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過去に5回インドを旅したが、一日かけてデリーを観光したことがなかった。出入国の玄関口であるがゆえに、夜入国してホテルに泊まり、翌朝他都市へ移動、もしくは他都市から戻って帰国便に乗る前に半日観光といったところだ。今回は一日かけてデリーのマニアックな歴史の旅へ出かけることにした。
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2024年12月29日(日)
India Gate インド門再訪
門の西側に建つ、偉大な人物の像を見に来た。インド門と官庁街 建造物
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Statue of Subhas Chandra Bose
チャンドラ・ボースの像
スバス・チャンドラ・ボース
Subhas Chandra Bose 1897-1945
インド国民会議派の指導者。ガンディーを妥協的と批判し、第二次世界大戦では日本軍に協力してイギリスからの独立を目指したが失敗。日本の敗戦によりソ連と接触するため満洲国へ渡ろうとしたが、台北の松山飛行場で航空機事故により死亡したとされる。
2022年9月8日、インド門の西側に建つ天蓋に設置されたボース像が公開され、除幕式にモディ首相が参加した。
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
かつてそこには、イギリス国王ジョージ5世の像があったが1968年に撤去され、半世紀以上「空席」になっていた。植民地時代の支配者の像があった場所に独立運動の闘士が顕彰されたのである。 -
The bust of Netaji Subash Chandra Bose
at Renkōji Temple in Tokyo, Japan
東京都杉並区の蓮光寺にボースの遺骨が安置されており、記念碑と胸像が建立されている。ボースが日本軍の航空機事故で死亡したことについて、インド国内で異論があり、生き延びてソ連へ渡ったなどの生存説や、遺骨は他人説が根強く信じられている。いつの日か遺骨がボースのものと認定され、インドへ返還される日が来るのかもしれない。 -
期せずして軍楽隊のパレードに出くわした。ガイドによると首相官邸からインド門まで毎朝行われているとのこと。
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濃紺の制服はインド海軍。陸海空軍が毎朝日替わりで軍楽隊と行進しているらしい。
毎年1月26日の共和国記念日に行われるパレード "Delhi Republic Day parade" をいつか見に行きたい。 -
ここからインド大反乱の史跡めぐり
Kashmere Gate カシミール門
1857年に勃発したインド大反乱のデリー包囲戦(Siege of Delhi)で激戦地となった。
荒 松雄『多重都市デリー』
(中公新書、1993年)より引用
かつてはその下をくぐり抜けることができたカシミール門には、大反乱当時のものとされる弾痕らしきものが残っていた。独立後一時は観光の対象となっていた「第一次インド独立戦争」を記念する「メモリアル」としての史蹟や建造物も、この頃はやや見捨てられた感がある。もし、リッジ北部を走るラーニー・ジャーンスィー・ロードを通る機会があれば、「フラッグ・タワー(国旗掲揚塔)」をはじめ「ピール・ガーイブ」「ヒンドゥー・ラオ邸」などの遺蹟を見てほしい。 -
Nicholson Cemetery ニコルソン墓地
デリー包囲戦で亡くなったイギリス人を埋葬するために1857年に造営された墓地。 -
Grave of John Nicholson
イギリス東インド会社軍の准将、
ジョン・ニコルソン(John Nicholson)の墓。
ニコルソン准将はデリー包囲戦の戦闘中に反乱軍の銃撃を受けて瀕死の重傷を負い、1857年9月23日に戦死した(満34歳没)。 -
Flagstaff Tower
丘の上に建つ信号旗を掲揚する塔。
