2024/09/26 - 2024/09/26
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mistralさん
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ここ島根県では、1983年に始まる358本の銅剣の発掘、
つづく1985年の銅鐸6個、銅矛16本の出土、
更に1996年には山を隔てた地からの銅鐸39個の発見が相次いだそう。
それまでは島根県は、青銅器の出土例や遺跡等の発見もほとんどなく、
考古学上それほど注目をされていなかったそうだ。
「古事記」によれば古代出雲の記述があり、神話の舞台として数多く
登場する地であるにもかかわらずだった。
したがって「出雲王国」を証明する具体例がなかったため、あくまでも
神話の域を脱することが出来なかった。
しかしこれら青銅器の大量の出土から、にわかに注目をあびることと
なっていったそうだ。
そんな古代出雲を実際に自分の目で見てみたいと想った。
(表紙写真は加茂岩倉遺跡のあるガイダンスの建築物)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー JALグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- ジャルパック
-
まずは荒神谷(こうじんだに)博物館を見学して予備知識を
仕入れようと向かった。
(展示室へ入る場合、1人205円) -
車は北駐車場へ停めた。
車止めが銅鐸だった。 -
「荒神谷史跡公園」全体図
1995年5月にオープンされたそう。
遺跡部分の1.3ヘクタールが国の指定史跡として整備されている。 -
館内、展示室にて。
発見された折には
標高22メートルの南向き斜面に造られた上下二段の
下段に刃を起こした状態の銅剣358本が4列に
整然と並べられていた。
(現場での写真) -
銅剣は約2200年前の弥生時代前期
朝鮮半島から伝わってきたものといわれ
銅に少量のすずや鉛を混ぜた合金で
造られたときには金色の輝きを帯びていたと
想像されるそうだ。
(博物館での展示見本) -
「銅鐸・銅矛の出土状況」との現場写真
地下探査をした結果
銅剣が出土した同じ斜面、7メートル奥から反応があり
更に銅鐸、銅矛が見つかった。 -
博物館での展示品
-
展示品
おそらくはレプリカ。
本物は出雲大社そばにある
「古代出雲歴史博物館」に展示されているようだ。
この後日御碕に向かうが、もし時間があったら見学しようと思っていた。
(実際は時間が取れず、断念することとなった。) -
出土した銅剣358本のうち、344本に「×」印が
付けられていた。
荒神谷遺跡の発見から12年後の1996年
ここから山を隔てた3.4kmの距離にある加茂岩倉遺跡から
39個もの大量の銅鐸が発見された。
そのうちの14個にも、銅剣と同じ「×」印がつけられて
いたことから、その関連性や、刻印の意味などが注目されている。
(写真の黄色の丸印内にX印がある) -
地下探査・再現模型
1985年夏 -
地下探査の結果
銅剣の発見地点から谷奥へ7メートル
今度は銅鐸6個、銅矛16本が同時出土。
しかも銅鐸・銅矛が一緒に埋納されていた状況での
出土は全国初だった。 -
銅矛
根本が袋状になっているのは、ここに柄を差して
当初は武器として使用したようだ。
後に次第に大型化していき、祭器として使用されるようになった。 -
銅鐸
レプリカ
「神を招くカネ」と言われ、荒神谷1号銅鐸は
片面が重弧文(半円形、又はカーブを描く線を何本も重ねた模様)、
もう片面は市松模様という
珍しい紋様だそう。 -
平成10年(1998年)6月30日
荒神谷遺跡から出土した銅剣358本、銅鐸6個、
