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《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅡ~観光とライトな戦跡巡り編~<br /><br />旅二日目の朝を迎えた。天気はすこぶる良く今日も肌も焼けるな~と感じる。今日はNo Planのドライブなので朝食の時間も8:30でお願いしておいた。いつもと変わらぬ〝トロピカル朝食〟は、ゲストハウスりゅうかくご自慢のもの。美味しく頂き完食する。そう言えば…と思ったのが確か空室一覧には6/21は満室とあった筈だが、宿泊客は私だけの様子。おバァに訪ねたところ敢えて複数の予約を受けていないという。コロナ禍では部屋の清掃等大変だったとは聞いてはいたが、やはり二組の別グループの対応は体力的にキツいらしい。気持ちは痛い程わかるのだが、儲けだけに走らず私のような一人旅の客を〝おもてなし〟してくれるおジィとおバァには頭の下がる思いである。とは言えあまり長居をしても迷惑なので、また一年後という〝決まり文句〟の挨拶をし、二日目の旅を始めることにした。<br /><br />ゲストハウスりゅうかくを後にして最初に向かう先は奥武島公園。奥武島最先端の広場である。場所柄平和祈念堂等も望める隠れた名所でもあんだが、ここで私は一服しながらナビの再設定をする。本日最初の目的地に選んだのは、ニライカナイ橋展望台であった。ここには10年前に訪れたことはあるのだが、実用性と〝魅せる〟要素を兼ね備えている橋ではある。しかし〝ニライカナイ橋展望台〟に車で行くにはどうすれば…と考えなければならない場所でもある。この展望台というのは県道77号線のトンネル上にあたる場所であるが、駐車スペースがほとんどないのである。展望台に至る道は通行止めとなっているため、その手前のスペースを利用するしかない。両方向に向かう県道77号線のルートで5台程停められるキャパしかない。よって車を停められないこともある。おまけに両脇は陸上自衛隊知念分駐所であるため、そこは考えなければならない。そのため過去には訪問を諦めたこともある場所でもある。今日は幸い空いていたので車を停めて見学できたが、焦る気持ちはあるために、その姿をカメラに収めて感傷に浸る間もなく車へと戻って来た。その際に南城市コミュニティバス〝南城市Nバス〟が丁度到着する。バス便の数さえあれば、ニライカナイ橋展望台を訪れる際には公共交通機関を使うべしと改めて思う。<br /><br />ニライカナイ橋を後にして南風原へと向かう。取り敢えずローソン南風原北インター店に立ち寄って、コースの再検討をしてからイオン南風原へと向かう。何か〝地の物〟を探そうと思い立ち寄ったのだが、特に買いたい物もなく出発する。そしてサンエー那覇メインプレイスへと向かう。市街地にあるにも関わらず駐車場が無料なのはさすが地元企業だけある。しかし粗方のものは昨日西原シティ店で購入しているので、ここでも数品購入しただけで出発する。<br /><br />そしてこの後は戦跡絡みで整備された、若しくは時間的なもので再訪したい場所をピックアップして巡って行く。最初に立ち寄ったのは宜野湾市の嘉数高台公園である。ここも数回訪れてはいるが、頂上部にある展望台の色の塗り替えや普天間基地のその後を見てみたいという意図があった。公園も以前は塗装のはげたみすぼらしいものであったが、改修により都市公園化して立派なものに変わっていた。弾痕の残る壁はそのまま残り、展望台に向かう階段は整備されたものの相変わらずキツいものであった。暑いということもあり、ヘタレは階段を上るまではしなくても…と楽することを考えるが、せっかくなのでと覚悟して上って行った。頂上付近もトイレや足元等が改修され、自販機も設置されており往年の貧相なイメージは払拭されていた。中でも足の悪い方でも頂上部分まで来ることができるように道路と駐車場が整備されていた。駐車スペースは1台分しかないために許可制なのかも知れないが、以前は来たくとも〝階段〟がネックとなり来訪が叶わなかったことを考えれば大きな進歩である。しかしできることならもう少し早くに整備すべきではなかったか?という思いが残る。嘉数高台公園一帯は沖縄戦に於いて日米軍が熾烈な戦いを行った戦場であり、多くの兵士の命が失われている。その〝最後の場所〟を訪れたかったご遺族も少なくはなかっただろうと残念に思えて仕方がない。