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堀辰雄と戦争のかかわり。<br />何かあるか。<br />結論から言います。何もありません。<br />不思議、あるいは不自然なくらい何もありません。<br /><br />堀辰雄の生きた時代、1904年-1953年のうち、1937年から1945年までは戦争の時代でした。作家として活動したのは1927年以降ですから、18年くらいは堀の周囲には戦争がありました。<br />掘の作品、手紙、多恵子の文章を調べましたが、時代にコミットするような表現はありませんでした。<br />しかしその周囲まで範囲を拡げると、いくつか掘と戦争との接点が出てきました。<br /><br />参考資料は「堀辰雄紀行1 信濃追分、By夫19歳の旅」<br />https://4travel.jp/travelogue/11804894<br />にまとめてあります。<br />引用では僭越ながら敬称を略させて頂きます。<br /><br />投稿日:2024/12/15<br />

堀辰雄紀行 フィールドノート3 二人の約束

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2023/02/03 - 2023/02/03

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

堀辰雄と戦争のかかわり。
何かあるか。
結論から言います。何もありません。
不思議、あるいは不自然なくらい何もありません。

堀辰雄の生きた時代、1904年-1953年のうち、1937年から1945年までは戦争の時代でした。作家として活動したのは1927年以降ですから、18年くらいは堀の周囲には戦争がありました。
掘の作品、手紙、多恵子の文章を調べましたが、時代にコミットするような表現はありませんでした。
しかしその周囲まで範囲を拡げると、いくつか掘と戦争との接点が出てきました。

参考資料は「堀辰雄紀行1 信濃追分、By夫19歳の旅」
https://4travel.jp/travelogue/11804894
にまとめてあります。
引用では僭越ながら敬称を略させて頂きます。

投稿日:2024/12/15

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 1941年(昭和16年)10月10日より、堀辰雄は奈良に滞在しました。多恵子は東京杉並の自宅で留守番。帰路12月5日より神戸泊、12月6日付けの野村英夫あて葉書に、<br /><br />★今日は神戸を散歩し、午後帰京する。★<br />(筑摩書簡485)<br /><br />12月8日、堀夫妻は東京にいました。<br /><br />堀夫妻は1941年夏に軽井沢に別荘を買いました。別荘1412です。夏はこの別荘、冬は杉並の自宅で過ごしました。<br />写真は2008年に軽井沢高原文庫に移築された1412です。<br /><br />

    1941年(昭和16年)10月10日より、堀辰雄は奈良に滞在しました。多恵子は東京杉並の自宅で留守番。帰路12月5日より神戸泊、12月6日付けの野村英夫あて葉書に、

    ★今日は神戸を散歩し、午後帰京する。★
    (筑摩書簡485)

    12月8日、堀夫妻は東京にいました。

    堀夫妻は1941年夏に軽井沢に別荘を買いました。別荘1412です。夏はこの別荘、冬は杉並の自宅で過ごしました。
    写真は2008年に軽井沢高原文庫に移築された1412です。

