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更新記録:<br />2024/11/14:「浮世風呂」みだし最後、多恵子の香港での靴の生活<br />2024/11/01:神谷バー建物写真のあと。淺草のムービー。<br />2024/10/31:「あたい」みだしの最後。新情報追加。<br /><br />「あたい、風呂にいってくるわね」<br />と言いながら、堀辰雄は銭湯に行きました。<br /><br />東京下町、向島育ちでした。軽井沢、信濃追分に暮らすようになるのはずっとあと。<br />多恵子との新婚生活もひと月ほどは、向島ですごしました。<br />江戸下町情緒が色濃く残る向島での堀辰雄は、「風立ちぬ」や「菜穂子」のイメージとは全く違います。<br /><br />自分のことを「あたい」とよびました。<br /><br />音痴でした。かるいどもりでした。<br /><br />「ひ」と「し」の区別がつきません。<br />「そのシモ(紐)をとってくれ」<br /><br />堀の友人阿比留信(英文学者、1903-1998)が徳田秋声に堀辰雄を紹介したところ、後日徳田より「久しぶりでほんとうの江戸弁をききましたよ」と云われました。<br />(筑摩第5巻月報5P5、「堀辰雄の周辺」P156」)<br /><br />参考書は、「堀辰雄紀行1」に並べておきました。<br />https://4travel.jp/travelogue/11804894<br /><br />引用では僭越ながら敬称を略します。<br /><br />堀辰雄文学記念館編集の図録3冊については、掲載写真のコピーと使用許可を記念館よりいただいております。<br />堀辰雄没後50年特別企画展図録/2003年(平成15年)<br />堀辰雄生誕百年特別企画展図録/2004年(平成16年)<br />堀辰雄文学記念館常設展示図録・改訂新版/2019年(平成31年)<br /><br />今回特に参考にしたのは、<br />「浮世風呂」神保五彌校注/新日本古典文学大系/岩波書店/1989年<br />「墨東の堀辰雄」谷田昌平/弥生書房/1997/「墨」はさんずい「氵」がつきます。私のパソコンでは「環境依存文字」と警告がでました。文字化けする可能性があるので「墨」にしておきます。<br /><br />投稿日:2024/10/29<br />

堀辰雄紀行 フィールドノート1 あたいは音痴

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2024/04/25 - 2024/04/26

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録:
2024/11/14:「浮世風呂」みだし最後、多恵子の香港での靴の生活
2024/11/01:神谷バー建物写真のあと。淺草のムービー。
2024/10/31:「あたい」みだしの最後。新情報追加。

「あたい、風呂にいってくるわね」
と言いながら、堀辰雄は銭湯に行きました。

東京下町、向島育ちでした。軽井沢、信濃追分に暮らすようになるのはずっとあと。
多恵子との新婚生活もひと月ほどは、向島ですごしました。
江戸下町情緒が色濃く残る向島での堀辰雄は、「風立ちぬ」や「菜穂子」のイメージとは全く違います。

自分のことを「あたい」とよびました。

音痴でした。かるいどもりでした。

「ひ」と「し」の区別がつきません。
「そのシモ(紐)をとってくれ」

堀の友人阿比留信(英文学者、1903-1998)が徳田秋声に堀辰雄を紹介したところ、後日徳田より「久しぶりでほんとうの江戸弁をききましたよ」と云われました。
(筑摩第5巻月報5P5、「堀辰雄の周辺」P156」)

参考書は、「堀辰雄紀行1」に並べておきました。
https://4travel.jp/travelogue/11804894

引用では僭越ながら敬称を略します。

堀辰雄文学記念館編集の図録3冊については、掲載写真のコピーと使用許可を記念館よりいただいております。
堀辰雄没後50年特別企画展図録/2003年(平成15年)
堀辰雄生誕百年特別企画展図録/2004年(平成16年)
堀辰雄文学記念館常設展示図録・改訂新版/2019年(平成31年)

今回特に参考にしたのは、
「浮世風呂」神保五彌校注/新日本古典文学大系/岩波書店/1989年
「墨東の堀辰雄」谷田昌平/弥生書房/1997/「墨」はさんずい「氵」がつきます。私のパソコンでは「環境依存文字」と警告がでました。文字化けする可能性があるので「墨」にしておきます。

投稿日:2024/10/29

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
JRローカル
旅行の手配内容
個別手配
  • 堀辰雄の実家があったのは現在の隅田公園の一隅。「堀辰雄ゆかりの地」という案内板が立っております。現在の住所は墨田区向島1丁目3番。<br />再婚した母に連れられて1910年(明治43年、辰雄6才)から、1940年(昭和15年、36才)ごろまで。<br />ただし出たり戻ったりで、住んでいるのかいないのか、はっきりしない時期もあります。<br />1940年に東京杉並の多恵子の実家の庭に家を新築し、向島を離れました。<br />辰雄さん、マスオさんをしていたのです。<br /><br />一書に曰く、<br />堀辰雄徹底解剖、言語学編でございますよ。<br />堀辰雄、まだやるんかい?という声が聞こえて参りますが、いえ、わたくしだって、ま~だやるの!と叫びましたから。<br />ま、東京に行くっていうし、粋なところだっていうから、ついつい来てしまいました。<br />

    堀辰雄の実家があったのは現在の隅田公園の一隅。「堀辰雄ゆかりの地」という案内板が立っております。現在の住所は墨田区向島1丁目3番。
    再婚した母に連れられて1910年(明治43年、辰雄6才)から、1940年(昭和15年、36才)ごろまで。
    ただし出たり戻ったりで、住んでいるのかいないのか、はっきりしない時期もあります。
    1940年に東京杉並の多恵子の実家の庭に家を新築し、向島を離れました。
    辰雄さん、マスオさんをしていたのです。

    一書に曰く、
    堀辰雄徹底解剖、言語学編でございますよ。
    堀辰雄、まだやるんかい?という声が聞こえて参りますが、いえ、わたくしだって、ま~だやるの!と叫びましたから。
    ま、東京に行くっていうし、粋なところだっていうから、ついつい来てしまいました。

  • パリにモンマルトルがあるように、東京には、淺草がございます。その近くでございます。<br />セーヌのつもりの隅田川。<br />え、いえいえ、これがなかなか素敵でした。<br />冗談ではなく、本当におすすめです。<br />多摩川では、鮭が上ってきているとか聞いたことがありますが、隅田川も、川辺は整備されて、散歩道になっているし、川の水もさらさら流れておりました。<br />後期高齢者の我々には、隅田川と言えば、メタンガスがポコポコ出ているとか、悪臭がするとか、さんざんな評判だったのですが。<br />お風呂に入ったカラミティジェーン。<br />えっなんのことかって?<br />西部劇で有名な、女流ガンマン。いやガンウーマン。<br />むちゃくちゃ強かったらしいです。<br />が、実は、お風呂に入らなくって、臭かったんですと。それが、お風呂に入れたら、あ~ら、なんと言うことでしょう!という美人が出てきて、ガンマン達は大喜びだったと。<br />で、今の隅田川は、それくらいきれい。わざわざ行く価値ありですぞ。<br />ぜひぜひ。<br />By妻<br />

    パリにモンマルトルがあるように、東京には、淺草がございます。その近くでございます。
    セーヌのつもりの隅田川。
    え、いえいえ、これがなかなか素敵でした。
    冗談ではなく、本当におすすめです。
    多摩川では、鮭が上ってきているとか聞いたことがありますが、隅田川も、川辺は整備されて、散歩道になっているし、川の水もさらさら流れておりました。
    後期高齢者の我々には、隅田川と言えば、メタンガスがポコポコ出ているとか、悪臭がするとか、さんざんな評判だったのですが。
    お風呂に入ったカラミティジェーン。
    えっなんのことかって?
    西部劇で有名な、女流ガンマン。いやガンウーマン。
    むちゃくちゃ強かったらしいです。
    が、実は、お風呂に入らなくって、臭かったんですと。それが、お風呂に入れたら、あ~ら、なんと言うことでしょう!という美人が出てきて、ガンマン達は大喜びだったと。
    で、今の隅田川は、それくらいきれい。わざわざ行く価値ありですぞ。
    ぜひぜひ。
    By妻

  • 吾妻橋を渡って、淺草まですぐ近くです。

    吾妻橋を渡って、淺草まですぐ近くです。

  • 神谷バーは大正10年開業ですから、青年堀辰雄はこの前を通って淺草六区に映画を観に行ったはずです。<br /><br />2024/11/01追加。<br />1923年(大正12年)8月15日付けはがき/堀辰雄(新小梅より)→神西清<br />(筑摩書簡9)<br /><br />★昨晩は淺草のムービーに出掛けたものだ。★<br />

    神谷バーは大正10年開業ですから、青年堀辰雄はこの前を通って淺草六区に映画を観に行ったはずです。

    2024/11/01追加。
    1923年(大正12年)8月15日付けはがき/堀辰雄(新小梅より)→神西清
    (筑摩書簡9)

    ★昨晩は淺草のムービーに出掛けたものだ。★

  • 右から書き始めるこの文字を辰雄も見上げたでありましょう。

    右から書き始めるこの文字を辰雄も見上げたでありましょう。

  • 堀辰雄は、実家では、自分のことを「あたい」と呼んでいました。<br />掘の体にしみこんでいた、江戸下町言葉です。<br />おフランス趣味、おドイツ趣味満載の辰雄が「あたい、風呂にいってくるわね」とか言って、毎朝、はだしに下駄をつっかけて銭湯に行く。<br />「くるわね」という女言葉は後述。<br /><br />軽井沢では、ドイツ製の色鉛筆などもてあそびながら「僕に言わせれば、ヴァレリイはね・・・」<br /><br />

