2019/03/16 - 2019/03/23
1630位(同エリア6420件中)
noriyosiさん
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2019年3月16日から3月23日の予定でドイツ・オーストリアの旅に出かけました。
3回目の海外旅行です。年に一度の骨休み。もう一度二人で行こうと思い立ちました。
今回は3月21日(木)6日目昼から午後にかけての オーストリア・ウィーン編2-3(シュテファン大聖堂・ハプスブルク家ゆかりの地巡り)です。
前日の午後にはホテルに着いていたので、周辺を散策しました。この辺の夜は寂しくなるようで自由行動でホテルに戻るルートはメトロとトラムを乗り継ぐ方がよさそうに思えました。
6日目、3月21日(木)の概略スケジュールです。
午前
8:30 ホテルから、シェーンブルン宮殿~ウィーン歴史地区観光に向けて出発。
9:00 シェーンブルン宮殿
10:00 ベルヴェデーレ宮殿
そして昼~午後は(いよいよ)
12:00 シュテファン大聖堂
13:00 オペラ座~
13:30 オプションツアー:ハプスブルク家ゆかりの地巡り観光です。
16:30 自由行動:自然史博物館、美術史美術館
18:00 メトロとトラムを乗り継いでホテルまで戻ります。
20:00~ ホテル帰還予定
(上手くいけばいいのですが、ご期待ください。)
写真は聖シュテファン大聖堂
(独:Stephansdom 、または Dom-und Metrokirche zu Sankt Stephan und allen Heiligen )
聖シュテファン大聖堂(正式名称は聖シュテファンと諸聖人の大聖堂兼首都教会)は、1365年以来、司祭共同体(諸聖人会議)の本拠地および本拠地、 1469年/1479年以来大聖堂(司教座および大聖堂会議 )、1723年以来ウィーン大司教の本拠地です。
聖ステファノ(A.D.5-36)はギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)であり、初代教会においてヘレニストの代表格でした。初代教会におけるヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間の争いで、ファリサイ派によって石打ちの刑に処せられました。教会内の内紛も殉職となるのでしょう、最初の殉職者としての扱いです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
Mozart Cafe
モーツアルトカフェあたりで降ろされたけど、ここで食事?
(違うみたい。) -
Helmut-Zilk-Platz
ヘルムート・ツィルク広場の戦争犠牲者を追悼する記念碑
アウグスティーナ教会の塔がみえるけど?
(素通り) -
Cafe Tirolerhof
カフェ・チローラホーフ
この辺り、工事中なんですけど。
(昼にちかいから、まず聖ステファン大聖堂に急いでいるようです。) -
Katholische Kapuzinerkirche
カプチーナ教会と修道院は横目で見て素通り。
(地下にKapuzinergruftカプツィーナー霊廟があるよ。) -
ホテル アンバサダーの建物
(Swarovskiが入っているようですね。)
なじぇに工事中のところを歩く。大聖堂といえばケルントナー通り。
(ガイドさんのスペシャルコースは譲れないみたい。 -
Neuer Markt 新市場広場の突き当りは、
Pension Neuer Markt
ペンション・ノイアー・マルクト
宿泊施設ですが、1階には
スーパとか、テイクアウト店とかいろいろ入っているようです。 -
Seilergasse(ザイラーガッセ)綱(縄)通り?に入りました。
Raiffeisenbank(ライフアイゼンバンク)は農業信用金庫です。 -
Windsor.
