2024/08/21 - 2024/08/21
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gianiさん
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岩国から30kmで道のりの柳井市は、岩国藩の御納戸として機能しました。日本国が形成され始めた古墳時代から水陸交通の要所として栄えるも、新幹線/国道2号線/高速道路に見放されたことで衰退し、歴史的町並みが遺されます。
上関は、下関/中関(防府)と防長三海関を構成し、幅170mの海峡ゆえに村上海賊/水軍の配下になり、彼らを配下にした戦国大名毛利氏(後に長州藩)の商業港となりました。
※吉川氏が治める岩国領は、萩の毛利氏が独立を認めなかったために(長府/徳山/清月)支藩よりも格下扱いで1868年に明治政府下で岩国藩へ昇格しましたが、幕府からは大名と同じ扱いを受け参勤交代も課されていたので「岩国藩」と記述させていただきます。
岩国城と城下町の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11726314
- 旅行の満足度
- 5.0
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JR柳井駅から旧市街へ続く駅通りは、1908年開通。
1998年に麗都路(レトロ)通りと命名。ヤンキー言葉みたいで微妙なネーミングです。 -
旧市街は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
柳井白壁の町並み 名所・史跡
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美しい街並みです。
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国森家住宅(1768)
築260年以上の歴史で、国の重文指定。防火の工夫がなされています。江戸時代最期の大火の直後に建築されました。 -
柵越しに、商店部分が公開されています。
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しらかべ学遊館
柳井について学べます。しらかべ学遊館 美術館・博物館
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般若姫伝説:地名の由来
1400年前に般若姫が、皇太子(後の用明天皇 推古天皇の息子)に嫁ぐために航海中に体調を崩します。急遽上陸し、住民が差し出した井戸水を飲むと快復し、お礼に不老長寿の楊子を井戸に差します。すると一夜にして柳が芽を出し、柳の井戸「楊井」と呼ばれます。
江戸時代の楊井商人は、柳の枝のように頭を下げて商売をしようと、楊井から「柳井」に表記を変えます。 -
古柳井水道
古熊毛水道とも呼ばれる海峡。室津島(現在は陸続きで室津半島)と本州を隔てる海域で、瀬戸内海航路の要衝でした。水色の線は現在の国道188号線で、水道の出入口である柳井市~平生町をショートカットしています。山陽本線は図中で「熊毛水道」と書かれた部分を通り、水道の最奥部(現在の田布施町)を経由して徳山(櫛ヶ浜)で合流します。 -
熊毛王国(4-7c)
周防国形成前の熊毛郡域に台頭した地方勢力。古熊毛水道の水利を基盤に繁栄します。歴代首長の古墳は、熊毛水道からよく見える丘に分布します。古熊毛水道の東口に位置する柳井旧市街からほど近い茶臼山古墳は、全長90m古墳時代初期のもので、早くからヤマト政権に従ってきたことが窺えます。
8世紀以降のある時点で、堆積ゆえに熊毛水道の航行が不可能になります。 -
柳井津の東の大畠は渦潮が発生する航海の難所(大島の鳴門)ゆえに、風待ち港として繁栄します。守護大名大内氏の下では、領内東の玄関口として繁栄します。柳井商人の船が日明貿易で使用されました。大内氏の滅亡後は毛利氏、江戸時代は出雲から吉川広家が岩国に入府し、岩国藩領となります。柳井は、岩国藩の御納戸として商業が栄えます。
吉川広家は岩国の城下町建設に当たり、荒廃地に商業エリア(町人七町)を作ります。柳井商人を大勢移住させた柳井町もその一つです。
2代目藩主吉川広正は、財政改革で新田開発を行います。柳井も1663年に干拓が行われます。地図で新開と書かれた部分が干拓地です。 -
1663年の干拓で誕生した土地は、古開作と呼ばれます。柳井川を挟んで旧市街の向かい側です。参考までに、青丸=1897年開業の山陽鉄道柳井駅、水色線=1908年開通の駅通り(旅行記1枚目の写真)です。
