2008/04/21 - 2008/04/21
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jijidarumaさん
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ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊
:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イーザル、イン川を巡る:
期間 : 2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
目的地:今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。
今回の旅は“古来のバイエルン王国”を巡ることになるので、≪バイエルン王国の周遊≫と称した。
4.21(月) 曇り 9.5℃ 寒い1日 、 85km
朝食後、Mittenwaldミッテンヴァルトを8:30に発つ。=>L?B2・11 20km Walchenseeヴァルヒェン湖 =>14km Kochelseeコッヘル湖・Kochelコッヘルを見学。9:20~30 =>B11 8km Benediktbeuernベネディクトボイエルン(ベネディクト派僧院 )のガイド付き見学。10~12:00 =>B472 17km Bad Tölzバードテルツには12:40到着:旧市街、市庁舎、マルクト通り。昼食には”Bei Enzo”イタリア料理を(12:40~14:40)。Bad Tölz =>B472・L? Gmund =>B307 21km Tegernseeテーゲルン湖=>B307 5km Rottach-Egern・Gästehaus Reiffenstuelには15:10着。16:30まで周辺を散策し、夕食まで休憩。夕食はParkhotel Egerner Höfe 、ミシュラン1星のRestaurant”Dichterstub'n”で4コース料理を(18:30~21:15)。
参考写真:Matthäus Merianマテウス・メーリアン作のベネディクトボイエルン僧院(1650年)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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<Deutsche Alpenstrasseドイツアルペン街道:東ルート①>
≪Deutsche Alpenstrasseドイツアルペン街道≫
ドイツアルプスの麓を縫うようにしてたどる観光街道(1927年に制定)は昨年80周年を迎えたドイツでも歴史ある観光街道である。
西はBodenseeボーデン湖のLindauリンダウを起点にし、Füssenフュッセンまで265km。
東はLinderhofリンダーホフ城からKönigsseeケーニヒス湖のあるBerchtesgadenベルヒテスガーデンに至るもので、東ルートは240km。
東西ルートの合計が505kmの街道(450kmとも云う)。
バイエルン地方の壮大な、険しい山々(Zugspitzeツーグシュピッツエやカーヴェンデル山系、ヴァッツマン山塊など)、緑多い草原、ゆったりとした丘陵、緑濃い深い森、九十九折の山路、谷間の魅力あふれる村々、そして氷河の造った湖の景観は訪れる人々を魅了し、楽しませる。
この街道の連れずれには25もの古城、Kloster僧院や、20を数える大小様々の湖を訪れることができる。
写真はミッテンヴァルト=>ベネディクトボイエルン=>バードテルツのMap -
イチオシ
<(1泊)④ Hotel Alpenroseホテル・アルペンローゼ>
D-82481 Mittenwald 、Obermarkt 1 、
全?室・?星、1号室(2階) Euro 66+kurtax3.6
http://www.hotel-alpenrose-mittenwald.de
:Parkはガレージの指定場所No.2に。
ホテル・アルペンローゼは町の中心Obermarktオーバーマルクトの一番地にある。教会・バイオリン博物館も近い。13世紀の頃より、旅人の休息所、旅籠として営まれたと云う。
この古きバイエルンスタイルのホテルは美しいバロックファザードを持ち、フレスコ画で飾られた建物となっている。
写真はMittenwaldミッテンヴァルトのHotel Alpenroseホテル・アルペンローゼの正面ファザードアルペンローゼ ホテル
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他にお客がいなかったのか?!1号室(2階)・ホテル一番の部屋に泊まれた。
この地方の色濃い飾り付けや家具。独特の天井や電燈、ベッドと大変興味深く、満足の部屋でした。