    堀辰雄は、実家では、自分のことを「あたい」と呼んでいました。
    掘の体にしみこんでいた、江戸下町言葉です。
    おフランス趣味、おドイツ趣味満載の辰雄が「あたい、風呂にいってくるわね」とか言って、毎朝、はだしに下駄をつっかけて銭湯に行く。
    「くるわね」という女言葉は後述。

    軽井沢では、ドイツ製の色鉛筆などもてあそびながら「僕に言わせれば、ヴァレリイはね・・・」

  • 出典:「堀辰雄没後50年特別企画展図録」P17<br />昭和9年(1934年)軽井沢の堀辰雄。<br />よく知られた写真です。The堀辰雄。<br />この顔で「あたい」って言うかね。<br />

    出典:「堀辰雄没後50年特別企画展図録」P17
    昭和9年(1934年)軽井沢の堀辰雄。
    よく知られた写真です。The堀辰雄。
    この顔で「あたい」って言うかね。

  • 出典:「堀辰雄没後50年特別企画展図録」P19<br />昭和12年信濃追分での堀辰雄です。多恵子が辰雄と出会った年です。<br />こちらも堀辰雄ムードむんむん。<br />どこを押したら「あたい」って出てくるか。<br />この落差は信じられない。<br />ビックリしました。<br /><br />私以上にビックリしたのは多恵子。辰雄の実家でひと月暮らしたのは翌13年(1928年)夏ですから、ちょうど1年後。<br />多恵子には「あたい」とは言わない。向島小梅の実家で、父やおばには「あたい」<br /><br />★言葉も違うんです。主人が自分のことを「あたい」って言うんで、私びっくりしました。女の人がいうならおかしくないと思いますけれど、男が「あたい」なんて言ったらおかしいでしょう。私に向かっては言わない。よそ様にも言わないんですけれど、父親やおばさんたちには言っていました。下町では大人でも「あたい」っていうらしいですよ。★<br />(山ぼうしの咲く庭でP139)<br /><br />深田久弥も、掘は家では自分のことを「アタイ」と呼んでいた、と書いています。(筑摩別巻2P234)<br /><br />神西清は、掘の実家に行ったとき、ガラスの本棚に入ったトルストイ全集がある書斎で、<br /><br />★そのお母さんの前で、掘君は自分のことを「アタイ」と呼ぶのであった。そのためなおさら僕にはトルストイ全集がけむたかったのかもしれない。★<br />(筑摩別巻2P369)<br /><br />親友神西をもってしても「アタイ」の衝撃度は私たちと同じです。神西は東京市麹区で育ちました。現在の千代田区麹町。20世紀初めでは山の手高級住宅地だったそうです。父親は内務省のお役人。<br /><br />吉田精一は本所横網町生まれ。掘が「あたい」と言っても驚かない。<br /><br />★(堀)はかなりのちまで自称を「あたい」といっていたらしいが、これも同じで、(吉田は)友人や外に向かって挨拶する場合はともかく、家の中では大てい「あたい」だった。三十男になっても家では「あたい」といっているのを、よその人がきいたらおかしかったろう。★<br />(筑摩別巻2P379)<br /><br />本文では「あたい」に統一しました。引用では原文にしたがい「あたい」「アタイ」を併用しました。<br /><br />一書に曰く、<br />わたくし、志生の落語が、家事のお供で、アイロンかけとか片付けものの傍ら、よく聞いていたのですが、落語では、一人称単数のいい方は、現代人にはびっくりするものです。<br />「三軒長屋」の兄いの女房、あねさんは、「おれ」といってます。<br />あねさんは、三軒長屋のうちの一軒に住むお妾さんに負けないいい女だそうですよ。それで、「おれ」です。<br />そして、「子はかすがい」って題でしたか、喧嘩して、離婚しようかという夫婦の仲を取り持つ子どもが、「あたい」といいます。<br />ああ、そう言えば、よたろうも、「あたい」って言ってますね。<br />幼児語なんでしょうかね。<br />By妻<br /><br />2024/10/31追加。<br />「幼年時代」の「花をもてる女」に、辰雄が三つくらいの時「あたい」と言っていたという記述がありました。<br />(筑摩第2巻P201)<br />↑のBy妻説はあたりでした。下町では幼児から大人まで、男は「あたい」だったのだ!<br />またまたビックリ。<br />

    出典:「堀辰雄没後50年特別企画展図録」P19
    昭和12年信濃追分での堀辰雄です。多恵子が辰雄と出会った年です。
    こちらも堀辰雄ムードむんむん。
    どこを押したら「あたい」って出てくるか。
    この落差は信じられない。
    ビックリしました。

    私以上にビックリしたのは多恵子。辰雄の実家でひと月暮らしたのは翌13年(1928年)夏ですから、ちょうど1年後。
    多恵子には「あたい」とは言わない。向島小梅の実家で、父やおばには「あたい」

    ★言葉も違うんです。主人が自分のことを「あたい」って言うんで、私びっくりしました。女の人がいうならおかしくないと思いますけれど、男が「あたい」なんて言ったらおかしいでしょう。私に向かっては言わない。よそ様にも言わないんですけれど、父親やおばさんたちには言っていました。下町では大人でも「あたい」っていうらしいですよ。★
    (山ぼうしの咲く庭でP139)

    深田久弥も、掘は家では自分のことを「アタイ」と呼んでいた、と書いています。(筑摩別巻2P234)

    神西清は、掘の実家に行ったとき、ガラスの本棚に入ったトルストイ全集がある書斎で、

    ★そのお母さんの前で、掘君は自分のことを「アタイ」と呼ぶのであった。そのためなおさら僕にはトルストイ全集がけむたかったのかもしれない。★
    (筑摩別巻2P369)

    親友神西をもってしても「アタイ」の衝撃度は私たちと同じです。神西は東京市麹区で育ちました。現在の千代田区麹町。20世紀初めでは山の手高級住宅地だったそうです。父親は内務省のお役人。

    吉田精一は本所横網町生まれ。掘が「あたい」と言っても驚かない。

    ★(堀)はかなりのちまで自称を「あたい」といっていたらしいが、これも同じで、(吉田は)友人や外に向かって挨拶する場合はともかく、家の中では大てい「あたい」だった。三十男になっても家では「あたい」といっているのを、よその人がきいたらおかしかったろう。★
    (筑摩別巻2P379)

    本文では「あたい」に統一しました。引用では原文にしたがい「あたい」「アタイ」を併用しました。

    一書に曰く、
    わたくし、志生の落語が、家事のお供で、アイロンかけとか片付けものの傍ら、よく聞いていたのですが、落語では、一人称単数のいい方は、現代人にはびっくりするものです。
    「三軒長屋」の兄いの女房、あねさんは、「おれ」といってます。
    あねさんは、三軒長屋のうちの一軒に住むお妾さんに負けないいい女だそうですよ。それで、「おれ」です。
    そして、「子はかすがい」って題でしたか、喧嘩して、離婚しようかという夫婦の仲を取り持つ子どもが、「あたい」といいます。
    ああ、そう言えば、よたろうも、「あたい」って言ってますね。
    幼児語なんでしょうかね。
    By妻

    2024/10/31追加。
    「幼年時代」の「花をもてる女」に、辰雄が三つくらいの時「あたい」と言っていたという記述がありました。
    (筑摩第2巻P201)
    ↑のBy妻説はあたりでした。下町では幼児から大人まで、男は「あたい」だったのだ!
    またまたビックリ。

  • 恩知三保子(おんち・みおこ、掘多恵子の親友、「若草物語」などの翻訳家、1917-1984)は、版画家、本の装幀家、恩地孝四郎の娘です。1937年(昭和12年)娘が信濃追分油屋滞在中の堀辰雄に会いに行くと聞いて、原稿依頼の手紙を託しました。<br />三保子が追分を出る日、堀に挨拶に行くと、<br /><br />★(掘が)「原稿、まだなの。あとで沓掛にもっていくわね」と言って・・・(中略)文字にうつすと、掘さんの語り言葉は女言葉になってしまうが、一種の江戸弁なのか、「いくわね」が「いかあね」と聞こえた。★<br />(筑摩別巻1月報8P5)<br /><br />辰雄は「あ」を妙にふくらませて発音するクセがあったそうです。すると「いくわね」に聞こえるのかな。<br /><br />室生犀星の「詩人・堀辰雄」によると、軽井沢の犀星山荘に来ると、娘の朝子の名をよぶときに、<br /><br />★「あ、さ、ちゃん。あ、さ、ちゃん。」<br />と呼ぶ「あ」と「さ」の発音状態に、純粋な東京弁の「あ」をやや長めに引き「さ」をみじかく言ふ呼びようは、田舎者の僕には発音の美しさが、それをきくたびにことあたらしく感じられた。★<br />(P217、「あ」などは筆者。原文は文字右に強調の点)」<br /><br />★片山ひろ子さんの名もいつも平仮名でかいていゐときのように、か、た、や、ま、さんと呼び、かとたの間にみじかいあまったれた時間を置いて、呼んでいた。多恵子夫人をよぶのにたあえこ、たあ、えこと妙にふくらんだ声で呼ぶのとおなじ呼びようだった。★<br />

    恩知三保子(おんち・みおこ、掘多恵子の親友、「若草物語」などの翻訳家、1917-1984)は、版画家、本の装幀家、恩地孝四郎の娘です。1937年(昭和12年)娘が信濃追分油屋滞在中の堀辰雄に会いに行くと聞いて、原稿依頼の手紙を託しました。
    三保子が追分を出る日、堀に挨拶に行くと、

