2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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更新記録 2026/06/19 誤字訂正。
堀辰雄夫妻は1943年(昭和18年)4月上旬浄瑠璃寺を訪れています。夫婦そろっての旅は珍しい。そのときの印象をもとに書かれたのが、「信濃路・大和路」の一編「浄瑠璃寺の春」です。この年7月婦人公論に発表されました。
この作品で大活躍しているのは馬酔木の花、お寺の娘さん。
私たちが行ったのは2月半ばでしたから、馬酔木には早いかと思いましたが、せめて最初の一房でも咲いていないか。
元気な娘さんは16,7才だったそうです。昭和18年で16だと昭和2年生まれ、母と同い年だ!
参考書は以下の通り。
「大和路・信濃路」新潮文庫/平成22年第60刷
いつもは筑摩版の全集から引用しますが、今回はこの日持って行った文庫本です。
「葉鶏頭」堀多恵子/ 麥書房/昭和45年
引用では僭越ながら敬称を略します。
地図は別記なければグーグルマップです。
投稿日:2026/06/15
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
このとき堀夫妻は奈良ホテルから歩いて浄瑠璃寺を往復しました。片道2時間あまりかかったそうです。奈良坂を越えました。現代の徒歩コースで8キロ以上あります。堀辰雄が一番元気なころで、多恵子が一緒ですから安心して出かけたでありましょう。
往復で4時間。
それを歩きとおした多恵子も健脚です。
和服が大好きな多恵子ですが、着物で4時間歩くのは大変。戦時中ですから、モンペかな。
1967年、多恵子は浄瑠璃寺を再訪しています。「葉鶏頭」で多恵子は、
★私は奈良ホテルからかなりの道のりを辰雄と二人で歩いて訪れたこの寺に、バスで来てしまったことをなんだか誰に対してということもなく、申し訳ないように感じた。★
(P147)
私たちは車で難なく来てしまいましたが、ここではもっと堀夫妻に申し訳ない気持ちでした。
一書に曰く、
堀夫妻は、元気だったのですね。
この時、堀辰雄はすでに発病しておりました。
あまり軽くない結核患者なのですが、よく歩いたものです。
若さというものは、恐ろしい!
おしゃべりしながら、たのしーく歩いたのでしょうか。
もしも難行苦行なら、途中で引き返すことだってできたはずです。
約束があっていくわけではないのですから。
疲れたね。大丈夫?なんて言葉も楽しく、歩いたのでしょうか。
一人だったらとても歩けない距離でも、二人であれやこれや、どうでもいいことやどうでもよくないことなぞ語り合いながら歩けば、思いがけない距離も歩けたのではないでしょうか。
By妻 -
これは県道752から浄瑠璃寺への分岐近くの風景です。昭和18年でもこんな感じだったのではないかと思います。
-
浄瑠璃寺の門前まで来ました。
-
★最初僕たちはその何の構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通り越しそうになった。★
(「大和路・信濃路」新潮文庫P147)
これかな。有名な古寺ですから、立派な門を予想していたようです。 -
仁王様もなにもない質素な門です。
門のかたわら、石段の近くに堀辰雄は馬酔木を見つけました。
門と同じくらいの高さの灌木だったそうです。
一書に曰く、
浄瑠璃寺は、個人のお宅かと思うような、というか一般的な仁王様が両脇に立って、石段にかぶさるような大木が続いて、、、とかのお寺ではないのです。
さりげなく、でもおしゃれに存在しております。
そういう浄瑠璃寺の様子は、まったく堀辰雄の文そのままなのです。
By妻 -