レストランも由緒あるホテルに相応しいものでしたし、スタッフは親切でしたが、年老いたホテルの女主人がいまいち、愛想に欠けたのが惜しまれるところだ。
写真はホテル・アルペンローゼで朝食 -
写真はホテル・アルペンローゼのレストランで
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*昨日とは打って変わって、実に寒く、曇り空の朝を迎えた。
春の天気はまったくままならないものだ。昨年の旅がずっと晴天続きであったのを思い出す。
朝食後、Mittenwaldミッテンヴァルトを8:30に発ち、まず、北に向かって走る。
途中の町に見られたアルプス地方の伝統的民家にはDurchlaufender Balkonデュルヒラウフェンダー バルコンという形式のバルコニーがついている。
直訳的には「間仕切りなしのバルコニー」で端から端まで木造つくりで、夏にはどの家にも花々で飾られたバルコニーを見ることができる。
この町にもこのバルコニーが見られたが、花にはまだ早い。
写真は4階(3+屋根裏部屋)建ての農家は典型的なDurchlaufender Balkonデュルヒラウフェンダー バルコンをもち、家の白壁にバルコニーや緑の色彩が鮮やかな窓の戸袋が調和して、大変美しい建物となっている。 -
L?B2・11 Krünクリュン 、Wallgauヴァルガウの村を過ぎ、Walchensee ヴァルヒェン湖までは20km。人気のない湖を横目に、九十九折りの峻嶮な山道を登り降りすると、14kmで Kochelseeコッヘル湖畔の町に至った。
参考写真はWalchenseeヴァルヒェン湖のパノラマ
*ヴァルヒェン湖はドイツアルプスの湖の中でも最も大きく、最も水深が深い一つだと云う。氷河湖、最深部は192.3m、面積16.4平方キロ。ミュンヘンから75kmの距離にある。 -
イチオシ
峠道から左手にみた湖と町に魅かれ、Kochelコッヘル(海抜605m)に車を停めて、小さな町を見学した。
コッヘルの町中に見られたHotel -Gasthof zur Postホテル・ガストホフ・ツァ・ポスト(3星、Schmied-von-Kochel-Platz 6, D-82431 Kochel am See)はバルコニー、窓に加えて、猟師などを描いたフレスコ画が、さらに魅力的なものになっていた。(9:20~30)
写真はホテル・ガストホフ・ツァ・ポストの正面 -
参考写真はKochelseeコッヘル湖のパノラマ
*コッヘル湖はミュンヘンから70kmの距離にある。氷河湖、面積は5.9 平方キロ、最深部は66mである。
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コッヘルからB11で北に8km走ると、二つの尖塔を持つベネディクト僧院に着いた。
【Kloster Benediktbeuernベネディクトボイエルン僧院】
D-83671 Benediktbeuern 、Prälatenstr. 3
Benediktbeuernベネディクトボイエルン(海抜617m、人口3700人)にあるベネディクト派僧院 はガイド付きで見学ができる。
丁度、ドイツ人団体が出発しようとしていた時に来合せたので、切符売場の親切な女性がガイドさんに声をかけてくれて、ありがたいことに団体と一緒に見学することとなった。
参考写真はBenediktbeuernベネディクトボイエルン僧院(ベネディクト派) の景観 -
参考写真:Kloster Benediktbeuernベネディクトボイエルン僧院の周辺俯瞰
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参考写真:Benediktbeuernベネディクトボイエルンの*紋章
*紋章のデザインは「赤で斜めに交差した2つの金色の僧院長の杖が、垂直に配置された銀の羽ペン(フェザー)に置かれている」
紋章:
赤い盾の中に交差した僧院長の杖があるが、これははベネディクト会僧院(修道院)の元の紋章に由来する。また、中央の羽ペンは12世紀と13世紀の僧院学校の全盛期を表現したものである。 -
<Kloster Benediktbeuernベネディクトボイエルン僧院の歴史>
この僧院(修道院)はバイエルン地方で最古のベネディクト派僧院として有名である。
元々は725~8年フランク王国の軍事拠点として築かれたものが起源であり、その後、739年に聖ボニファティウス(英人・ドイツのキリスト教化に努めた事から“ドイツ人の使徒”と呼ばれる。754年オランダで反キリスト教徒により殺害された。;2001年ゲーテ街道Fuldaフルダ)によって、この地の院長にフランク王国の臣ラントフリートが任命され、正式に僧院(修道院)が発足した。
カロリンガー王朝の保護の下で、僧院は布教と農地開墾、文化育成の中心地として発展する。さらに、カール大帝(742~814年)の仲介で入手した聖ベネディクトの右腕を聖遺物としたことで、僧院への巡礼者が増大したという。