銅矛16本、すべての青銅器が国宝に指定された、との記述。
国宝に指定された理由として
1.今まで全国で出土した銅剣の総数300本を上回る数を荒神谷遺跡一か所から出土したこと。
2.銅鐸と銅矛が同じ場所から出土したこと。
3.埋められていた状況が発掘調査で分かった貴重な例であること。
4.弥生時代の青銅器として優れた学術資料であること。
など。 -
兄弟銅鐸
荒神谷2号銅鐸は、京都市右京区梅ヶ畑出土の4号銅鐸と同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸で、梅ヶ畑では、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた「入れ子」の状態で2組、計4個が出土。4号銅鐸は制作時期の古い小型の銅鐸だった。
また荒神谷3号銅鐸は徳島県脇町出土銅鐸(東京国立博物館蔵)と兄弟銅鐸であることが分かったそう。 -
銅矛
レプリカ -
銅矛
祭器としての青銅器(武器型祭器)
銅矛は、銅剣や銅鐸とともにマツリのための道具として使われた。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は、悪霊をはらうものであったと考えれれている。 -
島根県内出土青銅器
島根県では荒神谷遺跡が発見されるまで、考古学上、それほど注目されていませんでしたが、にわかに脚光をあびるようになり、現在では島根県は弥生青銅器研究においては重要な位置を占めています。
島根県で発見された青銅器のうち、発掘調査でみつかったものは珍しく、多くは古くから神社に伝承するものや、農作業、土木工事中に偶然発見されたものが多いそう。 -
-
博物館で発掘までの歴史を学んだのち
「古代の小径」と呼ばれる道(写真の黄土色の道)
を進んでいくと(実際は写真正面に博物館があり、そこから
手前にやってきた。)実際に出土した場所にたどり着く。
左手には(当日は水は干上がっていた)水田があり
6月中旬ごろからは約5万本の古代ハスが水田一面に咲き競って
いるようだ。 -
1983年、広域農道建設の際の遺跡分布調査で
調査員の一人が田んぼの畔で須恵器の破片を見つけた、
という地点がここのようだ。
その後、銅剣の大量発見につながっていった。 -
この周辺の谷に「三宝荒神」が祀られていることから
「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と名付けられ
翌年1984年から本格的な発掘調査が開始。
現在は、発掘現場をぐるりと回りながら高所からも
見られるように展望デッキがめぐらされている。 -
銅剣358本が発掘された地点。
それまでに全国で出土した銅剣の総数は約300本ほど。
荒神谷遺跡は一か所でそれを上回る数だった。 -
当時の日本の古代史学、考古学会を大きく揺るがす
大発見となったそうだ。 -
更に翌年の1985年には、そこから7メートル離れた地点で
銅鐸6個、銅矛16本もの大量の青銅器が出土。
これらはすべて1998年に、「島根県荒神谷遺跡出土品」として
国宝に指定されている。 -
これら大量の青銅器が何故埋められたのかは
今だに謎に包まれているそうだ。
1.祭祀説 雨ごい、収穫、地鎮など豊穣の祈りを捧げる
2.保管説 儀式の際に取り出して使用するため、普段は土中に
3.隠匿説 部外者から奪われないように隠した
4.廃棄説 時代の変化とともに青銅器が不要になってきた
5.境界埋納説 共同体間の抗争の緊張か生まれた境界意識の反映
等々諸説あるようです。 -
博物館奥にある「古代農耕地」
稲穂が干されているようだが、古代の農業を現代に蘇らせた
農耕地で、黒米、赤米などの古代米を栽培しているようだ。
当日は行ってみなかったが
