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堀辰雄・多恵子のお墓は多磨霊園にあります。<br />おまいりしてきました。<br /><br />1939年(昭和14年)頃のことです。堀夫妻が多磨霊園を散歩したとき、辰雄はある墓石が気にいりました。病弱な辰雄が墓石が気にいるというのは、縁起でもない。冗談か本気か。<br />本気だったみたいです。<br /><br />1953年(昭和28年)5月辰雄没。<br />多恵子は福永武彦に頼んで、14年前の墓石を探してもらいました。<br />武彦は学生時代、多恵子にカボチャの肉詰めを山ほど食べさせてもらった恩を忘れず、かどうかは知りませんが、雲をつかむような多恵子の記憶を頼りにその墓を見つけたのです。<br /><br />多恵子はその墓石をモデルにお墓を建て、夫の三回忌に納骨しました。<br />没後2年後の命日ですから、1955年(昭和30年)5月28日です。<br />それから半世紀以上、彼女は堀辰雄の語り部でありました。亡くなったのは2010年(平成22年)4月、つい最近です。<br />辰雄に寄り添うように睡っております。<br />(以上「来し方の思いで」P72、「野ばらの匂う散歩道」P94、など)<br /><br />参考資料は「堀辰雄紀行1 信濃追分、By夫19歳の旅」<br />https://4travel.jp/travelogue/11804894<br />にまとめてあります。<br />引用では僭越ながら敬称を略させて頂きます。<br /><br />投稿日:2024/11/27<br />

堀辰雄紀行 フィールドノート2 マロニエの並木と辰雄、多恵子

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2024/11/09 - 2024/11/09

73位(同エリア719件中)

しにあの旅人

しにあの旅人さん

堀辰雄・多恵子のお墓は多磨霊園にあります。
おまいりしてきました。

1939年(昭和14年)頃のことです。堀夫妻が多磨霊園を散歩したとき、辰雄はある墓石が気にいりました。病弱な辰雄が墓石が気にいるというのは、縁起でもない。冗談か本気か。
本気だったみたいです。

1953年(昭和28年)5月辰雄没。
多恵子は福永武彦に頼んで、14年前の墓石を探してもらいました。
武彦は学生時代、多恵子にカボチャの肉詰めを山ほど食べさせてもらった恩を忘れず、かどうかは知りませんが、雲をつかむような多恵子の記憶を頼りにその墓を見つけたのです。

多恵子はその墓石をモデルにお墓を建て、夫の三回忌に納骨しました。
没後2年後の命日ですから、1955年(昭和30年)5月28日です。
それから半世紀以上、彼女は堀辰雄の語り部でありました。亡くなったのは2010年(平成22年)4月、つい最近です。
辰雄に寄り添うように睡っております。
(以上「来し方の思いで」P72、「野ばらの匂う散歩道」P94、など)

参考資料は「堀辰雄紀行1 信濃追分、By夫19歳の旅」
https://4travel.jp/travelogue/11804894
にまとめてあります。
引用では僭越ながら敬称を略させて頂きます。

投稿日:2024/11/27

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 多磨霊園西2号通り。辰雄・多恵子の墓はこの道路に面しています。<br />この並木は多磨霊園では珍しくマロニエ(トチノキ)です。多恵子がここに辰雄のお墓を作ろうと思ったきっかけは、このマロニエの並木と、近くにあった馬酔木(アシビ)の灌木でした。<br /><br />★もうそれだけでいいような気がして、其処に墓を建てることに決めてしまった。★<br />(葉鶏頭P124)<br /><br />マロニエはパリの街路樹の代表格。堀辰雄が訪れることのなかったパリです。「辰雄に見せてやりたかった」と多恵子は思ったのでありましょう。<br />

    多磨霊園西2号通り。辰雄・多恵子の墓はこの道路に面しています。
    この並木は多磨霊園では珍しくマロニエ(トチノキ)です。多恵子がここに辰雄のお墓を作ろうと思ったきっかけは、このマロニエの並木と、近くにあった馬酔木(アシビ)の灌木でした。

    ★もうそれだけでいいような気がして、其処に墓を建てることに決めてしまった。★
    (葉鶏頭P124)

    マロニエはパリの街路樹の代表格。堀辰雄が訪れることのなかったパリです。「辰雄に見せてやりたかった」と多恵子は思ったのでありましょう。

  • 多恵子が見たマロニエの並木は1955年(昭和30年)ごろです。それから70年、代も変わっているでしょう。新しい若木も植えられていました。<br />パリのマロニエと同じような、ウチワのような大きな葉でした。<br />

    多恵子が見たマロニエの並木は1955年(昭和30年)ごろです。それから70年、代も変わっているでしょう。新しい若木も植えられていました。
    パリのマロニエと同じような、ウチワのような大きな葉でした。