デリーを見下ろす丘(ridge:リッジ)は戦略上の要所であり、イギリス軍と反乱軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。丘の尾根道にはデリー包囲戦の戦跡が点在している。
長崎 暢子『インド大反乱一八五七年』
(ちくま学芸文庫、2022年*)より引用
*1981年に中公新書から刊行された新書版を文庫版化したもの。
現在そのあたりを歩くと、建築物もそのころとまったく変わらず四つしかない。国旗掲揚塔(フラッグ・スタッフ・タワー)、古いモスク、こわれた物見台、それに今は病院となったヒンドゥー・ラーオ邸である。四つの建物は時々に両軍の拠点となり、弾痕は古い物見台にはとりわけ生々しい。いや、そのころより、ただ一つ増えた建築物がある。それがイギリスが建てた黒い反乱鎮圧記念塔である。 -
Mutiny Memorial
インド大反乱記念塔
デリー包囲戦で戦死したイギリス軍の将兵を追悼するため1863年に建てられた記念塔。 -
Pir Ghaib ピール・ガーイブ
荒 松雄『多重都市デリー』
(中公新書、1993年)より引用
スーフィー聖者にまつわる名の「ピール・ガーイブ」の妙な建物については、私自身はトゥグルク朝後期の狩猟宮だと考えているが、天井の奇妙な穴の跡からイギリス人が「天文台」と呼んできた遺蹟だ。いずれも、反乱軍とイギリス・インド軍側が戦った著名な戦場の跡である。 -
Jama Masjid ジャーマー・マスジド
オールドデリーにあるインド最大級のモスク。1656年竣工。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの立案により建てられた。
ここも1857年インド大反乱のデリー包囲戦で反乱軍の拠点となった。
長崎 暢子『インド大反乱一八五七年』
(ちくま学芸文庫、2022年)より引用
デリー市最大のモスクであるジャマー・マスジッドの前までイギリス軍が進攻してくると、白いローブを着て、殉教者のような服装をした夥しい数のムスリムが中から走り出してきて、イギリス人と猛烈に戦い、殺された。白装束の彼らは銃を使わず、太刀を振りかざして戦い、次々と殺されていった。それはまるで儀式の執行のように見えた。これがデリーにおける聖戦士(ガージー)の集団の最後であった。ジャーマー マスジド 寺院・教会
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有料でミナレットの上に登ることができる。
高さ40m。中の螺旋階段をぐるぐる回って登る。
鳥の目で見たモスクのドームは玉ねぎのようだ。 -
ミナレットの上からの眺め
境内にある正方形の洗足池で足を清めて礼拝する。 -
Razia Sultan's Tomb
スルターン・ラズィヤの墓
ここに来る外国人旅行者はインド史の研究者か、かなりの歴史好きだろう。オールドデリーの迷路のような小路の奥の奥にあり、地図アプリを頼りに単身で行くのはやめた方がいい。治安が悪いわけではないが、本能が危険を感じるのだ。ここに行きたければ、現地の事情に通じたインド人ガイドと複数で行動することを強くお勧めする。
私と日本語ガイド(インド人)は、ジャマー・マスジドの南門前でオート三輪を雇い、ラズィヤの墓所まで往復してもらった。オート三輪のドライバーは墓の存在を知らないようだった。
荒 松雄『多重都市デリー』
(中公新書、1993年)より引用
イレトゥミシュの後継スルターンの中には、インド史上でも珍しい女性君主がいた。その名はラズィヤ。結局は権力闘争に敗れた挙句に暗殺される運命を辿ったが、この女帝のものとされる墓の遺蹟が、クトゥブ地区からずっと離れた、のちのムガル城市シャージャハーナーバードの西部に残っている。 -
Sultana Razia (Amar Chitra Katha)
インドで出版されている英語版コミック
「スルターン・ラズィヤ」Kindle版あり。
ラズィヤ(在位1236-1240)は、父親で奴隷王朝第3代君主のイレトゥミシュにより後継者として指名された、デリー・スルターン朝における唯一の女性君主である。
彼女は有能で自尊心が強く男勝りであったがゆえに、朝廷の高官や貴族から妬みや反感を買い、わずか4年で廃位に追い込まれた。王座を奪還するために反乱を企てるが失敗し、敗走する途中で高価な衣服に目がくらんだ農民によって殺害されたという。