門の右側に生垣のように灌木が並んでいます。
葉は馬酔木だけれど、白い房の花のはず。これは違うかな。 -
やはり馬酔木だ! 3月-5月が花盛りだそうです。
咲き始め。今年の春は温かいのかな。
一書に曰く、
あせび、またはあしびと読みます。
小さな白い鈴のような形の花が房状に咲くのです。
ひとつひとつの花は、鈴蘭をちょっと思わせます。
鈴蘭には毒がありまして、牧場主には敵認定です。
馬酔木も、これを食べると馬が酔うというのですから、やっぱり毒なのでしょうね。
調べたら、毒とありました。酔うどころではなかったです。
ついでに花言葉は、犠牲、清純な心、献身、あなたと二人で旅をしましょう。だそうです。
多恵子夫人にぴったりです。
ついでに、by妻ちゃんにも。
By妻 -
門の近くに現在も馬酔木が植えられていますが、随分小さい。跡継ぎでしょう。河愛らしい小さな一房が咲いていました。
-
大きな木もありました。
-
樹高は5mになるものもあるそうです。これがそれくらい。
馬酔木が大好きな堀辰雄です。しかも花盛りの4月です。生垣のように並んでいたら気が付かないはずがない
この時は門の傍らに数本だけだったのかな。80年以上も前の話です。
多恵子は馬酔木を初めて見ました。
★「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばによってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊を掌のうえにのせてみたりしていた。★
(P149)
堀辰雄は植物、とくに野草に詳しかったそうです。
多恵子は父親の仕事の関係で赤ちゃん時代から香港、10歳で帰国してからは杉並育ちで、草花は何も知りませんでした。今日でいう海外帰国子女でした。
結婚後夫の影響で植物に興味をもつようになりました。後年、辰雄の死後、友人から植物学の権威、武田久吉(たけだ・ひさよし、1883-1972)を紹介され、その指導で本格的に信濃追分に育つ野草の標本つくりを始めたことがありました。本人によれば、ものにならなかったそうです。
(葉鶏頭P138)
かろうじて咲いている馬酔木もあったので、同じポーズのBy妻の写真を撮ろうかとも思いました。あまりに見え見えな演出なのでやめました。 -
私たちがフランスで住んでいた家にも馬酔木を植えていましたので、花も葉っぱもよく知っています。
私も大好きです。植木屋で見つけてすぐ買いました。堀辰雄のこの作品が原因なのは当然です。
居間から庭におりる階段の右。いまでもはっきり覚えています。
フランス語でAndromède(アンドロメッド)といいます。ギリシャ神話のアンドロメダと同じつづりです。
日本原産です。学名はAndromeda japonica.
フランスに持ち込まれたときに、この美しい女神の名前を当てたのは、むべなるかな。
もうすこし季節があとなら、すばらしい馬酔木の生垣が見られたのに、残念。
どういうわけか、By妻はこの花の名を星座と同じと覚えたらしく、今でもカシオペヤといいます。違うちゅうに!
一書に曰く、
カシオペアと間違えるのではありません。カッサンドラです。星座つながりで間違えるのではなくて、ギリシャ神話つながりですよ。
アドロメダは、怪物のいけにえにされかけていたのを、メデゥーサを退治したペルセウスに助け出されて妻になる人。
カシオペアは、アンドロメダの継母です。
自分の美貌に絶対の自信を持っていたことが、このいけにえ騒動のもとになったっていう、や~な女。
一方、カッサンドラは、わたくしのごひいきのヒロインです。
カッサンドラは、全知全能、完全無欠、美青年の代表の、かのアポロンに恋されたのに、ふった女性です。ふったのです。
二回言っちゃいました。
ひっひっひ アポロン、ざまあみろ!であります。