ヴィントソア(英読みならウインザー)衣料品店です。
(英国の地名がお店の名前になっているようです。) -
Seilergasse ザイラ-ガッセの先は
Stock-im-Eisen-Platz (シュトック・イム・アイゼン広場)です。
OMEGA Boutique - Wien(オメガ・ブティック・ウィーン)のお店。
オメガの時計がほぼ12時です。
左に見える1990年9月19日にオープンしたHaas-Hausハース・ハオスはハンス・ホライン(Hans Hollein)が設計しました。 -
シュテファン大聖堂広場まできましたが、昼のランチはどうなるんでしょう。
(なんという高い塔でしょう。)
Südturm南塔です。 -
南搭はシュテッフルと呼ばれ親しまれています。
1839年~1842年、南塔の老朽化した尖塔の最上部17メートルが撤去されました。石の装飾は鉄の芯に固定されていましたが、錆びによる損傷でいくつかの石が破損しました。そのため、1850年以降、大聖堂建築家レオポルド・エルンストはセメントで固めた石のダボを使用して補強しましたが、「一つの誤りを二つの誤りで補った」ため1861年にレオポルド・エルンストによって再び上部40メートルが取り除かれました。セメントの膨張が深刻な損傷を引き起こしたからです。1862年~1864年、大聖堂建築家に任命されたフリードリヒ・フォン・シュミットによって中世の石工技術を用いて元の形に可能な限り忠実に再建されました。 -
パブリックドメイン:
大聖堂建設の段階を示す略平面です。緑色、最初の教会(1137年)は焼失してハイデンテュルメ(異教徒の塔)とリーゼントール(巨人の門)が残りました。オレンジ色はロマネスク様式の第二の教会(1263年)、ピンク色はゴシック様式のアルベルティーナ聖歌隊席(1340年)、そして青色はルドルフ4世公爵の増築部分(1359年)で、第二の教会が取り壊されて現在のシュテファン大聖堂になりました。 -
実測図によらないので、ずれがあり細かい検討は出来ませんが、身廊と側廊の柱を動かず、外壁だけを拡げた結果、不思議なことに当たり前のことが起こりました。
(なんだと)身廊の幅も側廊の幅もほとんど変わらなくなったのです。身廊がほっそり見えます。
実測の結果、身廊は西から東にかけて1.1m狭くなっていました。また切妻壁は下の壁と完全には一致しません。
戦争末期1945年4月6日南側廊の屋根と丸天井が爆弾で貫通されました。穴が開いた屋根から火花が入ったのか、放火なのか定かではありませんが火災により4月12日に完全に屋根が焼失しました。戦後15世紀のカラマツ材の屋根トラスに代えて鋼鉄製の屋根トラスで再建する際の技術的な課題の一つになりました。 -
この教会は、パッサウの司教座聖堂の守護聖人でもある聖ステファノに捧げられたため、建設開始年と同じ12月26日の聖ステファノの祝日に日の出の方角を向いて建てられました。内陣の南壁は北壁より約70cm長く、内陣は身廊の縦軸から北に約1度傾いている。身廊と内陣は、異なる日の出の地点に揃ってます。身廊の軸は聖ステファノの日(12月26日)の日の出に揃っているのに対し、内陣の軸はその次の日曜日、1月2日を指しているのです。その結果、当たり前のように不思議なことが起こります。
(なによ)
教会は東向きなので、年に2回の特別な日の正午に光の遊びを観察することができます。教会の守護聖人の祝日である12月26日には、常に主祭壇にある聖人のイコン(肖像画)が太陽に照らされます。公現祭と三賢者の日の終わりである1月6日には、東方の三博士の冠が光の輝きの中で輝きます。 -
パブリックドメイン:
Rudolf_Ritter_von_Alt
建物の軸とずれの角度の関係から、測定の時刻、そして現代の暦と年号法によればこの建物は1137年/1138年に合わせて立てたと推測することができる。屋根の棟はこの小さなずれを反映しておらず、真っすぐ横切っていますが。
石灰岩で造られたこの大聖堂は、長さ107メートル、幅40メートル、最高部の高さ136メートルです。何世紀にもわたって、教会には煤やその他の大気汚染物質が蓄積し、黒色になっていましたが、近年の修復工事により、建物の一部は元の石の色に戻りました。 -
DOM-KONZART-KASSA (ドーム・コンツェルト・カッセ)大聖堂前のコンサート切符売場です。
(売場の軒先パネルに屋根の写真が見える。)
屋根は10色施釉タイル瓦をウロコモザイク貼りにしています。屋根を急勾配にして垂木にモルタルと2本の銅釘で止めるという重ねがほとんどない貼り方のようです。 -
リーゼントール(巨人の門)の
Eingang(アインガング)入口から入ります。 -
オルガンギャラリーからの聖堂内部です。
Grüß gott!こんにちは。 -
ピータ・バルデンガさんの、石の空という飾付け(モニュメント)がありました。
(常設なのか、期間限定なのか。)
はて? -
身廊はすっきり内陣までみえますが。
-
柵の前で係員がチケットのチエックをしているようで、混雑しています。私たちは柵から左側の自由に出入りできるエリアに入りました。
-
大聖堂の身廊側はチケットが必要なようで動線が複雑になります。
時間がある人は、いっそのこと北塔南塔フルセットのチケットを購入して機嫌よく入ってください。 -
(別にいいがな。柵が低いから見られるでしょうが。)