右手奥には西谷池や古代の復元された住居、バーベキューサイト、
南駐車場など更にかなりひろいエリアがあったようだ。 -
この後、もう1ヶ所の訪問予定があった。
次の目的地、
加茂岩倉遺跡までは直線距離としては3.4キロほどらしいが
山間をぬう道路を走っていったため、
結構な時間がかかってしまった。 -
駐車場に車を停めて落ち葉が降り積もっている道
をしばらく歩き続けた。
やっと前方に遺跡の関連施設のような通路が見えてきて
ホッと安心した瞬間。 -
「加茂岩倉遺跡ガイダンス」の建築物が
やっと見えてきた。 -
島根 景観賞 優秀賞をいただいたという建築物の説明。
1996年10月、農道の工事中に埋蔵物は偶然発見された。
重機によって掘り返されたおびただしい数の銅鐸。
発見者によって工事現場の片隅に集められ、
土砂と共に斜面下に落ちていた銅鐸は、
目の前の水田の畦に並べられていた。 -
ガイダンスの施設は
遺跡発見の発端となった、そもそもの農道工事の際
V字状に掘削され、分断されていた丘陵をつなぐように、
また遺跡のある高さに合わせて橋をかけるような形で、
造られた。
内部まではエレベーターで上がっていく。
中ではビデオを見ながらの休憩スペースや銅鐸のレプリカや
各種解説パネルが展示されている。
展示を見せていただき、そのまま渡り廊下のような外部に出ると
平行移動で遺跡までぐるりと歩いていける。 -
当日、ご案内頂いた方。
たまたま当日のご担当だったそう。
汗をかきながら到着した私たちを迎え入れて下さり、ひと休みしながらビデオをご覧ください、とお茶も出して下さった。
お席からは、見学者が坂道を上ってくる様子が良く見えるらしく、また遺跡に向かう際のお見送りなど、笑顔でのご応対が嬉しい。 -
渡り廊下からの景観。
-
発見の現場に到着した。
「土坑」についての説明
銅鐸埋納抗(まいのうこう)の西2.5メートルで見つかった土坑。
特徴的なのは壁面をオーバーハングさせて掘ってあることで、
底面が広い袋状になっていること。
土坑の埋土は、赤みを帯びた土と黄白色の土が交互にほぼ水平
に堆積していたとのこと。 -
これらは銅鐸の埋納抗に共通する特徴だそうだが、この抗からは
銅鐸等の遺物は全く出土しなかった。 -
埋納状態の銅鐸
工事中の発見だったが、弥生時代に埋められたままの姿
の銅鐸が遺跡に残されていた。
半壊していた埋納坑内には、裾を向かい合わせにした
入れ子状態の2組の銅鐸(↓の写真を参照ください。)
右が29号[30号]、31号[39号]が残されていた。 -
一つ上の写真より
またパワーショベルのバケットによってできた穴の南側には
(写真では左側)その為に堆積した土の中から
入れ子状態の3組6個の銅鐸も発見された。
32号[33号」、35号[36号]、37号[38号]が出土した。
パワーショベルが上手くすくってくれたようで、
銅鐸が砕かれることなどから救われたのは、不幸中の幸いだった。 -
パワーショベルのバケットの中に、土砂と一緒に
入っていて発見された銅鐸(1~12号)は、
現場の北東すみに寄せ集められて置かれていた。
入れ子になった銅鐸も4組あった。 -
集められていた銅鐸
-
銅鐸発見時の様子が写真で示されている。
-
上の写真
銅鐸の吊り手部分につけられているX印は、荒神谷遺跡から出土した銅剣につけられたX印との関連を連想される。
このような例は、この2遺跡出土の青銅器以外には見つかっていないそうだ。
下の写真
ここで発見された銅鐸の中に、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納める、「入れ子」状態で見つかっているものがあり、初めての例となったようだ。 -
遺跡は狭く細長い谷の最奥部、
南向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138メートル、