  • 落ちていた実。<br />パリのマロニエの実より小さい。<br />マロニエの和名はトチノキだそうです。マロニエと同じとなっていますが、厳密には少し違うのではないか。<br /><br />堀辰雄が結核で亡くなったのは1953年(昭和28年)です。その後の飛躍的な医療の進歩はもうすぐでした。<br />虚しいifですが、結核を乗り越えたら、堀辰雄はパリを訪れることができたかもしれません。<br />初夏、白、ピンク、赤の花を咲かせ、秋には大きな実がなります。<br />悪ガキどもが学校の行き帰りにぶつけ合って遊びます。<br />それを見たでしょう<br /><br />一書に曰く、<br />マロニエって、シャンソンしてますが、栃の実です。<br />今回、日本の栃の実をしみじみ見ましたけれど、小さいです。<br />多磨墓地の栃が小さいのかもですが、フランスのは、そこらにある、なんの手入れもされていない野良マロニエでも、大きいです。<br />そして、ぴかぴか。<br />マロニエって、私たちのフランス生活で、最も身近にある樹木でした。<br /><br />殻には、栗と違って針はありません。その殻の中に、栗のように二つか、三つの実が入っているのですが、これが、いい色なんですよ。ピカピカしてるし。<br />おいしそう~。<br />って、拾っちゃいましたよ。わたし。そして、ゆでちゃいました。<br />ここまで、問題なく、おいしそう。<br />でね。もちろん味見は、by夫。<br />あの人は、珍しいものには、飛びつくタイプ。<br />誓って申しますが、無理強いはしませんでした。<br />、、、死にかかってました。ゲーゲー、吐いていました。<br />アクが強いんですね。<br />結婚してすぐの貧乏時代のことです。<br /><br />マロニエは、救荒食物で、飢饉の時、あくを抜いて食べるそうです。<br />冬になると、パリの街角で、マロンショーといって、焼き栗を売っています。けれど、栗の名前は、マロンではなくシャテーニュです。<br /><br />菊芋という黄色の花がありますが、あれも救荒食物です。<br />フランス人のおばあちゃんが、娘時代には、食べたわよ~。と言っていました。<br />戦時下、食べ物に苦労したのは、日本ばかりじゃないんだと知りました。<br />そして、フランスに、マロニエの並木があるのは、そういうときに備えてだとも教えて貰いました。<br />そう言えば、パリ近郊の森には、栗が植えてあります。<br />By妻<br /><br />これ、覚えています。<br />なめたら、舌がしびれました。慌てて吐き出しましたが、お口の中全体がしびれました。何回もうがいしましたが、しばらくピリピリ。<br />ただ、これ、私だけではありません。パリに住み着いた日本人は、何人も同じことをしています。<br />そもそもマロン・グラッセというお菓子がいけない。だれだって、ナマのマロン・グラッセだと思うでしょう。<br /><br />馬酔木の花<br />▲▼▲▼▲<br /><br />アシビは辰雄が大好きな花でした。<br /><br />1943年(昭和18年)4月、辰雄と多恵子は二人で奈良を旅しました。<br />この旅をもとに書かれたのが「大和路」の一章「浄瑠璃寺の春」です。<br />ここに馬酔木(あしび)の花が出てきます。<br /><br />★どこか犯しがたい気品がある。それでゐて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人にみせたいやうな、いじらしい風情をした花だ。★<br />(筑摩3巻P169)<br /><br />無邪気でかわゆい、アラサーの多恵子さんが描かれています。<br />辰雄が本尊の九体仏や三重塔を眺めている間、案内してくれた寺の娘と多恵子は、寺の名物の柿や、このあたりでは魚など食べたことはないとか、ワラビばかり食っているとか、筍はおししいとか、辰雄のことなぞ忘れたみたいに、夢中になっておしゃべりしているのです。<br /><br />多恵子が登場する数少ない堀辰雄作品の一つです。<br />ここに出てくる馬酔木の花ですから、多恵子にはひときわ思い出深い花だったのです。<br /><br />一書に曰く、<br />馬酔木の花って、大好きな花です。<br />万葉人が愛した花というだけで、胸キュンです。<br />多恵子さん、趣味あうわ~<br />By妻<br />

    落ちていた実。
    パリのマロニエの実より小さい。
    マロニエの和名はトチノキだそうです。マロニエと同じとなっていますが、厳密には少し違うのではないか。

    堀辰雄が結核で亡くなったのは1953年(昭和28年)です。その後の飛躍的な医療の進歩はもうすぐでした。
    虚しいifですが、結核を乗り越えたら、堀辰雄はパリを訪れることができたかもしれません。
    初夏、白、ピンク、赤の花を咲かせ、秋には大きな実がなります。
    悪ガキどもが学校の行き帰りにぶつけ合って遊びます。
    それを見たでしょう

    一書に曰く、
    マロニエって、シャンソンしてますが、栃の実です。
    今回、日本の栃の実をしみじみ見ましたけれど、小さいです。
    多磨墓地の栃が小さいのかもですが、フランスのは、そこらにある、なんの手入れもされていない野良マロニエでも、大きいです。
    そして、ぴかぴか。
    マロニエって、私たちのフランス生活で、最も身近にある樹木でした。

    殻には、栗と違って針はありません。その殻の中に、栗のように二つか、三つの実が入っているのですが、これが、いい色なんですよ。ピカピカしてるし。
    おいしそう~。
    って、拾っちゃいましたよ。わたし。そして、ゆでちゃいました。
    ここまで、問題なく、おいしそう。
    でね。もちろん味見は、by夫。
    あの人は、珍しいものには、飛びつくタイプ。
    誓って申しますが、無理強いはしませんでした。
    、、、死にかかってました。ゲーゲー、吐いていました。
    アクが強いんですね。
    結婚してすぐの貧乏時代のことです。

    マロニエは、救荒食物で、飢饉の時、あくを抜いて食べるそうです。
    冬になると、パリの街角で、マロンショーといって、焼き栗を売っています。けれど、栗の名前は、マロンではなくシャテーニュです。

    菊芋という黄色の花がありますが、あれも救荒食物です。
    フランス人のおばあちゃんが、娘時代には、食べたわよ~。と言っていました。
    戦時下、食べ物に苦労したのは、日本ばかりじゃないんだと知りました。
    そして、フランスに、マロニエの並木があるのは、そういうときに備えてだとも教えて貰いました。
    そう言えば、パリ近郊の森には、栗が植えてあります。
    By妻

    これ、覚えています。
    なめたら、舌がしびれました。慌てて吐き出しましたが、お口の中全体がしびれました。何回もうがいしましたが、しばらくピリピリ。
    ただ、これ、私だけではありません。パリに住み着いた日本人は、何人も同じことをしています。
    そもそもマロン・グラッセというお菓子がいけない。だれだって、ナマのマロン・グラッセだと思うでしょう。

    馬酔木の花
    ▲▼▲▼▲

    アシビは辰雄が大好きな花でした。

    1943年(昭和18年)4月、辰雄と多恵子は二人で奈良を旅しました。
    この旅をもとに書かれたのが「大和路」の一章「浄瑠璃寺の春」です。
    ここに馬酔木(あしび)の花が出てきます。

    ★どこか犯しがたい気品がある。それでゐて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人にみせたいやうな、いじらしい風情をした花だ。★
    (筑摩3巻P169)

    無邪気でかわゆい、アラサーの多恵子さんが描かれています。
    辰雄が本尊の九体仏や三重塔を眺めている間、案内してくれた寺の娘と多恵子は、寺の名物の柿や、このあたりでは魚など食べたことはないとか、ワラビばかり食っているとか、筍はおししいとか、辰雄のことなぞ忘れたみたいに、夢中になっておしゃべりしているのです。

    多恵子が登場する数少ない堀辰雄作品の一つです。
    ここに出てくる馬酔木の花ですから、多恵子にはひときわ思い出深い花だったのです。

    一書に曰く、
    馬酔木の花って、大好きな花です。
    万葉人が愛した花というだけで、胸キュンです。
    多恵子さん、趣味あうわ~
    By妻

  • 出典:堀辰雄生誕百年P34<br />馬酔木の花ですが、11月ですからシーズンオフです。でも周囲にそれらしき灌木はありません。<br />この写真は辰雄の納骨の日のようです。墓石の背後には灌木が茂っております。<br />1960年では周囲は現在にようにお墓が建て込んではいなくて、木々がいっぱいあったようです。その後墓地の拡大で、なくなったのでありましょう。<br />なお、二人の人物は右が福永武彦、左が中村真一郎。<br />この場には室生犀星もいたはずです。<br /><br />一書に曰く、<br />堀辰雄と多恵子のお墓です。<br />いいお墓でした。わたしは、後期高齢者で、産院よりもお墓が近いのですが、自分が入るところは、どこがいいとか、婚家の墓には、絶対入らないとか、考えたこともないし、墓の善し悪しなんて考えたこともなかったです。<br />それなのにこの堀辰雄と多恵子のお墓は、いいなあ。<br />多恵子さん、好きだわ。<br />という思いがあふれました。<br />By妻<br />