説教壇の階段しか見えないでしょう。 -
(泣かないで、何があってもへっちゃらな顔をして、
どうにかなるから。あともうすこしだからね。)
私はおおらかな性格です。そんなたいそうなことではありませんがな。教会にあっては柵で区別はいけません。システムをシンプルにしてほしいだけです。ぐしゅん。 -
(ほら、大した違いでない。)
-
そういえばそうだね。
これは聖母マリア様の母子像 -
側廊側にわずかに
ウィーン・ノイシュタットの祭壇画が見えています。 -
南側廊がわも柵越しに見えたし、何の問題もございません。
-
説教壇からそう遠くないところにオルガン台座がありました。壁に取り付けられたループ状の支柱の芯にアントン・ピルグラムが顔を覗かせています。
(台座を外して映している。) -
左、たぶん、H. Prachatitzの祭壇と天蓋
15世紀のボヘミアとオーストリアの建築家であり、石工であったハンス・フォン・プラハティッツ(Hans von Prachatitz)彼は1429年以降、ウィーンのシュテファン大聖堂の主任建築家(Dombaumeister)で聖シュテファン大聖堂の尖塔は彼によって建てられました。
右は大聖堂内のショップ
SALISBURY CATHEDRAL CHOIR
ソールズベリー大聖堂聖歌隊のコンサートのポスターのようです。 -
(出口に向かって移動しましょう。)
-
西ファサード 巨人の門前でしばらく待機。
-
時計は14時17分ころを指していますが、12時10分です。
ほぼ10分しかいられませんでした。 -
西ファサードの北端です。
大聖堂の修復工事は、長期にわたって準備された計画に基づいて行われ、修復サイクルは約35年から40年かかります。錆びた鉄筋による損傷が繰り返し発生するため、大聖堂工房の石工によって定期的に建物の点検が行われています。維持するのは大変なことです。 -
パブリックドメインとフリー素材詰め合わせ。
Heidentürmeハイデンテュルメがミナレットに似ているという方がいます。
キリスト教の尖塔はほぼ鐘楼ですが、(似ていますね。)
「ミナレット一口メモ」
ミナレットの語源となったアラビア語のマンナリア manāra は元々「灯台」で、イスラム教におけるムアッジン(礼拝の呼びかけ)のための高台または塔です。独のMinarettは仏minaretの借用語でトルコ語のmināreから来ております。日本ではミナレットを光塔と訳しています。数本のミナレットに灯がともった夜景をみるとやけいにエキゾチックです。
(なにかおかしい。)
ミナレットの形状は色々あります。外形が段々螺旋状になっているのもございまして、一見「バベルの塔」にも似ております。お菓子といえばこれはマリー・アントワネットが愛したクグロフです。どうでしょう。
(似ていません。いくぞ。) -
午後のオプションツアーに間に合わせないといけません。慌ただしく風とともにさりぬ。
-
かなりユニークなHaas-Hausは物議を醸しました。
1990年9月19日にオープンしたHaas-Haus(ハース・ハオス)はハンス・ホライン(Hans Hollein)が設計しました。 -
なにか問題でも。ただし、大聖堂と商業施設のどちらが長く親しまれるか保障の限りではありません。
-
Stock-im-Eisen-Platz
シュトック・イム・アイゼン広場のパレー・エクイタブル(生命会社のビル)はアンドレアス・シュトライトによって設計され、中世の建物を壊して1887年から1891年にかけて建設されました。
出来た時は色々あったようです。 -
広場の由来になったシュトック・イム・アイゼン(ドイツ語:「鉄の杖」)は、中世の木の幹の中央部分で当時、釘木(ナーゲルバウム)と呼ばれ、何世紀にもわたって幸運を祈願して何百本もの釘が打ち込まれてきました。ウィーンのシュトック・イム・アイゼン広場(現在はシュテファン広場の一部)に位置するパレー・エクイタブルの角に展示されています。
Bucherer(プヘラ)は高級宝飾店とスイスの高級時計ですが、2023年ロレックスが買収、「カールF.ブヘラ」のブランドは終了します。
(警察屋さんですね。)
バスは入りませんが、工事車両や生活供給車両も入れるようです。 -
ケルントナー通りのOSterreichishe werkstatten
アートと工芸品のブランドです。
(SWAROVSKIがここでも頑張っている。) -
Gustav Klimt Inspirations
美術用品店 クリムトの作品を扱っているのでしょう。 -
Steffl:シュテッフルは高級デパート
地下にMYTHOS MOZARTミュ-トス・モーツァルト(モーツァルト神話)という体験型イベント館があります。60分約4000円で体験できるそうです。
(素通り。)ガイドさんは忙しい。 -
BOSS Storeは衣料品店
(わたしはあのBOSSかと思った。)
コーヒ飲みたい。
Hotel Europaは Austria Trend Hotel Europa Wien:オーストリア トレンドホテル ヨーロッパ ウィーン
(どこかで聞いたようなホテル。)
この間のDonner GASSEドンナーガッセ(ゲオルク・ラファエル・ドンナーにちなんだ通り?)を通れば、ドンナーの泉がある工事中のノイアーマルクト(新市場広場)にでるど。 -
(これはなあに?)