    ★(掘が)「原稿、まだなの。あとで沓掛にもっていくわね」と言って・・・(中略)文字にうつすと、掘さんの語り言葉は女言葉になってしまうが、一種の江戸弁なのか、「いくわね」が「いかあね」と聞こえた。★
    (筑摩別巻1月報8P5)

    辰雄は「あ」を妙にふくらませて発音するクセがあったそうです。すると「いくわね」に聞こえるのかな。

    室生犀星の「詩人・堀辰雄」によると、軽井沢の犀星山荘に来ると、娘の朝子の名をよぶときに、

    ★「あ、さ、ちゃん。あ、さ、ちゃん。」
    と呼ぶ「あ」と「さ」の発音状態に、純粋な東京弁の「あ」をやや長めに引き「さ」をみじかく言ふ呼びようは、田舎者の僕には発音の美しさが、それをきくたびにことあたらしく感じられた。★
    (P217、「あ」などは筆者。原文は文字右に強調の点)」

    ★片山ひろ子さんの名もいつも平仮名でかいていゐときのように、か、た、や、ま、さんと呼び、かとたの間にみじかいあまったれた時間を置いて、呼んでいた。多恵子夫人をよぶのにたあえこ、たあ、えこと妙にふくらんだ声で呼ぶのとおなじ呼びようだった。★

  • 堀辰雄はかるいどもりでした。<br /><br />★たとえば堀辰雄はひとくちにいえば、女性的な人で、言葉もすくなく少し吃りでさえあった。★<br />(P223)<br /><br />多恵子によれば、堀は初対面だと、だれかが紹介してくれないとなにも話さない人でした。<br /><br />★すこしどもりでしたから、余分なことは言わないんです。★<br />(やまぼうしの咲く庭でP156)<br /><br />堀ははなしの最初に「とても」をくっつけるクセがあったそうです。犀星によればどもる人は話しの最初に使い慣れた言葉をもってくる。堀はそれが「とても」でした。<br /><br />しかし意外に大胆なところもある。<br />軽井沢つるやで、萩原朔太郎と初対面の時のようです。辰雄20才。<br /><br />★堀辰雄は少し名のある、たとえば萩原朔太郎なぞにも、まともに、少しもわるびれずに眼を近づけてゆく、少女のような大胆なところもあるが、あがり方は実にすぐ上がってしまう方で、瞼があおざめてくる程であった。★<br />(P217)<br /><br />ふつうなら上がると赤くなりますが、辰雄は貧血症なので、青くなるのでしょう。<br /><br />★萩原は堀にあふときに、ふつうの文学青年にあふやうな邪魔くさい眼をしないで、いはば女の人につかうやうなためらうたやうな、どこか萩原がよく女の人にするやぶにらみな交りかた、眼つきをして見ていた。★<br />(P217)<br /><br />堀辰雄は、朔太郎をはじめ、犀星、芥川龍之介、折口信夫、川端康成などに気にいられました。尊敬する人物にはためらわずこういうアプローチをしたのかもしれません。<br />さぞかし「とても」を連発、どもっていたでありましょう。<br /><br />一書に曰く、<br />優しい、色白の容姿の堀辰雄が、はにかんだようにどもったりしたら、もう、愛しくて、胸キュン死しちゃう。<br />朔太郎も折口信夫も、やられちゃったんだわー。<br />だいたい、どもりの人は、コンプレックスらしいけれど、そんなことはないのですよ。ぺらぺら立て板に水にしゃべられると、な~んか、だまされそうな気がしますけれど、言いにくそうに、つっかえつっかえ一生懸命話してくれたら、実直そうで信じたくなります。<br />ですからね、吃音症の方は、どんどん盛大にどもってくださいね。<br />By妻<br /><br />堀辰雄の実声を記録した音源は私の知る限りありません。堀の話しかたを想像できる貴重な記録です。<br />

    堀辰雄はかるいどもりでした。

    ★たとえば堀辰雄はひとくちにいえば、女性的な人で、言葉もすくなく少し吃りでさえあった。★
    (P223)

    多恵子によれば、堀は初対面だと、だれかが紹介してくれないとなにも話さない人でした。

    ★すこしどもりでしたから、余分なことは言わないんです。★
    (やまぼうしの咲く庭でP156)

    堀ははなしの最初に「とても」をくっつけるクセがあったそうです。犀星によればどもる人は話しの最初に使い慣れた言葉をもってくる。堀はそれが「とても」でした。

    しかし意外に大胆なところもある。
    軽井沢つるやで、萩原朔太郎と初対面の時のようです。辰雄20才。

    ★堀辰雄は少し名のある、たとえば萩原朔太郎なぞにも、まともに、少しもわるびれずに眼を近づけてゆく、少女のような大胆なところもあるが、あがり方は実にすぐ上がってしまう方で、瞼があおざめてくる程であった。★
    (P217)

    ふつうなら上がると赤くなりますが、辰雄は貧血症なので、青くなるのでしょう。

    ★萩原は堀にあふときに、ふつうの文学青年にあふやうな邪魔くさい眼をしないで、いはば女の人につかうやうなためらうたやうな、どこか萩原がよく女の人にするやぶにらみな交りかた、眼つきをして見ていた。★
    (P217)

    堀辰雄は、朔太郎をはじめ、犀星、芥川龍之介、折口信夫、川端康成などに気にいられました。尊敬する人物にはためらわずこういうアプローチをしたのかもしれません。
    さぞかし「とても」を連発、どもっていたでありましょう。

    一書に曰く、
    優しい、色白の容姿の堀辰雄が、はにかんだようにどもったりしたら、もう、愛しくて、胸キュン死しちゃう。
    朔太郎も折口信夫も、やられちゃったんだわー。
    だいたい、どもりの人は、コンプレックスらしいけれど、そんなことはないのですよ。ぺらぺら立て板に水にしゃべられると、な~んか、だまされそうな気がしますけれど、言いにくそうに、つっかえつっかえ一生懸命話してくれたら、実直そうで信じたくなります。
    ですからね、吃音症の方は、どんどん盛大にどもってくださいね。
    By妻

    堀辰雄の実声を記録した音源は私の知る限りありません。堀の話しかたを想像できる貴重な記録です。

  • 以下は多恵子の「やまぼうしの咲く庭で・向島での一ヶ月」より。<br />堀辰雄の実家は小さかった。四畳半の辰雄の部屋、八畳の父松吉の部屋、三畳の松吉の仕事部屋。<br />半畳の押し入れみたいな暗い台所。<br />料理はそもそもしないのだそうです。<br />お肉が食べたいときはレストランに行く、海老フライも外食。<br />辰雄の母シゲが占い師から「成長するまでこの子(辰雄)に牛肉を与えてはいけない」と言われたので、牛肉は家では食べなかった。<br /><br />★「あなた、私丑年なのよ、私を食べたらひどい目にあうわね」なんて冗談を言ったこともあります。★<br /><br />なんか、新婚夫婦が言うと、ビミョーなニュアンスになります。<br /><br />「五歩に一楼(ろう)、十歩に一閣(かく)、みな飲食の店ならずといふこと無し」と蜀山人が言ったそうです。大小の食べ物屋が軒を連ねていた江戸後期の下町です。<br />その伝統を引き継いだ向島ですから、貧弱な台所でも困らなかったのでありましょう。<br />しかも当時流行の最先端だった「洋食」の本場、淺草が間近です。<br /><br />一書に曰く、<br />なんですか、これ。<br />向島って、まるっきりパリではないですか!<br />パリって街は、昔から人が集まるからか、ちいさなアパルトマンばかりだったそうです。<br />私たちの最初の住まいも、小さい一部屋で、1メートル四方の凹みが、台所でした。<br />火口がひとつの電気コンロで、日本から送ってもらったラーメンを煮たりしてました。<br />レストランで食べるお金がありませんでしたからね。<br />人生最後の日までに、もう一度パリに行って、ちいさなワンルームマンションに住んで、(掃除が楽でしょ?)レストラン三昧してみたいです。<br />By妻<br />

    以下は多恵子の「やまぼうしの咲く庭で・向島での一ヶ月」より。
    堀辰雄の実家は小さかった。四畳半の辰雄の部屋、八畳の父松吉の部屋、三畳の松吉の仕事部屋。
    半畳の押し入れみたいな暗い台所。
    料理はそもそもしないのだそうです。
    お肉が食べたいときはレストランに行く、海老フライも外食。
    辰雄の母シゲが占い師から「成長するまでこの子(辰雄)に牛肉を与えてはいけない」と言われたので、牛肉は家では食べなかった。

    ★「あなた、私丑年なのよ、私を食べたらひどい目にあうわね」なんて冗談を言ったこともあります。★

    なんか、新婚夫婦が言うと、ビミョーなニュアンスになります。

    「五歩に一楼(ろう)、十歩に一閣(かく)、みな飲食の店ならずといふこと無し」と蜀山人が言ったそうです。大小の食べ物屋が軒を連ねていた江戸後期の下町です。
    その伝統を引き継いだ向島ですから、貧弱な台所でも困らなかったのでありましょう。
    しかも当時流行の最先端だった「洋食」の本場、淺草が間近です。

    一書に曰く、
    なんですか、これ。
    向島って、まるっきりパリではないですか!
    パリって街は、昔から人が集まるからか、ちいさなアパルトマンばかりだったそうです。
    私たちの最初の住まいも、小さい一部屋で、1メートル四方の凹みが、台所でした。
    火口がひとつの電気コンロで、日本から送ってもらったラーメンを煮たりしてました。
    レストランで食べるお金がありませんでしたからね。
    人生最後の日までに、もう一度パリに行って、ちいさなワンルームマンションに住んで、(掃除が楽でしょ?)レストラン三昧してみたいです。
    By妻