谷底からは18メートルと見上げるような高い場所に
埋納されていた。
一か所から出土した銅鐸の数は日本最多です。 -
このような高い位置に、なぜ大量の銅鐸が
埋められていたのかは
今だに謎のまま・・・・ -
帰路にあった説明版より
今回この遺跡を巡っての銅鐸のまとめとして
・弥生時代中期(約2000年前)に鋳造、使用されたもの
・全長が45センチ級と30センチ級の大小の群からなる
・入れ子状態で埋納されたものがある
・同じ鋳型で作ったとされる兄弟銅鐸が全国各地に分布
・トンボ、シカ、イノシシ、ウミガメ、人面などの絵画が描かれている
・吊り手の部分に「X」印の刻印のあるものがある
・荒神谷遺跡から出土した銅剣類にも同じ刻印がある
・古墳時代前期、景初3年(西暦239年)の銘文をもつ三角縁神獣鏡が副葬された 神原神社古墳が近くにあること
などなど、古代の時代の出雲地方の社会の成り立ちを考える際に、大きなヒントを残しているのかもしれない、と旅行記をまとめながら思ったことでした。
出雲の国には、地中深くに青銅器がまだまだ眠ったままでいるのかもしれませんね。 -
雲南市教育委員会作成の
「加茂岩倉遺跡」パンフよりコピーさせていただきました。
その折に発見された銅鐸たち。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- しにあの旅人さん 2024/10/20 12:45:57
- 銅剣のなぞ
- 荒神谷遺跡は2016年に行きました。まだ4トラをやってなかったころで、写真もろくにありません。
発掘現場を見てきました。現場に写真があって、発掘の臨場感がハンパではありませんでした。
なんでここに埋められたか、やはり興味ありますよね。
Mistralさんの展示見本の写真でも、銅剣はみごとに整列していまして、あたふたと急いで埋められたのではないようです。
銅剣の水平もほぼそろっているので、穴の底も平に.しっかりと整地している。
写真上から、埋めた人は後ずさりしながら1振づつ丁寧においています。
おそらく水糸のようなものを張って、長さをそろえて、3人または3組で、3列同時に、田植えみたいにしておいたのではないか。
すると理由の5説のうち、3.隠匿説、4.廃棄説はないですね。こんなにきれいに時間をかけて埋めないでしょう。
田植えを連想する埋め方なので1.祭祀説かな。
加茂岩倉遺跡はまったく気がつきませんでした。8年前ですから、まだ公開されていなかったのでしょうか。
続日本紀に、
「村君東人(むらきみの・あずまびと)は、長岡野の地で銅鐸を得て(天皇に)献上した。高さ3尺・口径1尺で、その造りは普通と異なっており、音色は律呂(りつりょ、楽のきまり)にかなっている」(元明天皇紀和銅6年/713年7月6日)
と書いてあります。この時代は銅鐸が使われていたころより700年くらいしかたっていません。はっきり楽器だといっているので、まだ使っていたんじゃないですかね。
この時代の尺はだいたい30cmですから、長岡野で出てきたのは高さ90cm。加茂岩倉遺跡の銅鐸はだいぶ小さい。長岡野が現代のどこか分かりませんが、日本各地でいろんな銅鐸が作られていたんですね。
村君東人さんがどんな人かわかりませんが、案内して下さった加茂岩倉遺跡のキュレーターさんみたいな人が。天平時代にもいたんだ。
- mistralさん からの返信 2024/10/20 20:11:05
- RE: 銅剣のなぞ
- しにあの旅人さん
こんばんは。
お久しぶりです。このところ旅行記を見せていただいても、コメントを何も残さず失礼ばかりしております。
> 荒神谷遺跡は2016年に行きました。まだ4トラをやってなかったころで、写真もろくにありません。
やはりそうでしたか!