  • 出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録<br /><br />戦争が激しくなると、夫妻は信濃追分の旅館油屋の主人が用意してくれた家に疎開しました。現在の「信濃追分文化磁場油や」となりでした。今はあとかたもありません。<br />1944年(昭和19年)9月17日のことです。この8畳、6畳、3畳、台所という小さな家で、2人は戦争末期、戦後を過ごしたのです。<br /><br />戦後の堀辰雄の人気<br />▲▼▲▼▲▼▲▼▲<br /><br />河盛好藏は戦後1年ほど新潮社の顧問でした。その河盛の頼みに応じて堀が書いたのが「雪の上の足跡」です。1946年(昭和21年)「新潮」3月号に発表されました。堀のまとまった作品としてはこれが最後です。<br /><br />★・・・のみならず私の懇請に応じて「雪の上の足跡」を書いてくれた。あの原稿をもらったときは実に嬉しかった。当時はどの雑誌社も堀君の原稿を喉から手が出るように欲しがっていた。★<br />(筑摩別巻2「二つの思いで」P393)<br /><br />旧作の雑誌掲載、すでに発表された作品を組み合わせた作品集を各社が出したがりました。<br />中野綾子(明治学院大学助教授、発表時早大大学院)の「堀辰雄ブームの検証」(2013年)によると、1946年1年間で、「雪の上の足跡」以外に、旧作の雑誌掲載が5作、単行本が6冊刊行されています。<br />この時代、出版社は戦後の混乱からまだ立ち直っていませんでした。紙もインクも、印刷機も不足していました。しかし競って堀作品の出版をあえて行いました。(下記P57)<br />https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/11/62_55/_pdf/-char/ja<br /><br />なぜか。<br />神西清によれば、<br /><br />★先日中村光夫君から聞いたが、今度の戦没学生の手紙を集めてみたら殆どみんなが君の愛読者だったといふ。同じ話はその後異ふ方面の人達からも聞いた。★<br />(筑摩来簡210神西清→堀辰雄)<br /><br />1946年(昭和21年)3月18日の手紙です。<br />少なくない戦没学生は、自分たちが知的エリートである誇りの拠り所として、堀辰雄の本をもって戦場に向かったのです。<br />大学生が、その世代のほんの一握りの若者たちだった時代です。<br /><br />同様のことを堀田善衛も書いています。(筑摩別巻2「乱世文学者」P215)<br />堀田は昭和16-17年(1941-42年)頃、杉並区成宗の堀の家の近くに住んでいました。一度訪ねて話したことがありました。<br />堀は堀田にとって、隣近所であると同時に「私自身の内心に於いてもそうであった」<br /><br />★早く出征した友人たちから、堀さんの新しい本が出たらしいが、送ってくれないか、という手紙を三通ほど受け取った記憶がある。送り先は、中国の奥地、ビルマ、もう一つはどこだったかどうしても思い出せない。この三人とも戦死してしまったが、そういう人たちにとっても、堀氏は「近所の人」だったのである。★<br /><br />堀田の文章は初出が1953年(昭和28年)の「文学界」ですから、神西のいう「異ふ方面の人達」とは別人でしょう。<br />これらの若者が、戦場で堀辰雄の本を最期まで読んでいたのです。<br /><br />★昭和十二年から二十年までの、八年にわたる戦時に二十歳代をもった私及び私の友人知己が、堀氏を常に、近所の人、と考えて来た理由のうち、根本的なものは、あのいつどうなるかも分からなかった日々に、底深く「生の悦び」がどこに、どんな形でありうるものか、を端正な文章で声低く、どもりがちに語りつづけられたことにあるのだと思う。★<br /><br />「どもりがちにと」堀田善衛は言っています。堀辰雄は軽いどもりでした。二人は真剣に話し合ったことを物語っています。<br />

    出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録

    戦争が激しくなると、夫妻は信濃追分の旅館油屋の主人が用意してくれた家に疎開しました。現在の「信濃追分文化磁場油や」となりでした。今はあとかたもありません。
    1944年(昭和19年)9月17日のことです。この8畳、6畳、3畳、台所という小さな家で、2人は戦争末期、戦後を過ごしたのです。

    戦後の堀辰雄の人気
    ▲▼▲▼▲▼▲▼▲

    河盛好藏は戦後1年ほど新潮社の顧問でした。その河盛の頼みに応じて堀が書いたのが「雪の上の足跡」です。1946年(昭和21年)「新潮」3月号に発表されました。堀のまとまった作品としてはこれが最後です。

    ★・・・のみならず私の懇請に応じて「雪の上の足跡」を書いてくれた。あの原稿をもらったときは実に嬉しかった。当時はどの雑誌社も堀君の原稿を喉から手が出るように欲しがっていた。★
    (筑摩別巻2「二つの思いで」P393)

    旧作の雑誌掲載、すでに発表された作品を組み合わせた作品集を各社が出したがりました。
    中野綾子(明治学院大学助教授、発表時早大大学院)の「堀辰雄ブームの検証」(2013年)によると、1946年1年間で、「雪の上の足跡」以外に、旧作の雑誌掲載が5作、単行本が6冊刊行されています。
    この時代、出版社は戦後の混乱からまだ立ち直っていませんでした。紙もインクも、印刷機も不足していました。しかし競って堀作品の出版をあえて行いました。(下記P57)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/11/62_55/_pdf/-char/ja