今沖縄を訪れている世代は戦死者の孫から曽孫が中心だと言われている。戦跡の保存も然りだが、いずれ手を加える計画があるならば、前倒しして改修工事を進めて貰いたいと私は考える。特定の団体に管理だけを任せても、あくまで商売第一ならば朽ちて行くのは時間の問題だろう。やるならばやる!その姿勢を行政も貫いて欲しいと願った戦没者遺族一名であった。<br /><br />頂上部に辿り着き、ここまで来たら…と展望台にも登って行く。内部は特に変わった様子はなく相変わらずの急な階段と擦り切れた案内板があるだけだが、近くの普天間基地の様子は肉眼でも見ることが可能である。訪れたのが日曜日だったので離発着はなかったが、基地すぐ近くまで家が並んでいることや宜野湾市が那覇都市圏を構成する市町村の中で最も人口密度が高いこと等を踏まえると、やはり事故につながるリスクが高いことは容易に想像がつくことである。実際のところ米軍基地を辺野古に移すことに〝反対〟している者も多いことはわからなくはないが、人里離れたところの方がリスクファクターの減少は間違いではないだろう。ウクライナとロシアの戦争中に語ることではないかも知れないが、やはり妥協点は見つけなければならないように思えて仕方がない。現行の法律下では解決できない問題の方が多いのは確かであり、また米軍基地が存在することによる負担を沖縄県に全て押し付けるのも如何なものかと内地の人間が考えているところもある。しかし全て理想論を言うだけで解決できるものではないのもまた事実である。お互い譲歩できるところは譲歩して、米軍絡みの問題を減らして行くのが建設的ではないのだろうかと私には思えてならない。利権を含めた問題も絡んでおりすぐに答えが出せないことは重々承知していることなので、自己流の折衷案等考えながら展望台から下りて来た私であった。<br /><br />話は変わり嘉数高台公園頂上部には慰霊碑や戦跡も残されている。京都の塔・嘉数の塔、弔魂・青丘の塔、島根の兵奮戦の地碑やトーチカ・陣地壕跡等がそれにあたる。慰霊碑等は管理者が手入れをしているようだが、トーチカや陣地壕跡は来る度に荒れる一方のようにしか見えない。トーチカは砂の流入が目立ち、陣地壕跡は10年前に確認した消化器を始めとしたゴミが目立つ。首里の第32軍司令部壕の保存が決定されたことを踏まえ、残すべき戦跡の手入れは必要だということを論じなければならない時期に差し掛かっていると改めて思うのであった。<br /><br />なんとか頂上部を回ることができたので、再び急な階段を下りて行き車に戻る。次は介護老人保健施設ぎのわんおもと園隣の軍関係の慰霊碑である。嘉数高台公園と距離にして1kmも離れてはいないのだが、初見殺しのこの場所は3回目の探索にてやっと見つけることができた場所であった。道路から少し階段で降りたところにある二基の慰霊碑は、入口に小さな看板があるに過ぎない。よって明るい時間帯でなければほぼ見逃すものである。球14212下田部隊慰霊碑と捧英魂(ほうえいこん)碑。第62師団歩兵第63旅団第13大隊に増援として送られた独立歩兵第272大隊は、夜間攻撃参加のために第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊の指揮下に入ったが、夜襲を敢行し大隊長以下壊滅的な被害を受けている。球14212下田部隊慰霊碑は下田直美大尉以下610柱を祀るものとして平成2(1990)年に建立された。また上位組織の独歩第23大隊も嘉数の戦いで多くの戦死者を出し、安波茶・沢岻の戦いで大隊長以下玉砕を遂げたとされており、捧英魂碑は山本重一少佐以下1,700柱を祀るものとして昭和41(1966)年に部隊生存者の手によって建立されたものである。先述した通り宜野湾市は那覇都市圏として多くの住宅が作られた。それに伴い整地等なされた際に現在建物が建てられている高さとなり、元々の標高が慰霊碑の高さであったのであろうと思われる。そのため地図には記されていても気付かないのだろう。それが地図を見ながらその場所を特定できなかった経験のある私が難易度の高さを感じた理由である。<br /><br />階段を降りた場所に慰霊碑がある。木々が鬱蒼と繁っているので、昼間でも薄暗い感がある。そんな場所に慰霊碑は建立されていた。どちらも部隊の生存者が建立したという謂れ書きが刻まれているが、現在それぞれの慰霊碑の管理者は不明だと沖縄県の発表には記されている。