  • 小梅の家にはお風呂がありませんでした。<br />ここで冒頭にもどります。<br /><br />「あたい、風呂にいってくるわね」<br />と言いながら、堀辰雄は銭湯に行きました。<br /><br />父親の勤めの関係で、多恵子は10才まで香港で育ちました。海外帰国子女の走りです。乳母さんは中国人でした。日英中のトライリンガルだったようです。<br />帰国してからは杉並区成宗で暮らしました。現在の荻窪、阿佐ヶ谷あたりらしい。<br />父親は小さいながらも会社社長で、庭のある広い一軒家、台所もお風呂もありました。一言でいうと、現在の東京人の中流の生活環境と同じ。<br />母親シズは後年の東洋英和卒、英語ができました。両親ともクリスチャンで、非常にリベラルな環境で育ちました。<br />多恵子は東京女子大英文科卒。日光の外国人向けホテルのフロントで働いたり、生け花の講演会の通訳など、ハイレベルの英会話が出来ました。<br />外国人のナンパを、ピッシャとはねつけたらしい。<br />自分の意見を日本語、英語ではっきり言えるという、当時の日本としては、かなり特異な女性だったようです。<br />ただし堀辰雄と結婚したときは、おへっついでご飯も炊けないような、お嬢様でした。<br /><br />多恵子の実家<br />▲▼▲▼▲▼<br /><br />「やまぼうしの咲く庭で」のインタビューアー堀井正子によると、多恵子の実家では、<br /><br />★肉の料理もカルシウム補給の鶏の骨の調理まで、すべてが当たり前になっていた。★<br />(P141)<br /><br />「鶏の骨の調理」とは鶏ガラでダシをとるということですかね。昭和初期の日本で、家庭料理が西洋風だった。当時としてはかなり、モダア~~ン。<br />シズとしては、とろい娘に付き合いきれなくて、料理を仕込み損ねたのかな。<br /><br />その多恵子が東京向島の下町にやって来ました。<br />ビックリしました。そのビックリのおかげで、堀辰雄の知られざる一面が記録に残りました。<br />

    小梅の家にはお風呂がありませんでした。
    ここで冒頭にもどります。

    「あたい、風呂にいってくるわね」
    と言いながら、堀辰雄は銭湯に行きました。

    父親の勤めの関係で、多恵子は10才まで香港で育ちました。海外帰国子女の走りです。乳母さんは中国人でした。日英中のトライリンガルだったようです。
    帰国してからは杉並区成宗で暮らしました。現在の荻窪、阿佐ヶ谷あたりらしい。
    父親は小さいながらも会社社長で、庭のある広い一軒家、台所もお風呂もありました。一言でいうと、現在の東京人の中流の生活環境と同じ。
    母親シズは後年の東洋英和卒、英語ができました。両親ともクリスチャンで、非常にリベラルな環境で育ちました。
    多恵子は東京女子大英文科卒。日光の外国人向けホテルのフロントで働いたり、生け花の講演会の通訳など、ハイレベルの英会話が出来ました。
    外国人のナンパを、ピッシャとはねつけたらしい。
    自分の意見を日本語、英語ではっきり言えるという、当時の日本としては、かなり特異な女性だったようです。
    ただし堀辰雄と結婚したときは、おへっついでご飯も炊けないような、お嬢様でした。

    多恵子の実家
    ▲▼▲▼▲▼

    「やまぼうしの咲く庭で」のインタビューアー堀井正子によると、多恵子の実家では、

    ★肉の料理もカルシウム補給の鶏の骨の調理まで、すべてが当たり前になっていた。★
    (P141)

    「鶏の骨の調理」とは鶏ガラでダシをとるということですかね。昭和初期の日本で、家庭料理が西洋風だった。当時としてはかなり、モダア~~ン。
    シズとしては、とろい娘に付き合いきれなくて、料理を仕込み損ねたのかな。

    その多恵子が東京向島の下町にやって来ました。
    ビックリしました。そのビックリのおかげで、堀辰雄の知られざる一面が記録に残りました。

  • 多恵子はお風呂は夜入るものだと思っていました。<br />ところが辰雄は朝風呂。<br />さらに銭湯です。<br />下町では、これが普通だったのです。<br />昭和13年(1938年)、86年前の向島の銭湯がどんなものか。<br /><br />銭湯の歴史/東京銭湯/東京都浴場組合<br />https://www.1010.or.jp/guide/history/<br /><br />によると、大正、昭和初期には、ほぼ現代の銭湯の形になったようです。タイル張りの洗い場と、湯・水に水道式のカランが取り付けられました。<br />そこに通ってくる下町ッ子はどんな人達だったのか。<br /><br />手もとに式亭三馬の「浮世風呂」がありました。文化10年(1813年)ごろの銭湯のお話しです。<br />125年前の銭湯の方が86年後の現代より、昭和初期の銭湯に近いのではないか。<br />パラパラとめくってみました。<br /><br />出ました!<br />冒頭から「朝湯乃(の)光景(ありさま)」<br />まだ夜も明けぬうちに、お客が銭湯にやって来ます。<br /><br />★ばばばんざん(ばんとうさん)、起ねか(おけねか)、起ねか(おけねか)★<br /><br />銭湯の戸口で叫んでおります。この人どもりらしい。あれ、だれかさん?<br />紅のついたさらしの手ぬぐいを肩にかけた変なのもやって来る。<br />房楊枝で奥歯を磨きながら若い男も来ました。<br />3人が入り口で騒いでいると、ばんとうが大戸をあけて、<br />「どなたもお早うございます」<br /><br />本当だ、朝早くから銭湯はやっている。<br />番台のことを当時は「ばんとう」と呼んでいたんだ。<br />おそらく昭和初期の銭湯は、これに近かったのではないか。<br />(以上「浮世風呂」)<br /><br />一書に曰く、<br />朝シャン。とか朝シャワーとか、今っぽい。<br />顔洗う代わりに、お風呂に行ったんだろうか。<br />長風呂は、だるくなるから、さらっと、カラスの行水って感じでしょうかね。<br />By妻<br /><br />辰雄は向島ジモティです。銭湯では幼なじみと江戸弁で話したはず。<br />「浮世風呂」の江戸弁は、読めば現代口語でなんとか分かります。しかし、早口でこの通りにしゃべったら、たぶん今の私たちには半分も通じない。<br /><br />へんちくりんな格好<br />▲▼▲▼▲▼▲▼▲<br /><br />辰雄はズボンをはいていながら素足に下駄、といういでたちで銭湯に行きました。「へんちくりんな格好」と多恵子は言っております。<br />多恵子の実家では洋装なら靴、下駄は和装と決まっていたということ。<br />そういえば「浮世風呂」の連中も変な格好で来ている。<br />「うるさく言うんぢゃねえ、べやぼだぜ(べらぼうだぜ)」ということでしょう。<br /><br />★お台所で顔を洗うなんて、今でもできません。お台所でうがいなんかとてもじゃない。けれども向島には洗面所というのがなかったと思うんです。★<br />(P139)<br /><br />一書に曰く、<br />多恵子さんは香港での子ども時代、西洋風に家の中でも靴をはいていたのではないでしょうか。<br />そういう人には、和服に靴より、洋服に下駄のほうが、もっと奇妙だったのではないでしょうかね。<br />欧米人にとって、靴は、下着と同じくらいの必需品みたいです。<br />まだ歩けもしない赤ん坊にも靴をはかせます。<br />By妻<br /><br />二人の育った文化の違いでした。<br />二人ともカルチャーショックは大きかったみたい。<br /><br />松吉は腕のいい飾り職人で、お金がなかったわけではありません。近所の顔役でした。狭い台所もお風呂なしも、それが彼らには普通だったのです。<br />松吉は多恵子のために風呂桶を作ってくれたそうです。これが分からない。狭い家でしたから、風呂桶なんかどこにおいたのか。<br />中庭がある家でした。夏だったので屋外?<br />大きめの行水用のタライということでしょうか。<br /><br />2024/11/14追加<br />「山ぼうしの咲く庭で」に多恵子の香港の子ども時代の写真が何枚か載っています。それによると自宅である日本郵船の社宅は西洋風の建物のようです。<br />母親はピアノのある部屋で和服に草履、多恵子姉弟も家の中で靴を履いています。<br />私たちのフランス暮らしの経験でも、彼らは一日中靴を履いた生活でした。<br />ただし私たちは玄関で靴を脱いでいました。多恵子一家よりはるかに非西欧的暮らしぶりだったかも。<br />

    多恵子はお風呂は夜入るものだと思っていました。
    ところが辰雄は朝風呂。
    さらに銭湯です。
    下町では、これが普通だったのです。
    昭和13年(1938年)、86年前の向島の銭湯がどんなものか。

    銭湯の歴史/東京銭湯/東京都浴場組合
    https://www.1010.or.jp/guide/history/

    によると、大正、昭和初期には、ほぼ現代の銭湯の形になったようです。タイル張りの洗い場と、湯・水に水道式のカランが取り付けられました。
    そこに通ってくる下町ッ子はどんな人達だったのか。

    手もとに式亭三馬の「浮世風呂」がありました。文化10年(1813年)ごろの銭湯のお話しです。
    125年前の銭湯の方が86年後の現代より、昭和初期の銭湯に近いのではないか。
    パラパラとめくってみました。

    出ました!
    冒頭から「朝湯乃(の)光景(ありさま)」
    まだ夜も明けぬうちに、お客が銭湯にやって来ます。

    ★ばばばんざん(ばんとうさん)、起ねか(おけねか)、起ねか(おけねか)★

    銭湯の戸口で叫んでおります。この人どもりらしい。あれ、だれかさん?
    紅のついたさらしの手ぬぐいを肩にかけた変なのもやって来る。
    房楊枝で奥歯を磨きながら若い男も来ました。
    3人が入り口で騒いでいると、ばんとうが大戸をあけて、
    「どなたもお早うございます」