    なぜか。
    神西清によれば、

    ★先日中村光夫君から聞いたが、今度の戦没学生の手紙を集めてみたら殆どみんなが君の愛読者だったといふ。同じ話はその後異ふ方面の人達からも聞いた。★
    (筑摩来簡210神西清→堀辰雄)

    1946年(昭和21年)3月18日の手紙です。
    少なくない戦没学生は、自分たちが知的エリートである誇りの拠り所として、堀辰雄の本をもって戦場に向かったのです。
    大学生が、その世代のほんの一握りの若者たちだった時代です。

    同様のことを堀田善衛も書いています。(筑摩別巻2「乱世文学者」P215)
    堀田は昭和16-17年(1941-42年)頃、杉並区成宗の堀の家の近くに住んでいました。一度訪ねて話したことがありました。
    堀は堀田にとって、隣近所であると同時に「私自身の内心に於いてもそうであった」

    ★早く出征した友人たちから、堀さんの新しい本が出たらしいが、送ってくれないか、という手紙を三通ほど受け取った記憶がある。送り先は、中国の奥地、ビルマ、もう一つはどこだったかどうしても思い出せない。この三人とも戦死してしまったが、そういう人たちにとっても、堀氏は「近所の人」だったのである。★

    堀田の文章は初出が1953年(昭和28年)の「文学界」ですから、神西のいう「異ふ方面の人達」とは別人でしょう。
    これらの若者が、戦場で堀辰雄の本を最期まで読んでいたのです。

    ★昭和十二年から二十年までの、八年にわたる戦時に二十歳代をもった私及び私の友人知己が、堀氏を常に、近所の人、と考えて来た理由のうち、根本的なものは、あのいつどうなるかも分からなかった日々に、底深く「生の悦び」がどこに、どんな形でありうるものか、を端正な文章で声低く、どもりがちに語りつづけられたことにあるのだと思う。★

    「どもりがちにと」堀田善衛は言っています。堀辰雄は軽いどもりでした。二人は真剣に話し合ったことを物語っています。

  • 戦没学生の具体例。<br />辰雄文学記念館常設展示図録にある、久留米の山下医師が撮った病床の辰雄の珍しい写真。<br />畳の上にあるのは戦死した息子の手書きの詩集です。<br />詳しくは<br />「堀辰雄紀行7 信濃追分 4畳半と3畳の世界」<br />https://4travel.jp/travelogue/11817703<br />をご覧になってください。「病床の写真」の下です。<br /><br />一書に曰く、<br />亡父の遺品を整理しておりましたら、戦時中の写真が出てきました。ビルマのようです。<br />壕から這い出てきたところみたいで、父ともう一人の男の人が腹ばいで、なにか、たぶんタバコを紙に巻いているところではないかと思うのですが、笑っていました。<br />こういう所で、こういうときに、堀辰雄を読んだ人がいたのです。<br /><br />私が高校生の時のご近所さんに、いつも作業服を着ているおじさんがいました。<br />お正月も、娘さんの七五三のときも。<br />家族は着飾っているのを、作業服で坊主頭のおじさんは、にこにこしながら写真を撮ったりしていました。<br />この人は、戦争中、伝令というのですか、よその隊に連絡に行って、帰ってきたら、元の隊は全滅していたのだそうです。<br />彼の質素な服装は墨染めの衣代わりだと、周りの人々は言っておりました。<br /><br />あるとき、バスを待っているとき、本を落としてしまいました。<br />「あ、『風立ちぬ』 か。」<br />と、そのおじさんが、拾って下さったのです。<br />本を見て、渡して下さる、そのつかの間。一分にも満たない時間のおじさんの感じ。<br />今思えば、この人は、きっと戦場で、堀辰雄を読んでたな、と思えるのです。<br />By妻<br /><br />歌人片山広子<br />▲▼▲▼▲▼<br /><br />「野に住みて」の「をんどり」より。<br /><br />★ほのぼのと亡き子を思ひ堀辰雄のあたらしき本けふは読みゐる★<br /><br />広子の長男達吉は1945年(昭和20年)4月に病没しております。辰雄の親友でした。「堀辰雄のあたらしき本」とは、前述の戦後出版された本でした。<br /><br />折口の講演<br />▲▼▲▼▲<br /><br />1949年(昭和24年)6月11日、折口信夫が國學院大學大講堂で「堀辰雄の時代」と題する講演を行いました。一般公開されておりました。角川源義は神西清とともに聴講しました。★省線電車のストで大変だった中でしたが、満員のありさまでした。★(筑摩来簡319角川源義→堀辰雄)<br />源義は講演内容を辰雄に書き送っています。<br />「日本のこんな荒れた時代に掘君が為事をするのが、いとおしいといふ気がする。」と折口は講演で述べていました。<br />

