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《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅤ~久米島からの帰り道編~<br /><br />いつもより気持ち良く起きることが出来た。そして頃合いを見計らって一階のレストラン〝はての浜〟迄朝食を食べるために降りて行く。セットメニューの和定食は一部出来合いのものもあったが、まあ美味しく頂いた。<br /><br />部屋に戻って荷物を作り、先に車に乗せておく。今日は16:00に車を返車して16:50の那覇行きのフライトに間に合わせれば良く、その他はNo Planである。そういう日程なのでゆっくりした時間の取り方をしており09:24にホテルを出発した。<br /><br />ホテルを出発し県道245号線新久米島一周線を走って行けば島一周が出来る筈だが、この道路総延長40.17kmのうち現在供用されている実延長は1.5km程しかない未整備且つ未完成の道路でもある。加えて全線完成時期は未定となっていることもあり、島先端のひとつである〝鳥の口〟迄のルートを検索すると県道89号線を真我里集落迄走り、そこから県道245号線を走れという。しかし地図上では県道となってはいるものの実際には〝一応〟舗装されているだけの林道である。確かに海が見える道なので、助手席は良いかも知れない。しかし運転席ではカーブの先は視界が遮られている状況なので、最も小さいクラスの小型車とは言え対向車が来ればぶつかりかねないという緊張感が途切れない道路であった。途中与那嶺城跡付近で景色をカメラに収めた後さらに進み、鳥の口の標識が立っている場所には辿り着いたが、どうやらこの先は歩かねばならない場所のようだ。元々観光地として整備されている訳でもなく、道の終端の場所に駐車しても、もしあと一台車が来れば動けなくなってしまう状況では、流石に歩いて観光する気分にはなれず、車で来ることができる最先端まではやって来た〝証拠〟だけカメラに収め、今来た道を戻ることにした。<br /><br />次の目的地としてはイーフビーチを選択した。なにが?という理由だが、久米島の観光地で唯一聞いたことがある場所だった事位だろうか。イーフビーチ付近の県道245号線は村道上がりの区間であるが整備されており林道という様子はない。先ずはファミリーマート久米島イーフビーチ店に立ち寄って、タバコと飲み物を購入してひと息入れる。この界隈はホテル等も多いのだが、意外にもコンビニが24時間営業ではない。7:00~23:00迄の営業となっていたが、沖縄の離島で24時間営業は必要ないのかも知れない。そんなことを考えたりした後にイーフビーチの駐車場に車を停めてビーチへと向かう。日本の渚100選にも選ばれたイーフビーチだが、離島あるあるの海水浴場にしか私には見えない。長さ2kmに渡る長い白砂の浜であるがそれ以外に何もない。私自身ダイビングは胸部疾患の既往歴でライセンスが取得できなかったトラウマから、今では海で泳ごうとも思わない。そんなへんこな観光客の目から見れば、だ~か~ら~としか思えないのだ。結局20分程滞在して車に戻り、興味を惹くような場所を探しに走り出した。<br /><br />しんおうばしを通り、奥武島で向かった先はウミガメ館。昨日休館日で訪れることができなかった場所であるが、リベンジの意味も込めて入館する。<br /><br />入館料の500円を支払い館内に入る。いきなりカメに乗った浦島太郎さんが迎えてくれて口元が緩む。更に進むと大水槽があり、ウミガメさん達が優雅に泳いでいる。私自身は水族館というものはあまり好きではない。現実的には海の中の生物をそのままの姿で見ることは不可能であることを重々理解はしているものの、それを水槽という〝箱〟で切り取って人間様に見せることがどうも好きにはなれないのだ。かといって私のように海に潜ることさえしない人間では、触れ合う機会もない加えてウミガメのように絶滅危惧種に指定されている動物ならば尚更であろう。保護活動を含めたウミガメの生育をサポートするにはこのような施設が必要なのは理解できる。しかし〝箱物〟として維持するには当然〝お金〟という問題は絡んでくる。確かに〝泳ぐウミガメ〟の姿や生態、生息地等の資料展示は素晴らしいとは思うものの、〝推し〟に繋がる程の魅力は少ないように思えてならない。施設所有者は久米島町のようだが、運営は多分委託だろうと思われる。数は少ないものの久米島島内を走っていると観光客らしいレンタカーが走っているにも関わらず、私がウミガメ館に滞在していた一時間の間に来館者はいなかった。館内にあった久米島観光地マップは敢えて置く必要はないだろう。魅せる〝タマ〟が揃っているにも関わらず、見せ方に問題があるのではないだろうか?例えば話だが、ウミガメが死んで流れ着くことを取り上げ、その原因がマイクロプラスチック等の浮遊ゴミや漁網に絡みついたことによる窒息死だとグロい写真で見せることは必要であるが、地元に於いて起こった〝ウミガメ殺害〟の背景等も包み隠さず知らせるべきではないかとも思えてならない。絶滅危惧種を漁の邪魔になるからという理由で殺害した事実は、人間とウミガメの〝共存〟の難しさを示す〝現実論〟であると言うことも含めて知らせるべき内容だと私は思う。確かにウミガメ館でウミガメさん達が泳ぐ姿は普段見ることができない貴重なものには違いない。しかし水族館的な観点で見るだけではウミガメ館の存在は必要ないようにしか思えない。そんな残念な思いも感じながら、煮え切らない気持ちでウミガメ館を後にした私であった。<br /><br />この界隈は昨日歩いたので、島一周コースへと戻って行く。アクセルベタ踏みて辿り着いたてぃーだ橋駐車場で、旅の友となってくれたBOONクンの勇姿を収め、再び車を走らせる。そして到着したのは仲里間切蔵元跡(なかざとまぎりくらもとあと)・石牆(せきしょう)であった。因みに石牆とは、石垣でできた壁のことをいう。国の重要指定文化財建造物の石牆と沖縄県指定史跡の仲里間切蔵元跡からなる史跡は、久米島と先島諸島に設置された近世琉球王国の統治拠点であり、仲里間切の蔵元(役所)があったところである。