕がさうやって農家の前に立ち止まり立ち止まり、二三軒見て歩いているうちに、急に五六人の村の子たちに立ちよられて、怪訝そうに顔をじろじろ見られだしたのには往生した。そのあげく、僕はそんな村の子たちに追われるやうにして、その村を出た。
その村はずれには、おあつらえむきに、鎮守の森があった。僕はとうとう追ひつめられるやうに、その森の中に逃げ込み、その木陰でやっと一息ついた。
★
(P113)
この話、「奈良からの手紙」にはありません。よっぽど恥ずかしかったのでしょう。 -
添御縣(そうの・みあがたに)坐(います)神社。
三碓地区に鎮座する同名の「添御縣坐神社」と共に式内社「添御縣坐神社」の論社となっています。古くは有名な神社だったようです。 -
街道に面していて逃げ込むにはちょうどいい。村はずれだし、たぶんこの神社だったでしょう。
-
立派な参道と、
-
灯篭がならんでいました。
-
一書に曰く、
このエピソード、多恵子夫人はどう思ったのでしょう。
多恵子夫人は、結婚前、ホテルのフロントで、外国人相手の仕事をしていたのです。
そのホテルではイベントとして、女子従業員たちが花笠音頭をお客に披露することになっていたそうです。
多恵子さんは、外国人係ですから、一般スタッフとは別枠で、踊らなくてもよかったらしい。なのに、踊ったという話があります。
けっして、内気な恥ずかしがり屋さんではないですよね。
堀辰雄が、<子供に追われて>って、相手は子供ですよ。
子供の方はただ、余所者がいるから興味もって、 おじさん、どっから来たの?とかいうくらいでしょう。
東京からだよ。って返事するか、ギロリって、にらめばいいんじゃない?
無視でもいいけど。
そんな大人、よくいましたよね。
態度悪い、怖い大人。
ふ~ん、堀辰雄って、そういう大人の態度ができないひとだったんだ。
多恵子夫人が、この話を読んで、何思ったのか知りたいです。
私みたいに、あほか!なんて思わなかったんだろうけど。
By妻 -
一書に曰く、
子供はついてこなかった。
いやがって、神社に逃げ込んだこと、やっぱりわかったんだ。
きっと、家に帰って、今日、変なおじさんにあったよ。
なんて晩御飯の話題を提供したね。
俺たちのこと見たら、そそそーと逃げたんだよ。なんて言われて、
人さらいがいるから、気をつけな。
なんて、おかあちゃんが返事したんだ。きっと。
子供にも見捨てられたる 人見知り。
よかったですね。小説家になれて。
他の職業では、とてもとてもやっていけなかったでしょうね。
By妻 -
本殿も清らか。
-
♪
-
♪♪
-
ちょっと荒れていましたが、鎮守の森も広く、深い。
-
♪
-
♪♪
-
燈明の一つには、
-
「明治十二年」と彫られていました。
堀辰雄が逃げ込んできたときにはありました。
なんの目的でこの村を訪れたのか最後まで書いてありませんでした。
クロオデルのような「さういったものを万葉びととその村を背景にして書こうというのだ。」という万葉ぽい村を探していたのかもしれません。
これは案外当たっているかもしれません。
最後に、辰雄の多恵子へのデレデレをひとつ。
書簡番号476
10月26日付堀多恵子様(封書)その末尾。
★こんどの小説だと、琵琶湖が最後の背景になるのだ。僕の好きな小説になりそうだから
安心しておくれ。ただどうもお前からいつまでも離れてゐなければならないのが具合が悪い。お前も僕のいない間はなるたけ呑気にして遊んでくれるといいが。★
一書に曰く、
―ただどうもお前からいつまでも離れてゐなければならないのが具合悪い。―
そりゃそうだろう。こうまで人見知りでは。
この手紙を読んで、多恵子夫人、あ~あと思ったか、しょうがないわね。私がいないとダメなんだから。と、思ったか。
しょうがないわね。って思ったんでしょうね。たぶん。
添い遂げてますもんね。
多恵子夫人、お疲れさまでした。
By妻
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 前日光さん 2026/05/24 11:56:35
- 私も、奈良に「ぬま」っている一人です( ̄▽ ̄)
- しにあさん&by妻さん、こんにちはヽ(^o^)丿
「歌姫」なんていう響きの良い所があったのですねぇ。
気づきませんでした!