    戦没学生の具体例。
    辰雄文学記念館常設展示図録にある、久留米の山下医師が撮った病床の辰雄の珍しい写真。
    畳の上にあるのは戦死した息子の手書きの詩集です。
    詳しくは
    「堀辰雄紀行7 信濃追分 4畳半と3畳の世界」
    https://4travel.jp/travelogue/11817703
    をご覧になってください。「病床の写真」の下です。

    一書に曰く、
    亡父の遺品を整理しておりましたら、戦時中の写真が出てきました。ビルマのようです。
    壕から這い出てきたところみたいで、父ともう一人の男の人が腹ばいで、なにか、たぶんタバコを紙に巻いているところではないかと思うのですが、笑っていました。
    こういう所で、こういうときに、堀辰雄を読んだ人がいたのです。

    私が高校生の時のご近所さんに、いつも作業服を着ているおじさんがいました。
    お正月も、娘さんの七五三のときも。
    家族は着飾っているのを、作業服で坊主頭のおじさんは、にこにこしながら写真を撮ったりしていました。
    この人は、戦争中、伝令というのですか、よその隊に連絡に行って、帰ってきたら、元の隊は全滅していたのだそうです。
    彼の質素な服装は墨染めの衣代わりだと、周りの人々は言っておりました。

    あるとき、バスを待っているとき、本を落としてしまいました。
    「あ、『風立ちぬ』 か。」
    と、そのおじさんが、拾って下さったのです。
    本を見て、渡して下さる、そのつかの間。一分にも満たない時間のおじさんの感じ。
    今思えば、この人は、きっと戦場で、堀辰雄を読んでたな、と思えるのです。
    By妻

    歌人片山広子
    ▲▼▲▼▲▼

    「野に住みて」の「をんどり」より。

    ★ほのぼのと亡き子を思ひ堀辰雄のあたらしき本けふは読みゐる★

    広子の長男達吉は1945年(昭和20年)4月に病没しております。辰雄の親友でした。「堀辰雄のあたらしき本」とは、前述の戦後出版された本でした。

    折口の講演
    ▲▼▲▼▲

    1949年(昭和24年)6月11日、折口信夫が國學院大學大講堂で「堀辰雄の時代」と題する講演を行いました。一般公開されておりました。角川源義は神西清とともに聴講しました。★省線電車のストで大変だった中でしたが、満員のありさまでした。★(筑摩来簡319角川源義→堀辰雄)
    源義は講演内容を辰雄に書き送っています。
    「日本のこんな荒れた時代に掘君が為事をするのが、いとおしいといふ気がする。」と折口は講演で述べていました。