    出典:堀辰雄生誕百年P34
    馬酔木の花ですが、11月ですからシーズンオフです。でも周囲にそれらしき灌木はありません。
    この写真は辰雄の納骨の日のようです。墓石の背後には灌木が茂っております。
    1960年では周囲は現在にようにお墓が建て込んではいなくて、木々がいっぱいあったようです。その後墓地の拡大で、なくなったのでありましょう。
    なお、二人の人物は右が福永武彦、左が中村真一郎。
    この場には室生犀星もいたはずです。

    一書に曰く、
    堀辰雄と多恵子のお墓です。
    いいお墓でした。わたしは、後期高齢者で、産院よりもお墓が近いのですが、自分が入るところは、どこがいいとか、婚家の墓には、絶対入らないとか、考えたこともないし、墓の善し悪しなんて考えたこともなかったです。
    それなのにこの堀辰雄と多恵子のお墓は、いいなあ。
    多恵子さん、好きだわ。
    という思いがあふれました。
    By妻

  • 我が家のお墓も多磨墓地にあります。どれもこれも似たようなお墓で、これまで何十回と行っていますが、迷わずにたどり着けたことは一度もありません。<br /><br />一書に曰く、<br />堀辰雄のお墓、ありましたよ。<br />見つけられないかと思っていたのに、見つけました。<br />ビックリだわ。しかもわがby家のお墓と近いの。<br />お隣じゃないけれど、わりかた近いところ。<br />うふふふ、なんかうれしいです。<br />えっ、だって、多磨墓地って広いのよ。ぜったい迷子になっちゃうくらい。<br />私なんて、一人で来たとき、しっかり迷子になって。<br />あ~もう、知らない。もう、こうなったら、似た名前のお墓に、花手向けて帰っちゃおうか。と思ったくらい広い。<br />いやいや、本気ですよ。そしたらね。舅さんが、さすがにひどいと思ったんじゃないですかね。迎えに来てくれたんですよ。<br />って、舅さんのお墓参りですよ。<br />夏だったから、暑いし、歩き回ってくたびれるし。<br />もういいやって、振り返ったら、<br />うちのお墓がありました!<br />あれは、迎えに来たんだわ。ね。そうとしか思えない。<br />舅さんは、魂になっても、ハラハラドキドキしたことでしょうよ。<br />すみません。できの悪い嫁で。<br />By妻<br /><br />堀夫妻のお墓の番地は12区1種3側と分かっています。多磨霊園の有名人一覧とかいうブログに載っています。<br />12区1種までは車で行きました。ここから歩きました。<br />「どっちみち分からないんだよね」とぶーたれていたら、<br />

    我が家のお墓も多磨墓地にあります。どれもこれも似たようなお墓で、これまで何十回と行っていますが、迷わずにたどり着けたことは一度もありません。

    一書に曰く、
    堀辰雄のお墓、ありましたよ。
    見つけられないかと思っていたのに、見つけました。
    ビックリだわ。しかもわがby家のお墓と近いの。
    お隣じゃないけれど、わりかた近いところ。
    うふふふ、なんかうれしいです。
    えっ、だって、多磨墓地って広いのよ。ぜったい迷子になっちゃうくらい。
    私なんて、一人で来たとき、しっかり迷子になって。
    あ~もう、知らない。もう、こうなったら、似た名前のお墓に、花手向けて帰っちゃおうか。と思ったくらい広い。
    いやいや、本気ですよ。そしたらね。舅さんが、さすがにひどいと思ったんじゃないですかね。迎えに来てくれたんですよ。
    って、舅さんのお墓参りですよ。
    夏だったから、暑いし、歩き回ってくたびれるし。
    もういいやって、振り返ったら、
    うちのお墓がありました!
    あれは、迎えに来たんだわ。ね。そうとしか思えない。
    舅さんは、魂になっても、ハラハラドキドキしたことでしょうよ。
    すみません。できの悪い嫁で。
    By妻

    堀夫妻のお墓の番地は12区1種3側と分かっています。多磨霊園の有名人一覧とかいうブログに載っています。
    12区1種までは車で行きました。ここから歩きました。
    「どっちみち分からないんだよね」とぶーたれていたら、

  • 一発で着きました!

    一発で着きました!

  • ♪

  • これも多恵子さんのお引き合わせ。<br /><br />一書に曰く、<br />墓石は、うすい桃色というか、ピンクの御影石です。<br />そのピンクの具合が、とてもよくて、派手すぎず地味すぎず、ほんのりとしていて、オシャレで、いかにもな色合いなのです。<br />多恵子さんは、この色の石を、よっぽど探したのだろうな。<br />By妻<br />

    これも多恵子さんのお引き合わせ。

    一書に曰く、
    墓石は、うすい桃色というか、ピンクの御影石です。
    そのピンクの具合が、とてもよくて、派手すぎず地味すぎず、ほんのりとしていて、オシャレで、いかにもな色合いなのです。
    多恵子さんは、この色の石を、よっぽど探したのだろうな。
    By妻

  • 中央に堀辰雄の墓碑。

    中央に堀辰雄の墓碑。

  • 右に多恵子。<br />「多恵」が本名「多恵子」はペンネームです。<br />実にシンプルな墓碑銘です。2人とも氏名と、生年-没年だけ彫ってあります。<br />

    右に多恵子。
    「多恵」が本名「多恵子」はペンネームです。
    実にシンプルな墓碑銘です。2人とも氏名と、生年-没年だけ彫ってあります。

  • 背面。なにもなし。<br />両側面も同じ。<br />

    背面。なにもなし。
    両側面も同じ。

  • 一書に曰く、<br />堀多恵子という、堀辰雄を支え続けた人は、きっと、控えめだけれど明朗な、所帯じみない、いつまでもお嬢さん気質を残したひとだったのではないでしょうかね。よく笑ったんじゃないかな。<br />そういう色のお墓でした。<br />辰雄の墓石と並んで、少し小さく多恵子の墓石でした。<br />一緒ではありませんでした。<br />自立した人格だということでしょうか。<br />何時でも何処でもくっついているby夫は、なぜだろうね。と不思議がっております。<br />By妻<br /><br />普通のお墓ですとお線香立てがあるはずですが、なし。<br />墓石の背後によくある卒塔婆立てもなし。多恵子はクリスチャンですから、ないのは当たり前ですが、辰雄の家は浄土宗のはずです。<br /><br />辰雄は生前から戒名はいらないと言っていました。師の芥川龍之介に倣ったそうです。こういうものが好きではなかったらしい。<br />「風立ちぬ」や「菜穂子」を書いた作家であることを示す何物もありません。<br />清々しいお墓でした。<br />