今更言うまでもないことだが、沖縄戦に於いて多くの犠牲者が出ている〝史実〟を今に伝えている物なので、既に鬼籍に入っている方々が多い中慰霊碑の手入れを含め、保存活動を決めて後世にまで残して欲しいと思う。2回目の訪問であるこの慰霊碑だが、蚊が多いので注意が必要だ。今回も数ヶ所噛まれてしまったが、結構質の悪い蚊のようで噛まれた場所が炎症を起こすので注意が必要である。<br /><br />そのような状況のために参拝を速やかに済ませて車へと戻って来た。次に目指したのは伊祖公園。浦添市にあるこの公園は琉球に於いて最初に王朝を築いた天孫氏の最後の王である第25代思金松兼王の四男である西原王子の世子である浦添按司恵祖世主の伊祖城跡を公園としたものになる。またその時代の城跡は沖縄戦に於いて日米軍の陣地が設けられることとなったが、伊祖城跡も例外ではなかった。第62師団独立歩兵第64旅団第21大隊第3中隊は、他の中隊と共に伊祖・澤岻の夜間攻撃に参加し、多くの兵士が戦死した。第3中隊長とて例外ではなく中隊レベルでは玉砕し、生存者がいない隊もあったと言う。第3中隊は最終的に10名程の生存者がいたそうだが、その方々達の尽力でこの地に慰霊碑が建立されることとなる。中隊は凡そ190名の兵士から成るが実に180人が戦死したことになる。伊祖公園に第3中隊慰霊碑があることは知ってはいたが、前回は駐車場にチェーンが掛けられていたために入れず、今回の訪問となった時代である。慰霊碑の建立場所も公園駐車場の反対側の位置になり、決して足元の状態も良い訳ではない。多くの犠牲者を出した沖縄戦故に個々慰霊碑の整備に手が回らないのも理解はできる。しかしここで〝戦闘〟があったために慰霊碑が建立されている訳であり、考え方によっては〝生き証人〟だと私には思えてならない。きな臭い話が途切れない昨今、80年前の出来事を今に伝えるものとして残して貰えればと切に願う。<br /><br />そんな伊祖公園一周と休憩を含めて2時間程滞在して体力を回復させて、今回の戦跡巡りではとしては最後になるであろう場所を目指して出発する。30分ほど走って辿り着いた先はDFSやホテルが立ち並ぶ那覇新都心である。〝タイムズ那覇新都心センタービル第1〟に車を停めて歩いた先は壁面に作られた階段である。こんな所が…と思われるが、れっきとした沖縄戦に於ける戦場である。<br /><br />シュガーローフ〝慶良間チージ〟は沖縄戦に於いて日本陸軍首里防衛線の西端に位置しており、防衛線を守備する独立混成第44旅団や独立混成第15連隊が米第6海兵師団と激戦を繰り広げた場所である。寡兵ながらも日本軍は一進一退の攻防を繰り広げた。日米双方多くの犠牲者を出して最終的には米軍が占領することとなるのだが、沖縄守備第32軍もここを占領されると司令部の退却にも多大な影響があるために、兵力を惜しまずに投入したために、沖縄戦の中でも〝熾烈な地上戦〟が行われた戦場として記録に残されている。反射面陣地等日本軍が圧倒的な物量差がある米軍を相手に善戦したシュガーローフの戦い。その姿は今では全く窺い知ることは不可能である。おもろまちは免税店のTギャラリアや沖縄県立博物館・美術館、そしてサンエーが核となる那覇メインプレイスが立ち並ぶ新しい街並みに変貌している。元の戦地は形を変えて那覇市の安里配水池や道路・ホテルとなっている。この開発に関して一度論じた記憶があるが、戦跡を残すために沖縄県民の生活に不自由を課すのはおかしいと言った。今でもその気持ちは変わらないが、実際にその場所を訪れてみるとなんとも言えない気分になる。戦場跡という広い場所に手を加えずに放置することは、やはり住民の生活に制約を加えてしまう。一観光客の私が語れる話ではないことだが、地元民でも知らないと言われる場所であっても〝ここで熾烈な戦い〟があったことだけは心に留め置きたい…そんな風にふと思った私であった。確かに展望台に上っても昔のように〝慶良間諸島〟が望める訳もないので、今見える景色だけをカメラに収め、駐車料金のことを考えながら車に戻って行った。<br /><br />後は宿に向かうだけにしようとも思ったが、丁度良い時間になったのでもう一ヵ所立ち寄ろうと思い車を走らせる。道中恒例になった〝途中給油〟のために界隈では最もガソリン価格が安い〝JASSとよみ〟に立ち寄る。沖縄にはPBのガソリンスタンドも格安スタンドリストに上がってはいるが、JA系列のスタンドも負けてはいない。相対的にガソリン価格は本島東部の方が安いが、豊見城市のとよみSSは近隣では安いスタンドのひとつとなっている。