しにあさんご夫妻は、きっと行ってらっしゃると想像していました。
8年前ということですから、今のように整備されていなかったのかもしれません。
それでも、出雲での大発見ということで、きっと地元では大いにわき立っていたかもしれませんね。
> なんでここに埋められたか、やはり興味ありますよね。
> Mistralさんの展示見本の写真でも、銅剣はみごとに整列していまして、あたふたと急いで埋められたのではないようです。
> 銅剣の水平もほぼそろっているので、穴の底も平に.しっかりと整地している。
> 写真上から、埋めた人は後ずさりしながら1振づつ丁寧においています。
> おそらく水糸のようなものを張って、長さをそろえて、3人または3組で、3列同時に、田植えみたいにしておいたのではないか。
現場調査を重要視されるしにあさんならではのご意見ですね。
どのようにすると、あのようにびっしりと見事に整列できるのか、
穴の底は平らにし、水糸のようなものを張って、長さを揃えて・・・などなどコツがいりそうですね。田植えのようなイメージで、3列にそろって後ずさりしながら並べていった、
と書かれますと、具体的な様子を思い浮かべることができました。
> 田植えを連想する埋め方なので1.祭祀説かな。
豊穣を願っての祭祀などイベント的な折に埋めたのでしょうか。
穀物が豊かに実ったおりに、掘り出すとかでしょうか。
それとも、埋めたまま忘れ去られてしまったとか。
> 加茂岩倉遺跡はまったく気がつきませんでした。8年前ですから、まだ公開されていなかったのでしょうか。
発見されたのは、荒神谷遺跡の後ですから、その後建物をつくり、遊歩道を整備し、などなどしていたら、公開はだいぶ遅れたかもしれませんね。
> 「村君東人(むらきみの・あずまびと)は、長岡野の地で銅鐸を得て(天皇に)献上した。高さ3尺・口径1尺で、その造りは普通と異なっており、音色は律呂(りつりょ、楽のきまり)にかなっている」(元明天皇紀和銅6年/713年7月6日)
長岡野の地で銅鐸を得て・・・
ということは、多分掘り出したのではなく、どこか神社などに保管されている銅鐸を手に入れた、ということでしょうか。
銅鐸は古より神社などに伝わってきたものが結構あるようですね。むしろ掘り出した、しかも大量に、といったケースの方が少ないようでした。
> と書いてあります。この時代は銅鐸が使われていたころより700年くらいしかたっていません。はっきり楽器だといっているので、まだ使っていたんじゃないですかね。
そのようですね。
音色、と書かれていますから、それほど耳障りな音ではなかったのかしら、と思いました。
> この時代の尺はだいたい30cmですから、長岡野で出てきたのは高さ90cm。加茂岩倉遺跡の銅鐸はだいぶ小さい。
段々飾られるようになり、大型化していった、ということから
90センチもある銅鐸も造られてきたんですね。結構巨大なものですね。
>
> 村君東人さんがどんな人かわかりませんが、案内して下さった加茂岩倉遺跡のキュレーターさんみたいな人が。天平時代にもいたんだ。
加茂岩倉遺跡のキュレーターさん
多分、正式なキュレーターさんではないかもしれません。
地元銀行を退職されたのち、お声を掛けられて施設にときおり出られるようになったそうです。他の役職も多数兼務され、結構お忙しくされておられるご様子。
人好きなこと、関連知識をお持ちのこと、郷土愛のある方、、、、などなどの条件?にぴったりの方のようでした。
一日おられて、何組の見学者が見えるのかわかりません。
当日は私たちの前に一組の見学があったようでした。
山奥にポツンとある建造物。
銅鐸発見の地にふさわしいところでした。
mistral
-
- pedaruさん 2024/10/20 06:42:14
- ミストラルさんのミステリアスな銅鐸の話
- mistralさん おはようございます。
今朝は昨日と打って変わり、寒い朝となりました。
沢山の銅鐸の発見、なぜ?なぜ?謎は深まるばかり、そこが考古学の面白い所ですね。我が家の敷地にも埋蔵土器がありました。捨ててもだれも惜しがらないガラクタですけどね。
「加茂岩倉遺跡」なぜまとめて埋められていたということは、疑う余地亡き事実、当時ならかなり貴重な宝だったにもかかわらず、土に埋められたとは、ここでpedaruの新説。青銅器の登場によって、村同士の争いは激しくなった、そこで不戦の誓いをたて、剣とともに。銅鐸もともに埋葬した。
銅鐸は戦士を鼓舞する楽器でもあったのだ。まともで面白みのない説になってしまいました。後悔しております(笑)。
「加茂岩倉遺跡」を訪ねるとき、古代のロマンでわくわくされたことでしょうね。
旅行記でも私は初めて見ました。これを機会に、この遺跡を訪ねる人が増えることでしょう。ありがとうございました。
pedaru
- mistralさん からの返信 2024/10/20 16:04:07
- RE: ミストラルさんのミステリアスな銅鐸の話
- pedaruさん
こんにちは。
コメントをありがとうございます。
> 今朝は昨日と打って変わり、寒い朝となりました。
そうですね。
すっかり季節が入れ替わったかのようで、をずいぶん冷え込みました。
> 沢山の銅鐸の発見、なぜ?なぜ?謎は深まるばかり、そこが考古学の面白い所ですね。我が家の敷地にも埋蔵土器がありました。捨ててもだれも惜しがらないガラクタですけどね。
今となっては事実はすっかり埋もれてしまっています。
だからこそ、そこに想像の余地をさし挟むことができますね。
pedaru さんのご近所からも遺跡が発見され、いつぞや旅行記にしておられましたね。
出土した土器の破片はどうされたんでしょう?