写真はKloster Benediktbeuern ベネディクトボイエルン僧院 -
13世紀以降はベネディクトボイエルンと称されることとなった。
955年マジャール人の侵攻、1490年の大火事、30年戦争(1618~48年)、ペストなどで、僧院はしばしば破壊・被害をこうむったが、その都度再建され、1803年に強制的に僧院(修道院)が解体されるまで、宗教・教育の中心であった。
僧院(修道院)解体後は国家所有となり、軍の宿舎、刑務所、軍の療養所等に使用された。
1930年イタリアのサレジオ修道会の買収により、哲学・神学大学などを持つ、新たな宗教活動の拠点になっている。
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院にはカール大帝(742~814年)の仲介で入手したReliquie vom rechten Arm des Hl. Benedikt von Nursia*ヌルシアの聖ベネディクトの右腕の聖遺物が保管されているそうだ。 -
参考写真:*Hl. Benedikt von Nursiaヌルシアの聖ベネディクトを描いた絵
*ヌルシアの聖ベネディクトは480年頃にイタリアのヌルシアで生まれ、547年に亡くなった中世のキリスト教修道院長である。
彼は西方教会における修道院制度の創設者とされ、特にKloster Monte Cassinoモンテ・カッシーノ に修道院を建設したことで知られている。 ベネディクト会則 を制定し、修道士の生活の基礎を築いた。この会則は「祈り、かつ働け」という精神を表現している。やがて聖ベネディクトは「西欧修道士の父」と称される。 -
<バロック様式の僧院見学>
(10~12:00 ;Euro 6+Tips Euro 3)
現在の各施設は1669年の再建時のバロック様式の建物である。
Wiesヴィース巡礼教会(1983年世界遺産登録)の見事な天井画でも名高いJohann Zimmermannヨハン・ツィンマーマン(1680-1758年)などが、ここでも活躍したと云う。
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院:Basilika聖堂と、丸い部分がAnastasiakapelleアナスタシア礼拝堂 -
参考写真:Kloster Bräustüberl Benediktbeuern ベネディクトボイエルン僧院のビール醸造所(13世紀にビール醸造開始)
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参考写真:ベネディクトボイエルン僧院の中心部・・・Erdgeschoss-Grundriss von Kirche und Konventgebäude mit Legende伝説の残る教会と僧院の建物の1階平面図(縄張り図)
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まずは僧院の回廊から、カルミナ・ブラーナの模写判(本物はミュンヘン国立文書館蔵)の表題部分が掲示されていた一室に行く。
1803年の僧院(修道院)解体時に発見されたもので、“Carmina Burana”カルミナ・ブラーナは13世紀の中頃の詩歌集である。遍歴学生間で成立したと云われる、ヨーロッパ中世の世俗的な歌謡と聖歌を集めたものだそうだ。
ラテン語、中・高地ドイツ語、フランス語などで表現されており、道徳・恋愛・飲酒や遊び・宗教劇などの4部編となっていて、文化的価値がたいへん高いといわれる。
写真はベネディクトボイエルン僧院:ガイドさんの先導でスタートし、僧院の回廊を行く。 -
写真はベネディクトボイエルン僧院:かつての僧院の食堂だった。天井が独特だ。
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参考写真:Ehem._SpeisesaalかつてKloster Benediktbeuernベネディクトボイエルン僧院の食堂だった。天井が独特だ。
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<カルミナ・ブラーナ(ラテン語: Carmina Burana)の発見>
カルミナ・ブラーナ(ラテン語: Carmina Burana)は、19世紀初めにドイツ南部、バイエルン選帝侯領にあるベネディクト会のベネディクトボイエルン僧院(英語版、ドイツ語版)で発見された詩歌集。
1803年、ベネディクトボイエルン僧院がバイエルン選帝侯領に帰属(僧院・修道院の廃止と世俗化)したのに伴い、同図書館の蔵書がミュンヘン宮廷図書館に委譲されることになり、調査が行われた。その結果、112枚の羊皮紙に古い歌が多数記された写本が発見された。
その中の歌(少数の宗教劇を含む)は約300編にのぼり、ほとんどがラテン語、一部が中高ドイツ語あるいは古フランス語で書かれていた。