が、悔しがったアポロンに、その予言を誰も信じないように呪われてしまいます。
くやしいのう。
もともとの予知能力も、アポロンから授けられたのですがね。
授けられたとたんに、やがて捨てられることがわかっちゃったので、ふるのですが。
堀辰雄は、この三人のうちのどのヒロインが、お好みでしたでしょうかね。
By妻 -
★阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい十六七のジャケット姿の少女だった。★
(P150)
前述のように、1967年多恵子は浄瑠璃寺を再訪しています。姪と一緒でした。
姪は当時の多恵子29歳より少し若かったそうです。どうしても連れて行ってくれと多恵子にせがみました。
(葉鶏頭P146)
「風立ちぬ」の作家が自分の伯母の夫。「信濃路・大和路」も読んでいたでしょう。そりゃ、せがむでしょう。
多恵子はその時の思い出を、思いだすままに話しながらお寺を歩きました。その姪御さん、辰雄と多恵子の思い出を両方聞けたわけで、贅沢な旅でした。 -
浄瑠璃寺は別名九体寺といわれ、阿弥陀堂に安置されている9体の阿弥陀如来像が有名ですが、堀辰雄はこの仏さまには、いつもと違ってあまり蘊蓄、感想を述べません。
もっぱら多恵子とお寺の娘の会話に聞き耳を立てています。
多恵子は仏さまをざっと見て、辰雄を残して寺の娘と外に出てしまいました。日当たりのいい縁先でおしゃべりを始めました。
裏庭の7本の柿。
九体寺の柿といって有名で、秋には買いに来る人が多く、娘が柿をもぐ係で忙しい。
庭の池の睡蓮がきれいなこと、などなど。
おしゃべりに夢中でしたが、
★
「ああ、そやそや、葱とりに往かにゃならんかった。」
「そうだったの、それは悪かったわね、はやく往ってらっしゃいよ。」
「まあ、あとでもええわ」
★
(P151)
のどかなものです。
多恵子は、仏様を黙ってみるのはあまり性に合わないみたい。
おとなしくしていられないタイプでした。
辰雄の古本屋めぐりには絶対に付き合わない。辰雄は入ったら出てこない。「まっぴらごめん」と言っています。お腹が痛くなるそうです。
夫に献身的に尽くす妻でしたが、ダメなものもありました。
この柿ですが、1967年に多恵子が姪と再訪したとき、
★浄瑠璃寺の門前には枝付きの柿を七つ八つ束ねて垣根の杭などにつるし、その下にお金を入れる空缶が結びつけてあるなどが目に止まった。★
(葉鶏頭P147)
柿をつるしたのは、もうこの娘さんではないでしょう。 -
境内の案内板です。
一部を書き起こします。
★浄瑠璃寺(九体寺)
この寺は平安時代後期(藤原期)の日本が生み出した浄土式伽藍がただ一つ完全に残されてきた寺である。即ち西方」極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池を置いて美しい浄土を現出している。★ -
阿弥陀堂前の宝池。
-
小ぶりですが雨でした。
-
そのせいか、拝観者は私たちだけ。
-
私たちは池を独占して、ゆっくり一周しました。
-
池の対岸に見えるのが、
-
三重塔です。「東方浄瑠璃浄土の薬師如来」を安置しています。
-
少し雨脚が強まってきました。池に雨の輪が目立ちます。
昭和18年に戻ります。
阿弥陀仏を拝観し終わって堀辰雄が外に出ると、娘は葱のことなどすっかり忘れて、三重塔にも案内してくれました。 -
先に立って池のほとりを塔に向かう後ろから、多恵子と娘がついてきます。娘は多恵子相手に猛烈にしゃべっております。
「実によくしゃべるやつだなあ」と堀辰雄は思いましたが、おしゃべりは一人ではできません。多恵子もおしゃべりが大好きなはず。しかもよく通る声でした。
後年信濃追分の家で辰雄が療養中、街道で多恵子が油屋のおかみとおしゃべりする声がよく聞こえたそうです。50mは離れています。