    本当だ、朝早くから銭湯はやっている。
    番台のことを当時は「ばんとう」と呼んでいたんだ。
    おそらく昭和初期の銭湯は、これに近かったのではないか。
    (以上「浮世風呂」)

    一書に曰く、
    朝シャン。とか朝シャワーとか、今っぽい。
    顔洗う代わりに、お風呂に行ったんだろうか。
    長風呂は、だるくなるから、さらっと、カラスの行水って感じでしょうかね。
    By妻

    辰雄は向島ジモティです。銭湯では幼なじみと江戸弁で話したはず。
    「浮世風呂」の江戸弁は、読めば現代口語でなんとか分かります。しかし、早口でこの通りにしゃべったら、たぶん今の私たちには半分も通じない。

    へんちくりんな格好
    ▲▼▲▼▲▼▲▼▲

    辰雄はズボンをはいていながら素足に下駄、といういでたちで銭湯に行きました。「へんちくりんな格好」と多恵子は言っております。
    多恵子の実家では洋装なら靴、下駄は和装と決まっていたということ。
    そういえば「浮世風呂」の連中も変な格好で来ている。
    「うるさく言うんぢゃねえ、べやぼだぜ(べらぼうだぜ)」ということでしょう。

    ★お台所で顔を洗うなんて、今でもできません。お台所でうがいなんかとてもじゃない。けれども向島には洗面所というのがなかったと思うんです。★
    (P139)

    一書に曰く、
    多恵子さんは香港での子ども時代、西洋風に家の中でも靴をはいていたのではないでしょうか。
    そういう人には、和服に靴より、洋服に下駄のほうが、もっと奇妙だったのではないでしょうかね。
    欧米人にとって、靴は、下着と同じくらいの必需品みたいです。
    まだ歩けもしない赤ん坊にも靴をはかせます。
    By妻

    二人の育った文化の違いでした。
    二人ともカルチャーショックは大きかったみたい。

    松吉は腕のいい飾り職人で、お金がなかったわけではありません。近所の顔役でした。狭い台所もお風呂なしも、それが彼らには普通だったのです。
    松吉は多恵子のために風呂桶を作ってくれたそうです。これが分からない。狭い家でしたから、風呂桶なんかどこにおいたのか。
    中庭がある家でした。夏だったので屋外?
    大きめの行水用のタライということでしょうか。

    2024/11/14追加
    「山ぼうしの咲く庭で」に多恵子の香港の子ども時代の写真が何枚か載っています。それによると自宅である日本郵船の社宅は西洋風の建物のようです。
    母親はピアノのある部屋で和服に草履、多恵子姉弟も家の中で靴を履いています。
    私たちのフランス暮らしの経験でも、彼らは一日中靴を履いた生活でした。
    ただし私たちは玄関で靴を脱いでいました。多恵子一家よりはるかに非西欧的暮らしぶりだったかも。

  • とっておきの新情報。<br />大野俊一(1903-1980)はドイツ文学者、辰雄の一高時代の友人です。浅草生まれ。<br />大正10年(1921年)一高西陵3番室で、神西、堀と同室でした。<br />神西清は美声の持ち主で、一高での流行歌のひろめ屋でした。5,6人の一高生を相手によくミニコンサートをやっていたとか。<br />「歌を忘れたカナリヤ」(1920年)がはやり始めたころです。<br />この歌が流行歌というのは現代ではピンときませんが、神西の持ち歌の一つだったそうです。<br /><br />★美声の神西と、音痴の堀辰雄が、たからかに寮歌を合唱する、一高時代の両名を想像せられよ。★<br />(筑摩別巻2「神西清と堀辰雄」P270)<br /><br />さあ、どうだ。堀辰雄が音痴だった動かぬ証言です。<br />

    とっておきの新情報。
    大野俊一(1903-1980)はドイツ文学者、辰雄の一高時代の友人です。浅草生まれ。
    大正10年(1921年)一高西陵3番室で、神西、堀と同室でした。
    神西清は美声の持ち主で、一高での流行歌のひろめ屋でした。5,6人の一高生を相手によくミニコンサートをやっていたとか。
    「歌を忘れたカナリヤ」(1920年)がはやり始めたころです。
    この歌が流行歌というのは現代ではピンときませんが、神西の持ち歌の一つだったそうです。

    ★美声の神西と、音痴の堀辰雄が、たからかに寮歌を合唱する、一高時代の両名を想像せられよ。★
    (筑摩別巻2「神西清と堀辰雄」P270)

    さあ、どうだ。堀辰雄が音痴だった動かぬ証言です。

  • 江戸っ子は「ひ」と「し」が区別できません。<br /><br />中村真一郎<br />▲▼▲▼▲<br />(作家、堀辰雄に師事、掘の言う「若い友人」1918-1997)<br /><br />★私は掘さんの文体の基礎にあるのは、東京人の話し言葉であるような気が、以前からしている。「東京人の話し言葉」といっても、掘さんの場合は、幼時の下町のそれであって、つまり明治になってできた標準語とは異なる、ニュアンスに富んだ江戸方言なのである。(中略)<br />掘さんの江戸弁について、最初の新潮社版全集の校正中に、「ひんがり」という表記を発見して、吹き出したことがあった。東京下町育ちの掘さんは、わきから聞いていると、「ひ」と「し」の区別がつかなかった。★(筑摩第6巻月報編集雑記P7)<br /><br />「ひんがり」を探してみました。<br />「麦藁帽子」でした。<br /><br />★そこで、私はお前にそっと捜りを入れてみる。皆の「しんがり」になって、家の方へ引き上げていきながら。★<br />(筑摩第1巻P250、「 」は筆者)<br /><br />巻末の校異によると、1932年(昭和7年)の初出では確かに「ひんがり」でした。1946年(昭和21年)の鎌倉文庫版「燃ゆる頬」に収録されたとき「しんがり」に訂正されました。<br />気がついたのが出版社の校正係ならば、掘は知らされたはず。なんと言ったか、聞きたいところです。<br /><br />「えっ、違うの?」<br /><br />だったかもしれません。<br />話し言葉ならともかく、書き言葉でも「ひ」と「し」の区別がつかないというのは、掘にはいかに江戸弁が体の奥までしみこんでいたか、分かります。江戸弁というより、江戸下町文化と言うべきでしょう。<br /><br />大野俊一<br />▲▼▲▼<br />また大野さんのお世話になります。<br /><br />★なにかのおりに、「そのシモ(紐)をとってくれ」と言って、(一高の寮の)同室の者から笑われたとき、掘は「シモだね、大野?」と私の加勢をたのんだ。それが一そう高い笑いをよびおこしたので、むくれあがった掘のため、私は下町そだちのよしみから、「うむ、シモといったっていいんだ」と答えねばならなかった。★(筑摩別巻2P271)<br /><br />「むくれあがった掘」の顔を見たい。<br /><br />一書に曰く、<br />日比谷と渋谷が分からない人だったんですね。<br />デートは、上野、池袋、にしましょうか。<br />「し」も「ひ」もないもんね。<br />外国語堪能な多恵子さんだって、日比谷のデートに、渋谷に行きそうです。<br />By妻<br /><br />しきりなし<br />▲▼▲▼▲<br /><br />大野は「菜穂子」で次のような指摘をしています。<br /><br />★日暮れどきなど、南の方で「しきりなし」に稲光りがする。★(「 」は筆者。菜穗子・楡の家・第一部、筑摩第2巻P334)<br /><br />「ひっきりなし」を「しきりなし」と書いているという指摘です。<br />これは「ひ」と「し」の混同ではありません。両方とも正しい表記で、同じ意味です。堀辰雄の文章では「しきりなし」が「菜穗子」で6例、「かげろうの日記」で1例ありました。「ひっきりなし」は「快復期」に2例あります。<br />「しきりなし」のほうが、掘の好みだったのでしょう。<br />電子版の堀辰雄全集は、全作品を収録していませんが、主要作品は入っています。<br /><br />手持ちの電子版全集でしらべてみました。江戸っ子作家は夏目漱石、芥川龍之介。地方出身では島崎藤村と太宰治。<br />漱石。「しきりなし」「仕切りなし」計4例、「ひっきりなし」「引っ切りなし」0。<br />龍之介。「しきりなし」2例、「ひっきりなし」「引っ切りなし」0。<br />藤村。両方ともありません。<br />治。「しきりなし」「仕切りなし」0。「ひっきりなし」1例。<br /><br />辰雄、漱石、龍之介に「しきりなし」の用例がありますので、一応江戸っ子作家が使う言い回しではあるようです。<br />信州、津軽出身の2人は「しきりなし」とは書きません。藤村にいたっては「絶え間なき」が1例あるだけで、この種の表現は嫌いみたいです。<br />

    江戸っ子は「ひ」と「し」が区別できません。

    中村真一郎
    ▲▼▲▼▲
    (作家、堀辰雄に師事、掘の言う「若い友人」1918-1997)

    ★私は掘さんの文体の基礎にあるのは、東京人の話し言葉であるような気が、以前からしている。「東京人の話し言葉」といっても、掘さんの場合は、幼時の下町のそれであって、つまり明治になってできた標準語とは異なる、ニュアンスに富んだ江戸方言なのである。(中略)
    掘さんの江戸弁について、最初の新潮社版全集の校正中に、「ひんがり」という表記を発見して、吹き出したことがあった。東京下町育ちの掘さんは、わきから聞いていると、「ひ」と「し」の区別がつかなかった。★(筑摩第6巻月報編集雑記P7)