歌詞のテーマは、I) 時代と風俗に対する嘆きと批判、II) 愛と自然、愛の喜びと苦しみ、III) 宴会、遊戯、放浪生活、IV) 宗教劇である。
写本成立の場所として、かつては僧院(修道院)写本制作工房(das Scriptorium eines Klosters)や遍歴歌人の周辺(der Umkreis fahrender Sänger)が考えられたが、聖界諸侯の宮廷(geistlicher Hof)、中でもオーストリア・シュタイアーマルクのゼッカウ(Seckau)司教の宮廷が有力視されている。
写真はベネディクトボイエルン僧院:カルミナ・ブラーナ(ラテン語: Carmina Burana)は1803年に発見された。 -
約四分の一の作品にネウマによって簡単な旋律が付けられている(『賭事士たちのミサ曲』等)。古い時代のネウマ譜には、譜線のない旋律の不明な単なる音楽家の覚書のようなものも含まれる。写本は13世紀前半に書かれたと推測されているが、シュメラー(J.A.Schmeller)によって編纂され、『カルミナ・ブラーナ』(ボイエルンの歌)という題名で1847年に出版された。
現在、写本はミュンヘンのバイエルン州立図書館に所蔵されている。
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院:Carmina Buranaカルミナ・ブラーナ本、・・・チェスの場面 -
1670~75年の初期バロックの「Festsaal祝典の広間」は僧院自慢のもので、ガイドさんの説明も力が入っている。
天井や壁面を飾る見事な絵画、とりわけ四方を飾る四つの美しい絵は見事なものでした。四つの絵は古代ギリシャから云われてきた、四元素の土・水・火・空気(風)を表現したものです。
写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画 -
写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間と天井のフレスコ画
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イチオシ
この僧院内も写真はOKでしたので、フラッシュで撮ってみたのですが、上手に撮れたのは“火”だけでした。
火の女神Hestiaヘスティアと、人間に初めて火を与えたと云われる“賢い巨人・Promētheúsプロメテウス”であろう絵です。
写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画“火” -
写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画
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写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画
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参考写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画
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写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画
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写真はベネディクトボイエルン僧院:Festsaal祝典の間天井のフレスコ画
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参考写真:ベネディクトボイエルン僧院で有名かつ記念碑的な漆喰の大理石の祭壇は1686年にJohann Georg Guggemoosヨハン・ゲオルク・グッゲムースによって作成された。
尚、祭壇画は1788年にMartin Knollerマルティン・クノラーの作品に置き換えられた。
天井には1683年にGeorg Asamゲオルク・アザムによって描かれたキリスト降誕のFreskoフレスコ画がある。 -
イチオシ
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1681-86年に新しく建てられたベネディクトボイエルン僧院・教会では、*Hans Georg Asamハンス・ゲオルク・アザムにより描かれたGewölbebildern丸天井の絵画に古いバイエルンのバロック美術の最も初期のフレスコ画を見ることができる。
その他、Joh.B. Zimmermann ツィンマーマン、Joh. Michael Fischer フィッシャー、Ignaz Güntheグンター などの有名な芸術家が僧院建設に関わっていたと云う。