  • 神西清は上記の戦没学生の手紙の続きで、<br /><br />★怖るべきはそのジャーナリズム的影響だ。最近堀先生の引っ張り凧的な人気ともすると永井荷風老をさえ凌ぐものあり、先生以て如何となす―――といった次第さ。少々心配になったからこんな毒舌も吐きます。勿論聡明な君のことゆゑ、もうちゃんとそんな渦巻にまき込まれぬ陣立ては出来ていると思ふが、なによりもからだに気をつけてと僕はお願ひします。★<br /><br />戦後の堀辰雄の人気というのは、現代の私たちには理解しがたい現象です。<br />では堀が戦前戦中何をしていたかというと、何もしていないのです。<br /><br />加藤周一(1919-2008)<br />医学者、堀辰雄の主治医、評論家。中村真一郎、福永武彦などと同時期に堀辰雄の周囲にいた、堀の言う若い友人の一人。<br /><br />★堀辰雄の条件は、二つあった。内には肺結核、外には軍国日本。そこで信州の高原に病をやしないながら、いくさにまきこまれてゆく東京の文壇をはなれて、ただひとりの世界をまもった。(中略)堀辰雄はそこに独自の題材を独特の文体で描く小説的な小宇宙を作った。それほど確固たる自己実現への決意、それほど一貫した精神的独立の勇気は、当時の文壇に稀であったばかりでなく、今日においても多くないだろう。★<br />(筑摩書房版堀辰雄全集推薦文「堀辰雄愛読の弁」1977年頃)<br /><br />「いくさにまきこまれてゆく東京の文壇」というのは、1938年(昭和13年)漢口攻略戦以降、従軍作家として参加または参加を希望した作家たちのことでしょうか。ペン部隊といわれたそうです。<br />以下はウィキペディアの受け売りです。原典参照しておりません。<br /><br />吉川英治・岸田國士・滝井孝作・深田久弥・北村小松・杉山平助・林芙美子・久米正雄・白井喬二・浅野晃・小島政二郎・佐藤惣之助・尾崎士郎・浜本浩・佐藤春夫・菊池寛・川口松太郎・丹羽文雄・吉屋信子・片岡鉄兵・中谷孝雄・冨澤有爲男<br /><br />1942年(昭和17年)、日本文学報国会というのもできました。大政翼賛会の文芸版らしい。これもウィキペディア、原典確認なし。<br /><br />会長 - 徳富蘇峰。<br />常任理事 - 久米正雄、中村武羅夫<br />理事 - 折口信夫、菊池寛、窪田空穂、佐藤春夫、下村宏、白柳秀湖、関正雄、辰野隆、長与善郎、松本潤一郎、水原秋桜子、柳田國男、山田孝雄、山本有三、吉川英治 <br /><br />各分野の代表者、既存の作家団体をそのまま会員にしたので、名前だけの会員が大半でしょう。宮本百合子や蔵原惟人、中野重治も入会ということになっています。ビックリです。ただ中里介山、内田百閒、永井荷風は入会を拒否しているので、拒否はできたはずです。<br />

    神西清は上記の戦没学生の手紙の続きで、

    ★怖るべきはそのジャーナリズム的影響だ。最近堀先生の引っ張り凧的な人気ともすると永井荷風老をさえ凌ぐものあり、先生以て如何となす―――といった次第さ。少々心配になったからこんな毒舌も吐きます。勿論聡明な君のことゆゑ、もうちゃんとそんな渦巻にまき込まれぬ陣立ては出来ていると思ふが、なによりもからだに気をつけてと僕はお願ひします。★

    戦後の堀辰雄の人気というのは、現代の私たちには理解しがたい現象です。
    では堀が戦前戦中何をしていたかというと、何もしていないのです。

    加藤周一(1919-2008)
    医学者、堀辰雄の主治医、評論家。中村真一郎、福永武彦などと同時期に堀辰雄の周囲にいた、堀の言う若い友人の一人。

    ★堀辰雄の条件は、二つあった。内には肺結核、外には軍国日本。そこで信州の高原に病をやしないながら、いくさにまきこまれてゆく東京の文壇をはなれて、ただひとりの世界をまもった。(中略)堀辰雄はそこに独自の題材を独特の文体で描く小説的な小宇宙を作った。それほど確固たる自己実現への決意、それほど一貫した精神的独立の勇気は、当時の文壇に稀であったばかりでなく、今日においても多くないだろう。★
    (筑摩書房版堀辰雄全集推薦文「堀辰雄愛読の弁」1977年頃)

    「いくさにまきこまれてゆく東京の文壇」というのは、1938年(昭和13年)漢口攻略戦以降、従軍作家として参加または参加を希望した作家たちのことでしょうか。ペン部隊といわれたそうです。
    以下はウィキペディアの受け売りです。原典参照しておりません。

    吉川英治・岸田國士・滝井孝作・深田久弥・北村小松・杉山平助・林芙美子・久米正雄・白井喬二・浅野晃・小島政二郎・佐藤惣之助・尾崎士郎・浜本浩・佐藤春夫・菊池寛・川口松太郎・丹羽文雄・吉屋信子・片岡鉄兵・中谷孝雄・冨澤有爲男

    1942年(昭和17年)、日本文学報国会というのもできました。大政翼賛会の文芸版らしい。これもウィキペディア、原典確認なし。

    会長 - 徳富蘇峰。
    常任理事 - 久米正雄、中村武羅夫
    理事 - 折口信夫、菊池寛、窪田空穂、佐藤春夫、下村宏、白柳秀湖、関正雄、辰野隆、長与善郎、松本潤一郎、水原秋桜子、柳田國男、山田孝雄、山本有三、吉川英治

