2024/12/28 - 2025/01/04
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Fúgāngrénさん
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日本人旅行者が訪れる観光地としてはマイナーな、ジャーンシー、ダティア、グワーリヤルを廻る。
Day 1 インペリアル・ニューデリーに泊まってパティアラ・ペグで呑む
https://4travel.jp/travelogue/11961404
Day 2 デリー歴史散歩 インド大反乱の史跡めぐり
https://4travel.jp/travelogue/11964346
Day 3 アルワル、階段井戸チャンド・バオリ、ファテープル・シークリー
https://4travel.jp/travelogue/11965959
Day 4 アグラ、マトゥラー、ブリンダーバン
https://4travel.jp/travelogue/11973156
Day 5 カジュラホ、オルチャ
https://4travel.jp/travelogue/11974421
Day 6 ジャーンシー、ダティア、グワーリヤル ← 今ここ
Day 7 デリー、Day 8 帰国
https://4travel.jp/travelogue/11980725
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2025年1月2日(木)
Orchha → Jhansi(約17㎞)
オルチャからジャーンシーへ移動
Jhansi Fort ジャーンシー城
ラクシュミー・バーイーは、藩王国ジャーンシーの王妃(Rani of Jhansi)としてこの城に住まい、夫の死と嫡子不在による失権のため城を追われ、インド大反乱では籠城してイギリス軍と戦った。
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
状況が一変したのは、1857年5月のことだった。(中略)メーラトでシパーヒーによる反乱が勃発し、北インド一帯に燎原の火のごとく広がっていった。交通の要衝だったジャーンシーもその例外ではなく、シパーヒーと民衆が決起してジャーンシー城を襲撃、東インド会社の駐留軍を降伏させると、捕虜を殺害した。ラクシュミーは最初から反乱に参加するつもりはなかったが、東インド会社側からは捕虜殺害への加担を疑われることになった。その数日後、反乱軍はデリーに向かうためジャーンシーから去っていった。そこで民衆から戴かれるかたちで統治者となったのがラクシュミーだったのである。
城主となったラクシュミーの下、1857年8月からしばらくの間、ジャーンシーは比較的安定した状態が続いていた。だが、東インド会社としてはこの状態を放置しておくわけにはいかなかった。翌1858年3月下旬、ヒュー・ローズ少将率いる軍勢がジャーンシー城に攻撃を開始した。ラクシュミーらは、籠城戦で対抗した。ジャンシー砦 建造物
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Grave of Gulam Gaus Khan
グラム・グラウス・カーンの墓
グラム・グラウス・カーンはラクシュミー率いる反乱軍の砲術長としてイギリス軍への砲撃を指揮した。1858年4月のイギリス軍の総攻撃で戦死。亡骸は城内に埋葬されたことが、映画『マニカルニカ ジャーンシーの女王』のエンディングで語られている。 -
Jumping Spot
イギリス軍の総攻撃により落城が迫る中、ラクシュミーは騎乗してこの地点から飛び降りて城外へ脱出したとのこと。
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
ジャーンシー城をめぐる攻防戦では、ラクシュミーは奮戦したものの東インド会社軍の猛攻を受けて脱出を決意する。そのとき彼女は幼い養子ダモーダルを背中にくくりつけ、馬で敵軍の中を突破しようとする。これも必ずといって良いほど伝承で語られるエピソードで、映画でもハイライトのひとつになっていた。 -
先述の Jumping Spot は、画像右手の人が立っている郭(くるわ)の辺り。馬に乗ってこの高さから飛び降りるのはさすがに無理ゲーだが、彼女が城外へ脱出して転戦し、グワーリヤル城を奪取したのは史実である。
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Jhansi → Datia(約28㎞)