辰雄が塔に行き着いても、二人は石段の下でおしゃべりしておりました。 -
私が写真を撮っているあたりですかね。
-
その内容というのが、
この辺では魚などめったにたべない。蕨みたいなものばかり食べている。でも筍は柔らかくておいしい。などなど・・・
★どうも二人ともいい気持ちそうに、話しに夢中になって僕のことなんぞ忘れてしまっているかのようだ。★
この日は春めいた日差しがいっぱいの日でした。
辰雄はのんびりと塔の下で、池の向こうの阿弥陀堂を眺めていたのです。
一書に曰く、
ここでは仏さまのことは出てこないで、馬酔木とお寺の娘さんと多恵子さんのおしゃべりばかり書き留めてあります。
そのおしゃべりは、率直な素朴なもので、見栄も衒いもない、素直なこころのままのさえずりなのですが。堀辰雄は、それをわざわざ書き留めているのです。
By妻 -
By妻は夢中になって写真をとっております。
今回はこの3倍くらいの写真がありますが、このくらいにしておきましょう。 -
今回の主人公はお寺の娘さんでした。
娘さんは昭和2年生まれ、母と同じです。母は16,7歳のとき、戦時中の東京近辺に住んでおりました。空襲の猛火にも追われて、楽しくない娘時代を送りました。2015年(平成27年)に他界しました。
東京と奈良では、同じ時代でも別世界です。
阿弥陀堂を拝観したとき、寺のご婦人によると、この娘さんはその後大阪にお嫁に行き、最近亡くなったそうです。母よりもう少し長生きされました。 -
一書に曰く、
左が阿弥陀堂です。
靴を脱いで上がるので、履き替えるところで、もたもたしてしまいます。
そのわずかなときに、お寺の方に、by夫が話しかけました。
by夫は、人見知りが激しい人なので、知らない人に話しかけるなんて!雨が降るわ!
降っておりました。
靴は、木造りの素朴な下駄箱にしまうのですが、その上に、かわいらしいグッズが飾ってあって、それがまた手つくりっぽくて、家庭的な雰囲気を醸しております。
そのせいなんだろうな、by夫が、見知らぬ人に声をかけるなんて暴挙にでたのは。
by夫、一生懸命、「浄瑠璃寺の春」に出てきた娘さんについて聞きこんでおります。
お寺の方は
自分は、よくわからないのですが、、、
と、それでも、お相手くださいます。
しっとりと降る霧雨と、関西弁のイントネーションとが、この静かな九体寺に優しさをともします。
あ~、これなのですね。
このやさしさと、のどやかさ、素直さ。
堀辰雄が描いたそのままの景色が、今もありました。 -
堀夫妻は、ここにたどり着くまで、長々と歩いてきております。その最中しゃべったのは、どんなことだったでしょう。
話すつもりもないことを、ほろりとこぼすことも旅のつれづれゆえ。
おもいがけず現れた知らない多恵子を、辰雄は、新鮮に興味深く感じたことでしょう。
夫婦と言っても、もとは他人。
どんな家庭で、どのように育ったのか。
父は。母は。兄弟は。
友人は。どんな教育を受けたのか。
自分の物差しとは違う、別の価値観の環境。
語っても語っても語り切れない思い出の数々。
そして、それらが築き上げた多恵子という女性。
今、多恵子は、古寂びた、ここ浄瑠璃寺で、人柄の良い、率直な娘とのおしゃべりをしています。
明るく平和でありました。
堀辰雄は、多恵子の人柄に、感動し、心惹かれた時間だったことでしょう。
By妻
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この旅行記へのコメント (10)
-
- 前日光さん 2026/07/10 16:36:44
- お久しぶりです
- 昨夜書き込んだコメントが、こちらの手違いで消滅(T_T)
再度コメントする体力と気力も失せる今日の暑さ(^_^;)
とうとう夏がやってきてしまいました!