    一書に曰く、
    堀多恵子という、堀辰雄を支え続けた人は、きっと、控えめだけれど明朗な、所帯じみない、いつまでもお嬢さん気質を残したひとだったのではないでしょうかね。よく笑ったんじゃないかな。
    そういう色のお墓でした。
    辰雄の墓石と並んで、少し小さく多恵子の墓石でした。
    一緒ではありませんでした。
    自立した人格だということでしょうか。
    何時でも何処でもくっついているby夫は、なぜだろうね。と不思議がっております。
    By妻

    普通のお墓ですとお線香立てがあるはずですが、なし。
    墓石の背後によくある卒塔婆立てもなし。多恵子はクリスチャンですから、ないのは当たり前ですが、辰雄の家は浄土宗のはずです。

    辰雄は生前から戒名はいらないと言っていました。師の芥川龍之介に倣ったそうです。こういうものが好きではなかったらしい。
    「風立ちぬ」や「菜穂子」を書いた作家であることを示す何物もありません。
    清々しいお墓でした。

  • 両側のお花立てだけが大きかった。<br />辰雄は花が好きで、詳しかったそうです。<br />

    両側のお花立てだけが大きかった。
    辰雄は花が好きで、詳しかったそうです。

  • お墓には一面小石が敷いてあります。<br />最初は芝を植えたそうです。ところが雑草に覆い尽くされ、「思いあまって芝生を剥がし、小さい石を敷きつめて貰った」<br />(葉鶏頭P131)<br /><br />一書に曰く、<br />さっぱりと、線香立てのない、なのに大きな花立てのあるお墓でした。<br />自分の考えを持った人。常識とかにながされない人だったのでしょう。<br />夫を支え続けた人生だったけれど、堀辰雄だから支えたのよ。<br />そこらの男なら支えなかったのよ。って感じです。<br />あ、そもそも、そこらの男とは結婚しないか、この人は。<br /><br />本当に、いいお墓でした。<br />次は、ちゃんとお花を持って、お参りします。<br />友だちになりたかったなあ。多恵子さん。<br />By妻<br />

    お墓には一面小石が敷いてあります。
    最初は芝を植えたそうです。ところが雑草に覆い尽くされ、「思いあまって芝生を剥がし、小さい石を敷きつめて貰った」
    (葉鶏頭P131)

    一書に曰く、
    さっぱりと、線香立てのない、なのに大きな花立てのあるお墓でした。
    自分の考えを持った人。常識とかにながされない人だったのでしょう。
    夫を支え続けた人生だったけれど、堀辰雄だから支えたのよ。
    そこらの男なら支えなかったのよ。って感じです。
    あ、そもそも、そこらの男とは結婚しないか、この人は。

    本当に、いいお墓でした。
    次は、ちゃんとお花を持って、お参りします。
    友だちになりたかったなあ。多恵子さん。
    By妻

  • 名刺受け。<br />「あれね・・・」By妻<br />名刺だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったらしい。<br />こんなのも。<br /><br />★もっとお墓参りを度々して、よくお掃除をしておいてください。★<br />(葉鶏頭P131)<br /><br />おおきなお世話です。<br />

    名刺受け。
    「あれね・・・」By妻
    名刺だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったらしい。
    こんなのも。

    ★もっとお墓参りを度々して、よくお掃除をしておいてください。★
    (葉鶏頭P131)

    おおきなお世話です。

  • この日はお墓はきれいでしたが、枯れたお花が何本かありました。<br />By妻はそれを片付けました。<br />

    この日はお墓はきれいでしたが、枯れたお花が何本かありました。
    By妻はそれを片付けました。

  • 堀辰雄墓碑銘。<br />この文字は辰雄自筆です。<br />(野ばらの匂う散歩道P94)<br /><br />1943年(昭和18年)4月の二人で行った奈良旅行。途中木曽福島のつたやに一泊しました。宿のおかみさんに頼まれて立派な画集に書いたのが、<br /><br />★<br />春の大和に往って<br />馬酔木の花ざかり<br />を見ようとして途中<br />木曽路をまわって来<br />たら思ひがけず雪が<br />ふってゐた<br />昭和十八年四月十八日 堀辰雄<br />★<br />

    堀辰雄墓碑銘。
    この文字は辰雄自筆です。
    (野ばらの匂う散歩道P94)

    1943年(昭和18年)4月の二人で行った奈良旅行。途中木曽福島のつたやに一泊しました。宿のおかみさんに頼まれて立派な画集に書いたのが、


    春の大和に往って
    馬酔木の花ざかり
    を見ようとして途中
    木曽路をまわって来
    たら思ひがけず雪が
    ふってゐた
    昭和十八年四月十八日 堀辰雄

  • 堀辰雄自筆です。出典「常設展示図録P4」<br />後日(2000年頃、平成12年)多恵子はこの宿を訪れ、きれいに表装された掛け軸を見たそうです。<br />(野ばらの匂う散歩道P44)<br /><br />★あまり墨でものを書いたり、色紙だとか短冊だとかにいろいろなことを書くことのなかった人なので、なんかこれは非常に貴重なものになってしまって復刻されております。★<br />(野ばらの匂う散歩道P30)<br /><br />この署名を横書きにしたのが、墓碑銘でしょう。<br />墓碑銘の「辰雄」はやや不鮮明ですが、「堀」は同じ字に見えます。<br />

    堀辰雄自筆です。出典「常設展示図録P4」
    後日(2000年頃、平成12年)多恵子はこの宿を訪れ、きれいに表装された掛け軸を見たそうです。
    (野ばらの匂う散歩道P44)

    ★あまり墨でものを書いたり、色紙だとか短冊だとかにいろいろなことを書くことのなかった人なので、なんかこれは非常に貴重なものになってしまって復刻されております。★
    (野ばらの匂う散歩道P30)