ベネディクトボイエルン僧院の住民画家Hans Georg Asamハンス・ゲオルク・アザム(1649年~1711年)の9人の子供のうちの2人であったアザム兄弟(コスマス・ダミアン・アザムとエギド・クィリン・アザム)は彫刻家、画家、建築家であり、主に南ドイツにおいて共同で活動した。彼らはドイツ後期バロックを代表する最も重要な人物の一人である。
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写真はベネディクトボイエルン僧院:Basilika聖堂内部に見るHochaltar大聖壇とアザムに描かれた天井のフレスコ画で有名だ。 -
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院のKanzel説教壇は高さ8mもある見事な説教壇で、初期のバロック様式で1686年に作られた。
有名な*Fassmalerin直訳だと樽の女性画家の手に依るもので、豊かな黄金の彫刻はMaria Theresia Asamマリア・テレジア・アザムによって製作された。
*Fassmaler=Barrel painterバレルペインター:
聞きなれぬバレルペインター(古い用語でstaffier painterスタッフペインターと云うそうだが)は、木製の彫刻をペイントによる金メッキを行い、彫刻に最終的な外観を与える職人の用語だとそうだ。 -
Anastasiakapelleアナスタシア礼拝堂はMärtyrerin Anastasia殉教者アナスタシアの崇敬を表すために建てられたバロック様式の礼拝堂である。
ベネディクトボイエルン僧院教会の北東に位置し、*Hl.Anastasia聖アナスタシアの遺物を収容するために1751年から1753年の間に建てられた。
【Kochelsee-Wunderコッヘル湖の奇跡】
現在のAnastasiakapelleアナスタシア礼拝堂建設には伝説が残る。
それは「Kochelsee-Wunderコッヘル湖の奇跡」という話が伝えられている。
1704年、 Spanischer Erbfolgekriegスペイン継承戦争(1701~14年)の最中に、ベネディクトボイエルン僧院と周辺の村々は、聖アナスタシアに宛てた祈りによって前進する敵軍から救われたというものです。
Die österreichischen und Tiroler Truppenオーストリアとチロルの軍隊の作戦は厳しい冬の間に、両軍の兵をコッヘル湖の凍った湖上を渡ってしまおうとするもので、作戦実施の寸前でした。
敵軍はLoisachロイザッハと周辺の村を横切り、ベネディクトボイエルン僧院を攻撃する。
1月28日、聖アナスタシアの祝日の前夜、僧院の修道士たちは聖アナスタシアに祈りを捧げた。その同じ日の午後、強いFöhnwindフェーン風が吹き込み、数時間のうちに湿原と湖の氷が解けたため、敵軍は攻撃を中断しなければなりませんでした。ベネディクトボイエルン僧院と周辺の村々は、聖アナスタシアに宛てた祈りによって前進する敵軍から救われました。
聖アナスタシアに対する感謝の気持ちから、Abt Leonhard Hohenauer僧院長レオンハルト・ホーエナウアーは新しい聖アナスタシア礼拝堂を建てたのです。
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院のDie Heilige Anastasiakapelle聖アナスタシア礼拝堂の大聖壇 -
参考写真はベネディクトボイエルン僧院:Anastasiakapelleアナスタシア礼拝堂の天井のフレスコ画はDreifaltigkeit聖三位一体、Mariaマリア、Märtyrerpalme殉教者のシュロの枝、Engelschören天使の合唱団が描かれている。
チロルのロイテ出身のフレスコ画家Johann Jakob Zeillerヨハン・ヤコブ・ツァイラーによって描かれたものだ。 -
参考写真:Hl.Anastasia*聖大アナスタシアは4世紀のキリスト教信者、および殉教者、致命者(ちめいしゃ・・・信仰の立証者として全生命を代償に与えた者(致命した者)をいう)。カトリック教会や正教会などの伝統的教会における聖人。
他のアナスタシアと区別し、聖大アナスタシアなど、またはSirmiumシルミウムのアナスタシアと呼ばれる。
伝承によれば、アナスタシアはシルミウム(現在のセルビア共和国スレムスカ・ミトロヴィツァ)の富裕なローマ貴族の家に生まれた。父は異教徒、母はキリスト教徒だった。キリスト教徒の教師について学芸を修め、深くキリスト教に傾倒した。アナスタシアは貧者や病者への慈善に熱心で、多くの施しをなした。
アナスタシアは、牢獄にいたキリスト教徒にとくに援助を行い、そこから「解繋者(かいけいしゃ)」の称がある。