    各分野の代表者、既存の作家団体をそのまま会員にしたので、名前だけの会員が大半でしょう。宮本百合子や蔵原惟人、中野重治も入会ということになっています。ビックリです。ただ中里介山、内田百閒、永井荷風は入会を拒否しているので、拒否はできたはずです。

  • かすかな関わり<br />▲▼▲▼▲▼▲<br /><br />ちょっとした短い文章が問題になりました。<br />1937年(昭和12年)「文芸」10月号巻頭言-筑摩第4巻解題P741<br />本文は同P318<br /><br />★リルケは大戦当時始終沈黙を守ってゐたやうです。やはりさうするのが一番いいのではないかと考えます。カロッサは「ルウマニア日記」など書いてゐますが、あれも大戦が終り、それについてあらゆる騒がしい戦争文学が氾濫したあとで、静かに現はれました。本当の文学といふものはさういふ風にしか生まれぬものだと確信いたして居ります。★<br /><br />池内輝雄(1938年生まれ、日本近代文学研究者、國學院大學大学院客員教授)によれば、<br /><br />★この発言は翌年8月、「改造」誌上で、陸軍情報部の軍人から、「本当の戦争文学や名画は戦争中には出来ない」と発言する者がいるとして、きびしく糾弾される。堀辰雄は決して安全地帯にいたのではない。★<br />(堀辰雄生誕百年P11)<br /><br />前出の河盛好藏筑摩別巻「二つの思い出」より。<br />戦争中河盛は日本出版協会の学芸課長でした。そのため軍の報道部と文学者の関係に詳しかった。<br /><br />★どんな文学者がその筋にごまをすりまたその筋の覚えがめでたいか。またどんな文学者がその筋から憎まれ、にらまれているか、といふことをよく知っていた★<br /><br />★堀くんの場合について云えば、可もなし不可もなしといった見方をされていたように思われる。★<br /><br />★そんなある日のこと、(堀と話していて)文学者もまた戦争に協力すべきかどうかということが話題になり文学者がなにかにつけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされてされていることをよく知っている私は、保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかということを口にした。すると堀君は言下に、もの静かではあるが断固とした調子で、そんなことは、到底自分にはできないと云った。私はそれを聞いて、自分を深く恥じた。堀君は終戦後、自分は戦争中は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが当時私の知っていたどの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。★<br />(筑摩別巻2P393、1958年/昭和33年ごろ)<br />

    かすかな関わり
    ▲▼▲▼▲▼▲

    ちょっとした短い文章が問題になりました。
    1937年(昭和12年)「文芸」10月号巻頭言-筑摩第4巻解題P741
    本文は同P318

    ★リルケは大戦当時始終沈黙を守ってゐたやうです。やはりさうするのが一番いいのではないかと考えます。カロッサは「ルウマニア日記」など書いてゐますが、あれも大戦が終り、それについてあらゆる騒がしい戦争文学が氾濫したあとで、静かに現はれました。本当の文学といふものはさういふ風にしか生まれぬものだと確信いたして居ります。★

    池内輝雄(1938年生まれ、日本近代文学研究者、國學院大學大学院客員教授)によれば、

    ★この発言は翌年8月、「改造」誌上で、陸軍情報部の軍人から、「本当の戦争文学や名画は戦争中には出来ない」と発言する者がいるとして、きびしく糾弾される。堀辰雄は決して安全地帯にいたのではない。★
    (堀辰雄生誕百年P11)

    前出の河盛好藏筑摩別巻「二つの思い出」より。
    戦争中河盛は日本出版協会の学芸課長でした。そのため軍の報道部と文学者の関係に詳しかった。

    ★どんな文学者がその筋にごまをすりまたその筋の覚えがめでたいか。またどんな文学者がその筋から憎まれ、にらまれているか、といふことをよく知っていた★

    ★堀くんの場合について云えば、可もなし不可もなしといった見方をされていたように思われる。★

    ★そんなある日のこと、(堀と話していて)文学者もまた戦争に協力すべきかどうかということが話題になり文学者がなにかにつけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされてされていることをよく知っている私は、保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかということを口にした。すると堀君は言下に、もの静かではあるが断固とした調子で、そんなことは、到底自分にはできないと云った。私はそれを聞いて、自分を深く恥じた。堀君は終戦後、自分は戦争中は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが当時私の知っていたどの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。★
    (筑摩別巻2P393、1958年/昭和33年ごろ)