    この署名を横書きにしたのが、墓碑銘でしょう。
    墓碑銘の「辰雄」はやや不鮮明ですが、「堀」は同じ字に見えます。

  • 出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録<br />これは辰雄21才、軽井沢つるや旅館から父松吉に出した葉書です。<br />字がうまいとは思えない。<br /><br />↑「お前が言うな」とBy妻が叫んでおります。<br /><br />これは以前「堀辰雄紀行 軽井沢1 つるや旅館の青春」で紹介した葉書です。<br />4トラベラーkummingさんのコメントによると、<br /><br />★文字を見て俄然親近感抱きました(達筆からは程遠い、むしろポップな字体♪)★<br /><br />「ポップな字体」こういう褒め方もあるのか。<br /><br />★私は(辰雄は)そんなに下手な字だと思わないのですが・・・★<br />(野ばらの匂う散歩道P43、P44)<br /><br />と多恵子は言っています。<br />ということは字が下手だとみなさんに言われていた。<br /><br />辰雄は揮毫するのがキライだったようです。<br />堀辰雄の気持ち分かります。<br />しかしさすが夫婦、多恵子さん夫をたてるのを忘れない。<br />

    出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録
    これは辰雄21才、軽井沢つるや旅館から父松吉に出した葉書です。
    字がうまいとは思えない。

    ↑「お前が言うな」とBy妻が叫んでおります。

    これは以前「堀辰雄紀行 軽井沢1 つるや旅館の青春」で紹介した葉書です。
    4トラベラーkummingさんのコメントによると、

    ★文字を見て俄然親近感抱きました(達筆からは程遠い、むしろポップな字体♪)★

    「ポップな字体」こういう褒め方もあるのか。

    ★私は(辰雄は)そんなに下手な字だと思わないのですが・・・★
    (野ばらの匂う散歩道P43、P44)

    と多恵子は言っています。
    ということは字が下手だとみなさんに言われていた。

    辰雄は揮毫するのがキライだったようです。
    堀辰雄の気持ち分かります。
    しかしさすが夫婦、多恵子さん夫をたてるのを忘れない。

  • 多恵子の墓碑銘も自筆です。

    多恵子の墓碑銘も自筆です。

  • これは軽井沢のつるや旅館で見つけた「野ばらの匂う散歩道」

    これは軽井沢のつるや旅館で見つけた「野ばらの匂う散歩道」

  • その表紙裏に多恵子の直筆署名がありました。2003年(平成15年)7月30日発行です。その直後の署名として、多恵子90才。

    その表紙裏に多恵子の直筆署名がありました。2003年(平成15年)7月30日発行です。その直後の署名として、多恵子90才。

  • 拡大してみました。墓碑銘の「堀」は間違いなく彼女の字です。<br />多恵子は晩年書道を本格的に始めました。直筆署名は多いと思いますので、そのどれかを、ご遺族が使ったのでありましょう。<br /><br />晩年は信濃追分駅近く、薪ストーブのある瀟洒な家に、一年を通して住んでおりました。<br /><br />★死ぬときは追分で死にたい。私、娘に言うんですよ。娘が高崎にいるので、病気になって高崎の第一病院に入院することになっても、「もし死んだら、必ずここに連れて帰ってちょうだい」って言ってるんです。追分に連れてきて、追分でお葬式、お葬式はしなくてもいいけれど、「とにかく一応は追分の家に寝かしてちょうだいよ」と頼んであります。★、<br />(山ぼうしの咲く庭でP287)<br /><br />新聞の訃報によれば、自宅で死去となっています。希望通りでした。<br />2010年(平成22年)4月16日、96才でした。<br />

    拡大してみました。墓碑銘の「堀」は間違いなく彼女の字です。
    多恵子は晩年書道を本格的に始めました。直筆署名は多いと思いますので、そのどれかを、ご遺族が使ったのでありましょう。

    晩年は信濃追分駅近く、薪ストーブのある瀟洒な家に、一年を通して住んでおりました。

    ★死ぬときは追分で死にたい。私、娘に言うんですよ。娘が高崎にいるので、病気になって高崎の第一病院に入院することになっても、「もし死んだら、必ずここに連れて帰ってちょうだい」って言ってるんです。追分に連れてきて、追分でお葬式、お葬式はしなくてもいいけれど、「とにかく一応は追分の家に寝かしてちょうだいよ」と頼んであります。★、
    (山ぼうしの咲く庭でP287)

    新聞の訃報によれば、自宅で死去となっています。希望通りでした。
    2010年(平成22年)4月16日、96才でした。

  • 辰雄の墓石が中央で、多恵子は右端に窮屈そう。<br />多恵子は辰雄の墓石だけを建てました。自分はいずれ同じカロットに入る。<br /><br />★<br />埋骨の日には墓石のカロットの真ん中にたった一つの骨壺を納めた。その日のこと、その墓石の中の様が私の脳裏に刻みつけられて長いこと消えなかった。その場所は広すぎる感じがした。石の蓋をして土をかけたとき、私は、私の骨壺はいつあの隣に納められるのかしらと考えたり、早く並んであげないと淋しいだろうなとも思った。<br />★<br /><br />広すぎるカロットは後日、多恵子が辰雄の母シゲと養父松吉の遺灰を、墨田区円通寺の上條家のお墓から分骨して納めたので、賑やかになりました。1960年(昭和35年)の秋のことです。<br />(以上葉鶏頭P128)<br /><br />どうして多恵子の墓石が独立して建てられたのか、多恵子の希望か、ご遺族の意向か、分かりません。<br />これでいいと私は思います。<br />1938年(昭和13年)の結婚以降、多恵子は夫を支え続けました。「風立ちぬ」最終章「死のかげの谷」「菜穂子」「大和路・信濃路」など堀辰雄の代表作は、多恵子の支えなしには書き上げられなかったのです。<br />そもそも多恵子なしに、辰雄がいつまで生きていられたか。<br />多恵子の名は、堀辰雄のお墓のどこかに刻まれて当然だと思います。<br />辰雄の墓石の右のちょっと小さく、慎ましい墓石は多恵子にふさわしい。<br /><br />犀星ご不満<br />▲▼▲▼▲<br /><br />室生犀星は、多磨墓地のお墓が気にいりませんでした。<br />辰雄納骨の日、多恵子と犀星は車で多磨墓地に行きました。気にいらなかったのは多恵子の作ったお墓ではなく、立派な墓地が並ぶ多磨墓地そのものだったようです。<br /><br />★「堀君の墓をこんなところに作って、堀君泣いているよ。なぜ追分の泉洞寺につくらないんだ」って。「あんなところ、寂しくて嫌ですよ」って私いったの。「第一、泉洞寺につくったら、毎日行かなきゃいけない。たいへんですからね」って。そうしたら先生、「毎日行きゃあいいじゃないか。わしはしょっちゅう、あそこへ行くよ」なんておっしゃってね。<br />★(やまぼうしの咲く庭でP224)<br />