石牆は乾隆(けんりゅう)28(1763)年に地頭代宇根親雲上絜時(うねぺーちんけいじ)の頃築かれたものであるとされており、すべて珊瑚石灰岩で作られている。高さは平均で3m前後、厚さは下が約1.8m、上が約1.2mある。南側やや中央に設けられた正門には、大正13(1924)年頃役場が比嘉に移転するまでは四脚門の屋門があったと記されており、北側と西側にあるアーチ型の通用門の上部は一段と高く積み上げられ、構造的な美しさを表現している。これらの3つの門の一帯は切石積みで、周辺はあいかた積みとし、石垣は四隅を切り取ってカーブにしているのが特徴である。そんな歴史ある建物の遺構ではあるが、現在では石垣に囲まれた広場だという風にしか見えず、役場跡というイメージもない。第二尚氏王朝時代の遺構であるが、あくまでも〝当時の役場跡〟という場所の保存でしかない。確かに石垣は往時の物だろうがそれ以外に何かある訳でもなかったので、その姿をカメラに収めて出発することにした。<br /><br />少し戻る方向に走り、フクギの木が道路のセンターラインの役割をしている場所に向かう。チュラフクギと記されていたが、ようはフクギ並木のことである。沖縄ではフクギ並木は珍しいことではなく、道路センターにチュラフクギがあると、道路脇にもフクギ並木があるという景色である。名前が付いていたので立ち寄ったがそれ以外に何物でもなかった。<br /><br />僅かな時間の滞在でチュラフクギを後にして、比屋定バンタを再訪する。今日はドライブインが休みなので昨日以上に空いている。展望台にも昨日上ったために、トイレ休憩を含む一服タイムを取って次の目的地を目指すことにした。<br /><br />そして辿り着いた先は〝久米島おばけ坂〟である。ここは〝縦断勾配錯視〟によって〝上り坂なのに車が進む〟〝下り坂なのに車がバックする〟という体験ができる場所として紹介されている場所である。縦断勾配錯視による〝感覚〟の体験はしたことはないが、理論は知っているために本当にそう感じられるかどうかを知りたかったのだが、目安になる場所で一旦停車し、ギアをニュートラルに入れて試してみたものの、3回チャレンジしてわからなかった。やり方が悪いのであろうが、他の観光客はわかったのかどうかは不明だが、時間を費やすこともなく去って行ったので、それ位のものなのであろうと思い、私も出発することにした。<br /><br />5分程走って到着したのは国指定天然記念物の〝久米の五枝(ごえだ)の松〟である。こちらは松の見える場所から少し進むと五枝の松園地がありそこに駐車場がある。駐車場に車を停めて歩いて行くと、高さ6m・幹回り約4.3m・地面をおおう枝の面積250平方メートルの大きなリュウキュウマツが〝盆栽〟のように植っている。普通の松のように枝が上へは伸びずに地面を這うように波打って伸びているのが特徴であるこの五枝の松は樹齢250年と言われている。規模の大きさにも惹かれるが、何より〝巨大な盆栽〟と称されるその美しさにあるといえよう。18世紀の初頭に農業の神を祭った時に植樹されたと記されており、その美しさは琉歌にも詠まれる程で天下随一と言われて久しい。故に現在では日本の名松百選にも選ばれている程である。長きに渡って久米島の〝顔〟とも言える存在感をキープしていたが、実はこの後大変なことが松の木に起こることを私は知らなかった。<br /><br />この松の様子をカメラに収めた令和7(2025)年6月25日には、写真の通り〝美しい松〟の姿を呈していた。確かに枝の一部に赤茶けた枯れた部分は見られるが、明らかに緑の部分が多く、樹勢は保たれているように見える。この姿は7月中旬でも変わらなかったと町の広報でも述べられていた。しかし10日程経った7月25日には明らかに〝枯れ〟が進行していることがわかる状況に至っている。8月下旬には樹木医等専門家を交えた対策会議が行われるも、一度枯れた枝からは新たな芽が出ることはなく、枯死に至る状況にあると結論づけられた。現在赤くなった葉が枝に残っているものの、このままでは2~3ヶ月後に全て落葉し、枝のみとなる可能性が高いと見込まれている。久米島町の発表では今後樹木医により〝枯死〟と判断が下された場合、天然記念物の指定解除手続きを行うとしている。天然記念物の登録解除後は倒木・枝の枯損による落下の危険性があることから松の木全体を伐採することになる。その作業中は拝所である土帝君に通じる木道は立入禁止区域となる旨が記されていた。<br /><br />古木が害虫に侵された時に枯死が避けられないことはよく耳にすることではあるが、これだけ短期間で状況が変わってしまうことには驚きを隠せない。勿論〝枯死〟ということを想定していなかった訳ではなく、五枝の松を後世に残す作業及び将来的に五枝のマツの再生を目指すクローン松(接ぎ木等)の育成に取り組んではいたようだ。しかし250年掛けて今の姿になったことを踏まえると、そのクローンが〝五枝の松〟と呼ばれるに値するのは西暦2275年のことになる。気の長い話ではあるが、短期で戻せることでもないので致し方ないであろう。まさかそんな後日談が出てくるのは思ってもみなかったために残念としか言いようがない。運良く枯死する前の五枝の松を記録できたことに感謝しつつ、次の目的地を目指して出発することにした。<br /><br />サトウキビ畑の真ん中にポツンと石碑が建てられている。痛恨之碑、沖縄に於ける日本軍の組織的抵抗が終わった後、駐屯していた久米島守備隊による住民虐殺事件の犠牲者を祀る碑である。日本軍兵士に於ける住民虐殺ということは、起こったとされている場所は多々あるが、正誤論があるために本当に事実なのかが不明なものが多いのも事実である。しかしこの久米島での問題は一准士官であったK海軍兵曹長(沖縄戦中に少尉に昇進していた説あり)が自らの行為に正当性を述べてはいるが、その説に〝明らかな矛盾〟を抱えているために、余計に越権行為での虐殺だったと考えられいることでもある。戦後米国には被害はなかったことから日本人同士の問題として片付けられ、戦犯裁判にもかけられずに寿命を全うした元兵士。自身のことを〝最高指揮官〟と呼び、間違ったことをしていないと開き直られれば、殺害された遺族はたまったものではない。