●デリー=・スルターン朝の五つの王朝
奴隷王朝(1206~1290)← 今ここ
ハルジー朝(1290~1320)
トゥグルク朝(1320~1413)
サイイド朝(1414~1451)
ロディー朝(1451~1526) -
Karim's Jama Masjid
オート三輪でジャマー・マスジドの南門に戻り、カリームで昼食 -
Mutton Biryani
ここでもビリヤニ。量はHalf (1/2)で注文。期待どおり美味しかった。が、支払いでお釣りに渡された50ルピー紙幣がボロすぎて、夕食の店で受取り拒否された。してやられた! -
Red Fort(Lal Qila)
レッド・フォート(ラール・キラ)再訪
2019年に城内でオープンしたミュージアム群の展示を見るために訪問。レッド フォート 史跡・遺跡
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‘Azaadi Ke Diwane’ museum, dedicated to the unsung heroes of the country’s freedom struggle
インド独立のために戦った知られざる闘士たちを顕彰する「独立闘争博物館」 -
Subhash Chandra Bose museum
スバス・チャンドラ・ボース博物館
ボースを顕彰し、彼の生涯と独立運動の軌跡を展示している。写真はインド国民軍の女性部隊、ジャーンシー王妃聯隊(Rani of Jhansi Regiment)を閲兵するチャンドラ・ボース(1944年に撮影か)。日本占領下のシンガポールで訓練が行われた。
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
彼女たちは、ボースがインド国民軍の最高司令官になった際に創設した女性だけで編成される部隊だった。部隊名を「ラーニー・オブ・ジャーンシー連隊」、すなわち「ジャーンシー王妃連隊」という。そう、『マニカルニカ』のラクシュミー・バーイーの名を冠したのである。(中略)インド独立を達成するには男性だけでなく女性の力も必要だとボースは考えており、多くの女性が戦闘に加わったラクシュミー・バーイーの戦いを強く意識していたのだろう。 -
第二次世界大戦中、スバス・チャンドラ・ボースは亡命中のドイツから潜水艦で日本へ移動することとなった。1943年4月28日、マダガスカル沖でドイツ海軍のUボートから日本海軍の伊29潜水艦へ移乗した際に撮影した集合写真である。
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Yaad-e-Jallian Museum, (museum on the Jallianwala Bagh and World War I)
1919年4月13日、インド北西部パンジャーブ地方アムリットサルのジャリアンワーラー庭園で、ローラット法に反対する集会に集まったインド人の群衆にイギリス軍が発砲し、多数の死傷者が出たアムリットサル事件が発生。第一次世界大戦から事件へ至るまでの社会背景について展示している。
1982年公開の映画『ガンジー』(Gandhi)で、イギリス領インド陸軍のダイヤー准将が率いるグルカ兵(9th Gorkha Rifles)の一個小隊が、群衆へ向けてリー・エンフィールド銃を連射する衝撃的なシーンが描かれている。 -
Museum of 1857
タイトルはヒンディー語のナーガリー文字で「1857 バーラト(インド)」と書かれている。
1857年に勃発したインド大反乱について展示。かつてはセポイの乱とも呼ばれたが、インドでは「反乱( revolt, mutiny )」ではなく第一次独立戦争 '"First War of Independence" と認識されている。 -
画像右の人物は、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世。インド大反乱で反乱軍の最高指導者として擁立された(当時81歳)。デリーにおける反乱が鎮圧されるとイギリス軍に降伏。裁判でイギリス国王への反逆を理由に廃位され、ムガル帝国は終焉。ビルマのラングーンに追放され、配流先で亡くなった(満87歳没)。