ジャーンシーからダティアへ移動
Datia Palace(Bir Singh Palace, Govind Mahal)
ダティア宮殿
別名:ビール・スィン宮殿、ゴーヴィンド宮殿
ダティアは日本人旅行者にとって超マイナーな町で、ネット上の旅行記に出てくることは稀である。私は神谷武夫氏の名著『インド建築案内』とブログ『これでインディア』の旅行記を見て、この宮殿を見たいと思った。 -
ダティア宮殿の入口
入場料の支払いはスマホ決済のみ。現金不可。私の分はガイドのスマホで払ってもらった。外国人旅行者が現金で払おうとしたら門前払いされるのだろうか? 今後、インド各地の観光地でキャッシュレス化が進むことが想定される。ICT先進国インドの技術力で、外国人旅行者が利用できるスマホ決済アプリをリリースしてほしいところだ。 -
立方体を積み上げたような幾何学的な建築。
「迷路空間ダティア城」でネット検索すると、アイソメ図と解説を載せたブログ記事が出てくる。
神谷 武夫『インド建築案内』
(TOTO出版、1996年)より引用
ゴーヴィンド・マンディルと呼ばれる城郭建築は、オルチャのジャハーンギール・マハルと同じくビール・シング・デオによって建てられたので、共通点が多い。イスラム建築の影響も大きく、完全な点対象の正方形プランをしているが、一方マンダラの図形をも思わせる。ここの特異な点は正方形の中庭の中央に高層棟を建てて周囲の棟とブリッジで結んでいることで、変化に富んだヴィスタと空間体験を与えてくれる。 -
インド留学&生活日記『これでインディア』
■ブンデールカンド・ツーリング
(2006年11月11日~15日)
11月14日(火) ジャーンスィー、ダティヤー
より引用
ダティヤーのゴーヴィンド・マンディルは、オールチャーのビール・スィン・デーオにより17世紀に建造された。ビール・スィンは、アクバルの腹心アブル・ファズルを暗殺した後、彼から奪った財宝を資金源にしてこの宮殿を建てたと言われる。その建築はオールチャーのジャハーンギール・マハルと似た四角形プランであるが、中央に楼閣を擁している点でジャハーンギール・マハルよりもユニークな印象を与えている。
(中略)
その堂々たる外観、完成された内部構造、そして美しい壁画の三連コンボにより、一瞬にして僕のお気に入り遺跡ランキングの上位に食い込んだ。それほど一般に知られていないこともポイントが高い。オールチャーやジャーンスィーまで来たら、是非足を伸ばしてみたい遺跡である。 -
Aerial view of Datia Palace
MP州の観光名所写真集に掲載されていたダティア宮殿の空撮写真。空から見れば正方形プランの建築構造がよく分かる。 -
インド独立前のダティア藩王国最後の君主
Govind Singh Judeo Bahadur の像
(在位 1907~1947)
ダティア藩王国(Datia State)
君主の称号:マハーラージャ(Maharaja)
君主の宗教:ヒンドゥー(Hindu)
礼砲(Gun Salute):15発 -
Datia → Gwalior(約75㎞)
ダティアからグワーリヤルへ移動
グワーリヤル市内のレストランで昼食
店のセレクトをガイドにお任せして、
案内されたのがパンジャーブ料理店
Shere Punjab Restaurant
お店の特製ビリヤニ
Shere Punjab Special Biryani をオーダー。
壺に入って出てきたビリヤニは
ナッツが入って香ばしい味わいだった。 -
"Man Mandir" palace, Gwalior Fort
グワーリヤル城の一角をなす
マーン・マンディル宮殿
神谷 武夫『インド建築案内』
(TOTO出版、1996年)より引用
ヒンドゥ王国の城郭宮殿で最も魅力的なのは、マーン・シングが造営したマーン・マンディルであろう。”マンディル”という言葉は普通は寺院をさすが、このように宮殿などの大きな建物にも用いられる。丘のふもとのヒンドラー門をくぐると、町を見下ろす坂道がゆるやかにカーブしながら続き、その上に長さ120mを超える城郭がそそり立ち、バットレスを兼ねた円形の櫓がリズムを与えている。 -
Man Mandir Palace
マーン・マンディル宮殿
壁面の青いタイルが美しい。
世界の歴史〈14〉
『ムガル帝国から英領インドへ』
(中央公論新社、1998年)より引用