苦手な夏、少なくても9月まではこの天候でしょうね。
浄瑠璃寺、三度ほど訪れています。
最初はまだ20代だった昭和55年(1980)の8月、岩船寺までの山道を歩きました。暑かったですが、今のような夏ではありませんでした。
宝池のほとりを、若き大和田伸也さんによく似た青年が逍遥しておりました。
阿弥陀堂内で御朱印を所望したら、お守りとか線香を売っていたかっぽう着姿の女性が「九体佛」と書いてくれました。これが文化なんだと、その時強い印象を受けました。
二度目はたぶん1990年頃の秋、修学旅行の引率で「クラス別行動」というのがあり、私はまんまと自分のクラスの40数名をだまくらかして、浄瑠璃寺に案内しました。他のクラスが清水寺とか嵐山とかの有名どころに行ったというのに、「浄瑠璃寺ってなんだ?」という悪ガキのお兄ちゃんなんかを、よくも連れて行ったものだと、自分をほめてあげたいです。
帰ってきてからのベテラン教師の授業で「おまえたちは、なかなかいい寺にいったものだな。そんなに簡単に行けるところじゃない」と言われた悪ガキたちは、悪い気はしなかったみたいで、私にこっそり「Y先生に誉められた」と教えてくれました。
京都のハズレにあるので、渋滞を心配した運転手が早朝出発しました。早く着きすぎて、例の山門はまだ開いておらず、新聞受けに新聞が入ったままでした。
「先生、このお寺、入れてくれるの?」と心配そうな生徒の顔を思いだします。
三度目は2014年の9月、浄瑠璃寺はさほど変わっていませんでしたが、岩船寺への山道は土が崩れて歩きにくくて、30年前とずいぶん違っていてちょっとショックでした。
山の辺の道も自転車で昔は行ったのですが、今はあの道を自転車走行するのは難しいと思いました。
やはり30年、40年と経つうちに地形も変わるし、住人の文化を守ろうとする意識も変化するようです。
奈良ホテルから浄瑠璃寺まで歩いた(しかも病身で)という堀夫妻には、ただただビックリしました。
腰痛持ちの私にはとてもできないことです。
浄瑠璃寺に関する自分の思い出ばかり書いてしまいました。
これが昨夜自分の不手際とはいえ消えてしまったのです。
今度こそ、無事送れることを祈って、クリックしますね。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2026/07/11 11:52:39
- Re: お久しぶりです
- 房総も今日あたりから30度です。今のところ、昨年よりはまし。
いつまで続くことやら。
8月後半に3泊でまた奈良です。息子夫婦が11歳の孫姫を預かってくれと言ってきたので、思い切って奈良に連れて行きます。
法隆寺、飛鳥寺など、この際徹底的に古代教育と思ったのですが、どこへ行きたいと聞いたら「大仏、鹿」と即答でした。
まあ、11では斑鳩、飛鳥は早すぎますかね。
昨年の誕生日に角川の漫画日本史全巻を送りました。そのうち特にサルから聖武天皇までをよく読んでおくように言いました。
漫画でも読まないよりはいいでしょう。
なんとか古代史の沼にはまってくれないものか。
というわけで、炎天下の奈良歩きになりそうで、体を鍛えております。
昭和55年の浄瑠璃寺の、かっぽう着姿の女性ですが、おいくつくらいでしたか。
昭和18年の娘さんはこのころ53前後なのですが。
まさか、とは思いますが。
修学旅行で浄瑠璃寺とは、しぶいところに行きました。たぶん生徒さんたちも、生涯の思い出になったでしょう。40数名のうち、その後再訪したのは何人ですかね。
私たちは2012年ころに一度車で行っています。気に入った所には何回もいくたちですが、こんかいで2度目。
普通の観光ルートではありません。前日光さんでも3回。とにかく不便です。
馬酔木の満開のころ、3月後半ですかね。もう一度行ってみたい。
このトシになると時間との勝負です。体が動くうちに行きたいところに行っておこうと思っています。
- 前日光さん からの返信 2026/07/12 16:20:38
- Re: お久しぶりです
- こんにちは!(^^)!
返信、ありがとうございます<m(__)m>
御朱印を書いてくれた売店の割烹着姿の女性、言われてみればだんだん件の娘さんのような気がしてきました。
髪の毛を後ろで無造作に一つにまとめたオバサマ風でしたが、どうしてその手元から、あの流れるような文字が書けるのだろうと、当時軽いショックを受けたものでした。
残念ながら、彼女の写真はありませんが、気のせいか年齢的には「娘さん」と合致するような?