左の人物はインド大反乱の指導者の一人であるナーナー・サーヒブ。イギリスに併合されたマラーター王国最後の宰相の養子。養父の死亡後、失権の原理により年金受給権の相続を否認したイギリス東インド会社を恨んでいたとのこと。各地を転戦してイギリス軍と戦った。 -
画像左の人物は、イギリスに併合された旧アワド藩王国の王妃ハズラト・マハル。主都ラクナウでシパーヒーが蜂起して樹立した反乱政権で指導的役割を果たした。
右側の女性は、最も有名な抗英のヒロイン、ジャーンシーの王妃ラクシュミー・バーイーである。 -
Philately Gallery 郵趣ギャラリー
Rani of Jhansi Laxmi Bai-Freedom Fighter
城内にインドの郵便切手を展示するギャラリーが新設されていた。建物の壁のレリーフは、インド大反乱(第一次独立戦争)の勃発から100年を記念して、1957年に発行された切手の図柄、ラクシュミー・バーイーの騎馬像を描いている。 -
125th Birth Anniversary of Netaji Subhas Chandra Bose
2021年に発行されたスバス・チャンドラ・ボース生誕125年記念の切手
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
「強いインド」への指向は歴史をめぐる動向にも表れている。インド独立運動の指導者、スバス・チャンドラ・ボースを再評価する動きが活発になっているのはその傾向を象徴するものと言える。 -
Diwan-i-Khas in the Red Fort
ディワーニ・カース 貴賓謁見殿
宮原 辰夫『ムガル建築の魅力』
(春風社、2019年)より引用
内謁殿(ディーワーネ・ハース)の美しく彩色された広間の天井下の壁の角には、ペルシア語詩人アミール・フスロー(1253-1325)の有名な詩、「もしこの地上に楽園があるなら、それはここなり、ここなり、ここなり」がペルシア語で刻まれている。内謁殿には、光輝く天国そのものを表すための隠喩的な技法が随所に見られる。 -
ディワーニ・カースの内部
欄間(らんま)にペルシア語の詩が象嵌(ぞうがん)細工で刻まれているとのことだが、外側からは見えなかった。建物の中に入ることはできないが、内側から見れば欄間に刻まれた詩文が読みとれるかもしれない。
荒 松雄『多重都市デリー』
(中公新書、1993年)より引用
ラール・キラの中では最も華麗な宮殿ディーワーネ・ハースの四周の欄間に、一字一字確かめながら辿るペルシア語の詩文は予想外に読み易く、金色の文様に彩られた白大理石の上の黒大理石の象嵌文字は、私にもはっきりと読みとれる。 -
Humayun's Tomb フマーユーン廟
ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの墓廟。
インド旅行6回目にして初めて訪れた。フマーユーン廟 史跡・遺跡
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ガイドから教わった映えスポットから撮影
斜めから見てもシンメトリーな建築 -
ギャラリーに展示されていた空撮写真
ボードの上に建物が載っているようだ。
フランシス・ロビンソン(著)、小名康之(監修)
『ムガル皇帝歴代誌』
( 創元社、2009年)より引用
(1857年インド大反乱のデリー包囲戦で)イギリス軍がデリーに侵攻したとき、皇帝の家族は城壁から8キロメートルほど離れたフマーユーン廟へ逃げこんだ。このとき不正規軍の士官ウィリアム・ホドソンが皇帝一家を捕らえる任務を買ってでた。この士官は、彼と交渉したズィナト・マハル皇妃に、投降すれば一族の命は助けてやると約束したといわれている。ウィリアム・ホドソンは皇帝一族を農夫の荷車に乗せて、市の中央にあるチャンドニー・チョークへ運んで行った。(中略)
チャンドニー・チョークに着くと、ホドソンは大声で言った。『人でなしども、出てこい。撃ち殺してやる。』それを聞いた皇子たちは、両手をあげて懇願した。『サーヒブ(ご主人様)、命は助ける約束だったでしょう』。ホドソンはこう答えた。『そんな約束はしていない。ズィナト・マハルには、あの女の息子とおまえたちの父親の命を助けると約束しただけだ』。こうしてムガルの皇子たちは撃ち殺された。 -