  • 1951年(昭和26年)7月1日、新築のこの家に引っ越しました。現在の堀辰雄文学記念館です。

    1951年(昭和26年)7月1日、新築のこの家に引っ越しました。現在の堀辰雄文学記念館です。

  • 私たちが訪れたのは2月。マイナス2度でした。暖かいほうだそうです。

    私たちが訪れたのは2月。マイナス2度でした。暖かいほうだそうです。

  • なんと小さな家かと思いましたが、暖房は火ばちと炬燵だけです。真冬はマイナス10度以下になる追分では、この狭い部屋の方が暖めやすいのです。

    なんと小さな家かと思いましたが、暖房は火ばちと炬燵だけです。真冬はマイナス10度以下になる追分では、この狭い部屋の方が暖めやすいのです。

  • 完璧すぎる<br />▲▼▲▼▲<br /><br />多恵子によれば、<br /><br />★主人は戦争のことについては何も言わなかった人です。★<br />(やまぼうしの咲く庭でP160)<br /><br />右の4畳半が辰雄の病室、左の3畳が多恵子の寝室でした。<br />辰雄は夜ひどく具合が悪いとき、多恵子がそばにいるのを嫌がりました。自分の苦しむ姿に、妻が苦しむのを見たくない。<br />多恵子はとなりの3畳で寝間着に着替えることもせず、夫のかすかな動きにも耳をそばだてていたのです。<br /><br />一書に曰く、<br />彼らの周囲には、結核で死を迎えた人が多かったので、二人は、病気の経過を熟知していたと思われます。<br />こういう状態が続くとどうなるとか。<br />だからこそ、夫は、苦しむ姿を見せたくない。<br />その気持ちを尊重して、ふすま一枚外で、気配を聞くことしかできない妻。<br />声を聞きながら、手をこまねいているのは、その場で、苦しむ人を撫でさするよりつらいことでしょう。<br />全神経を夫、堀辰雄に注ぐ日々。<br />そういう時間が、多恵子と堀辰雄の心をより合わせていった。<br />いつしか二人は、同じ精神を持つようになったのです。<br />堀辰雄が、多恵子を感化したとも言えるし、また、堀多恵子が、堀辰雄という文学者を作ったといえるのではないでしょうか。<br />By妻<br /><br />夫婦です。とくに晩年はどちらかが眠っているとき以外は、ずっと顔を合わせていました。寒い夜は二人で寄り添って暖めあったのでしょう。<br />戦争が話題にあがらなかった、というのはあまりに不自然。<br />辰雄生前、多恵子はすでに文筆活動を始めていました。辰雄は、いずれ妻が自分の文学の語り部になると思っていました。<br />「戦争のことは書くなよ」と堀辰雄が言ったか、二人の暗黙の了解があったか。<br /><br />一書に曰く、<br />堀辰雄は黙っていました。<br />表現者であるのにだまっていました。<br /> <br />そのころ、<br />例えば、折口信夫(釈迢空)は、<br /><br />★送られ来し兵は しづけき面あげて、挙手をぞしたる。はるけき その目★<br /><br />★頬赤き一兵卒を送り来て、発つまでは見ず。泣けてならねば★<br />(2首「天地に宣る」より)<br /><br />と歌い、さらに<br /><br />★かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を★<br />(「倭をぐな」より)<br /><br />と、硫黄島で戦死する、養子である春洋との最後の夜を歌っております。<br /><br />堀辰雄と折口信夫は親しかったのです。<br />この歌を、辰雄が読まなかったはずは、ない。<br />絶対に読んだでしょう。<br />そして、感想を、妻に漏らしたことでしょう。<br />妻もまた、自分の思いを語ったに違いありません。<br />でもなにも書かなかった。<br />沈黙をまもった。<br />By妻<br /><br />「堀辰雄ブームの検証」によれば、戦後ある時期、堀を戦争に対する非協力のシンボルと見なそうという動きもあったようです。河盛の文章にちょっとそうしたニュアンスがあります。<br />しかしそれもまた堀辰雄にとっては迷惑な話だった。<br /><br />堀辰雄は戦争について彼自身はなにもできないこと、なにもできなかったことを知っていました。<br />それなら沈黙するしかない。<br /><br />多恵子が10冊の本で、戦前、戦中、そして戦後も、戦争について辰雄の言葉を一言も書いていない不自然さは、これで理解できます。<br /><br />2010年多恵子があの世に行って辰雄に再会したとき「約束は守ったわよ」と言ったでありましょう。<br />「でもあんまり完璧にやったので、気づかれたかな」と言ったとか、言わなかったとか。<br />