40代にしては若すぎると思いますから、すると50代の女性ということになります。
しにあさん、ひょっとしたら私は「娘さん」に御朱印を書いていただいたのかもしれません。
その時の御朱印は、次の旅行記に載せています。
↓
https://4travel.jp/travelogue/10938860
ご覧になってみてください。
8月末の孫姫さんとの奈良旅、本当に無理はしないで休みながらゆっくり奈良散策をされてくださいね!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2026/07/13 15:24:06
- Re: お久しぶりです
- 割烹着姿で御朱印を書くというのは、お寺の身内ということです。御朱印集めがブームになったのはそんなに古いことではないので、1980年では全部身内ですませていたのでしょう。
「娘さん」は大坂にお嫁にいったと聞きましたが、ちょうど里帰りしていた可能性もあるし。
堀辰雄の作品に出てくる「娘さん」に御朱印をかいてもらったと、前日光さんの思い出にしまっておいていいと思います。
46年前ですね。
つい最近というか、遠い昔というか。
御朱印、見ました。
達筆ですね。おしゃべりと、柿をもぐだけじゃなくて、お寺の娘としてちゃんと修行をしていたのでしょう。
アマゾンに新潮版室尾犀星全集14巻がなんと12000円で出ていました。買っちゃいました。ひどいだろうとは思ったけれど、箱なんかぼろぼろ。でも中身は問題なく読めるのでこれで十分です。
さっそく別巻の日記昭和28年5月28日を読みました。堀辰雄の死んだ日です。
「堀辰雄死す。朝子をやることにし出立。」
犀星は信濃追分には行きませんでした。「どうにも行きようがないのだ。」と書いています。
30日の信濃追分での葬式(たぶん軽井沢教会)の模様は録音され、その夜ラジオで放送されました。
朝日新聞に派手な死亡広告が出たそうです。
堀辰雄の死って、当時ではちょっとしたニュースだったみたい。
それから10日間くらいは増上寺での告別式もあり、大変な忙しさだったようです。
折口信夫の門人がきて、告別式での詩の朗読についての打ち合わせがありました。この門人って、名前は書いてないのですが、この4月になくなった岡野弘彦じゃないですかね。
告別式でのたえ子は俗気が抜けて美しかったと書いています。
たえ子が一人で信濃追分に帰るのが嫌だと言って、朝子が1週間付き合ったそうです。
こういう話、堀辰雄紀行のどっかに書きたいと思っています。
でも当然写真が1枚もないし、書きようがないですね。
浄瑠璃寺で堀辰雄の話をしていたので、これもなにかの縁かと思いました。
-
- mom Kさん 2026/06/19 06:22:03
- ああ、奈良ですね
- お早うございます、しにあの旅人さん。二枚目のお写真の中に立っております。この道を歩きたい。8キロですか。まだ私は大丈夫です。歩けます。行きます。本日記を参考にさせていただいて、2月の終わり頃にします。馬酔木の咲き始め、”イナゴの大群”(一過性の集団旅行客)が押し寄せる前に。しにあの旅人さんは、堀辰雄氏が導きであるように私も私の導きで旅先を選びますから、お気持ちがわかる思いです。
昨今の世界遺産騒動には苦々しく思う派。もともとそれらの価値があるものを認定となって押し寄せ、なんだか下界に引きずり降ろされた気分にもなるのです。お気の毒と。
私の母も2015年彼岸に。5月でした。彼女がとりわけ好きだった百合の花だけを選んで送りました。このことをお話しできて嬉しいです。エールを感謝いたします。
mom K
- しにあの旅人さん からの返信 2026/06/19 15:29:49
- Re: ああ、奈良ですね
- 来年2月末ですか。私たちは2月13日でした。2月末なら多少季節が遅れても咲き始めでしょうね。
グーグルマップでは、堀夫妻と同じ奈良ホテルを起点にして浄瑠璃寺まで8.3km、2時間6分となっています。
帰りは東大寺裏手に出たと書いています。
1918年の和辻哲郎の浄瑠璃寺往復では、帰りに近道をしたと書いてあるので、今とは違う道筋があったかもしれません。