ある伝承によれば、アナスタシアは、はじめ餓死刑を宣告され30日間の絶食を二度課せられたが死なず、次に湖での溺死刑を宣告され、小船で他の死刑囚とともに湖の中央へ連れ出された。しかし奇跡により船を沈めるために穴が開けられても船は沈まなかった。そのため、陸にふたたび引き上げられ、あらためて焼死刑に処されたとされる。
・・・・・ -
僧院の外構えでもある付属農場監理館Meierhofマイヤーホーフ(1708~18年バロック様式建築)はバイエルン地方最大の規模であり、当時は農業管理の優秀さでも画期的であったと云われている。
思った以上にきらびやかな聖堂やよく整った庭園を見た後、サレジオ修道会の活動状況の説明もあり、二時間のガイドは終わりました。
参考写真:ベネディクトボイエルン僧院の全体縄張り図・・・右上にある四角い場所が付属農場監理館Meierhofマイヤーホーフの建物。 -
場所的には日本人の観光客も来ることはなかなか無いであろうこの僧院にも、日本語のパンフレットが用意されていたのにはびっくりしました。
参考写真:Benediktbeuern in der Landschaft am frühen Morgen早朝の田園地帯にあるベネディクトボイエルン僧院 -
更に走り、B11=>B472 を東に17kmで Bad Tölzバードテルツの町だ。
12:40の到着。
参考写真:Bad Tölzバードテルツ=>Tegernseeテーゲルン湖Map -
Bad Tölzバードテルツ市はIsarイーザル川(距離295km、オーストリアのチロル州からドイツ南部を流れるドナウ川の支流)沿いに発展した。
今日はイーザル川が雪解け水でいっぱいとなって流れている。
イーザル川を渡る橋のたもとのIsarkaiイーザルカイ(駐車場)に車を停めて、旧市街のKlammergasseクラマーガッセ(カスガイ横丁)の坂道を登った。
参考写真はBad Tölzバードテルツのパノラマ・・・中央の川はイ―ザル川 -
ベネディクトボイエルン僧院でガイドをご一緒した人たちもバスで移動していて、同じ駐車場に停まった。
皆さんから“またあったね!!“と声をかけられる。
老人の皆さんはみな愛想も良く、日本人に好意的な人たちでした。
バードテルツ(人口13万人)の旧市街は坂道の両脇に発展したようで、白壁、ピンク色、クリーム色の壁にそれぞれ似つかわしい色合いで、窓枠やバルコニーを飾っている。
4、5階建ての美しい建物がメインのMarktstraßeマルクト通りの両側に建ち、丘の上の市庁舎まで続く。この通りは歩行者天国で観光客もそこそこ多い。
昔からの保養地は豊かで、美しい街だ。
昼食には坂の中腹で目についたイタリア料理店を選んだ。
写真はバードテルツの旧市街:マルクト通り -
Marktstraße 2マルクトシュトラーセ2番地にある現在の建物Marienstiftマリエンシュティフトの敷地には、1475年頃に「Zum Krugツム クリュッグ」という名のワイン居酒屋があった。
1577年頃にはBräuhaus Krugledererクルーグルデラー醸造所となり、1750年以来は、Rotgerberei赤い皮なめし工場があったそうだ。
参考写真はBad Tölzバードテルツ:Marienstiftマリエンシュティフト(マリア財団)の美しい Fassadeファサード -
イチオシ
写真はBad TölzバードテルツのAltes Rathaus旧市庁舎(Marktstraße 48)も美しい・・・現在は Stadtmuseum und Touristinformation市博物館と観光局となっている。
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【昼食:Ristorante-Pizzeria”Bei Enzo” bei Hotel Klammerbräuでイタリア料理を】
(12:40~14:40 Euro 20)
昼食にはマルクト通り、坂の中腹で目についたイタリア料理店を選んだ。
さっそく、Löwenbräu Pils(ミュンヘンの有名なレーベンブロイビール)でのどを潤す。
満席の店内にはベネディクトボイエルン僧院でご一緒した人たちも見られた。
出てきた料理は予想以上に美味しく、エビ・キノコ入りのリソットは最高。
ツナとサラミの小ピザ、デザートの小さなアイスも大変満足した味でした。
コーヒーを飲んで、ゆっくりとした昼食になりました。
古くからの保養地はやはり味も洗練されていると思った。
写真はRistorante-Pizzeria”Bei Enzo”:レーベンブロイビールを飲む。 -
写真はRistorante-Pizzeria”Bei Enzo”:美味しかったリソット。
*尚、現在のレストランの様子を検索してみたら、残念なことに、37年間営業してきた店は2019年10月に閉店していた。 -
Bad Tölzバードテルツを出て、さらに東に向かう。
バスの皆さんも私どもに“良い旅を!!”と盛んに手を振ってくれた。
これから彼等はどちらに向かうのか?!