確かに戦争は人を変えてしまい〝当たり前でないこと〟が〝当たり前〟となってしまう史実。既に関係者が鬼籍に入っている中で、新たな証言が出てくることもなくなった現在に至っては同様のことが〝起こらない〟ようにすることこそが今の時代を生きている私達の義務ではないか?そうとしか思えない。なんとも言えない気持ちになりながら、慰霊碑に手を合わせて車に戻った私であった。<br /><br />次に向かったのは久米島ホタル館。久米島はホタルの飛び交う場所であったが、近年の土地開発等の影響により数が激減し、生息地であった浦地川ではホタルが消滅してしまった。そんな場所にホタルを再生する目的で当地に平成12(2000)年に久米島ホタル館が建てられた。運営は〝久米島ホタルの会〟と〝久米島ホタレンジャー〟で、クメジマボタルのビオトープ造りを続けている。こうした活動の結果平成18(2006)年にはクメジマボタルの発生が確認され、平成23(2011)年にはその数が1,000匹も飛ぶ程に回復を見せた。しかし翌年には開墾された農地からの赤土流出の影響で川が埋まってしまい、その後の出現率は毎年低水位を留めているという。そんな背景で出来上がった久米島ホタル館であるが、入館料100円を支払って館内に入る。館内には水槽が並びホタルの幼虫が育てられているようだ。水槽の中の水は一見してわかるくらいのキレイな水。勿論濾過はされているのだろうが、ホタルの繁殖にこのような環境が必要ならばその苦労も伺える。その他ホタルの生態等の説明書もあったのだが、昆虫の大嫌いな私としては〝雰囲気〟で見ながら進んで行く。一通り館内を見て回った後、館外のホタル生息地へと向かう。浦地川は掃除がなされており、キレイな清流となっている。また人工的に作られた池は、やはりホタルの幼虫の生育のために寄付を募って作られたものである。睡蓮の花が咲く池は目で見た限りでは透明度も高く、小生物が育つには良い環境のように見える。現在どのようなホタルの乱舞が見られるのかは写真でしかわからない。しかし本当に写真のような光景を見ることができるのであれば、是非ともその時期に再訪したいと思う。最も水質が綺麗だということは、他の生物の生育にも好条件をもたらすことに繋がるのであろう。やたら蚊が多いことが少し気になった…。<br /><br />という感じで館内と館外の関連施設を駆け足で回って車に戻り、久米島博物館を目指すが、博物館手前にある顕彰碑を見つけ、立ち寄ることにした。<br /><br />大田昌秀先生顕彰碑。県知事時代にあの平和の礎を作った師範鉄血勤皇隊の生き残りの方である。彼が久米島出身であることは今回初めて知ったのだが、確かに久米島を代表する人物のひとりであることには違いない。この顕彰碑が建立されたのは意外に新しく令和5(2023)年12月2日のこと。久米島町制20周年事業の一環として建立されたようだ。92歳の誕生日に亡くなった大田氏は正に大往生と言っても過言ではないが、その人生の中に若かりし頃に学徒隊として従軍し、同級生達が目の前で落命する姿を目の当たりにしたことは、氏の人生の中でトラウマになっていたことは疑う余地のないことである。戦争に対する意見はさて置き、沖縄戦で亡くなった名もなき兵士や住民のことを経時で風化させることの無いようにとの願いを込めて建立した平和の礎。黒御影石で作られている立派な物故に莫大な〝費用〟については県議会でも賛否両論あったと聞いている。しかし出来上がったものは当時まだ御存命であった兵士や住民の〝遺族〟からすれば、戦没者が確かに〝生きていた〟という〝証拠〟となりうるものとなり、世代は変わっても、刻まれている名前に手を合わせるべく世界中から関係者が訪れる場所となっていることは周知の事実である。そのことを踏まえれば、氏の功績は自らの人生を含めてもっと知られて良いものだと私には思えてならない。折しも令和4(2022)年といえばロシア・ウクライナの戦争が勃発した年でもあり、戦争拡大を憂う中での顕彰碑建立は、正に〝反戦〟の願いが込められているように私は思う。中東問題を含めて〝停戦〟に繋がる流れは未だ見えてこない。氏がどの様に感じているかは今では知る由もないことだが、早期の停戦・終戦を願っていることは確かであろう。暫く戦争という話題から遠ざかっていた私ではあるが、大田昌秀先生顕彰碑を見つけて、戦争とは…ということを考えなければならない時期に来ていると改めて思ったのであった。<br /><br />そして本来の立ち寄り予定地であった久米島博物館に到着する。こちらは平成12(2000)年にオープンした比較的新しい施設である。端的に言えば多方面からみた久米島の自然・歴史・民俗・文化をわかりやすく紹介していると表現すれば良いのだろう。祭祀行事を紹介するビデオ映像等は、実際に目にすることが難しいために興味のある方には面白いかも知れない。また島の名所・旧跡を検索できるタッチパネル式の案内板もある。常設展示としては〝久米島の自然と文化〟をテーマに島に生息する動植物を実物の資料や模型、遺跡からの出土品や島人の作った農具や漁具・生活用品等を〝分かり易く〟〝具体的〟に展示をしていると記されている。久米島にやって来て最初に訪れれば久米島各地の様々な情報が得られるとも紹介されてはいるが、正直興味のないものからすれば、田舎町の公民館に付属している〝民俗博物館〟の大きいバージョンとしか思えないものなので、訪れる価値を尋ねられれば何とも答えることが難しい施設でもある。館内での撮影は原則許可制だが、写真を撮ってまで記録するものもなかったように思う。一般の入館料が200円と安いのは確かだが、まあ話のネタにできるかどうかというレベルではなかろうか。久米島町教育委員会と同一の建物であり、施設単独の維持費は安いとは思うが、内容もそれなりのように私には思えた。また敷地内には石像や過去に使われていた施設が移築されて保存されているが、これも取って付けた感が強くこの場に置く意味はあるのか?と思えてしまう。言うまでもなく入館者は私ひとりで静かなものであった。そう言う感想を残して退館する。<br /><br />小一時間程博物館に居たので、久米島での滞在時間も後僅かとなってきた。