    完璧すぎる
    ▲▼▲▼▲

    多恵子によれば、

    ★主人は戦争のことについては何も言わなかった人です。★
    (やまぼうしの咲く庭でP160)

    右の4畳半が辰雄の病室、左の3畳が多恵子の寝室でした。
    辰雄は夜ひどく具合が悪いとき、多恵子がそばにいるのを嫌がりました。自分の苦しむ姿に、妻が苦しむのを見たくない。
    多恵子はとなりの3畳で寝間着に着替えることもせず、夫のかすかな動きにも耳をそばだてていたのです。

    一書に曰く、
    彼らの周囲には、結核で死を迎えた人が多かったので、二人は、病気の経過を熟知していたと思われます。
    こういう状態が続くとどうなるとか。
    だからこそ、夫は、苦しむ姿を見せたくない。
    その気持ちを尊重して、ふすま一枚外で、気配を聞くことしかできない妻。
    声を聞きながら、手をこまねいているのは、その場で、苦しむ人を撫でさするよりつらいことでしょう。
    全神経を夫、堀辰雄に注ぐ日々。
    そういう時間が、多恵子と堀辰雄の心をより合わせていった。
    いつしか二人は、同じ精神を持つようになったのです。
    堀辰雄が、多恵子を感化したとも言えるし、また、堀多恵子が、堀辰雄という文学者を作ったといえるのではないでしょうか。
    By妻

    夫婦です。とくに晩年はどちらかが眠っているとき以外は、ずっと顔を合わせていました。寒い夜は二人で寄り添って暖めあったのでしょう。
    戦争が話題にあがらなかった、というのはあまりに不自然。
    辰雄生前、多恵子はすでに文筆活動を始めていました。辰雄は、いずれ妻が自分の文学の語り部になると思っていました。
    「戦争のことは書くなよ」と堀辰雄が言ったか、二人の暗黙の了解があったか。

    一書に曰く、
    堀辰雄は黙っていました。
    表現者であるのにだまっていました。
     
    そのころ、
    例えば、折口信夫(釈迢空)は、

    ★送られ来し兵は しづけき面あげて、挙手をぞしたる。はるけき その目★

    ★頬赤き一兵卒を送り来て、発つまでは見ず。泣けてならねば★
    (2首「天地に宣る」より)

    と歌い、さらに

    ★かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を★
    (「倭をぐな」より)

    と、硫黄島で戦死する、養子である春洋との最後の夜を歌っております。

    堀辰雄と折口信夫は親しかったのです。
    この歌を、辰雄が読まなかったはずは、ない。
    絶対に読んだでしょう。
    そして、感想を、妻に漏らしたことでしょう。
    妻もまた、自分の思いを語ったに違いありません。
    でもなにも書かなかった。
    沈黙をまもった。
    By妻

    「堀辰雄ブームの検証」によれば、戦後ある時期、堀を戦争に対する非協力のシンボルと見なそうという動きもあったようです。河盛の文章にちょっとそうしたニュアンスがあります。
    しかしそれもまた堀辰雄にとっては迷惑な話だった。

    堀辰雄は戦争について彼自身はなにもできないこと、なにもできなかったことを知っていました。
    それなら沈黙するしかない。

    多恵子が10冊の本で、戦前、戦中、そして戦後も、戦争について辰雄の言葉を一言も書いていない不自然さは、これで理解できます。

    2010年多恵子があの世に行って辰雄に再会したとき「約束は守ったわよ」と言ったでありましょう。
    「でもあんまり完璧にやったので、気づかれたかな」と言ったとか、言わなかったとか。

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