既走行120km程度では大した量を給油する訳ではないが、チリも積もれば…の精神で給油をする。<br /><br />ガソリンスタンドを後にして糸満へと向かう。県道11号線から52号線を経て南東に向かって走って行くが、途中八重瀬公園に立ち寄って一服&amp;トイレタイムを取る。平和祈念公園は灰皿が設置されておらず基本禁煙なので溜め吸いしておくためである。休憩後再び走り出し県道52号線と国道331号線を経て平和祈念公園に到着した。<br /><br />慰霊の日前日に平和祈念公園を訪れたのは意味があり、慰霊の日〝6月23日〟の前日と当日の夜に行われる〝沖縄全戦没者追悼式前夜祭〟見学のためである。主催は公益財団法人沖縄協会であるため、追悼式の主催である沖縄県・沖縄県議会とは異なっており、あくまでも〝慰霊の日〟に合わせた日取りに合わせて開催されているイベントである。こちらもほぼ毎年訪れているので、沖縄県平和祈念財団主催の〝平和の光の柱〟を含めて例年変わらぬ〝祭典〟として眺めて行く。追悼式会場テントの後方、平和祈念堂との間にある広場を利用してキャンドルサービスが行われている。毎年変わらぬものと記憶していたが、戦後80年を迎える今年は〝平和80〟の文字を形取ったキャンドルが置かれていることを知り、コロナ禍での中断はあったものの、初めて追悼式当日を沖縄で過ごすようになってから10年になるのかと、改めて月日の流れの速さを感じた景色でもあった。<br /><br />このキャンドルサービスは平和の礎エリアでも開催されている筈だが、あちらは例年と変わらず道路のセンターラインの如く一列に並んでいるだけなので今回は割愛し、小一時間の滞在で車へと戻って来た。<br /><br />後は宿に向かうだけだが、その前に消費用の飲み物と軍資金の調達をしておく必要がある。ローソン八重瀬玻名城店は宿とは反対方向の八重瀬町に位置するが、ATMの手数料の絡みでローソンかセブンイレブンを利用したいためそちらを選んだ次第である。タバコを含めて手短に買い物を済ませて車に戻り、今来た道を逆方向に5km程走った大度交差点を左折して、大度集落の住宅地へと進んで行くと間もなく今宵のお宿〝みん宿ヤポネシア〟に到着する。<br /><br />こちらは多分10回目の宿泊になる筈だが、別に迎えに出て貰わなくても空いている場所に車を停めて入館する。入口のウェルカムボードもいつも通りで、今宵の寝床だけを確認し、取り敢えず荷物を置く。以前はスマホ充電をし始めるのが第一だったが、現在では車内で充電できるために焦ることもない。ただ夕食の絡みがあるので、いつも到着して30分後にお願いする。<br /><br />ここ数年同じ部屋に当たっているが、今年も同じく2段ベッドのお部屋であった。ヤポネシアの特徴として自然栽培の食材を使った食事が挙げられる。私自身は特定のアレルギーはないので気にはならないのだが、その辺りを考慮してくれる宿泊施設が限られているようで、そう言った口コミから泊まりに来る観光客も増えて来たという。私の場合は大抵昼食抜きで行動するために、つい夕食はガッついてしまう傾向がある。かと言って脂っこいもの等だと年のせいか〝胃もたれ〟することも増えてきているので、そういう意味ではあっさり系の食事を出しているヤポネシアの食事は食べ易い。ということでしっかりと完食し、オーナーご夫妻と一年間の出来事なんかを話したりして時間を過ごす。基本23:00消灯とされているので、このタイミングでお風呂を頂き部屋に戻る。部屋のエアコンでは昨年まではコイン式の有料であったが、今年宿泊料金の値上げに合わせて無料にしたらしいとのこと。毎年小銭の持ち合わせを気にしていた私にとっては好都合である。<br /><br />いつもならば翌6月23日は追悼式参列をメインにした行程を作る筈であったのだが、事前に会場の様子を確認したことで、また来賓メインの〝お祭り〟にしかならないと思うと、式典時間ずっと会場にいることもないかと思え、旅行貯金+αとして平和祈念公園の滞在を入れたものにしようと思う。よって事前にコース作成をしたものを流用すれば良くなり、新たに予定を組む必要もなくなったので寝ることにする。<br /><br />6月の沖縄はルート作成が甘く、現地修正が多かったために寝不足になることが多かったのだが、今年はそれがない分だけ気楽である。明日はどんな1日になるのであろうと思いながらzzz。そして6月23日の朝を迎えることとなる。<br /><br />   《続く》