一旦兼城港フェリーターミナルに立ち寄り、一服の後荷物を纏める。久米島は意外に駐車場と建物の間が狭いためにエンジンをかけたまま停車し続けることが憚れる。そのために開放された場所での作業ということになる。そしてBOONクンの〝最後の晩餐〟に向かうのだが、この久米島には二軒しかガソリンスタンドがないためにそのどちらかを利用せざるを得ない。そのためガソリン価格を確認して選ぶなどという選択肢は借主にはない。そのため空港へと向かう道中にあるENEOS具志川SSを利用する。島を二周して100km弱しか走っていないため10L入らなかったが、リッター193円という離島料金には閉口する。車を使うと何かに付けてお金が掛かると久しぶりに感じた。<br /><br />保険の類をフルオプで付加しておくと、返車は満タンの伝票をダッシュボードに入れておかねばならないため、その記録を残すためにファミリーマート久米島中泊店で伝票のコピーをしようと立ち寄ったが、こういう時に限ってコピー機を占領している輩がいる。どこにも居るぜこんな奴なのだが、他のコンビニ迄走る気にもなれずスマホカメラで複写して終わらせる。そして空港へと向かう途中に一箇所訪れていなかった場所を思い出し立ち寄ってみる。シンリ浜海浜公園は空港最寄りの海水浴場と謳っている場所だが、ただ海水浴するために飛行機には乗らないだろうとは思える場所ではあった。<br /><br />そして本当のラストランに挑み久米島空港に到着する。田舎の空港故にチェックインから搭乗迄ほとんど時間はかからないために、一旦空港建物近くに車を停めて混雑していないことを確認してから、乗り始めた=返車する駐車場にBOONクンを停める。決して良く走る車ではなかったが、道なき道を含めて103.6kmを走ってくれたことに感謝しつつ、再会を期待しながら空港ターミナルへと徒歩で向かう。<br /><br />搭乗するRAC880便はDHCー8ー400CCで運行される。標準規格では74席の機材ではあるが、CCという〝カーゴコンビ〟では、座席数50席で、残りはカーゴスペースである。これは沖縄離島線の場合〝荷物輸送〟の役割も担えるようにカーゴスペースを増やした仕様で、台風時等で船舶にて荷物輸送ができない折に利用できるようにしたことが理由となっている。<br /><br />機材のことはさておき取り敢えず機内預けの荷物を預けてチェックインを済ませる。少し時間があったので最後の空港散歩。昨日吊るした短冊が回収されていたので改めて願いを書いて吊るした。そして空港入口で最後の自撮り。これで今回の旅久米島編は終了となる。<br /><br />プロペラ機ではあるがボーディングブリッジでの搭乗であった。保安検査後僅か10分程度で搭乗迄できたのは、喜界空港位だろうか。思い出す前に全ての乗客の搭乗が終わり扉が閉まる。そして15分後RAC880便は定刻通り那覇空港に向けて離陸した。<br /><br />飛び上がったと思ったらすぐに着陸体制に入る。行きは3時間半かけてフェリーで移動した区間を僅か20分で到着することは、便利な反面味気ないとも思ってしまう。そして那覇空港ではさすがに沖止めでバス移動であった。荷物は伊丹で受け取るようにしていたので手ぶらのままのトランジットとなる。記録によると17:31にターミナルビルに到着し、トランジットで22番搭乗口に移動後17:36には搭乗ゲートを潜っているとある。実際にこんなことができるのか?と自分でも思ってしまうが、記録上できており、17:40には伊丹行きのシートに座っていたようだ。DHCー8ー400CCから乗り換えたJAL2088便はA359での運航である。今まで離島線から幹線に乗り換えた際、プロペラ機からジェット機でもA322かB738かどちらかだったので、搭乗キャパが7.5倍というのは初めてだったが、流石に比較するレベルにもない。さっさとUSBケーブルを繋ぎ、記録の整理をし始めた私であった。<br /><br />JAL2088もほぼ定刻通りに出発し、那覇空港離陸後糸満市上空を経て一路大阪へと向かって行く。5日間で流石に疲れたのかウトウトしながら座っていたが、行き同様奄美上空では目を覚まし、ドリンクサービスもしっかり頂いていた。順調にフライトは続き、流石に夏至とは言え既に暗くなった伊丹空港に19:55に到着。若干早着であった。<br /><br />いつもならば適当に時間を潰しながら京都駅行きリムジンバスに乗る筈なのだが、昨年とは〝交通の便〟が異なっており、できるだけ早く最寄り駅まで到着したいという思いから、一服タイムを省きバゲッジピックアップを終えるとそのままバス停へと急ぐ。20:30発京都駅行きリムジンバスは乗れれば良いかな~位に思ってはいたが、実際に乗車することが出来た。空港を出発後リムジンバスは中国道・名神高速を経由して京都南ICで一般道に下りる。この後の時間取りは京都駅到着時刻で大きく変わるものであったために、ちょっと気にはなっていた。予定では21:25到着予定だったものが15分早着したお陰でその後の行程に結構時間に余裕ができた。そのままJR京都駅に向かい21:17の新快速野洲行きに乗車し、田舎駅到着は21:30。この時間であれば普段の通勤と同じ時間で帰れることになり、いつもと同じ21:37の33号系統の田舎の赤バスに乗車する。バス路線が統合された絡みで所要時間は延びたのだが、ど田舎バス停21:57到着、田舎の我が家22:01に到着することが出来た。実は今回の沖縄旅で今後に影響する一番の理由がこのバスの乗り継ぎであった。偶々だったのかも知れないが、那覇を18:00前に出発するJAL便を利用して上手く帰ることが出来た事実は、来年以降も同様の予定でこなすことが可能である証明となった。<br /><br />今年も色々とあった沖縄旅。加えて最後はデータ取りのようにして帰って来た訳だが、結果オーライであった。そのことは今回の旅の価値そのものを上げたことでもあり、予定の甘さもあったが得たものも多かった。取り敢えず明日1日仕事をすればまた休みなので記録の整理ができる…などと翌々日のことに思いを馳せるおめでたい人ひとりであった。<br /><br />   《終わり》