    「ひんがり」を探してみました。
    「麦藁帽子」でした。

    ★そこで、私はお前にそっと捜りを入れてみる。皆の「しんがり」になって、家の方へ引き上げていきながら。★
    (筑摩第1巻P250、「 」は筆者)

    巻末の校異によると、1932年(昭和7年)の初出では確かに「ひんがり」でした。1946年(昭和21年)の鎌倉文庫版「燃ゆる頬」に収録されたとき「しんがり」に訂正されました。
    気がついたのが出版社の校正係ならば、掘は知らされたはず。なんと言ったか、聞きたいところです。

    「えっ、違うの?」

    だったかもしれません。
    話し言葉ならともかく、書き言葉でも「ひ」と「し」の区別がつかないというのは、掘にはいかに江戸弁が体の奥までしみこんでいたか、分かります。江戸弁というより、江戸下町文化と言うべきでしょう。

    大野俊一
    ▲▼▲▼
    また大野さんのお世話になります。

    ★なにかのおりに、「そのシモ(紐)をとってくれ」と言って、(一高の寮の)同室の者から笑われたとき、掘は「シモだね、大野?」と私の加勢をたのんだ。それが一そう高い笑いをよびおこしたので、むくれあがった掘のため、私は下町そだちのよしみから、「うむ、シモといったっていいんだ」と答えねばならなかった。★(筑摩別巻2P271)

    「むくれあがった掘」の顔を見たい。

    一書に曰く、
    日比谷と渋谷が分からない人だったんですね。
    デートは、上野、池袋、にしましょうか。
    「し」も「ひ」もないもんね。
    外国語堪能な多恵子さんだって、日比谷のデートに、渋谷に行きそうです。
    By妻

    しきりなし
    ▲▼▲▼▲

    大野は「菜穂子」で次のような指摘をしています。

    ★日暮れどきなど、南の方で「しきりなし」に稲光りがする。★(「 」は筆者。菜穗子・楡の家・第一部、筑摩第2巻P334)

    「ひっきりなし」を「しきりなし」と書いているという指摘です。
    これは「ひ」と「し」の混同ではありません。両方とも正しい表記で、同じ意味です。堀辰雄の文章では「しきりなし」が「菜穗子」で6例、「かげろうの日記」で1例ありました。「ひっきりなし」は「快復期」に2例あります。
    「しきりなし」のほうが、掘の好みだったのでしょう。
    電子版の堀辰雄全集は、全作品を収録していませんが、主要作品は入っています。

    手持ちの電子版全集でしらべてみました。江戸っ子作家は夏目漱石、芥川龍之介。地方出身では島崎藤村と太宰治。
    漱石。「しきりなし」「仕切りなし」計4例、「ひっきりなし」「引っ切りなし」0。
    龍之介。「しきりなし」2例、「ひっきりなし」「引っ切りなし」0。
    藤村。両方ともありません。
    治。「しきりなし」「仕切りなし」0。「ひっきりなし」1例。

    辰雄、漱石、龍之介に「しきりなし」の用例がありますので、一応江戸っ子作家が使う言い回しではあるようです。
    信州、津軽出身の2人は「しきりなし」とは書きません。藤村にいたっては「絶え間なき」が1例あるだけで、この種の表現は嫌いみたいです。

  • 江戸弁で有名なのは池田弥三郎と高橋義孝。<br /><br />池田弥三郎(1914-1982)は国文学者、慶應大学文学部教授。弥三郎の愛称で、女子学生に絶大な人気がありました。<br />公開講座を聴講したことがあります。<br />題名、内容は覚えていません。<br />江戸弁というのはこういうものかと思ったのを覚えています。早口で歯切れのいい話し方でした。<br /><br />高橋義孝(1913-1995)はドイツ文学者。九州大学教授、名古屋大学教授。<br />By妻が講義を聴いたことがあるそうです。<br /><br />つい最近テレビで、淺草商店街の旦那衆の江戸弁を聞きました。<br />弥三郎と同じしゃべり方。<br />これはおそらく江戸弁でも改まったよそ行きの話し方でしょう。テレビに映っているのに、旦那衆が「べらんめえ!」とかいうはずがない。<br />とにかくテンポ早く軽快でした。<br />所謂「標準語」とは違うものです。<br /><br />「浮世風呂」では「ございます」→「ござんす」→「ごっす」となまっていったことが分かるそうです。(P24の注)<br />「ごっす」の語尾に「ナ」がついて「ごっすナ」<br />「ございます」を「ごあんナ」と発音する江戸っ子が知人にいました。<br />「ごあんナ」の語尾「ナ」は、江戸時代から使われていたんだ!<br /><br />濁音を嫌ったのかもしれません。清々しい印象です。<br />格助詞「が」は鼻音になります。<br />こんにちのはやり歌の歌手さんには、この「が」の濁音をわざわざ強めに歌う人がいます。あれは醜い。<br /><br />一書に曰く、<br />江戸っ子の言葉というと、<br />てやんでぃ、すっとこどっこい。<br />とかの、べらんめい調と思う人が多いと思うのですが、声を大きくして申し上げます。<br />まちがいです!!<br />本当の江戸弁は、上品で聴き心地のよいものです。<br />濁音が軽いのです。<br />「でございます」が、「でごあんす」って感じですかね。<br />池田先生も高橋先生も、そういう発音でした。<br />それを聞くと、あ~自分は、なんて田舎者なんだろう。と思ったものでした。<br />By妻<br /><br />堀辰雄が室生犀星の前で喋っていた江戸弁は、たぶんこんな感じの、きれいな江戸弁だったはず。<br />犀星が聞き惚れたのは、分かるような気がします。<br />

    江戸弁で有名なのは池田弥三郎と高橋義孝。

    池田弥三郎(1914-1982)は国文学者、慶應大学文学部教授。弥三郎の愛称で、女子学生に絶大な人気がありました。
    公開講座を聴講したことがあります。
    題名、内容は覚えていません。
    江戸弁というのはこういうものかと思ったのを覚えています。早口で歯切れのいい話し方でした。

    高橋義孝(1913-1995)はドイツ文学者。九州大学教授、名古屋大学教授。
    By妻が講義を聴いたことがあるそうです。

    つい最近テレビで、淺草商店街の旦那衆の江戸弁を聞きました。
    弥三郎と同じしゃべり方。
    これはおそらく江戸弁でも改まったよそ行きの話し方でしょう。テレビに映っているのに、旦那衆が「べらんめえ!」とかいうはずがない。
    とにかくテンポ早く軽快でした。
    所謂「標準語」とは違うものです。

    「浮世風呂」では「ございます」→「ござんす」→「ごっす」となまっていったことが分かるそうです。(P24の注)
    「ごっす」の語尾に「ナ」がついて「ごっすナ」
    「ございます」を「ごあんナ」と発音する江戸っ子が知人にいました。
    「ごあんナ」の語尾「ナ」は、江戸時代から使われていたんだ!

    濁音を嫌ったのかもしれません。清々しい印象です。
    格助詞「が」は鼻音になります。
    こんにちのはやり歌の歌手さんには、この「が」の濁音をわざわざ強めに歌う人がいます。あれは醜い。

    一書に曰く、
    江戸っ子の言葉というと、
    てやんでぃ、すっとこどっこい。
    とかの、べらんめい調と思う人が多いと思うのですが、声を大きくして申し上げます。
    まちがいです!!
    本当の江戸弁は、上品で聴き心地のよいものです。
    濁音が軽いのです。
    「でございます」が、「でごあんす」って感じですかね。
    池田先生も高橋先生も、そういう発音でした。
    それを聞くと、あ~自分は、なんて田舎者なんだろう。と思ったものでした。
    By妻

    堀辰雄が室生犀星の前で喋っていた江戸弁は、たぶんこんな感じの、きれいな江戸弁だったはず。
    犀星が聞き惚れたのは、分かるような気がします。

  • フランス語に、”Accents Parisian(アクサン・パリジアン)というのがあります。パリ方言、パリ弁ですね。<br />やたらに早口で、口先でペラペラという感じで喋ります。私たち外国人には非常に聞き取りにくい。標準フランス語にはないスラングも多いようです。古いフランス映画には出てきます。<br />ひと昔前は、パリ左岸カルチェ・ラタンで学生が話すフランス語に面影を残すと言われました。あれがそうなのかな。<br />日本語が分かる外国人が江戸弁をきいたら、こんな印象をもつかもしれません。<br /><br />「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりではらわたは無し」という川柳があります。解釈はいろいろあるようですが「口先ばかり」というのはこういう話し方を言うのではないかと思っています。<br /><br />蛇足です。<br />Accents Midi(アクサン・ミディ)は、マルセイユあたりのフランス南部の方言です。標準フランス語を潰したような感じ。日本だと関西弁の位置づけです。アクサン・ミディの話者は、絶対に標準フランス語を話しません。話せないのか、話さないのか、どっちかな。<br />ブルトン方言を話す友人もいました。彼も方言で押し通しました。彼の場合、ブルトンしか話せない。母音に強いクセがありますが、トロいしゃべり方で、慣れれば聞き取りやすい。<br />ところがフランス語は単語の綴りに完全な決まりがあって、方言をそのまま書くことが出来ないのです。正書法というそうです。アカデミイ・フランセーズがうるさい。<br />方言を平仮名でとにかく表記できるのは、日本語の非常に優れたところです。<br />そのおかげで、200年前の日本語の話し言葉が現代に伝わりました。「浮世風呂」から、堀辰雄が向島でどんなふうにしゃべっていたか、想像できるのです。<br />