《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅡ~観光とライトな戦跡巡り編~

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2025/06/22 - 2025/06/22

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《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅡ~観光とライトな戦跡巡り編~

旅二日目の朝を迎えた。天気はすこぶる良く今日も肌も焼けるな~と感じる。今日はNo Planのドライブなので朝食の時間も8:30でお願いしておいた。いつもと変わらぬ〝トロピカル朝食〟は、ゲストハウスりゅうかくご自慢のもの。美味しく頂き完食する。そう言えば…と思ったのが確か空室一覧には6/21は満室とあった筈だが、宿泊客は私だけの様子。おバァに訪ねたところ敢えて複数の予約を受けていないという。コロナ禍では部屋の清掃等大変だったとは聞いてはいたが、やはり二組の別グループの対応は体力的にキツいらしい。気持ちは痛い程わかるのだが、儲けだけに走らず私のような一人旅の客を〝おもてなし〟してくれるおジィとおバァには頭の下がる思いである。とは言えあまり長居をしても迷惑なので、また一年後という〝決まり文句〟の挨拶をし、二日目の旅を始めることにした。

ゲストハウスりゅうかくを後にして最初に向かう先は奥武島公園。奥武島最先端の広場である。場所柄平和祈念堂等も望める隠れた名所でもあんだが、ここで私は一服しながらナビの再設定をする。本日最初の目的地に選んだのは、ニライカナイ橋展望台であった。ここには10年前に訪れたことはあるのだが、実用性と〝魅せる〟要素を兼ね備えている橋ではある。しかし〝ニライカナイ橋展望台〟に車で行くにはどうすれば…と考えなければならない場所でもある。この展望台というのは県道77号線のトンネル上にあたる場所であるが、駐車スペースがほとんどないのである。展望台に至る道は通行止めとなっているため、その手前のスペースを利用するしかない。両方向に向かう県道77号線のルートで5台程停められるキャパしかない。よって車を停められないこともある。おまけに両脇は陸上自衛隊知念分駐所であるため、そこは考えなければならない。そのため過去には訪問を諦めたこともある場所でもある。今日は幸い空いていたので車を停めて見学できたが、焦る気持ちはあるために、その姿をカメラに収めて感傷に浸る間もなく車へと戻って来た。その際に南城市コミュニティバス〝南城市Nバス〟が丁度到着する。バス便の数さえあれば、ニライカナイ橋展望台を訪れる際には公共交通機関を使うべしと改めて思う。

ニライカナイ橋を後にして南風原へと向かう。取り敢えずローソン南風原北インター店に立ち寄って、コースの再検討をしてからイオン南風原へと向かう。何か〝地の物〟を探そうと思い立ち寄ったのだが、特に買いたい物もなく出発する。そしてサンエー那覇メインプレイスへと向かう。市街地にあるにも関わらず駐車場が無料なのはさすが地元企業だけある。しかし粗方のものは昨日西原シティ店で購入しているので、ここでも数品購入しただけで出発する。

そしてこの後は戦跡絡みで整備された、若しくは時間的なもので再訪したい場所をピックアップして巡って行く。最初に立ち寄ったのは宜野湾市の嘉数高台公園である。ここも数回訪れてはいるが、頂上部にある展望台の色の塗り替えや普天間基地のその後を見てみたいという意図があった。公園も以前は塗装のはげたみすぼらしいものであったが、改修により都市公園化して立派なものに変わっていた。弾痕の残る壁はそのまま残り、展望台に向かう階段は整備されたものの相変わらずキツいものであった。暑いということもあり、ヘタレは階段を上るまではしなくても…と楽することを考えるが、せっかくなのでと覚悟して上って行った。頂上付近もトイレや足元等が改修され、自販機も設置されており往年の貧相なイメージは払拭されていた。中でも足の悪い方でも頂上部分まで来ることができるように道路と駐車場が整備されていた。駐車スペースは1台分しかないために許可制なのかも知れないが、以前は来たくとも〝階段〟がネックとなり来訪が叶わなかったことを考えれば大きな進歩である。しかしできることならもう少し早くに整備すべきではなかったか?という思いが残る。嘉数高台公園一帯は沖縄戦に於いて日米軍が熾烈な戦いを行った戦場であり、多くの兵士の命が失われている。その〝最後の場所〟を訪れたかったご遺族も少なくはなかっただろうと残念に思えて仕方がない。今沖縄を訪れている世代は戦死者の孫から曽孫が中心だと言われている。戦跡の保存も然りだが、いずれ手を加える計画があるならば、前倒しして改修工事を進めて貰いたいと私は考える。特定の団体に管理だけを任せても、あくまで商売第一ならば朽ちて行くのは時間の問題だろう。やるならばやる!その姿勢を行政も貫いて欲しいと願った戦没者遺族一名であった。