チットール城と同様に巨大な岩山に築かれた城で、1232年にスルターン・イレトゥミシュによって征服され、ティムールの侵入までムスリムの支配下にあった。ティムール侵入後の混乱のなかでラージプトのトーマラ朝が独立し、グワーリヤル城を都とした。この王朝でもっとも著名なのはマーン・スィング王(在位1486~1516年)で、貯水池を造って農業を推進し、芸術を保護したが、また彼は作曲家でもあった。次の王はパーニーパットの戦いで戦死している。 -
Courtyard of Man Mandir Palace
マーン・マンディル宮殿の中庭
宮原 辰夫『ムガル建築の魅力』
(春風社、2019年)より引用
歴史上、グワーリヤル城は中世のデリー・スルターン王朝から近代のムガル帝国の時代にかけて、さらにイギリス支配時代を通して、牢獄としてまた刑場としてよく知られた城砦となったのである。時代とともにグワーリヤルの地理的優位性は薄れたが、王(ラージャー)マーン・スィングの建造した宮殿は今なお美しく人々を魅了する。 -
城から望むグワーリヤルの街並み
笠井 亮平「『RRR』で知るインド近現代史」
(文春新書、2024年)より引用
なんとかジャーンシー城脱出に成功したラクシュミーは、その後も戦いを諦めなかった。東インド会社軍との交戦を経て、ジャーンシーから北に約100㎞ほどの場所に位置するグワーリヤルに移った。ここはジャーンシーとは別の藩王国だったが、藩王シンディアはアーグラに逃れていた。グワーリヤルの高台には10世紀から続く要塞があり、15世紀末に当時の王によって巨大な城郭が築かれた。ラクシュミーは軍勢を率いてグワーリヤル城に立てこもったが、東インド会社軍は1858年6月中旬に総攻撃を仕掛け、白兵戦が展開される。三日間にわたる激戦の中、ラクシュミーは奮戦するが、壮絶な戦死を遂げた。 -
Jai Vilas Palace ジャイ・ヴィラース宮殿
グワーリヤル藩王国の君主、ジャヤージー・ラーオ・シンディアによって1874年に建てられた宮殿。1964年より宮殿の西棟と南棟がミュージアムとして一般公開されている。
グワーリヤル藩王国(Gwalior State)
君主の称号:マハーラージャ(Maharaja)
君主の宗教:ヒンドゥー(Hindu)
礼砲(Gun Salute):21発
藩王国の序列は礼砲(Gun Salute)の数で表されており、21発が最高位である。イギリス領インド帝国では、グワーリヤルを含め次の五大藩王国が21発の礼砲を受けていた。
バローダ藩王国
Baroda State
マイソール藩王国
Kingdom of Mysore
グワーリヤル藩王国
Gwalior State
ジャンムー・カシミール藩王国
Kingdom of Jammu and Kashmir
ハイデラバード藩王国
Hyderabad State -
Palanquin gifted by Emperor Shah Alam II
Palanquin (パランキン)=輿(こし)
17世紀後半にムガル皇帝シャー・アーラム2世からシンディア家当主マハーダージー・シンディア(Mahadji Scindia)へ贈られた輿(こし)。
シャー・アーラム2世は、ベンガル太守らと連合してイギリス東インド会社軍と戦って完敗(1764年バクサールの戦い)。イギリス東インド会社にベンガル、オリッサ、ビハール三州のディーワーニー(徴税権と行政権を含む権利)を授与した(1765年アラーハーバード条約)。
1788年7月半ば、ムガル皇帝へ怨恨を抱くアフガン系ローヒラー族の首魁グラーム・カーディルが兵を率いてデリーを占領し、9週間もの間、皇帝とその家族に対し暴虐の限りを尽くした。
ウィリアム・ダルリンプル(著)、小坂恵理(訳)
『略奪の帝国 東インド会社の興亡』下巻
(河出書房新社、2022年)より引用
アフガン兵たちはシャー・アーラムを押し倒すと、目に針を突き刺した。それから地面に押し倒したまま、棒で何度も体を殴り続けた。何か見えるかと、グラーム・カーディルが相手を愚弄するように尋ねると、シャー・アーラムはこう答えた「私とおまえのあいだには、聖なるコーランしか見えない。」一晩じゅう、彼や子供たちや宮廷の女性たちが泣き叫ぶ声が響いた。 -
Royal Procession
マハラジャは象に乗って行進する -
Royal Nuesery
ロイヤルファミリーの子ども部屋 -
Proceeding of Active Service: The officers of the 3rd Gwalior Imperial Sevice Infantry, World War I