《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅤ~久米島からの帰り道編~

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2025/06/25 - 2025/06/25

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《2025.June》80th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅そのⅤ~久米島からの帰り道編~

いつもより気持ち良く起きることが出来た。そして頃合いを見計らって一階のレストラン〝はての浜〟迄朝食を食べるために降りて行く。セットメニューの和定食は一部出来合いのものもあったが、まあ美味しく頂いた。

部屋に戻って荷物を作り、先に車に乗せておく。今日は16:00に車を返車して16:50の那覇行きのフライトに間に合わせれば良く、その他はNo Planである。そういう日程なのでゆっくりした時間の取り方をしており09:24にホテルを出発した。

ホテルを出発し県道245号線新久米島一周線を走って行けば島一周が出来る筈だが、この道路総延長40.17kmのうち現在供用されている実延長は1.5km程しかない未整備且つ未完成の道路でもある。加えて全線完成時期は未定となっていることもあり、島先端のひとつである〝鳥の口〟迄のルートを検索すると県道89号線を真我里集落迄走り、そこから県道245号線を走れという。しかし地図上では県道となってはいるものの実際には〝一応〟舗装されているだけの林道である。確かに海が見える道なので、助手席は良いかも知れない。しかし運転席ではカーブの先は視界が遮られている状況なので、最も小さいクラスの小型車とは言え対向車が来ればぶつかりかねないという緊張感が途切れない道路であった。途中与那嶺城跡付近で景色をカメラに収めた後さらに進み、鳥の口の標識が立っている場所には辿り着いたが、どうやらこの先は歩かねばならない場所のようだ。元々観光地として整備されている訳でもなく、道の終端の場所に駐車しても、もしあと一台車が来れば動けなくなってしまう状況では、流石に歩いて観光する気分にはなれず、車で来ることができる最先端まではやって来た〝証拠〟だけカメラに収め、今来た道を戻ることにした。

次の目的地としてはイーフビーチを選択した。なにが?という理由だが、久米島の観光地で唯一聞いたことがある場所だった事位だろうか。イーフビーチ付近の県道245号線は村道上がりの区間であるが整備されており林道という様子はない。先ずはファミリーマート久米島イーフビーチ店に立ち寄って、タバコと飲み物を購入してひと息入れる。この界隈はホテル等も多いのだが、意外にもコンビニが24時間営業ではない。7:00~23:00迄の営業となっていたが、沖縄の離島で24時間営業は必要ないのかも知れない。そんなことを考えたりした後にイーフビーチの駐車場に車を停めてビーチへと向かう。日本の渚100選にも選ばれたイーフビーチだが、離島あるあるの海水浴場にしか私には見えない。長さ2kmに渡る長い白砂の浜であるがそれ以外に何もない。私自身ダイビングは胸部疾患の既往歴でライセンスが取得できなかったトラウマから、今では海で泳ごうとも思わない。そんなへんこな観光客の目から見れば、だ~か~ら~としか思えないのだ。結局20分程滞在して車に戻り、興味を惹くような場所を探しに走り出した。

しんおうばしを通り、奥武島で向かった先はウミガメ館。昨日休館日で訪れることができなかった場所であるが、リベンジの意味も込めて入館する。

入館料の500円を支払い館内に入る。いきなりカメに乗った浦島太郎さんが迎えてくれて口元が緩む。更に進むと大水槽があり、ウミガメさん達が優雅に泳いでいる。私自身は水族館というものはあまり好きではない。現実的には海の中の生物をそのままの姿で見ることは不可能であることを重々理解はしているものの、それを水槽という〝箱〟で切り取って人間様に見せることがどうも好きにはなれないのだ。かといって私のように海に潜ることさえしない人間では、触れ合う機会もない加えてウミガメのように絶滅危惧種に指定されている動物ならば尚更であろう。保護活動を含めたウミガメの生育をサポートするにはこのような施設が必要なのは理解できる。しかし〝箱物〟として維持するには当然〝お金〟という問題は絡んでくる。確かに〝泳ぐウミガメ〟の姿や生態、生息地等の資料展示は素晴らしいとは思うものの、〝推し〟に繋がる程の魅力は少ないように思えてならない。施設所有者は久米島町のようだが、運営は多分委託だろうと思われる。数は少ないものの久米島島内を走っていると観光客らしいレンタカーが走っているにも関わらず、私がウミガメ館に滞在していた一時間の間に来館者はいなかった。館内にあった久米島観光地マップは敢えて置く必要はないだろう。魅せる〝タマ〟が揃っているにも関わらず、見せ方に問題があるのではないだろうか?例えば話だが、ウミガメが死んで流れ着くことを取り上げ、その原因がマイクロプラスチック等の浮遊ゴミや漁網に絡みついたことによる窒息死だとグロい写真で見せることは必要であるが、地元に於いて起こった〝ウミガメ殺害〟の背景等も包み隠さず知らせるべきではないかとも思えてならない。絶滅危惧種を漁の邪魔になるからという理由で殺害した事実は、人間とウミガメの〝共存〟の難しさを示す〝現実論〟であると言うことも含めて知らせるべき内容だと私は思う。確かにウミガメ館でウミガメさん達が泳ぐ姿は普段見ることができない貴重なものには違いない。しかし水族館的な観点で見るだけではウミガメ館の存在は必要ないようにしか思えない。そんな残念な思いも感じながら、煮え切らない気持ちでウミガメ館を後にした私であった。