ここはカジノウィーンというしかない。 -
Wiener Staatsoperヴィーナー シュターツオーパーはウィーン国立歌劇場です。
-
Café Sacher Wienカフェ ザッハーが入っている建物
(ホテル・ザッハーね。) -
ウィーン国立歌劇場
アウグスト・ジカルト・フォン・ジカルツブルクとエドゥアルト・ファン・デア・ニュルの設計、チェコの建築家兼建設業者ヨゼフ・フラフカによって、ネオルネサンス様式で、1861年から1869年にかけて建設されました。 -
しかし、当時この建物は一般の人々から特に好評を博したわけではありませんでした。
建設開始後に建物前のリング通りの高さが1メートルも高くなり「沈んだ宝箱」に例えられ、1866年の軍事的惨事(ケーニヒグレーツの戦い)になぞらえて「建築界のケーニヒグレーツ」と蔑称された。エドゥアルト・ファン・デア・ニュルは自殺し、そのわずか10週間後にはシッツァルトスブルクも結核で亡くなったため、どちらの建築家も完成を見ることはなかった。 -
それでもこのオペラハウスは、初演1869年5月25日のモーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とオーストリア皇后エリザベートの臨席のもと、「ウィーン宮廷オペラ」(Wiener Hofoper )として開館しました。
-
第二次世界大戦末期の1945年3月12日、オペラ座はアメリカ軍の爆撃によって客席と舞台は炎上し、120以上のオペラの装飾品や小道具、約15万着の衣装がほぼ全て焼失したが、予防措置として壁で囲まれていた正面部分は、モーリッツ・フォン・シュヴィントによるフレスコ画のあるホワイエ、メイン階段、玄関ホール、ティールームなど、無傷のまま残った。
-
オペラハウスを元の場所に元の状態に復元するか、それとも完全に取り壊して同じ場所か別の場所に再建するかについて、長い議論が交わされました。最終的に、オペラハウスを元の状態に再建することが決定され、主な修復専門家としてエルンスト・コルブ(1948~1952年)とウド・イリグ(1953~1956年)が携わりました。
-
1947年、モーツァルト・アンサンブルはロンドンのコヴェント・ガーデン・オペラでモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を演奏しました。ナチスから逃亡していたリヒャルト・タウバーは、死の3ヶ月前に再び『ドン・オッターヴィオ』を歌いました。彼は再び国立歌劇場でモーツァルトを演奏するという夢を叶えるためと、肺の半分だけ使って歌っていたのです。
-
1949年には仮設の屋根が建てられたばかりで、再建はまだ続いていた。
1955年再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任したカール・ベームの指揮による『フィデリオ』によって11月5日に再開されました。
時の経過により、親しみが増してきたのか、現在、ウィーン国立歌劇場は、世界有数のオペラハウスの一つとされている。 -
地下街へのエスカレータ
オペラ座地下通路
Karlsplatzへ -
一応地下街
-
ウィーン国立歌劇場南面
親しまれて再評価されるようになって、自分のことのようにうれしいです。
(あんたは関係ないから。) -
Opernringオペルンリングをこのまま通りを過ぎていくようです。
-
お昼のランチはどうなっているのでしょうか。
(些細なことをいうな。)
些細なことと、いわれても。 -
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Transaustria トランスオーストリアのショールームのようです。 -
まさか、日本料理とか。
-
(ギフトショップに案内されました。)
ありゃー!ブティックではないのんか。 -
Uターンして、やっと食事です。
(スープです。)
これだけみてどこか分かりますか。 -
(主菜のお肉です。)
そうです。Restaurant Lubellaです。
(分らんて)
スマートフォンの時計は13時5分。昼食抜きかと思った。 -
(なにかどこかで見たような景色。)
-
カフェでしょ。カフェ・チローラホーフ。
(なに笑ってるの) -
Helmut-Zilk-Platz:ヘルムート・ツィルク広場は市長の名前にちなんでいます。アルベルティーナ通りに面しています。
-
真っすぐいけば、オペラ座の西面に当たります。
(横断歩道を渡るぞ。)
はい。
長らく議論を呼んできた「ソラヴィア・ウィング」を備えた(アルベルティーナ美術館)が見えています。 -
(見るの2回目)
-
Helmut Zilk市長の提唱で建つ「反戦とファシズム記念碑」
-
Albertina:アルベルティーナ美術館です。