頂上部に辿り着き、ここまで来たら…と展望台にも登って行く。内部は特に変わった様子はなく相変わらずの急な階段と擦り切れた案内板があるだけだが、近くの普天間基地の様子は肉眼でも見ることが可能である。訪れたのが日曜日だったので離発着はなかったが、基地すぐ近くまで家が並んでいることや宜野湾市が那覇都市圏を構成する市町村の中で最も人口密度が高いこと等を踏まえると、やはり事故につながるリスクが高いことは容易に想像がつくことである。実際のところ米軍基地を辺野古に移すことに〝反対〟している者も多いことはわからなくはないが、人里離れたところの方がリスクファクターの減少は間違いではないだろう。ウクライナとロシアの戦争中に語ることではないかも知れないが、やはり妥協点は見つけなければならないように思えて仕方がない。現行の法律下では解決できない問題の方が多いのは確かであり、また米軍基地が存在することによる負担を沖縄県に全て押し付けるのも如何なものかと内地の人間が考えているところもある。しかし全て理想論を言うだけで解決できるものではないのもまた事実である。お互い譲歩できるところは譲歩して、米軍絡みの問題を減らして行くのが建設的ではないのだろうかと私には思えてならない。利権を含めた問題も絡んでおりすぐに答えが出せないことは重々承知していることなので、自己流の折衷案等考えながら展望台から下りて来た私であった。

話は変わり嘉数高台公園頂上部には慰霊碑や戦跡も残されている。京都の塔・嘉数の塔、弔魂・青丘の塔、島根の兵奮戦の地碑やトーチカ・陣地壕跡等がそれにあたる。慰霊碑等は管理者が手入れをしているようだが、トーチカや陣地壕跡は来る度に荒れる一方のようにしか見えない。トーチカは砂の流入が目立ち、陣地壕跡は10年前に確認した消化器を始めとしたゴミが目立つ。首里の第32軍司令部壕の保存が決定されたことを踏まえ、残すべき戦跡の手入れは必要だということを論じなければならない時期に差し掛かっていると改めて思うのであった。

なんとか頂上部を回ることができたので、再び急な階段を下りて行き車に戻る。次は介護老人保健施設ぎのわんおもと園隣の軍関係の慰霊碑である。嘉数高台公園と距離にして1kmも離れてはいないのだが、初見殺しのこの場所は3回目の探索にてやっと見つけることができた場所であった。道路から少し階段で降りたところにある二基の慰霊碑は、入口に小さな看板があるに過ぎない。よって明るい時間帯でなければほぼ見逃すものである。球14212下田部隊慰霊碑と捧英魂(ほうえいこん)碑。第62師団歩兵第63旅団第13大隊に増援として送られた独立歩兵第272大隊は、夜間攻撃参加のために第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊の指揮下に入ったが、夜襲を敢行し大隊長以下壊滅的な被害を受けている。球14212下田部隊慰霊碑は下田直美大尉以下610柱を祀るものとして平成2(1990)年に建立された。また上位組織の独歩第23大隊も嘉数の戦いで多くの戦死者を出し、安波茶・沢岻の戦いで大隊長以下玉砕を遂げたとされており、捧英魂碑は山本重一少佐以下1,700柱を祀るものとして昭和41(1966)年に部隊生存者の手によって建立されたものである。先述した通り宜野湾市は那覇都市圏として多くの住宅が作られた。それに伴い整地等なされた際に現在建物が建てられている高さとなり、元々の標高が慰霊碑の高さであったのであろうと思われる。そのため地図には記されていても気付かないのだろう。それが地図を見ながらその場所を特定できなかった経験のある私が難易度の高さを感じた理由である。

階段を降りた場所に慰霊碑がある。木々が鬱蒼と繁っているので、昼間でも薄暗い感がある。そんな場所に慰霊碑は建立されていた。どちらも部隊の生存者が建立したという謂れ書きが刻まれているが、現在それぞれの慰霊碑の管理者は不明だと沖縄県の発表には記されている。今更言うまでもないことだが、沖縄戦に於いて多くの犠牲者が出ている〝史実〟を今に伝えている物なので、既に鬼籍に入っている方々が多い中慰霊碑の手入れを含め、保存活動を決めて後世にまで残して欲しいと思う。2回目の訪問であるこの慰霊碑だが、蚊が多いので注意が必要だ。今回も数ヶ所噛まれてしまったが、結構質の悪い蚊のようで噛まれた場所が炎症を起こすので注意が必要である。