    辰雄の墓石が中央で、多恵子は右端に窮屈そう。
    多恵子は辰雄の墓石だけを建てました。自分はいずれ同じカロットに入る。


    埋骨の日には墓石のカロットの真ん中にたった一つの骨壺を納めた。その日のこと、その墓石の中の様が私の脳裏に刻みつけられて長いこと消えなかった。その場所は広すぎる感じがした。石の蓋をして土をかけたとき、私は、私の骨壺はいつあの隣に納められるのかしらと考えたり、早く並んであげないと淋しいだろうなとも思った。


    広すぎるカロットは後日、多恵子が辰雄の母シゲと養父松吉の遺灰を、墨田区円通寺の上條家のお墓から分骨して納めたので、賑やかになりました。1960年(昭和35年)の秋のことです。
    (以上葉鶏頭P128)

    どうして多恵子の墓石が独立して建てられたのか、多恵子の希望か、ご遺族の意向か、分かりません。
    これでいいと私は思います。
    1938年(昭和13年)の結婚以降、多恵子は夫を支え続けました。「風立ちぬ」最終章「死のかげの谷」「菜穂子」「大和路・信濃路」など堀辰雄の代表作は、多恵子の支えなしには書き上げられなかったのです。
    そもそも多恵子なしに、辰雄がいつまで生きていられたか。
    多恵子の名は、堀辰雄のお墓のどこかに刻まれて当然だと思います。
    辰雄の墓石の右のちょっと小さく、慎ましい墓石は多恵子にふさわしい。

    犀星ご不満
    ▲▼▲▼▲

    室生犀星は、多磨墓地のお墓が気にいりませんでした。
    辰雄納骨の日、多恵子と犀星は車で多磨墓地に行きました。気にいらなかったのは多恵子の作ったお墓ではなく、立派な墓地が並ぶ多磨墓地そのものだったようです。

    ★「堀君の墓をこんなところに作って、堀君泣いているよ。なぜ追分の泉洞寺につくらないんだ」って。「あんなところ、寂しくて嫌ですよ」って私いったの。「第一、泉洞寺につくったら、毎日行かなきゃいけない。たいへんですからね」って。そうしたら先生、「毎日行きゃあいいじゃないか。わしはしょっちゅう、あそこへ行くよ」なんておっしゃってね。
    ★(やまぼうしの咲く庭でP224)

  • 信濃追分の泉洞寺の墓地。<br />2022年でこういう雰囲気ですから1960年頃だとさぞかし寂しかったでしょう。多恵子の気持ち、分かります。<br />

    信濃追分の泉洞寺の墓地。
    2022年でこういう雰囲気ですから1960年頃だとさぞかし寂しかったでしょう。多恵子の気持ち、分かります。

  • 近くに堀辰雄の歯痛地蔵があります。<br />詳しくは下記をご覧下さい。<br />「堀辰雄紀行4 信濃追分巡礼、歯痛地蔵、牧歌と浅間山登山道」<br />https://4travel.jp/travelogue/11811679<br />

    近くに堀辰雄の歯痛地蔵があります。
    詳しくは下記をご覧下さい。
    「堀辰雄紀行4 信濃追分巡礼、歯痛地蔵、牧歌と浅間山登山道」
    https://4travel.jp/travelogue/11811679

  • 犀星が毎日行くというのは、旧軽井沢矢ヶ崎川のほとりの犀星詩碑。

    犀星が毎日行くというのは、旧軽井沢矢ヶ崎川のほとりの犀星詩碑。

  • その奥に俑人2体が安置されており、その一つに犀星の亡くなった妻とみ子が分骨されて眠っておりました。<br />犀星は本当に毎日通っていたようです。<br />それを多恵子にもやれと言っております。<br />詳しくは、<br />「堀辰雄紀行 軽井沢7 冬景色、諏訪神社道祖神と犀星詩碑」<br />https://4travel.jp/travelogue/11863627<br /><br />確かに犀星のいうとおり、お墓団地のような多磨墓地より、泉洞寺の方が堀辰雄の雰囲気にはぴったりです。<br />しかし多恵子は1960年の段階では、いつまで一人で信濃追分に住めるか、不安だったみたいです。<br />結果的にはほとんど信濃追分に住み続け、終の棲家となりました。<br /><br />この件で犀星は、このあとも何回か多恵子にグチグチ言ったようです。<br />多恵子もあちこちでこのエピソードをぶり返しています。<br />「山ぼうし」のほか、「葉鶏頭P127」「野ばらの匂う散歩道P60」<br /><br />辰雄没後犀星を実の父のように慕った多恵子ですが、実の娘のように逆らってもいます。<br /><br />★夏の或日、軽井沢の先生の家の茶の間で、又、墓の話が出たとき「わしは死んだら灰にして犀川に流して貰えばいい。堀くんも浅間山から灰にして撒いて貰いたかっただろう」と言われた。私は先生に、そんなことは残った者には出来ないし、第一そんなことをしたら法律で罰せられますよとか、先生だって亡くなられたらお家の人達が背の高さくらいの大理石のお墓を建てるかもしれないわとか、くやしまぎれに随分失礼な事を言った。先生も腹を立てられたのだろう、しまいにはそんな事はわしの知ったことじゃないと大きな声を出された。私はその日のことをなんのつぎ穂もなく思い出すことがある。★<br />(葉鶏頭P127、以下も同じ)<br /><br />「お家の人」って娘の室生朝子ですよね。その場にいたとしたら、がんこな父に正面楯突く多恵子に、内心喝采を送ったかも。<br /><br />浅間山から灰の件ですが、多恵子によれば、<br /><br />★辰雄も本当はそれに近い考え方をしていたようにも思える。★<br /><br />本人はそれでいいかもしれないけれど、こういう名のある人物の遺族としてはそうもいかないのは、十分理解できます。<br />犀星だって、金沢には立派なお墓があります。<br />

    その奥に俑人2体が安置されており、その一つに犀星の亡くなった妻とみ子が分骨されて眠っておりました。
    犀星は本当に毎日通っていたようです。
    それを多恵子にもやれと言っております。
    詳しくは、
    「堀辰雄紀行 軽井沢7 冬景色、諏訪神社道祖神と犀星詩碑」
    https://4travel.jp/travelogue/11863627

    確かに犀星のいうとおり、お墓団地のような多磨墓地より、泉洞寺の方が堀辰雄の雰囲気にはぴったりです。
    しかし多恵子は1960年の段階では、いつまで一人で信濃追分に住めるか、不安だったみたいです。
    結果的にはほとんど信濃追分に住み続け、終の棲家となりました。

    この件で犀星は、このあとも何回か多恵子にグチグチ言ったようです。
    多恵子もあちこちでこのエピソードをぶり返しています。
    「山ぼうし」のほか、「葉鶏頭P127」「野ばらの匂う散歩道P60」