それこそ世紀の大発見につながったかも?!
> 「加茂岩倉遺跡」なぜまとめて埋められていたということは、疑う余地亡き事実、当時ならかなり貴重な宝だったにもかかわらず、土に埋められたとは、ここでpedaruの新説。
pedaruさんの新説、待ってました!
青銅器の登場によって、村同士の争いは激しくなった、そこで不戦の誓いをたて、剣とともに。銅鐸もともに埋葬した。
> 銅鐸は戦士を鼓舞する楽器でもあったのだ。まともで面白みのない説になってしまいました。後悔しております(笑)。
確かに銅鐸は打ち鳴らして使ったそうです。
戦意高揚のために使用された可能性はありそうですね。
しかし度々の隣村との争いごとにだんだん疲弊して行った村の長老さん達、
ある時に相談した。
そして戦いを放棄することを決め、真夜中に密かに集まって高所に埋納する事にした。
こんなストーリーですと、丁寧に並べて納めたという事実とつながります。
> 「加茂岩倉遺跡」を訪ねるとき、古代のロマンでわくわくされたことでしょうね。
神話の国と思っていた出雲の国でしたが
青銅器が沢山出土するまでは、それほど重要視されていなかったことを今回初めて知りました。
それが大量出土したことから、一気に脚光を浴びたわけですから、
やっぱり出雲ってすごい、と思いました。
> 旅行記でも私は初めて見ました。これを機会に、この遺跡を訪ねる人が増えることでしょう。ありがとうございました。
ありがとうございます。
但し加茂岩倉遺跡は、駐車場に車を停めてから結構山道を歩きます。
反対側から向かうとすぐのようですが、ナビが案内してくれるかは??です。
発見された現場を見るのって大変なことを実感しました。
mistral
-
- pedaruさん 2024/10/20 06:42:14
- ミストラルさんのミステリアスな銅鐸の話
- mistralさん おはようございます。
今朝は昨日と打って変わり、寒い朝となりました。
沢山の銅鐸の発見、なぜ?なぜ?謎は深まるばかり、そこが考古学の面白い所ですね。我が家の敷地にも埋蔵土器がありました。捨ててもだれも惜しがらないガラクタですけどね。
「加茂岩倉遺跡」なぜまとめて埋められていたということは、疑う余地亡き事実、当時ならかなり貴重な宝だったにもかかわらず、土に埋められたとは、ここでpedaruの新説。青銅器の登場によって、村同士の争いは激しくなった、そこで不戦の誓いをたて、剣とともに。銅鐸もともに埋葬した。
銅鐸は戦士を鼓舞する楽器でもあったのだ。まともで面白みのない説になってしまいました。後悔しております(笑)。
「加茂岩倉遺跡」を訪ねるとき、古代のロマンでわくわくされたことでしょうね。
旅行記でも私は初めて見ました。これを機会に、この遺跡を訪ねる人が増えることでしょう。ありがとうございました。
pedaru
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