=>B472・L? Gmund グムンド経由して、=>B307 21km でTegernseeテーゲルン湖だ。
ミュンヘンから凡そ南に50kmのバイエルン・アルプス地方に画家や作家、作曲家たち・芸術家を魅了したテーゲルン湖畔の町々がある。
746年、ベネディクト派の僧院が設けられて以来、静かな佇まいだったテーゲルン湖畔でしたが、19世紀の始め、その古き僧院を買取り、新たにバイエルン国王が夏の離宮を建てたことから、この一帯が発展したと云う。
テーゲルン湖は海抜726m、Gmundグムンドを先端にした長さ6.5km、幅2.5kmの細長い湖で、最深は72m、湖畔はリゾート地で名高い。
湖の南岸沿いに広がる町Rottach-Egernロタッハ・エゲルン(海抜725m)もその一つである。
写真はバードテルツのRistorante-Pizzeria”Bei Enzo”で昼食 -
=>B307 を5km で今夜の宿Gästehaus Reiffenstuel ゲステハウス ライフェンシュツールに15:10と早めの到着になった。
寒く、小雨模様となってくると動きはどうしても鈍る。
それでも16:30まで周辺を散策し、期待のミシュラン1星のレストランのある5星Parkhotel Egerner Höfe パークホテル エーゲーナー ヘーフェのレセプションまで歩いて行き、予約の再確認や時間を30分ほど早めること、食事のメニューを持って帰りたいなどをレセプションの女性にお願いした。
軽装の私どもにも、レセプションの対応は心地よく、夕食が楽しみになった。
宿泊ホテルに帰って、夕食までの二時間を休憩にした。
写真はこの地方の典型的なゲステハウス ライフェンシュツールの正面 -
<(1泊)⑤ Gästehaus Reiffenstuel ゲステハウス ライフェンシュツール>
D-83700 Rottach-Egern 、Seestrasse 67-69、
Hotel Garni(Seeblick湖水眺望のバルコニー付き)
全18室・3星、6号室(2階) Euro 90*現金払い
http://www.reiffenstuel.de
ミシュラン1星のレストランのあるParkhotel Egerner Höfe パークホテル エーゲーナー ヘーフェでの夕食を考えていたので、そこにできるだけ近いGasthof Hotel Garni(夕食用のレストランが無い)を選んだところ、ここになった。
Tegernseeテーゲルン湖畔に面し、三階建てのこぢんまりとしたバイエルンの典型的なホテルで、木をふんだんに使った気持ちよい部屋は二階の左手の奥、湖畔に面したバルコニーのある広い部屋でした。
おいしい水のボトルもサービスされて、嬉しい。
お客はこの季節でも3組ほど来ていた。
宿泊は安いだけに現金払いだ!
写真はゲステハウス ライフェンシュツールの室内 -
ゲステハウス ライフェンシュツールは貸しボート屋も兼業しているホテルで、ホテル前の湖畔にボート小屋があった。
写真はゲステハウス ライフェンシュツールの前面にあるテーゲルン湖畔で、後ろに貸しボート小屋がある。
・・・・・ -
期待のミシュラン1星のレストランのある5星Parkhotel Egerner Höfe パークホテル エーゲーナー ヘーフェで夕食を楽しんだ。
<Park-Hotel Egerner Hoefe (5星);Restaurant ”Dichterstub'n” で>
Restaurant ”Dichterstub'nディヒターシュトウーベン『作家の間』”はミシュラン1星・Gault Millau 17点 (全独64位);30席、従業員9名(火・水休み)、4品コースEuro62、7品Euro92、9品Euro140。ワイン450銘柄。シェフMichael Fell:魚や甲殻類の料理で有名。 (宿泊先から200m位の距離にあった)
今夜の最初のお客様になったようで、暖炉の前の良い席に私どもの席があった。
『作家の間』だけに、レストランの中に掲げられていた肖像画は有名であろう作家、詩人、劇作家なのでしょう。給仕に聞いてみるとこの地域で生まれた、育った、或いは在住したことのある作家たちだと言う。
人の私どもには見知らぬ人ばかりでしたが・・・。
【ミュンヘンから50km、テーゲルン湖畔にグルメレストラン『作家の間』(ミシュラン1星)がある。】
https://4travel.jp/travelogue/11850638
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(2025年05月27日Wiki・HP参考、訳・編集追記)Park-Hotel Egerner Höfe ホテル
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この旅行記へのコメント (5)
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- クリスさん 2025/05/30 09:18:21
- 最後は質問になっていまいましたが・・
- おはようございます。
ベネディクトボイエルン修道院とバードテルツの旅行記拝見しました。この二つはミュンヘンへの途中近くを通っていますが時間的に訪問はかないませんでした。
ベネディクトボイエルンについては同じベネディクト会のアルゴイにあるオットーボイレン修道院修道院を訪問しています。起源については共に8世紀創設、現在の建物についてはバロック、幾分ロココが入っているオットーボイレンの方が後発になるでしょうか?
ヨハン・バプティスト・ツィンメルマンやヨハン・ヤコブ・ツァイラーといった画家がフレスコ画を手掛けております。ボイエルン、ボイレンはスペルではbeuernとなります。ともにバイエルンを代表するバロック様式の修道院です。
ところで、昔気になってbeuernの語源は何か調べた記憶があります。バイエルンにはボイレン(バイエルもその派生?)のつく地名がいくつかありますよね。その時は定かなものがなくわからないままでした。貴兄はお判りになりますか?