この界隈は昨日歩いたので、島一周コースへと戻って行く。アクセルベタ踏みて辿り着いたてぃーだ橋駐車場で、旅の友となってくれたBOONクンの勇姿を収め、再び車を走らせる。そして到着したのは仲里間切蔵元跡(なかざとまぎりくらもとあと)・石牆(せきしょう)であった。因みに石牆とは、石垣でできた壁のことをいう。国の重要指定文化財建造物の石牆と沖縄県指定史跡の仲里間切蔵元跡からなる史跡は、久米島と先島諸島に設置された近世琉球王国の統治拠点であり、仲里間切の蔵元(役所)があったところである。石牆は乾隆(けんりゅう)28(1763)年に地頭代宇根親雲上絜時(うねぺーちんけいじ)の頃築かれたものであるとされており、すべて珊瑚石灰岩で作られている。高さは平均で3m前後、厚さは下が約1.8m、上が約1.2mある。南側やや中央に設けられた正門には、大正13(1924)年頃役場が比嘉に移転するまでは四脚門の屋門があったと記されており、北側と西側にあるアーチ型の通用門の上部は一段と高く積み上げられ、構造的な美しさを表現している。これらの3つの門の一帯は切石積みで、周辺はあいかた積みとし、石垣は四隅を切り取ってカーブにしているのが特徴である。そんな歴史ある建物の遺構ではあるが、現在では石垣に囲まれた広場だという風にしか見えず、役場跡というイメージもない。第二尚氏王朝時代の遺構であるが、あくまでも〝当時の役場跡〟という場所の保存でしかない。確かに石垣は往時の物だろうがそれ以外に何かある訳でもなかったので、その姿をカメラに収めて出発することにした。

少し戻る方向に走り、フクギの木が道路のセンターラインの役割をしている場所に向かう。チュラフクギと記されていたが、ようはフクギ並木のことである。沖縄ではフクギ並木は珍しいことではなく、道路センターにチュラフクギがあると、道路脇にもフクギ並木があるという景色である。名前が付いていたので立ち寄ったがそれ以外に何物でもなかった。

僅かな時間の滞在でチュラフクギを後にして、比屋定バンタを再訪する。今日はドライブインが休みなので昨日以上に空いている。展望台にも昨日上ったために、トイレ休憩を含む一服タイムを取って次の目的地を目指すことにした。

そして辿り着いた先は〝久米島おばけ坂〟である。ここは〝縦断勾配錯視〟によって〝上り坂なのに車が進む〟〝下り坂なのに車がバックする〟という体験ができる場所として紹介されている場所である。縦断勾配錯視による〝感覚〟の体験はしたことはないが、理論は知っているために本当にそう感じられるかどうかを知りたかったのだが、目安になる場所で一旦停車し、ギアをニュートラルに入れて試してみたものの、3回チャレンジしてわからなかった。やり方が悪いのであろうが、他の観光客はわかったのかどうかは不明だが、時間を費やすこともなく去って行ったので、それ位のものなのであろうと思い、私も出発することにした。

5分程走って到着したのは国指定天然記念物の〝久米の五枝(ごえだ)の松〟である。こちらは松の見える場所から少し進むと五枝の松園地がありそこに駐車場がある。駐車場に車を停めて歩いて行くと、高さ6m・幹回り約4.3m・地面をおおう枝の面積250平方メートルの大きなリュウキュウマツが〝盆栽〟のように植っている。普通の松のように枝が上へは伸びずに地面を這うように波打って伸びているのが特徴であるこの五枝の松は樹齢250年と言われている。規模の大きさにも惹かれるが、何より〝巨大な盆栽〟と称されるその美しさにあるといえよう。18世紀の初頭に農業の神を祭った時に植樹されたと記されており、その美しさは琉歌にも詠まれる程で天下随一と言われて久しい。故に現在では日本の名松百選にも選ばれている程である。長きに渡って久米島の〝顔〟とも言える存在感をキープしていたが、実はこの後大変なことが松の木に起こることを私は知らなかった。

この松の様子をカメラに収めた令和7(2025)年6月25日には、写真の通り〝美しい松〟の姿を呈していた。確かに枝の一部に赤茶けた枯れた部分は見られるが、明らかに緑の部分が多く、樹勢は保たれているように見える。この姿は7月中旬でも変わらなかったと町の広報でも述べられていた。しかし10日程経った7月25日には明らかに〝枯れ〟が進行していることがわかる状況に至っている。8月下旬には樹木医等専門家を交えた対策会議が行われるも、一度枯れた枝からは新たな芽が出ることはなく、枯死に至る状況にあると結論づけられた。現在赤くなった葉が枝に残っているものの、このままでは2~3ヶ月後に全て落葉し、枝のみとなる可能性が高いと見込まれている。久米島町の発表では今後樹木医により〝枯死〟と判断が下された場合、天然記念物の指定解除手続きを行うとしている。天然記念物の登録解除後は倒木・枝の枯損による落下の危険性があることから松の木全体を伐採することになる。その作業中は拝所である土帝君に通じる木道は立入禁止区域となる旨が記されていた。

古木が害虫に侵された時に枯死が避けられないことはよく耳にすることではあるが、これだけ短期間で状況が変わってしまうことには驚きを隠せない。勿論〝枯死〟ということを想定していなかった訳ではなく、五枝の松を後世に残す作業及び将来的に五枝のマツの再生を目指すクローン松(接ぎ木等)の育成に取り組んではいたようだ。しかし250年掛けて今の姿になったことを踏まえると、そのクローンが〝五枝の松〟と呼ばれるに値するのは西暦2275年のことになる。気の長い話ではあるが、短期で戻せることでもないので致し方ないであろう。まさかそんな後日談が出てくるのは思ってもみなかったために残念としか言いようがない。運良く枯死する前の五枝の松を記録できたことに感謝しつつ、次の目的地を目指して出発することにした。

サトウキビ畑の真ん中にポツンと石碑が建てられている。痛恨之碑、沖縄に於ける日本軍の組織的抵抗が終わった後、駐屯していた久米島守備隊による住民虐殺事件の犠牲者を祀る碑である。日本軍兵士に於ける住民虐殺ということは、起こったとされている場所は多々あるが、正誤論があるために本当に事実なのかが不明なものが多いのも事実である。しかしこの久米島での問題は一准士官であったK海軍兵曹長(沖縄戦中に少尉に昇進していた説あり)が自らの行為に正当性を述べてはいるが、その説に〝明らかな矛盾〟を抱えているために、余計に越権行為での虐殺だったと考えられいることでもある。戦後米国には被害はなかったことから日本人同士の問題として片付けられ、戦犯裁判にもかけられずに寿命を全うした元兵士。自身のことを〝最高指揮官〟と呼び、間違ったことをしていないと開き直られれば、殺害された遺族はたまったものではない。確かに戦争は人を変えてしまい〝当たり前でないこと〟が〝当たり前〟となってしまう史実。既に関係者が鬼籍に入っている中で、新たな証言が出てくることもなくなった現在に至っては同様のことが〝起こらない〟ようにすることこそが今の時代を生きている私達の義務ではないか?そうとしか思えない。なんとも言えない気持ちになりながら、慰霊碑に手を合わせて車に戻った私であった。