そのような状況のために参拝を速やかに済ませて車へと戻って来た。次に目指したのは伊祖公園。浦添市にあるこの公園は琉球に於いて最初に王朝を築いた天孫氏の最後の王である第25代思金松兼王の四男である西原王子の世子である浦添按司恵祖世主の伊祖城跡を公園としたものになる。またその時代の城跡は沖縄戦に於いて日米軍の陣地が設けられることとなったが、伊祖城跡も例外ではなかった。第62師団独立歩兵第64旅団第21大隊第3中隊は、他の中隊と共に伊祖・澤岻の夜間攻撃に参加し、多くの兵士が戦死した。第3中隊長とて例外ではなく中隊レベルでは玉砕し、生存者がいない隊もあったと言う。第3中隊は最終的に10名程の生存者がいたそうだが、その方々達の尽力でこの地に慰霊碑が建立されることとなる。中隊は凡そ190名の兵士から成るが実に180人が戦死したことになる。伊祖公園に第3中隊慰霊碑があることは知ってはいたが、前回は駐車場にチェーンが掛けられていたために入れず、今回の訪問となった時代である。慰霊碑の建立場所も公園駐車場の反対側の位置になり、決して足元の状態も良い訳ではない。多くの犠牲者を出した沖縄戦故に個々慰霊碑の整備に手が回らないのも理解はできる。しかしここで〝戦闘〟があったために慰霊碑が建立されている訳であり、考え方によっては〝生き証人〟だと私には思えてならない。きな臭い話が途切れない昨今、80年前の出来事を今に伝えるものとして残して貰えればと切に願う。

そんな伊祖公園一周と休憩を含めて2時間程滞在して体力を回復させて、今回の戦跡巡りではとしては最後になるであろう場所を目指して出発する。30分ほど走って辿り着いた先はDFSやホテルが立ち並ぶ那覇新都心である。〝タイムズ那覇新都心センタービル第1〟に車を停めて歩いた先は壁面に作られた階段である。こんな所が…と思われるが、れっきとした沖縄戦に於ける戦場である。

シュガーローフ〝慶良間チージ〟は沖縄戦に於いて日本陸軍首里防衛線の西端に位置しており、防衛線を守備する独立混成第44旅団や独立混成第15連隊が米第6海兵師団と激戦を繰り広げた場所である。寡兵ながらも日本軍は一進一退の攻防を繰り広げた。日米双方多くの犠牲者を出して最終的には米軍が占領することとなるのだが、沖縄守備第32軍もここを占領されると司令部の退却にも多大な影響があるために、兵力を惜しまずに投入したために、沖縄戦の中でも〝熾烈な地上戦〟が行われた戦場として記録に残されている。反射面陣地等日本軍が圧倒的な物量差がある米軍を相手に善戦したシュガーローフの戦い。その姿は今では全く窺い知ることは不可能である。おもろまちは免税店のTギャラリアや沖縄県立博物館・美術館、そしてサンエーが核となる那覇メインプレイスが立ち並ぶ新しい街並みに変貌している。元の戦地は形を変えて那覇市の安里配水池や道路・ホテルとなっている。この開発に関して一度論じた記憶があるが、戦跡を残すために沖縄県民の生活に不自由を課すのはおかしいと言った。今でもその気持ちは変わらないが、実際にその場所を訪れてみるとなんとも言えない気分になる。戦場跡という広い場所に手を加えずに放置することは、やはり住民の生活に制約を加えてしまう。一観光客の私が語れる話ではないことだが、地元民でも知らないと言われる場所であっても〝ここで熾烈な戦い〟があったことだけは心に留め置きたい…そんな風にふと思った私であった。確かに展望台に上っても昔のように〝慶良間諸島〟が望める訳もないので、今見える景色だけをカメラに収め、駐車料金のことを考えながら車に戻って行った。

後は宿に向かうだけにしようとも思ったが、丁度良い時間になったのでもう一ヵ所立ち寄ろうと思い車を走らせる。道中恒例になった〝途中給油〟のために界隈では最もガソリン価格が安い〝JASSとよみ〟に立ち寄る。沖縄にはPBのガソリンスタンドも格安スタンドリストに上がってはいるが、JA系列のスタンドも負けてはいない。相対的にガソリン価格は本島東部の方が安いが、豊見城市のとよみSSは近隣では安いスタンドのひとつとなっている。既走行120km程度では大した量を給油する訳ではないが、チリも積もれば…の精神で給油をする。