- jijidarumaさん からの返信 2025/05/31 01:34:49
- Re: 最後は質問になっていまいましたが・・
- クリスさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
僧院(修道院)といった場所は日頃のお好みに合うからお訪ねになったと思っていました。ベネディクトボイレン、バードテルツ、テーゲルン湖といった所はミュンヘンからもあらためて近いな!と思いました。
さて、
①BenediktbeuernベネディクトボイエルンとOttobeurenオットーボイレンのベネディクト会僧院(修道院)の起源は、前者が739年、後者が764年とあります。前者はカール大帝の仲介で入手したヌルシアの聖ベネディクトの右腕の聖遺物が保管されていることや、1803年の僧院(修道院)解体時に発見された“Carmina Burana”カルミナ・ブラーナ本が発見された事から思うと、歴史的な価値もあるように思います。(尚、私はオットーボイレンを訪ねていないのが残念!)
②Benediktbeuernベネディクトボイエルン、Ottobeurenオットーボイレンの地名ですが、-beuern, -beurenとスペルは違うようです。
なぜ異なるのかは分かりませんが、古い言葉はそういったものでしょう。
私と同じ頃にドイツ語圏に駐在されて、大変ドイツ語にご堪能であるRolleiguyさんの旅行記「オットーボイレン修道院とメミンゲンの街」を以前拝読した時に、
『オットーボイレン修道院とメミンゲンの街』バイエルン州(ドイツ)の旅行記・ブログ by Rolleiguyさん【フォートラベル】 (4travel.jp)
・・・○○ボイレン(beuren)とはどういう意味かと調べてみたら、小さい家とか、集落、住居の集まりとかの意味らしいことが分かりました。祈りの生涯を送る修道士に相応しい名前だなと思いました。・・・
と書かれた部分があり、この事を思い出して、また再読させて頂き、前述のように引用しました。
その時、(クリスさんのように)私も自分なりに語彙の意味などを調べたことがあります。その抜粋を書き残していましたので以下に。
・・・
*-beuern、-beuren、-beuron、-birn、(また低地ドイツ語の-büren、-bur(en)など)は場所や集落を称したもの。古高地ドイツ語のbur「小さな家」を意味する。
中オランダ語のbur「住居」、農夫(鳥かご)の意味だそうです。
・・・
この程度で、回答となるか分かりませんけど・・・。
それではまた。
jijidaruma
- クリスさん からの返信 2025/05/31 07:45:45
- Re: 最後は質問になっていまいましたが・・
- 早速にありがとうございました。これですっきりしました。ベネディクトボイエルンは選択肢の中にはありましたがルートの選択と優先度で漏れてしまった場所です。
-
- pedaruさん 2025/05/29 05:37:29
- ドイツアルペン街道東ルート
- jijidarumaさん おはようございます。
参考写真としてヴァルヒェン湖のパノラマ
こういう写真は日本では見られませんね、これこそヨーロッパの山の景色です。
これを見るためにだけ訪問しても価値がありますね。
普通の景色でも、エキゾチックな建物が入ると、とたんにヨーロッパの風景になる、
寺の甍の入った景色が日本独特の風景になるのと同じでしょう。
それに長いベランダをもつ伝統的な木造民家、季節にはベランダが花で埋もれる、
花を飾る余裕の生活ですね。
写真の貯金が豊富なjijidarumaさん、新しいドイツ旅の旅行記がまだまだ続くようですね。楽しみにしています。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/05/29 14:33:49
- Re: ドイツアルペン街道東ルート
- pedaruさん、
今日は。書き込み、いつもありがとうございます。
当時、漸く手にしたデジカメでした。
昔のフィルムカメラと同じようにツイ、大事に撮ることが身についていて、数も少なく、写真も上手く撮れなかった記憶があります😢。
それはともかく、九十九折の山道は怖くて、慎重に運転しておりましたから、写真をしっかり撮っていないので、参考写真としてもっとも良い時期の写真を見つけて参考に供した次第です。実際、この日は曇り空が続き、残念でした。
それにしてもドイツアルペン街道はドイツの美しい景観が詰まっていて、素晴らしかったですね。
2008年の旅から既に長い時間が経ちました。夢の中で、旅日記の中でドイツを楽しむしかできない歳になってしまい、何とも残念!
系統だって投稿するのは難しくなりました。本編も手元にある旅日記から抜粋しつつ改めて稿を書き出すと、イヤハヤ時間がかかりました。
在庫はいくらでもあるのに・・・、さて自分の歳との競争です(´∀`)。
それではまた。そちらにも立ち寄ります。
jijidaruma
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