佐保とか法蓮町とか佐紀などという地名はお馴染みだったのですが。
最近名づけられたんじゃないか?なんて疑ってみましたが、ずぅーーと昔からある地名なんですねぇ。
自分の住所を書く時「奈良市歌姫。。。」なんて書けたら、素敵ですねぇ。
もうすぐなのですが、飛鳥に行く前に「歌姫」に寄り道できないかな?と考え中。
でもたぶんレンタカーではなく、例のトラベラーさんの車に同乗させていただくので、わがままは言えません。
さて堀辰雄は「こどもが苦手」、そうでしょうねぇ。
こどもと仲よく遊ぶのは良寛さんタイプで、普通に文学なんてヤクザなことを家業とする人間にはできないことです。
「添御縣坐神社」、うーーん、ここにも行ってみたい。
古代のニオイがプンプンします。
こういうところ、大好物なんですよねぇ。
でも一人旅じゃないし。次回になるかもしれません(T_T)
それにしても多恵子夫人は器の大きな人だったんですね。
彼女でなければ、辰雄の操縦はできませんよ。
ちょっと離れた位置から夫を眺め、仕方ないわね、と鷹揚に構えることができたのでしょうね。
私が多恵子だったら、辰雄に後ろからケリ入れたくなりますが。
でも辰雄が病身だったから、手荒なことはできませんね。
やはり多恵子と辰雄は、神に選ばれし「つがい」だったということなのでしょう。
戦争中でも旅行していたという話。
この間ロシア人の青年?がクマに襲われたいうニュースを聞いたような?
ん?クマじゃなかったかな?
何か最近のニュースでロシア人が出てきたように思います。
ま、人生は一度きりですから、旅行はするのでしょう。
奈良ホテルにお米持参じゃなくて、ホッとしました!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2026/05/24 13:26:17
- Re: 私も、奈良に「ぬま」っている一人です( ̄▽ ̄)
- 「歌姫」にいらっしゃるなら、どこかに車をとめて歩いてください。街道をはずれて古い邑内に車で入るのはやめたほうがいい。
「村」より「邑」という感じ。
「添御縣坐神社」の参道前に、駐車場ではありませんが、車を置ける場所がありました。神社参拝はOKとしても、長い時間は無理でしょう
奈良の古い村はとにかく道が狭くて、なぜか側溝が深くて、車はダメです。
私たちは神社前から邑の小道の入り口だけ見て「こりゃだめだ」とギブアップしました。
このあと、予定が詰まっていたのが残念。この旅の失敗の一つです。
とにかくこの村は4世紀くらいまでさかのぼれるらしいのです。奈良時代以前古代はこの峠を越えて、ヤマトとヤマシロを往復していたようです。
多恵子の手記を読んでいたら、やはり子供はほしかったらしい。でも辰雄が赤ん坊は結核に感染しやすいのでやめようと言ったそうです。
それ以降多恵子は、夫の文学を支えることに全力を注ぐことになります。
ある種の使命感を持っていたような印象です。
日本的な良妻とはちょっと違って、なにかこう、抽象的なものに価値を見出す。出身家庭がキリスト教徒であったことに、関係するかもしれません。
明るくて、陽気で、福永武彦(神西清だったかな?)に言わせると「勇敢な」人物だったみたい。
おしゃべりで声が大きかったそうです。
奈良ホテルは工事中で6月一部開館、秋には全面再開館するそうです。なんとしてでも泊まってみたいと思っています。
奈良ホテルに泊まって、奈良博と深夜の東大寺に行くのが夢です。中に入れなくてもOK。夜空の大仏殿屋根だけでもいい。
たぶん、観光客のいない、別の東大寺に会えるのではないかと期待しています。
-
- 旅猫さん 2026/05/24 09:19:04
- 奈良の旅
- しにあの旅人さん、こんにちは。
堀辰雄が歩いた奈良を旅されたのですね。
旅先から恋文とはなかなかやりますねぇ
しかも、それを出版するとは大したものです(笑)
奈良ホテルは泊まってみたいのですが、あまりにも高くて。。。
大伴家持、先日、かれが赴任した越中国府跡を訪れました。
万葉集の世界でした。
歌姫なんて言う地名があるのですね。
奈良らしいというか。
添御縣坐神社と言う名称も、古い土地らしいですね。
『大和路・信濃路』、読んでみたくなったので、即、図書館に予約を入れました。
旅猫
- しにあの旅人さん からの返信 2026/05/24 12:23:17
- Re: 奈良の旅
- 堀辰雄は気に入ったひとに手紙を全力で書く癖があります。
神西清や福永武彦、中村真一郎、立原道造などの友人はもちろん、堀多恵子。
多恵子宛の手紙はとくにしっかり書かれていて、「七つの手紙」や今回の「奈良からの手紙」などは、もともとの私的な手紙の方が、のちに作品化されたものより優れていたりします。
結婚前の加藤多恵は、「風立ちぬ」の作家からそのまま先品になるような手紙を9通もらったわけで、これで結婚を決意したのは、まあ当然かな。ただそういう作家の妻に自分がふさわしいか、悩んだようです。
結果的には多恵子のサポートなしには、結核の堀辰雄は半分も生きていられなかったでしょう。
奈良ホテルは現在改修工事中で、秋には再オープンするようです。
秋には全財産はたいてでも、泊まってみようと思っています。もうすぐ80歳になります。あの世に行くには三途の川のフェリー代しか必要ないそうです。
「ねんきん老人」さんというトラベラーさんがいます。かれによると「どんな豪邸もマッチ1本で灰になる。旅の思い出は一生きえない」
旅猫さんはじつにいろんなところに旅して、いろんな思い出をいっぱい持っていらっしゃる。大変な財産ですね。