Hazrat Nizamuddin Dargah
ハズラト・ニザームッディーン廟
イスラム教チシュティー教団の聖者、ニザームッディーン・アウリヤー(1238-1325)の墓が神聖視され、参詣の対象となっている。
荒 松雄『多重都市デリー』
(中公新書、1993年)より引用
とくに、さきの「デリーの三聖」のダルガーには、サルタナットからムガル時代を経て今日に至るまでの著名な歴史上の人物の墓や、敬虔な信者たちが寄進献納したモスクをはじめ諸種の建造物が残っており、現在もなお、デリーの多くの民衆の人気を集めている。ニザームッディーン アウリアー廟 寺院・教会
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廟の入口。参拝者はここから中に入る。建物の外壁や内部はきらびやかな装飾が施されている。
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Nizamuddin Auliya Qawwali
境内で宗教賛歌カッワーリーの演奏が始まったので、大理石の床に座って鑑賞した。ハルモニウムの調べと歌唱に合わせた手拍子を聴いていると、なんだか陶酔感が湧いてくる。カッワーリーの生演奏を聴くのは、ハイデラバードのファラクヌマパレスに泊まった時以来だ。
ハイデラバードの旅(2016年12月)
https://4travel.jp/travelogue/11943585 -
ハズラト・ニザームッディーン廟へ通じる参道
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本によると「モラダバード・ビリヤニを出す店」がニザームッディーン廟の近くにあるらしいが、ネットで検索してもこれといった店が見当たらない。"Muradabadi Shahi Biryani Nizamuddin" という店に当たりをつけて、ガイドにリクエストして案内してもらった。メニューにモラダバード・ビリヤニはある…でも何かここじゃない気がする。
笠井 亮平『インドの食卓
そこに「カレー」はない』
(ハヤカワ新書、2023年)より引用
デリーのニザムッディーンというムスリムが多い地区でモラダバード・ビリヤニを出す店があると聞き、元同僚の友人とともに足を運んだ。お目当ての人気店は見つからなかったのだが、ビリヤニを出す店がいくつも軒を連ねているエリアがあった。客の入りが良い店に入り、チキンビリヤニを注文してみた。 -
お店のメニュー
迷わず Muradabadi Chicken Biryani を注文。
ビリヤニ 太郎
『魅惑のスパイスごはん ビリヤニ』
(自由国民社、2023年)より引用
モラダバードチキンビリヤニ
インドの首都デリー近くの街、モラダバードで食べられているお肉の出汁をベースにしていて、オレンジ色のお米が鮮やかなビリヤニ。
デリーでもこのビリヤニを出しているお店が多数あり、インドで生活していた時は、毎日のように食べていたお気に入りのビリヤニ。 -
Muradabadi Chicken Biryani
白いビリヤニが出てきた。Quarter (1/4)量にしたら少なかった。味は…なんかフツー。わざわざ食べに行くほどでもないような気がするが…店のセレクトを間違えたか?
支払時に50ルピー札を使おうとしたら、紙幣がボロすぎて受取りを拒否された。昼食をとったカリームでお釣りに受け取った紙幣だ。100円にも満たない額なので諦めもつくが…なんか悔しい。ICT先進国インドの技術力で外国人旅行者が使えるスマホ決済アプリを開発してほしいものだ。
食後、大通りまで歩いて迎えの車を待っていると、物乞いの少年が近寄ってきた。小さな手を出してお金をせびるが、我関せずでガン無視。え!? 冷たい?ドケチ?せからしか。砂に水ば撒いてもしょんなかばい。こげん小さか子どもに物乞いばさせて親は何しょうとね? インド国民の貧困対策はモディ首相の仕事やなかと? あれこれ自問自答している内に専用車が迎えにきた。
<The Imperial New Delhi 泊>
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