Monet bis Picasso:モネからピカソまで
Warhol bis Richter:アンディ・ウォーホルとゲルハルト・リヒターまで
(1)美術館は、ハプスブルク家の歴史的な居城、アルブレヒト宮殿内にあります。アルベルティーナという名称は、マリア・テレジア大公妃の娘のマリア・クリスティーナ大公妃の夫の、ザクセン=テッシェン公爵アルベルト・カジミェシュに由来します。1792年、アルバートとマリー・クリスティーヌは、オーストリア領ネーデルラントのラーケン宮殿で総督を務めていましたが、戦争と革命により逃亡を余儀なくされました。 -
Film Museumは映画館かと。
(2)ウィーンに戻った夫妻は適切な住居を必要とし、1794年、フランツ2世皇帝はアウグスティヌス要塞(現在のアルベルティーナ)にある宮殿を贈呈しました。1816年、アルベルト公爵は自身のグラフィックアートコレクションを不可分かつ譲渡不能の継承財産と定め、1822年にはまず彼の普遍相続人で養子であるカール大公に、続いてカール大公と同様に君主制の軍司令官であったアルブレヒト大公(宮殿はアルブレヒト宮殿といわれる)とフリードリヒ大公に継承された。ハプスブルク家の継承財産であったため、王政終焉後、建物と美術コレクションはハプスブルク家の法律の対象となり、1919年4月にオーストリアの国有財産となった。コレクションは今日まで完全に保存されている。 -
お馬さんが待機しています。
正面はとBTV Wien(銀行)と観光案内所が入ったビル
その右はモーツアルトカフェか入った複合ビル
右端はウィーン国立歌劇場です。 -
2頭立てで4人は乗れる馬車のようです。
-
GRAZER WECHSELSEITIGE GRAWE保険会社のビルの様ですが、まるい角?にあるのはFREYWILLE:フライヴィレ(宝飾ブランド店)
-
Palais Lobkowitz:ロブコヴィッツ宮殿は18世紀からロブコヴィッツ公爵家の居館でした。19世紀初頭、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、当時の宮殿所有者であるヨーゼフ・フランツ・マクシミリアン・フォン・ロブコヴィッツが作曲家の重要なパトロンであったため、ベートーヴェンの交響曲第3番はロブコヴィッツ公に献呈され、ここで初演されました。
現在、この建物には美術史美術館の一部である劇場演劇博物館が入っています。
TheatermuseumTheatermuseum:劇場博物館です。 -
教会の鐘が聞こえますか。
(聞こえるか?)もうそこです。
アウグスティーナ教会(ドイツ語:Augustinerkirche)は、ハプスブルク家の冬の宮殿であるホーフブルク宮殿に隣接するヨーゼフ広場に位置する教区教会です。 -
1327年、ハプスブルク家のフリードリヒ美公は、アウグスティノ修道会に教会と修道院を寄贈するために、これを建立しました。身廊は1330年から1339年にかけて、建築主任ディートリッヒ・ラントナー・フォン・ピルンの下で建設されたが、奉献されたのは1349年11月1日のことです。
身廊の主祭壇です。 -
側廊がわを見ています。
-
マリア・クリスティーナの慰霊碑(1800-05)
碑文はラテン語でUxori Optimae Albertus(アルベルトの最高の妻に)とあります。「先頭には、壺と二人の小さな従者を伴った美徳の寓意像が歩き、その後に老人を支える慈愛の女神が続きます。」
これは彫刻家アントニオ・カノーヴァの作品です。カノーヴァはキューピッドとプシュケ(キューピッドのキスで蘇るプシュケ1787)の作者で、これはルーブル美術館で見ることができました。ケンタウロスと戦うテセウス(1804–1819)は、ウィーン美術史美術館にあります。 -
15世紀の盛期ゴシック様式の主祭壇は、彫刻家アンドレアス・ハルビッヒによって1857年から1870年にかけてヴォティーフ教会のために設計されました。砂岩で作られ、多色彩で彩色されていますが、1873年から1874年にかけてアウグスティーナ教会に移管されました。祭壇には、世界の支配者としての王キリストが、無数の天使と皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の守護聖人に囲まれて描かれていますがみえますか。
(見えません。)
心で感じ取るのです。 -
側廊の壁には、司教のローブを着たこの修道会の主要聖人の像が 2 つありますが、そのうちの一つ、これは蜂の巣と羽根ペンを象徴する聖アンブロシウス像です。
-
身廊の主祭壇です。窓があるので明るく見えます。
カラーラ大理石で作られた新しい祭壇は2003年に建てられました。 -
奥様、なにかみえますか。
(何となくいろいろ見えてきた。)
え!(え?)