    辰雄没後犀星を実の父のように慕った多恵子ですが、実の娘のように逆らってもいます。

    ★夏の或日、軽井沢の先生の家の茶の間で、又、墓の話が出たとき「わしは死んだら灰にして犀川に流して貰えばいい。堀くんも浅間山から灰にして撒いて貰いたかっただろう」と言われた。私は先生に、そんなことは残った者には出来ないし、第一そんなことをしたら法律で罰せられますよとか、先生だって亡くなられたらお家の人達が背の高さくらいの大理石のお墓を建てるかもしれないわとか、くやしまぎれに随分失礼な事を言った。先生も腹を立てられたのだろう、しまいにはそんな事はわしの知ったことじゃないと大きな声を出された。私はその日のことをなんのつぎ穂もなく思い出すことがある。★
    (葉鶏頭P127、以下も同じ)

    「お家の人」って娘の室生朝子ですよね。その場にいたとしたら、がんこな父に正面楯突く多恵子に、内心喝采を送ったかも。

    浅間山から灰の件ですが、多恵子によれば、

    ★辰雄も本当はそれに近い考え方をしていたようにも思える。★

    本人はそれでいいかもしれないけれど、こういう名のある人物の遺族としてはそうもいかないのは、十分理解できます。
    犀星だって、金沢には立派なお墓があります。

  • 墓前の小石にマロニエの実が一つ落ちていました。<br /><br />「だれかのお供えかしら?」By妻<br />リスがもってきたのかな。<br />堀辰雄は馬鹿なリスと付き合いがあったらしいよ。<br />初期の小説「ルーベンスの偽画」の最後に、リスが出てくる。その子孫じゃないかな。<br />軽井沢の森を散歩していたら、木からリスが飛び降りてきた。<br /><br />★<br />「馬鹿な栗鼠だな」<br />そんなことを思はずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾を背中にのせて走り去ってゆく栗鼠を、それの見えなくなるまで見つめてゐた。<br />★<br />(筑摩1巻P106)<br />

    墓前の小石にマロニエの実が一つ落ちていました。

    「だれかのお供えかしら?」By妻
    リスがもってきたのかな。
    堀辰雄は馬鹿なリスと付き合いがあったらしいよ。
    初期の小説「ルーベンスの偽画」の最後に、リスが出てくる。その子孫じゃないかな。
    軽井沢の森を散歩していたら、木からリスが飛び降りてきた。


    「馬鹿な栗鼠だな」
    そんなことを思はずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾を背中にのせて走り去ってゆく栗鼠を、それの見えなくなるまで見つめてゐた。

    (筑摩1巻P106)

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この旅行記へのコメント (6)

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  • 前日光さん 2025/02/18 15:49:02
    ふふ、栃木県だって、オシャレなところも。。。
    こんにちは、しにあさん&by妻さん
    またしても寒波到来のようで、今日は本当に寒いですね。
    暑いよりはいいのですが、一度収まったかのような寒波が再び。。というのは、なんだかなぁと思います。

    さて、マロニエの話です。
    ご存じとは思いますが、栃木県の木は栃の木(マロニエ)でございます。
    そのせいかどうかは分かりませんが、栃木にはマロニエ通りなるものが数か所あります。
    栃木市にもありますが、鹿沼から葛生に向かう通りにもたくさんの栃の木があります。
    栃の木の葉っぱは、大きくてバサバサしていて、紅葉(どちらかというと黄葉)してもあまり美しくなくて、すぐに黄色く(それもきれいでない黄色で)なってしまい、いつもマロニエなんて素敵な洋名なのに、黄葉はダメねぇなどと思っています。
    でもまぁ、マロニエという言葉の響きで許すことにしています。

    堀家の多磨霊園のお墓ですが、なんと我が家のお墓も横向きの長方形です!
    しかも石の色は赤っぽいのです。
    義父の言を信じるならば、スゥェーデンの石だとか(^_^;)
    普通の縦長の石が並ぶ中で、我が家の墓石だけが横向きで赤っぽい!
    墓参りに行くたびに、ちょっとばかり恥ずかしい気分になります。
    でも堀家の墓石を見て、少しうれしくなりました!

    そうなんですねぇ。パリには至る所にマロニエの木ですか。
    花はなかなかきれいな気もしますが、でもできればナツツバキのごとき楚々とした花の方が私は好きです。
    マロニエの実は気を付けないといけませんね!

    ※実はここ一ヶ月ほど義母の具合がよろしくありません。
    なにしろ103歳ですから、いつ何があってもおかしくないのですが。
    まぁ、そんなドサクサのさなかです。
    しにあ様ご夫妻も、風邪など召されませぬようお祈り申し上げます<m(__)m>


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2025/02/18 20:45:05
    Re: ふふ、栃木県だって、オシャレなところも。。。
    パリのマロニエは、花はきれいですが、葉はおっしゃるとおり汚れた黄ばみ方で、あまりロナンティックではありません。大きな葉が落ちてくると、鳩が下りてきたみたいで、不気味です。

    前日光さんのお家の墓石はスエーデン製ですか。多恵子や福永武彦が気にいった石ですから、同じ石かもしれません。
    上品ないい色合いでした。

    名前以外なにも彫っていなかったのがいい。辰雄の意向か、多恵子の趣味か。はたまた武彦や真一郎、犀星の入れ知恵か。そのだれでも「名前だけがいいな」と言うと思いませんか。
    知っている人だけ来てくれればいいと思ったのでしょう。

    昨年6月伯父が他界しました。99才でした。私以外本当に血縁のない人でした。本人の希望で、前年12月にシルバーマンションに入りましたが、何度もすぐ来てくれと言う電話が看護士からきました。落ち着きませんでしたね。
    前日光さんのお気持ちよく分かります。
    他界する2週間前まで意識もしっかりしていましたので、大往生でありました。
    その事後処理もなんとか終わったところです。
  • pedaruさん 2024/11/28 14:13:15
    堀辰雄の墓
     しにあの旅人sさん こんにちは