ガソリンスタンドを後にして糸満へと向かう。県道11号線から52号線を経て南東に向かって走って行くが、途中八重瀬公園に立ち寄って一服&トイレタイムを取る。平和祈念公園は灰皿が設置されておらず基本禁煙なので溜め吸いしておくためである。休憩後再び走り出し県道52号線と国道331号線を経て平和祈念公園に到着した。

慰霊の日前日に平和祈念公園を訪れたのは意味があり、慰霊の日〝6月23日〟の前日と当日の夜に行われる〝沖縄全戦没者追悼式前夜祭〟見学のためである。主催は公益財団法人沖縄協会であるため、追悼式の主催である沖縄県・沖縄県議会とは異なっており、あくまでも〝慰霊の日〟に合わせた日取りに合わせて開催されているイベントである。こちらもほぼ毎年訪れているので、沖縄県平和祈念財団主催の〝平和の光の柱〟を含めて例年変わらぬ〝祭典〟として眺めて行く。追悼式会場テントの後方、平和祈念堂との間にある広場を利用してキャンドルサービスが行われている。毎年変わらぬものと記憶していたが、戦後80年を迎える今年は〝平和80〟の文字を形取ったキャンドルが置かれていることを知り、コロナ禍での中断はあったものの、初めて追悼式当日を沖縄で過ごすようになってから10年になるのかと、改めて月日の流れの速さを感じた景色でもあった。

このキャンドルサービスは平和の礎エリアでも開催されている筈だが、あちらは例年と変わらず道路のセンターラインの如く一列に並んでいるだけなので今回は割愛し、小一時間の滞在で車へと戻って来た。

後は宿に向かうだけだが、その前に消費用の飲み物と軍資金の調達をしておく必要がある。ローソン八重瀬玻名城店は宿とは反対方向の八重瀬町に位置するが、ATMの手数料の絡みでローソンかセブンイレブンを利用したいためそちらを選んだ次第である。タバコを含めて手短に買い物を済ませて車に戻り、今来た道を逆方向に5km程走った大度交差点を左折して、大度集落の住宅地へと進んで行くと間もなく今宵のお宿〝みん宿ヤポネシア〟に到着する。

こちらは多分10回目の宿泊になる筈だが、別に迎えに出て貰わなくても空いている場所に車を停めて入館する。入口のウェルカムボードもいつも通りで、今宵の寝床だけを確認し、取り敢えず荷物を置く。以前はスマホ充電をし始めるのが第一だったが、現在では車内で充電できるために焦ることもない。ただ夕食の絡みがあるので、いつも到着して30分後にお願いする。

ここ数年同じ部屋に当たっているが、今年も同じく2段ベッドのお部屋であった。ヤポネシアの特徴として自然栽培の食材を使った食事が挙げられる。私自身は特定のアレルギーはないので気にはならないのだが、その辺りを考慮してくれる宿泊施設が限られているようで、そう言った口コミから泊まりに来る観光客も増えて来たという。私の場合は大抵昼食抜きで行動するために、つい夕食はガッついてしまう傾向がある。かと言って脂っこいもの等だと年のせいか〝胃もたれ〟することも増えてきているので、そういう意味ではあっさり系の食事を出しているヤポネシアの食事は食べ易い。ということでしっかりと完食し、オーナーご夫妻と一年間の出来事なんかを話したりして時間を過ごす。基本23:00消灯とされているので、このタイミングでお風呂を頂き部屋に戻る。部屋のエアコンでは昨年まではコイン式の有料であったが、今年宿泊料金の値上げに合わせて無料にしたらしいとのこと。毎年小銭の持ち合わせを気にしていた私にとっては好都合である。

いつもならば翌6月23日は追悼式参列をメインにした行程を作る筈であったのだが、事前に会場の様子を確認したことで、また来賓メインの〝お祭り〟にしかならないと思うと、式典時間ずっと会場にいることもないかと思え、旅行貯金+αとして平和祈念公園の滞在を入れたものにしようと思う。よって事前にコース作成をしたものを流用すれば良くなり、新たに予定を組む必要もなくなったので寝ることにする。

6月の沖縄はルート作成が甘く、現地修正が多かったために寝不足になることが多かったのだが、今年はそれがない分だけ気楽である。明日はどんな1日になるのであろうと思いながらzzz。そして6月23日の朝を迎えることとなる。

   《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス レンタカー JALグループ ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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