第一次世界大戦中、グワーリヤル藩王国の君主は、宗主国イギリスの要請に応じて兵員を戦場へ派遣した。東アフリカ戦線に出征した、イギリス領インド帝国歩兵旅団(Imperial Service Infantry Brigade)第3大隊の半数は、グワーリヤルの歩兵部隊により構成されていた。 -
SS Loyalty 病院船 ロイヤリティ(忠誠)号
第一次世界大戦が勃発すると、グワーリヤル藩王国の君主マードー・ラーオ・シンディア(Madho Rao Scindia:在位 1885-1925)は、中古の汽船を購入して300床のベッドを備えた病院船に改造し、傷病兵の海上輸送を行った。 -
His Highness the Maharaja and the medical staff on board the "Loyalty"
病院船ロイヤリティ号の船上で撮影された、マハラジャと医療スタッフたち。 -
Maharani Gajra Raje's Drawing Room
王妃の書斎
跳ねる虎の剥製 -
Durbar Hall
西洋風の大広間は豪華絢爛 -
Banquet Hall 大宴会場
長テーブルの卓上に敷かれた
環状のレールはいったい…? -
銀製のミニ列車がデキャンタを運び、テーブル上の線路を走る。回転寿司みたいなシステムだな…
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宮殿から退出
宮殿建築とミュージアムはとても見応えがあった。 -
本日の宿
Taj Usha Kiran Palace, Gwalior
ウシャ・キラン・パレス
グワーリヤル藩王国の君主ジャヤージー・ラーオ・シンディア(Jayajirao Scindia)により1880年に建てられた離宮。1980年代後半にホテルへ転用された。先ほど訪れたジャイ・ヴィラース宮殿に隣接している。Taj Usha Kiran Palace, Gwalior ホテル
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♪プォ~
ゲストが到着したことを知らせる
ホルンが鳴り響く。 -
ホテルのスタッフによるおもてなし
歓迎の印の赤いビンディを
額に塗ってくれた。 -
私が泊まった部屋 212号室
アップグレードしてくれたようだ。 -
Washstand 洗面台
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アメニティセット
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部屋の鍵
カードキーとは真逆のごつい南京錠 -
ホテル内のバーに入店
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Royal Ranthambore
インドのブレンデッド・ウイスキー
ロイヤル・ランタンボール -
INDRI
インドのシングルモルト・ウイスキー
インドリ -
酒の肴
Gwalior Kareli Chaat
Crispy Fried Dough, Sweet Yoghurt, Coriander Chutney & Tamarind Date Chutney Toppings
バーで食事するのもいいものだ。 -
グワーリヤル藩王国の君主の肖像写真
藩王国末期のマハラジャ三代
上段
Jayajirao Scindia
在位 1843 – 1886
インド大反乱でラクシュミー・バーイー率いる反乱軍にグワーリヤル城を占拠された(1858年6月)。
ジャイ・ヴィラース宮殿(1874年)、
ウシャ・キラン離宮(1880年)を建てた。
下段左
Madho Rao Scindia
在位 1886 – 1925
義和団事件(1900年)でイギリス領インド帝国軍に従軍して中国に赴き、傷病兵の救護にあたった。
第一次世界大戦では宗主国イギリスに協力して藩王国から兵員を派遣した。
下段右
Jiwajirao Scindia
在位 1925 – 1948
藩王国を統治した最後の君主。
グワーリヤル藩王国はインド・パキスタン分離独立の翌年、インド連邦(インド共和国の前身)へ併合された(1948年)。 -
部屋に戻って就寝。
今回の旅で最後のホテル泊。
明日はデリーに戻って帰国便に乗る。
<Taj Usha Kiran Palace, Gwalior 泊>
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