家持も計画の一つです。越中国府趾も行ってみたい。
31日から葛城に行ってきます。万葉集というか、それ以前の世界です。
行ってみたいところだらけですが、どこまで寿命がもつか。
今のところ大丈夫だとお医者は言っています。時間との競争ですね。
-
- mistralさん 2026/05/21 13:19:36
- 佐保路を思い出しました。
- しにあさん
続きましての最新旅行記を拝見しました。
今回の旅先は法隆寺近くにホテルをとられたとのことでしたね。
そして佐保路を歩いてこられたご様子。
こだわりの奈良ホテルは私も好きなホテルです。
その奈良ホテルから東大寺、海龍王時、法華寺と佐保路沿いにたどり
歌姫という素敵な名前の所まで行き、ホテルまで帰ってくるには、かなりの工程だったと想像しました。
私たちは、その折には東大寺界隈、佐保路巡り、奈良監獄へと別々に歩きましたが、それでもくたくただった記憶。
堀辰雄さん、アスペルガーだったかも?との説、なるほとなぁと納得でした。
一つのことに秀でるためには、また一人の人を愛しつづけるには、そんな性向があることが最大の条件となることでしょう。
大人にも、子供にも正面きっての向き合い方が不得手だったようですね。
by妻さんが最後に書かれていますが、「多恵子夫人、お疲れ様でした。」でしょうね、きっと。
佐保路を歩いたのは2022年のコロナ禍の折。丁度その時期、通常は非公開のご本尊が公開されていることを知ったからでした。
海龍王寺、素敵なお寺でしたので一言。
もともとは不比等さんの邸宅を受け継いだ光明皇后がそこにお寺を建てられた。そこは平城宮の鬼門を守る位置にある。しかも、そのお寺を避けるようにして通りが通っている。玄昉さんは、そのお寺を天皇家の私寺とされた、などなどから当時もお寺が大切にされていたことが伺えるようでした。光明皇后が刻まれた十一面観音像を元にして鎌倉時代の仏師によって造られた秘仏を、その折には公開していました。良いお顔をされていました。
法華寺も光明皇后ゆかりのお寺でした。私としては海龍王寺ぐらいの規模のお寺がしっとりとしていておおいに気にいったのでした。
そんなで堀辰雄さんよりお寺の思い出になってしまいました。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2026/05/21 15:32:32
- Re: 佐保路を思い出しました。
- この旅行記は2026年2月の飛鳥奈良10日間の記録です。
法隆寺は5月11日-15日で、いましゃかりきになって書いているところです。ちょっと書き方が紛らわしかったですね。
堀辰雄は非常に人見知り、内気な人だったらしく、「菜穂子」で第1回中央公論社賞を受賞したときも、受賞の言葉は「ありがとうございます、堀辰雄です」だけだったと多恵子が言っています。多恵子さん、困ったでしょうね。
でも、川端康成、室生犀星、芥川龍之介、折口信夫などの師に恵まれ、中村真一郎、福永武彦などの「若い友人」に囲まれていました。福永武彦は筑摩書房版堀辰雄全集の編集に病身をおして没頭し、命を縮めたと、中村真一郎が言っています。自分は福永に万が一があった時の跡継ぎで編集委員になったにすぎないと、中村が自分で書いています。その通りになりました。
堀はなんとも魅力的な人物だったようです。
多恵子も当時としてはめずらしく英語が読めて、書けて、話せるという才女でした。
堀辰雄が結核であることを知って結婚したのですから、堀の才能を見抜いていたのでしょうね。この人に文学をやらせるというのが自分の使命だと思っていたみたい。多恵子はキリスト教徒でした。
堀は不思議な人物です。
堀辰雄紀行はまだ本編「風立ちぬ」「菜穂子」が始まっていません。こっちの寿命がもつかなと心配です。両作品の舞台、信州富士見の取材は終わっているのですが、まだ手つかずです。私の手に負えないかもしれません。
5月31日から葛城に行ってきます。沼りそうです。吾田媛、磐之媛、飯豊皇女など、魅力あふれる人物がいっぱいいます。全部女なのが、私らしい。
法華寺の十一面観音、見たかったなあ。
法華寺も海龍王寺も、堀は書かれなかった万葉小説の舞台として考えていた気配があります。いまでもそれにふさわしいいいお寺ですよね。
歌姫も、おそらく、かれの万葉小説の舞台になったはず。
4世紀、武埴安彦(たけ・はにやすひこ)と吾田媛夫婦を引き離したのが、歌姫越えでした。そんなエピソードも織り込まれたのではないかと、妄想をたくましくしました。記紀の飛鳥以前の話しです。
-
- 前日光さん 2026/05/20 22:46:26
- 奈良ホテルの写真
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
後で、もう少し書きますので、あの下手くそな写真を採用いただきましたことについて、御礼申し上げます。
案の定随筆の校正のまっ最中です。
本日メンバーの集まりがありまして、第一回の校正は終わりそうです。
ということで、また!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2026/05/21 15:35:38
- Re: 奈良ホテルの写真
- この写真でブログ冒頭が引き締まりました。
ありがとうございます。
追加のコメント、楽しみにしています。
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