そんな不思議なことがあるのでしょうか。 -
大抵は側廊がわからで、身廊を通り抜けることはあまりできないのですが、
-
オルガンステージのリーガーオルガン(パイプオルガン)を見ながら
-
退出しました。
-
(中庭ぽい。)
東側は道路を挟んでいるので中庭ではなくヨーゼフ広場です。 -
(屋根に金の玉)
危ないですね。金色の天球です。支えているのは?
(月光仮面)
ほぼ合っているが惜しい。疲れてきたからアトラスにしよう。 -
Statue Kaiser Joseph II モニュメントはヨーゼフ2世の騎馬像
-
Durchgang zum Josefsplatzヨーゼフ広場~シュバイツァーホフの通り抜け通路です。
Zehrgaden Stiege ツェルガーデン階段の入口が見えています。 -
Schweizerhof Hofburg Wienシュバイツァーホフ(スイス傭兵中庭)
シュヴァイツァーホーフ(1代目13世紀~)は、ホーフブルク宮殿の中核であり最古の部分です。
ホーフブルク宮殿は13世紀に建てられた中世の要塞城で、歴代の皇帝によって拡張されました。24万平方メートルの広大な非対称の敷地は、18の翼部、19の中庭、そして2,600の部屋で構成されており、現在も約5,000人がここで暮らしています。
ホーフブルク宮殿の最も古い部分は アルテ・ブルク(旧要塞)といい、18世紀以降、宮殿の警備を務めたスイス衛兵にちなんで「シュヴァイツァートラクト(スイスの翼)」と呼ばれています。中世の要塞群の中核部分は保存されていますが、四隅の塔、堀の大部分、そして跳ね橋は、何世紀にもわたる宮殿の改修工事のために取り壊されました。16世紀半ばには、ファサードがルネサンス様式で改修されました。 -
(ここからどこにいけるん?)
王宮中庭に出てシシィ博物館に行くんでしょ。 -
Wiener Hofburgkapelle / Wiener Hofmusikkapelle宮廷礼拝堂ウィーン王宮礼拝堂
ガイドさん「日曜日午前のミサでウィーン少年合唱団の歌声が聞こえます。」
1552年、シュヴァイツァー門(スイス門)が建設されました。ピエトロ・フェラボスコの設計によるこの門は、ウィーンに残る数少ないルネサンス建築の一つです。この翼部には帝国宝物庫があり、神聖ローマ帝国とオーストリア帝国の王室宝物が保管されています。ウィーン少年合唱団は、1449年に建てられたブルクカペレ(宮殿礼拝堂)で、今も日曜日のミサで歌っています。 -
Innerer Burghof Hofburg Wien
王宮中庭に出てきました。 -
(どうやってでてきたん?)
Schweizertor あのスイス門から出てきたようです。
(予定の枚数も超えました。今回はここまでにしましょう。)
次回はウイーン編3-3(シシィ博物館、カプツィーナー霊廟、自然史博物館・美術史美術館 )の予定です。
さて、嬉しいことに皆様に見ていただいたおかげでアクセス数が延べ1万回を突破しました。努力した甲斐がありました。
(有名な4トレベラー様なら1回でクリアーできるところ、数年掛かりました。これもひとえに皆様の努力のおかげです。次回はお待ちかねの最終回になりそうです。長い間有難うございました。期待せずにお待ちください。)
終了することが前提のようですが、まだイタリアのポンペイ編とシャンボール修復版も残っております。まだ試練は続きます。ぜひご覧ください。
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