    フランス語に、”Accents Parisian(アクサン・パリジアン)というのがあります。パリ方言、パリ弁ですね。
    やたらに早口で、口先でペラペラという感じで喋ります。私たち外国人には非常に聞き取りにくい。標準フランス語にはないスラングも多いようです。古いフランス映画には出てきます。
    ひと昔前は、パリ左岸カルチェ・ラタンで学生が話すフランス語に面影を残すと言われました。あれがそうなのかな。
    日本語が分かる外国人が江戸弁をきいたら、こんな印象をもつかもしれません。

    「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりではらわたは無し」という川柳があります。解釈はいろいろあるようですが「口先ばかり」というのはこういう話し方を言うのではないかと思っています。

    蛇足です。
    Accents Midi(アクサン・ミディ)は、マルセイユあたりのフランス南部の方言です。標準フランス語を潰したような感じ。日本だと関西弁の位置づけです。アクサン・ミディの話者は、絶対に標準フランス語を話しません。話せないのか、話さないのか、どっちかな。
    ブルトン方言を話す友人もいました。彼も方言で押し通しました。彼の場合、ブルトンしか話せない。母音に強いクセがありますが、トロいしゃべり方で、慣れれば聞き取りやすい。
    ところがフランス語は単語の綴りに完全な決まりがあって、方言をそのまま書くことが出来ないのです。正書法というそうです。アカデミイ・フランセーズがうるさい。
    方言を平仮名でとにかく表記できるのは、日本語の非常に優れたところです。
    そのおかげで、200年前の日本語の話し言葉が現代に伝わりました。「浮世風呂」から、堀辰雄が向島でどんなふうにしゃべっていたか、想像できるのです。

  • 冒頭の隅田公園案内板の地図を拡大しました。<br />1.上條松吉と再婚した母しずの連れ子として、ここで暮らし始めました。1908年(明治41年)辰雄2才。<br />2は小梅の最初の家、関東大震災後3に移りました。<br />

    冒頭の隅田公園案内板の地図を拡大しました。
    1.上條松吉と再婚した母しずの連れ子として、ここで暮らし始めました。1908年(明治41年)辰雄2才。
    2は小梅の最初の家、関東大震災後3に移りました。

  • 1は現在は墨田区福祉センターです。

    1は現在は墨田区福祉センターです。

  • 「堀辰雄住居跡」という案内板がありました。

    「堀辰雄住居跡」という案内板がありました。

  • 案内板の写真。1915年(大正4年)<br />養父松吉と11才の堀辰雄。<br />松吉の生年は1873年(明治6年)ですから、この時42才。いい男、いい貫禄です。<br />

    案内板の写真。1915年(大正4年)
    養父松吉と11才の堀辰雄。
    松吉の生年は1873年(明治6年)ですから、この時42才。いい男、いい貫禄です。

  • 隅田公園案内板の真後ろ、道路の向こうの茶色いマンションのあたりに、堀辰雄の家3はあったみたいです。<br />谷田昌平によれば1928年(昭和3年、辰雄24才)室生犀星が来ています。(墨東の堀辰雄P157)<br />この家には堀夫妻のあと、母方の親戚が住んでいました。1992年(平成4年)にその方が家を手放し、跡地に現在の5階建てのマンションが建てられたそうです。以上「墨東の堀辰雄」P56より。<br />

    隅田公園案内板の真後ろ、道路の向こうの茶色いマンションのあたりに、堀辰雄の家3はあったみたいです。
    谷田昌平によれば1928年(昭和3年、辰雄24才)室生犀星が来ています。(墨東の堀辰雄P157)
    この家には堀夫妻のあと、母方の親戚が住んでいました。1992年(平成4年)にその方が家を手放し、跡地に現在の5階建てのマンションが建てられたそうです。以上「墨東の堀辰雄」P56より。

  • 今となっては、東京のどこにでもある町並みです。<br />歩いている方もおそらく江戸弁は話さない。<br /><br />一書に曰く、<br />東京下町は、何かと災害の被害が大きいところでした。<br />関東大震災のときも太平洋戦争のときも、焼け野原になってしまいました。<br />けれど、復興しました<br />何度でも立ち直ったのです。<br /><br />今は、美しく整備された、住宅地でした。<br />昔は、職人の街、工場の街でしたが、今は、オシャレなマンションの街になっておりました。<br />By妻<br />

    今となっては、東京のどこにでもある町並みです。
    歩いている方もおそらく江戸弁は話さない。

    一書に曰く、
    東京下町は、何かと災害の被害が大きいところでした。
    関東大震災のときも太平洋戦争のときも、焼け野原になってしまいました。
    けれど、復興しました
    何度でも立ち直ったのです。

    今は、美しく整備された、住宅地でした。
    昔は、職人の街、工場の街でしたが、今は、オシャレなマンションの街になっておりました。
    By妻

  • 隅田公園はかつて水戸藩の藩邸でした。しかし今は面影を残しません。

    隅田公園はかつて水戸藩の藩邸でした。しかし今は面影を残しません。

  • このあたりでかろうじて堀辰雄のころを偲べるのは、隅田公園の北の端、牛嶋神社。

    このあたりでかろうじて堀辰雄のころを偲べるのは、隅田公園の北の端、牛嶋神社。

  • ♪

  • 幼い辰雄はこの神社が大好きだったそうです。<br />境内を駆け回って、松吉に、<br />「コリャコリャ、じやうけるな」などと言われたりして。<br />出典は「浮世風呂」<br />「じやうけるな」は「ふざけるな」<br />これは現代語には引き継がれなかったようです。<br /><br />父親に連れられて銭湯に行く途中、<br />「早くおぶうに行こ」とか言っていたのではないか。<br /><br />「おぶう」はお風呂の幼児語。<br />By妻は知っていました。私は聞いたことありません。<br />「おぶう」のほかに「ばばっちい」(汚い)、「わんわん」「おんぶ」「あんよ」「おんり」「べべ」(衣類)などの幼児語が「浮世風呂」では使われています。<br />現代に生き残っています。<br /><br />かなりの言葉が現代語につながっているはずです。それがまして昭和初期なら、ほぼそのままではなかったのか。<br />堀辰雄が湯船に浸かりながら、「浮世風呂」のような語り口で向島の幼なじみとしゃべっていたというのは、楽しい想像です。<br />

    幼い辰雄はこの神社が大好きだったそうです。
    境内を駆け回って、松吉に、
    「コリャコリャ、じやうけるな」などと言われたりして。
    出典は「浮世風呂」
    「じやうけるな」は「ふざけるな」
    これは現代語には引き継がれなかったようです。

    父親に連れられて銭湯に行く途中、
    「早くおぶうに行こ」とか言っていたのではないか。

    「おぶう」はお風呂の幼児語。
    By妻は知っていました。私は聞いたことありません。
    「おぶう」のほかに「ばばっちい」(汚い)、「わんわん」「おんぶ」「あんよ」「おんり」「べべ」(衣類)などの幼児語が「浮世風呂」では使われています。
    現代に生き残っています。

    かなりの言葉が現代語につながっているはずです。それがまして昭和初期なら、ほぼそのままではなかったのか。
    堀辰雄が湯船に浸かりながら、「浮世風呂」のような語り口で向島の幼なじみとしゃべっていたというのは、楽しい想像です。

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この旅行記へのコメント (12)

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  • 前日光さん 2024/12/21 16:31:40
    いつも新情報を。。。
    しにあさん&by妻さん、こんにちは!
    お久しぶりです。
    昨日やっと例の随筆の編集(第一次)が終わり、印刷所に渡すことができました。
    もう師走どころか、20日も経たないうちに新年を迎える時期になってしまいました(+o+)
    月日の経つのの速さに、そら恐ろしくなります。

    さて堀辰雄の「あたい」って。。。(-_-;)
    下町言葉だったのでしょうが、あまり知りたくはありませんでした。
    大伯の皇女が、大女だったとか、今回の堀の言葉遣いだとか。
    イメージが覆ること甚だしいです(>_<)

    そういえば、父方の叔母は東京王子に住んでいましたが、私が小さかった頃わが実家に来た時、「おシ、おシ」と言っておりまして、なんのことか分からなかったのですが、
    「お火」と言っていたのです。
    「火」に、丁寧語の「お・御」を付けていたことになります。
    東京の人って、「ヒ」と「シ」を逆に言うんだということを、体験的に学んだということになります。

    さて栃木県の方言ですが、U字工事のなまりは絶妙です!
    県民でも、あそこまで訛れません。
    自民党の元幹事長の茂木氏も、足利県民なのに、かなりの訛りっぷりですが、県南の人なのに、なぜ訛っているのか理解できません。
    足利市民は群馬に近いので、あまり訛らないのです。

    栃木県のもう一つの訛りは「い」と「え」が逆になってしまうというのがあります。
    高校時代の担任と中学時代の家庭科の先生は、特に際立っておりました。
    「そこのエすに座って!」という家庭科の先生には驚きました。
    「椅子」のことを「エス」というのです。
    高校の担任の極めつけは「色鉛筆」のことを「エろイんぴつ」と言うのです。
    その鉛筆で、何を書くのだ!と、思ったことを思い出しました。

    いろいろ思い出させていただきましたが、しにあさんの考察は、幻滅を感じることが多いです。
    なお、栃木県の訛りについては、最近の若い世代では、かなり減少してきていることもつ加えておきます。
    県民の名誉のために(^_-)-☆