次に向かったのは久米島ホタル館。久米島はホタルの飛び交う場所であったが、近年の土地開発等の影響により数が激減し、生息地であった浦地川ではホタルが消滅してしまった。そんな場所にホタルを再生する目的で当地に平成12(2000)年に久米島ホタル館が建てられた。運営は〝久米島ホタルの会〟と〝久米島ホタレンジャー〟で、クメジマボタルのビオトープ造りを続けている。こうした活動の結果平成18(2006)年にはクメジマボタルの発生が確認され、平成23(2011)年にはその数が1,000匹も飛ぶ程に回復を見せた。しかし翌年には開墾された農地からの赤土流出の影響で川が埋まってしまい、その後の出現率は毎年低水位を留めているという。そんな背景で出来上がった久米島ホタル館であるが、入館料100円を支払って館内に入る。館内には水槽が並びホタルの幼虫が育てられているようだ。水槽の中の水は一見してわかるくらいのキレイな水。勿論濾過はされているのだろうが、ホタルの繁殖にこのような環境が必要ならばその苦労も伺える。その他ホタルの生態等の説明書もあったのだが、昆虫の大嫌いな私としては〝雰囲気〟で見ながら進んで行く。一通り館内を見て回った後、館外のホタル生息地へと向かう。浦地川は掃除がなされており、キレイな清流となっている。また人工的に作られた池は、やはりホタルの幼虫の生育のために寄付を募って作られたものである。睡蓮の花が咲く池は目で見た限りでは透明度も高く、小生物が育つには良い環境のように見える。現在どのようなホタルの乱舞が見られるのかは写真でしかわからない。しかし本当に写真のような光景を見ることができるのであれば、是非ともその時期に再訪したいと思う。最も水質が綺麗だということは、他の生物の生育にも好条件をもたらすことに繋がるのであろう。やたら蚊が多いことが少し気になった…。

という感じで館内と館外の関連施設を駆け足で回って車に戻り、久米島博物館を目指すが、博物館手前にある顕彰碑を見つけ、立ち寄ることにした。

大田昌秀先生顕彰碑。県知事時代にあの平和の礎を作った師範鉄血勤皇隊の生き残りの方である。彼が久米島出身であることは今回初めて知ったのだが、確かに久米島を代表する人物のひとりであることには違いない。この顕彰碑が建立されたのは意外に新しく令和5(2023)年12月2日のこと。久米島町制20周年事業の一環として建立されたようだ。92歳の誕生日に亡くなった大田氏は正に大往生と言っても過言ではないが、その人生の中に若かりし頃に学徒隊として従軍し、同級生達が目の前で落命する姿を目の当たりにしたことは、氏の人生の中でトラウマになっていたことは疑う余地のないことである。戦争に対する意見はさて置き、沖縄戦で亡くなった名もなき兵士や住民のことを経時で風化させることの無いようにとの願いを込めて建立した平和の礎。黒御影石で作られている立派な物故に莫大な〝費用〟については県議会でも賛否両論あったと聞いている。しかし出来上がったものは当時まだ御存命であった兵士や住民の〝遺族〟からすれば、戦没者が確かに〝生きていた〟という〝証拠〟となりうるものとなり、世代は変わっても、刻まれている名前に手を合わせるべく世界中から関係者が訪れる場所となっていることは周知の事実である。そのことを踏まえれば、氏の功績は自らの人生を含めてもっと知られて良いものだと私には思えてならない。折しも令和4(2022)年といえばロシア・ウクライナの戦争が勃発した年でもあり、戦争拡大を憂う中での顕彰碑建立は、正に〝反戦〟の願いが込められているように私は思う。中東問題を含めて〝停戦〟に繋がる流れは未だ見えてこない。氏がどの様に感じているかは今では知る由もないことだが、早期の停戦・終戦を願っていることは確かであろう。暫く戦争という話題から遠ざかっていた私ではあるが、大田昌秀先生顕彰碑を見つけて、戦争とは…ということを考えなければならない時期に来ていると改めて思ったのであった。

そして本来の立ち寄り予定地であった久米島博物館に到着する。こちらは平成12(2000)年にオープンした比較的新しい施設である。端的に言えば多方面からみた久米島の自然・歴史・民俗・文化をわかりやすく紹介していると表現すれば良いのだろう。祭祀行事を紹介するビデオ映像等は、実際に目にすることが難しいために興味のある方には面白いかも知れない。また島の名所・旧跡を検索できるタッチパネル式の案内板もある。常設展示としては〝久米島の自然と文化〟をテーマに島に生息する動植物を実物の資料や模型、遺跡からの出土品や島人の作った農具や漁具・生活用品等を〝分かり易く〟〝具体的〟に展示をしていると記されている。久米島にやって来て最初に訪れれば久米島各地の様々な情報が得られるとも紹介されてはいるが、正直興味のないものからすれば、田舎町の公民館に付属している〝民俗博物館〟の大きいバージョンとしか思えないものなので、訪れる価値を尋ねられれば何とも答えることが難しい施設でもある。館内での撮影は原則許可制だが、写真を撮ってまで記録するものもなかったように思う。一般の入館料が200円と安いのは確かだが、まあ話のネタにできるかどうかというレベルではなかろうか。久米島町教育委員会と同一の建物であり、施設単独の維持費は安いとは思うが、内容もそれなりのように私には思えた。また敷地内には石像や過去に使われていた施設が移築されて保存されているが、これも取って付けた感が強くこの場に置く意味はあるのか?と思えてしまう。言うまでもなく入館者は私ひとりで静かなものであった。そう言う感想を残して退館する。