     たいへん面白く拝読いたしました。シンプルで好感の持てる墓ですね。
     雑司が谷霊園にある漱石の墓は仰々しくてちょっとがっかりでした。本人の希望ではないことを祈るばかりです。それに引き換え永井荷風の墓は質素で彼らしいとおもいました。
     しにあ家のお墓はやはり多磨霊園にあるのですねー。さすがです。
     我が家の墓はだいぶ前に買いましたが、いまだに入る人がいなくて早く私の入るのを待っています(笑い)。
     フランスのマロニエの実は栃のより大きいのですか?始めて知りました。
     スコットランドのエルギン大聖堂に行ったとき、近くにあった大木がマロニエでした。ちょうど花がたくさん咲いていました。
     今年の夏には長兄が亡くなり、いよいよ自分の番かと死を実感しております。家族の非難を省みず、できるだけ旅行をしたいと思うこのごろです。
     4トラベルにpedaruの名前が見えなくなったら死んだものと思ってフォロー解除をおねがいします(笑い)。

     pedaru

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/11/29 19:58:31
    Re: 堀辰雄の墓
    先日夕方散歩していたら、中学生の女の子3人組が校門の近くでおしゃべり真っ最中。「こんにちは」と大きな声で挨拶してきた健康優良児でした。
    向こうから「気をつけて帰って下さい」と言われました。
    じいさん、ばあさんが、よたよたと歩いていたので、気を使ってくれたようです。
    あ~~やだやだ、そんなトシなのです。
    お墓の話題がふさわしいかな。

    わがやの多磨霊園のお墓は父の前かその前に買ったらしい。おそらく武蔵野そのものという雑木林であったでしょう。都営ですから、いまでも年間管理料8000円くらいです。
    それなのに草ボウボウ。この墓の持ち主は管理事務所に連絡せよ、とかいうお札が立っているのもあります。バチ当たり、もったいない、もったいない。

    無住のお墓ですか。いいではないですか。このままず~~~と無住でいきましょう。
  • kummingさん 2024/11/27 22:15:06
    お久しゅうm(._.)m
    しにあさん、by妻さん、長い間ご無沙汰しております、不義理を棚に上げ、お久しゅう♪

    マロニエの実、懐かしいです。昨年南伊で道にコロコロ落ちていたのを「こっちの栗は殻が剥けて落ちるんだ!」という私の大いなる誤認識を、しにあさんに訂正して頂きました。さすがおフランス仕込みはちゃうな~、と感心した記憶あり。

    そのマロニエの和名トチノキ(栃の木)はもちろん、アシビも存じず、申し訳ないです。それでコメントするのもなんかな~、と迷いながらの久々のカキコ(-。-;

    薄いピンク色の墓石というセンス、趣味に、堀辰雄氏の品性を感じます、常人はなかなか墓石に選ばない色味かと。お線香立てがないのはわかりますが、名刺入れってなんですか?詣でた方が名刺を入れる?

    お墓をすぐにみつけられたり、しにあ家のお墓に近かった、という件、そりゃあこれだけ長い期間、膨大な熱量を傾けて謳いあげていらした「堀辰雄、多恵子夫妻讃歌♪」が、あっちの世界に聞こえないはずもなく、おそらく「呼ばれて」いらしたのではないかと^ ^ しにあさんby妻さんを呼んだのは、お舅さん、だけにあらず、と思われる。

    特に、by妻さんは、以前からそうゆう傾向、何か向こうの世界と縁を結びやすい感性、みたいな、霊感?というようなものをお持ちのように感じることがございます。

    言及頂いた昔のコメントですが、「ポップな字体」とゆうのは、うちの子が先生に「ちゃんと保護者に書いてもらいなさい!←私の署名」と言われたり、幼児から高校生相手の仕事をしていた頃(←本邦初公開の秘密開示)、人様に文字を書く機会が多いのを「文字の良否ではなく(上手い、下手ではない)、何を書くか、が重要」と苦し紛れに公言していた、あの字のお話ですね。堀辰雄氏も、書かれる内容重視でいらしたはず⁈ と、ますます親近感♪

    最近、ようやく夫実家の墓終いを終えました。自分たちのことを考える事も増え、「樹木葬」はどうだろう、でも今区画を予約すると、これから終わり(←私の)までずっとお取り置き料金?みたいなのを払い続けなきゃ?などなど、未だ足を踏み出せずにおります。

    久しぶりで、またブログの内容から離れ、思いうかぶ事をつらつらと書き散らしてしまいましたm(._.)m

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/11/29 12:07:00
    Re: お久しゅうm(._.)m
    トチノキは九州では少ないそうです。葉っぱがでかくて、花が派手ですから、あれば目立ちます。
    房総でも見た記憶がありません。
    見かけとちがって食えないし、人気がないのでしょう。

    堀夫妻の墓石は、そういえばきれいな薄いピンクです。
    私は筆跡など別なことろに注意が集中、By妻に言われるまで、石の色には気がつきませんでした。なるほど珍しい、きれいな色ですね。
    二人でブログをやっていると、幅が広がります。
    By妻は私と目の付け所、頭の構造、周波数が全く違います。今回も元資料は全部読んでいますから、どうも多恵子さんと直接会話したみたいな感じ。

    名刺入れ。
    そういえば、博多のBy妻家のお墓や、親戚のお墓にはありませんでした。多磨霊園や、関東の墓地には珍しくないのです。
    ただし我が家の墓にはありません。父の家はもともと紀州の人だそうで、明治の初めに東京に出てきたとのこと。
    ローカルな風習なのかな。
    文字通り、来ましたよという証拠に名刺を入れておくそうです。

    堀辰雄に熱を入れ始めたのは17,8のころ、それからかれこれ60年です。
    コロナでイタリアに行けなくなって、昔の記憶をたどっていたら思いついたのが堀辰雄。最初は信濃追分の巡礼地をさあっとめぐっておしまいと思っていたのですが、なんと19冊になりました。フィールドノートという単品の寄せ集めがあと2本あります。
    じつはこれ、まだ「風立ちぬ」「菜穂子」という本編が始まっていないのです。イントロだけでこんなに長くなるとは思っていませんでした。

    Kummingさんご主人の実家のお墓は鹿児島の出水でしたよね。黒之瀬戸のコメでおうかがいしました。墓じまいはいろいろ大変みたいです。我が家は多磨霊園ですから、なんとかなりますが、遠いとこまります。
    6月に他界した伯父に子どもがいなくて、私が当面お墓を面倒見ることになりました。関東ですが、片道車で3時間、私の後は息子には頼めません。
    息子もその嫁さんも一人っ子ですから、あそこはもれなく2カ所のお墓がついてきます。
    孫姫さんも一人っ子、将来のダンナが一人っ子なら、これまたもれなくお墓3件。
    これからこういうケースが増えますよ。

    お墓を用意したら、お取り置き料金がかかるのですね。
    ↑のpedaruさんもお墓を用意したとおっしゃっています。
    だいぶ前ですが、遺灰を一粒ずつまとめて、極軌道の人工衛星にのせるというお墓の形式が話題になっていました。南極と北極という地球を縦に回る軌道ですから、定期的に地球のあらゆる地点の宇宙空間を通ります。そのときに拝めば、お墓参りには困らないのです。
    その後どうなったのか、聞いておりません。

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