    前日光
  • pedaruさん 2024/11/03 07:55:35
    江戸っ子 堀辰雄
     しにあの旅人さん おはようございます。

     抱腹絶倒は大げさですが、思わず笑ってしまったことは事実です。堀辰雄が「あたい」と言っていたとは初耳でした。しにあさんの知識の引き出しにはいつも感心いたします。
     私は群馬の田舎町でそだちましたが、江戸と共通点のある言葉がある気がします。
    いつの間にか銭湯のことをお風呂へ行くなどと言うようになりましたが、子供の頃は「おゆにいく」と言って「お湯や」と呼んでいました。
    落語などではやはり「ゆー行ってくらぁ」などと言ってますね。関東あたりでは「ゆ」が多かったのかな、と思います。

     私の仕事の師匠が何代も続いた江戸っ子でして、今ではあまり聞けない江戸弁をはなしていました。「○○ちゃん、そうしちゃいけねぇよ」「そうじゃねぇじゃねぇか」などと言う調子でした。考えてみれば師匠が死んだ歳をとっくに過ぎて、まだ生きている私ですから、私の言う昔もかなり前のことになります。江戸っ子なんてもういませんね。

     浅草から浜離宮まで船で行き、結婚相手を母に初めて会わせるという事が思い出されますが、その時の墨田川の汚かったこと、しにあ妻さんの表現の適切なのに感心したところです。

     墨田公園や向島を自転車でぐるぐる走ったことがあります、旅行記にも書いていますが、文人墨客の愛でた土地ということで興味がありました。小説家の住まい跡も何か所が見ました。
     しにあさんのユニークな構成で楽しませていただきました。

     pedaru

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/11/03 16:53:50
    Re: 江戸っ子 堀辰雄
    堀辰雄の「あたい」には驚きましたね。
    そういうことを絶対に言いそうもない堀辰雄が言っているのが愉快。

    私の場合、銭湯は昭和20年代後半の数年間通っていました。4~6才くらい、祖母に連れられて、女湯でした。東京大田区の工場街だったと思います。
    おぼろげな記憶なのですが、「お風呂」と呼んでいたようです。「お湯」だったかなあ。「銭湯」とは言っていなかった。
    「浮世風呂」の挿絵と同じようでした。
    一説によると、江戸時代の銭湯は「入れ込み湯」つまり混浴が多かった、となっていますが、「浮世風呂」にはそんな描写はないですね。

    子どもの記憶ですが、銭湯に入ると中央に番台があって、番台さんが女湯男湯共通の見張りをしていました。それがおじさんだったような気もします。
    「浮世風呂」の挿絵だと、男湯、女湯、完全に分かれています。女湯には女のばんとうさん。
    昭和20年代の銭湯の方が適当でした。

    私の銭湯では、三助というシャツにパッチのようなものをはいたおっさんが、女湯のおばさん連中の背中を流していました。別料金で、番台で木札のようなものを買っていたような覚えがあります。それをもっていると三助さんが回ってくる。
    だれもなにも言わなかった。「浮世風呂」以来数百年の伝統ですから、みんなそんなものだと思っていたのですね。
    おおらかな時代でした。

    戦後の、やっとその日食べていける、皆が貧しい状態でしたが、みなさん節度をもって、ゆるやかに暮らしていたのだと思います。
  • pedaruさん 2024/11/03 07:55:35
    江戸っ子 堀辰雄
     しにあの旅人さん おはようございます。

     抱腹絶倒は大げさですが、思わず笑ってしまったことは事実です。堀辰雄が「あたい」と言っていたとは初耳でした。しにあさんの知識の引き出しにはいつも感心いたします。
     私は群馬の田舎町でそだちましたが、江戸と共通点のある言葉がある気がします。
    いつの間にか銭湯のことをお風呂へ行くなどと言うようになりましたが、子供の頃は「おゆにいく」と言って「お湯や」と呼んでいました。
    落語などではやはり「ゆー行ってくらぁ」などと言ってますね。関東あたりでは「ゆ」が多かったのかな、と思います。

     私の仕事の師匠が何代も続いた江戸っ子でして、今ではあまり聞けない江戸弁をはなしていました。「○○ちゃん、そうしちゃいけねぇよ」「そうじゃねぇじゃねぇか」などと言う調子でした。考えてみれば師匠が死んだ歳をとっくに過ぎて、まだ生きている私ですから、私の言う昔もかなり前のことになります。江戸っ子なんてもういませんね。

     浅草から浜離宮まで船で行き、結婚相手を母に初めて会わせるという事が思い出されますが、その時の墨田川の汚かったこと、しにあ妻さんの表現の適切なのに感心したところです。

     墨田公園や向島を自転車でぐるぐる走ったことがあります、旅行記にも書いていますが、文人墨客の愛でた土地ということで興味がありました。小説家の住まい跡も何か所が見ました。
     しにあさんのユニークな構成で楽しませていただきました。

     pedaru

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/11/05 11:14:22
    Re: 江戸っ子 堀辰雄
    削除イヤです。
    kummingさんによると、百の「いいね」より一つのコメント。
    ましてpedaruさんであれば値千金。
    このままとっておきます。

    pedaru

    pedaruさん からの返信 2024/11/05 21:13:03
    RE: Re: 江戸っ子 堀辰雄
    > 削除イヤです。
    > kummingさんによると、百の「いいね」より一つのコメント。
    > ましてpedaruさんであれば値千金。
    > このままとっておきます。

     困りました。

     pedaru
  • ももであさん 2024/10/29 17:36:39
    あたいの村

    辰ちゃんは自分のことを「あたい」と呼んでいたのですか。
    浅香唯だけかと思っていました!?
    あのちゃんが自分のことを「ぼく」と呼ぶよふなものですね?

    この辺りは、東京ミズマチやすみだリバーウォークができ、
    随分と雰囲気が変わりました。少しスカイツリー寄りに
    300円カレーを提供する昭和レトロな菊屋食堂があって
    大好きな店なのですが、つい最近そこも臨時休業中...
    下町感が少ひずつ消えているよふで心配です。

    Accents Midi...
    どうりでマルセイユのレストランでは何言ってるか分からなかった?
    "マルセイユでも、あたいの店のブイヤベースが一番おいひいわよ"
    Même à Marseille, c’est ma bouillabaisse qui est la meilleure, tu sais

    tu saisにいかにもMidiのオラが村感と地元愛の出汁が出ています?
    地元を愛す。辰ちゃんも地元が好きでじやうけたのでしょうね

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/10/29 21:19:27
    Re: あたいの村
    新シリーズお初、感謝です。
    あいもかわらず堀辰雄です。気の利いた幽霊ならとうに引っ込んでいるはずですが、あきらめません。
    このシリーズは、調べていくうちに出てきた単品のエピソードを並べます。

    本来4トラのブログの範疇には入らないことは百も承知ですが、枯れ木の山の賑わいとお付き合いください。

    堀辰雄の「あたい」にはビックリしました。軽く「浮世風呂」まで遡る日本語の言語空間と、独、仏、英の言語の二重構造に、彼は生きていたんですね。
    ビックリです。

    マルセイユのブイヤベースですか。
    もう一度食べてみたいなあ。
    同じ南仏、ツールーズのカスレは食べたことありますか。
    名物だそうで食べましたが、あとでフランス人の友人に「あれは人間が食うもんではない、豚の餌だ」と言われました。
    二度と食べたくないフランス料理です。

    ももであ

    ももであさん からの返信 2024/10/29 21:57:38
    カスレ豚
    > 同じ南仏、ツールーズのカスレは食べたことありますか。

    はいはい。カルカッソンヌ名物なので食べました。
    あそこは籠城して食糧が不足しても、やせ我慢で豚を放り投げ
    相手の戦意を喪失させたみたいな逸話がありましたよね。

    意外とその豚とも関係するのでしょうか?
    美味しかったですけどね(lol)

    mistral

    mistralさん からの返信 2024/10/30 19:52:11
    Re: あたいの村
    しにあさん
    (ももであさんにも届くのでしょうか?)

    横レス、失礼します。
    堀辰雄の「あたい」考察の旅行記にコメントを書こうと戻ってきましたら
    お二人のカスレ談義に惹かれてしまいました。
    ツールーズはカスレで有名ですよね。
    でも私もカルカッソンヌでいただきました。
    ヴォリュームがかなりあって1人では完食できず、
    フォアグラののったサラダと共に2人でシェアしてなんとか
    いただきました。
    それなりに美味しかったんです。
    人間の食べるものではない?!
    フランス人の感覚からしたら、ごった煮みたいで
    繊細さもない食べ物なのかも。

    その後、四谷のとあるお店でカスレをいただきましたら
    とっても美味しかった記憶があります。
    日本人の繊細な感覚が加わってひと味違っていたのかも。

    mistral

    ももであ

    ももであさん からの返信 2024/10/30 22:35:08
    人vs豚

    ほんとカスレって、やけにボリューミーですよね
    しかもあの量に対して小ぶりの器だから溢れんばかり!
    それをふごふご食べてたら、なるほど豚の餌!?

    大豆やいんげん豆って家畜の飼料に使われるから
    欧米では元々家畜の餌のイメージが強いですね

    でも近年は大人気クラブハリエのバームクーヘンを
    食べて育ったお豚様が現れるご時世
    豚の方が人様より良いもの食べてます

    カスレ食べてる人を見て豚は、「あんな人の餌
    なんて食えるか!」って思ってたりして♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/10/31 10:28:52
    Re: あたいの村
    カスレブタの餌説の根拠はやは量ですね。
    すごい量、ほとんど豆。
    コルマールで食べた鯉のぶつ切りの唐揚げもすごかった。
    子どもの握りこぶしくらいの唐揚げがお皿に山盛り。生前の鯉の寸法が分かりませんが、真鯉一匹じゃないかな。
    いくらフランス人でも食べきれないでしょう。余ったらカスレも鯉も豚の餌、だから豚の餌でいいのかも。

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