小一時間程博物館に居たので、久米島での滞在時間も後僅かとなってきた。一旦兼城港フェリーターミナルに立ち寄り、一服の後荷物を纏める。久米島は意外に駐車場と建物の間が狭いためにエンジンをかけたまま停車し続けることが憚れる。そのために開放された場所での作業ということになる。そしてBOONクンの〝最後の晩餐〟に向かうのだが、この久米島には二軒しかガソリンスタンドがないためにそのどちらかを利用せざるを得ない。そのためガソリン価格を確認して選ぶなどという選択肢は借主にはない。そのため空港へと向かう道中にあるENEOS具志川SSを利用する。島を二周して100km弱しか走っていないため10L入らなかったが、リッター193円という離島料金には閉口する。車を使うと何かに付けてお金が掛かると久しぶりに感じた。

保険の類をフルオプで付加しておくと、返車は満タンの伝票をダッシュボードに入れておかねばならないため、その記録を残すためにファミリーマート久米島中泊店で伝票のコピーをしようと立ち寄ったが、こういう時に限ってコピー機を占領している輩がいる。どこにも居るぜこんな奴なのだが、他のコンビニ迄走る気にもなれずスマホカメラで複写して終わらせる。そして空港へと向かう途中に一箇所訪れていなかった場所を思い出し立ち寄ってみる。シンリ浜海浜公園は空港最寄りの海水浴場と謳っている場所だが、ただ海水浴するために飛行機には乗らないだろうとは思える場所ではあった。

そして本当のラストランに挑み久米島空港に到着する。田舎の空港故にチェックインから搭乗迄ほとんど時間はかからないために、一旦空港建物近くに車を停めて混雑していないことを確認してから、乗り始めた=返車する駐車場にBOONクンを停める。決して良く走る車ではなかったが、道なき道を含めて103.6kmを走ってくれたことに感謝しつつ、再会を期待しながら空港ターミナルへと徒歩で向かう。

搭乗するRAC880便はDHCー8ー400CCで運行される。標準規格では74席の機材ではあるが、CCという〝カーゴコンビ〟では、座席数50席で、残りはカーゴスペースである。これは沖縄離島線の場合〝荷物輸送〟の役割も担えるようにカーゴスペースを増やした仕様で、台風時等で船舶にて荷物輸送ができない折に利用できるようにしたことが理由となっている。

機材のことはさておき取り敢えず機内預けの荷物を預けてチェックインを済ませる。少し時間があったので最後の空港散歩。昨日吊るした短冊が回収されていたので改めて願いを書いて吊るした。そして空港入口で最後の自撮り。これで今回の旅久米島編は終了となる。

プロペラ機ではあるがボーディングブリッジでの搭乗であった。保安検査後僅か10分程度で搭乗迄できたのは、喜界空港位だろうか。思い出す前に全ての乗客の搭乗が終わり扉が閉まる。そして15分後RAC880便は定刻通り那覇空港に向けて離陸した。

飛び上がったと思ったらすぐに着陸体制に入る。行きは3時間半かけてフェリーで移動した区間を僅か20分で到着することは、便利な反面味気ないとも思ってしまう。そして那覇空港ではさすがに沖止めでバス移動であった。荷物は伊丹で受け取るようにしていたので手ぶらのままのトランジットとなる。記録によると17:31にターミナルビルに到着し、トランジットで22番搭乗口に移動後17:36には搭乗ゲートを潜っているとある。実際にこんなことができるのか?と自分でも思ってしまうが、記録上できており、17:40には伊丹行きのシートに座っていたようだ。DHCー8ー400CCから乗り換えたJAL2088便はA359での運航である。今まで離島線から幹線に乗り換えた際、プロペラ機からジェット機でもA322かB738かどちらかだったので、搭乗キャパが7.5倍というのは初めてだったが、流石に比較するレベルにもない。さっさとUSBケーブルを繋ぎ、記録の整理をし始めた私であった。

JAL2088もほぼ定刻通りに出発し、那覇空港離陸後糸満市上空を経て一路大阪へと向かって行く。5日間で流石に疲れたのかウトウトしながら座っていたが、行き同様奄美上空では目を覚まし、ドリンクサービスもしっかり頂いていた。順調にフライトは続き、流石に夏至とは言え既に暗くなった伊丹空港に19:55に到着。若干早着であった。

いつもならば適当に時間を潰しながら京都駅行きリムジンバスに乗る筈なのだが、昨年とは〝交通の便〟が異なっており、できるだけ早く最寄り駅まで到着したいという思いから、一服タイムを省きバゲッジピックアップを終えるとそのままバス停へと急ぐ。20:30発京都駅行きリムジンバスは乗れれば良いかな~位に思ってはいたが、実際に乗車することが出来た。空港を出発後リムジンバスは中国道・名神高速を経由して京都南ICで一般道に下りる。この後の時間取りは京都駅到着時刻で大きく変わるものであったために、ちょっと気にはなっていた。予定では21:25到着予定だったものが15分早着したお陰でその後の行程に結構時間に余裕ができた。そのままJR京都駅に向かい21:17の新快速野洲行きに乗車し、田舎駅到着は21:30。この時間であれば普段の通勤と同じ時間で帰れることになり、いつもと同じ21:37の33号系統の田舎の赤バスに乗車する。バス路線が統合された絡みで所要時間は延びたのだが、ど田舎バス停21:57到着、田舎の我が家22:01に到着することが出来た。実は今回の沖縄旅で今後に影響する一番の理由がこのバスの乗り継ぎであった。偶々だったのかも知れないが、那覇を18:00前に出発するJAL便を利用して上手く帰ることが出来た事実は、来年以降も同様の予定でこなすことが可能である証明となった。

今年も色々とあった沖縄旅。加えて最後はデータ取りのようにして帰って来た訳だが、結果オーライであった。そのことは今回の旅の価値そのものを上げたことでもあり、予定の甘さもあったが得たものも多かった。取り敢えず明日1日仕事をすればまた休みなので記録の整理ができる…などと翌々日のことに思いを馳せるおめでたい人ひとりであった。

   《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス 観光バス レンタカー JALグループ ANAグループ JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
25いいね!

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