いずれにしてもちょっとしたハイキングです。お気をつけて。
-
- しにあの旅人さん 2026/06/18 15:53:42
- バスがあるといいなあ
- この浄瑠璃時のあと、堀夫妻は東大寺2月堂の裏手に直接出る道をかえっています。
1918年(大正7年)和辻哲郎は浄瑠璃寺を訪れていますが、午前中で往復できると思っていたようです。しかし人力車。道はひどくて途中で全員下りています。
近道があったたようです。
どうも戦前は現在の北の県道752から来る路とはちがって、南のほうから直接浄瑠璃寺に行ける道があったのではないかと思います。
こういうのを調べるのは大好きなのですが、きりがないのでやめました。
11年前と変わっていませんね。本堂の裏手にある柿の木は分かりませんでした。1967年まではあったはずなのですが。果樹の樹齢は短いので、こんなものかもしれません。
多恵子はほんとうにおしゃべりが好きだったようです。信濃追分の家を新築するとき、多恵子の部屋のおしゃべりが辰雄の病室には聞こえない間取りでした。彼女は自分はおしゃべりだと自認していました。
小さいけれど美しいお寺ですよね。
直通バスがあったのですか。今でもありますかね。
もうそろそろ自動車を息子にやってしまおうとおもっています。前進と後退を間違えそうなケースがときどきあります。
バスがあればもう一度行ってみたいお寺です。
★そのお堂を前にして、口数少なく、ただ黙ってじっと見つめていたことを思い出します。」★
私も同感です。
ただし昭和18年の辰雄さんはそうもゆかなかったみたい。
-
- mistralさん 2026/06/18 11:33:41
- 浄瑠璃寺
- しにあの旅人さん
こんにちは。
浄瑠璃寺の旅行記を拝見しました。
参道には馬酔木の古木がずらりと植えられていたことを記憶しています。
まさに馬酔木がちらほら咲き始めた時候のしにあさんの旅行記で
その様子を楽しませていただきました。
浄瑠璃寺には一度バスで行ったことがあります。
堀辰雄夫妻は徒歩で奈良から歩いて向かったとのこと。
かなりの距離があったと記憶していますが、病身の彼がその当時には
それだけの体力・気力ともに充実していた時だったんでしょうね。
随分昔となってしまいましたが、その旅行記があるはずと辿ってみました。
下記urlがその折の旅行記です。
https://4travel.jp/travelogue/11098333
浄瑠璃寺はずっと行ってみたいと思っていたお寺でした。
そのお堂を前にして、口数少なく、ただ黙ってじっと見つめていたことを
思い出します。(旅行記でもそんなかんじでした。)
その後、岩船寺までの石仏を辿りながら山道を歩きました。
「東尾の石仏を巡って山道を歩いた。」というのが旅行記のタイトルです。
とても懐かしかった浄瑠璃寺と、それにまつわる堀辰雄ご夫妻のエピソード、
山里に今もひっそりと佇むお寺の様子がそのままに伝わってきます旅行記でした。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2026/06/18 15:54:50
- Re: 浄瑠璃寺
- 返信する場所を間違えました。
ボケたかな。
- mistralさん からの返信 2026/06/19 19:07:45
- RE: Re: 浄瑠璃寺
- しにあさん
> 返信する場所を間違えました。
> ボケたかな。
時に私もそんな事が起こりました。
自分では確かに、返信する、というところから入って行ったはずなのに。
書き上がって送信しましたら、新規に送ったようになっていました。
システム上の、何やらのトラブル?などと思ってしまっていました。
決して、自分が悪いとは思っていない
mistralより
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旅行記グループ 堀辰雄紀行奈良
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