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実際の光景
駅通りに架かる本橋から上流を向いた写真。(写真の)右岸は金屋町で、柳井川沿いに船着場の石垣が残っています。柳井津で、古開作が干拓されるまでは、海岸線沿いの海港でした。(写真の)左岸は1663年に干拓された古開作です。奥には緑橋が見えます。 -
緑橋の先には、蓬莱橋が架かります。1673年に柳井津と古開作を結ぶ唯一の橋(古地図では赤い線)でした。1881年に石橋になります。
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江戸時代の木橋だった頃の様子
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本橋より下流側
左岸は古地図で湊町と記載されます。古開作後も、中開作/宮本開作と奥へ(沖へ)干拓が進みました。干拓が進むことで大型船が柳井津に接岸できなくなり、艀を通して荷物を運びましたが、積み替えのデメリットを補って有り余る品揃えで繁栄を続けます。 -
白壁の街並み
町人に瓦葺屋根が許されていなかったこともあって、18世紀に4回の大火を経験します。防火対策として柱から何から、外壁を白漆喰で塗り固めて、火災が発生しても両隣へ延焼しないようにしました。先述の国森家写真を見ると、ほかにも前面の取り外し式の戸も漆喰を塗りこめた土戸を採用した徹底ぶりで、独特の景観を創り出しました。 -
防火を願い、町民は愛宕地蔵(火伏地蔵)を祀って信仰しました。写真は、蓬莱橋の柳井津側にある愛宕地蔵。1750年代のものです。
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蓬莱橋と目抜き通りを結ぶ掛屋小路には、現在も潮の影響を受けていることを物語る看板が。
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室町時代に作られた柳井川への排水溝が現存しています。
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金魚ちょうちん:繁栄の背景
白壁の街に連なる金魚ちょうちんは、柳井が栄えた背景を物語ります。
17世紀末に北前船航路が開拓され、日本海側の各湊/瀬戸内海の各湊を経由して物資が大坂に集まる物流動脈が完成します。柳井商人は、自ら北前船のオーナーとなって莫大な利益を得ます。商品流通のみならず、文化交流をもたらし、津軽から金魚ねぶたが伝来します。熊谷伝三郎が柳井風にアレンジして、金魚ちょうちんが継承されてきました。 -
産業振興
周防/長門国では、防長の四白と呼ばれる米/塩/紙/蝋の生産が奨励されました。柳井では干拓地で稲作と塩田として利用されました。1810年には、古開作/宮本開作の沖合に入浜式(潮位差を利用して塩水を供給する)塩田を造成しました。塩田の導水路に橋桁を持たない天津橋(通称幽霊橋)が、市営球場に移設展示されています。 -
醸造
塩が豊富な柳井では、醬油製造が栄えます。5代目高田伝兵衛が藩主に献上した醤油は、甘露というつぶやきをもたらし、甘露醤油として現在まで継承されます。製法は極秘でした。
18世紀半ばには、柳井に6つの醸造元が存在しました。廉価かつ良質の柳井醤油は、大坂にも流通しました。 -
菜種油
江戸時代は都市が成長し、大量の照明用油の需要が発生しました。利鞘の大きな商品なので、柳井商人は領内のみならず、九州/日本海側で大量の菜種を仕入れて菜種油を製造しました。国森家も油問屋でした。米の収穫後の冬季に栽培する(裏作)ので、農家としても好都合でした。
彼らは幕府の統制を潜り抜け、仕入帳には芥子(カラシ)の種と記して帳簿を改竄したりします。1804年には、10名の柳井の油商人と町年寄が大坂で4カ月間の詮議を受けています。厳罰のリスクを負うので、財を成すと金融/不動産業にシフトして行きます。 -
木地屋小路
貞末上の営む木綿問屋の木地屋に因んだ通り名。柳井は木綿の産地でした。干拓地は塩分が多いので、まずは塩分に強い綿花やイグサを栽培するのが一般的でした。 -
柳井縞
古くから関西で仕入れた綿花を農家に委託して綿織物を生産していきました。1760年以降、吉川家の検印付の良品だけを出荷したことから、ブランド化します。代官所は検印料、生産者は高価買取のウィンウィンとなります。
北前船を通して、柳井の農産物/手工業品が全国へ流通し、莫大な利益をもたらします。 -
柳井は城下町でないのに町制を敷いていました。国森家の建つ金屋町は鋳物師の職人町で、西隣の鍛冶屋町は幕末まで刀鍛冶も多く、商人町としては異例でした。
柳井の繁栄を見た長州藩は、岩国領にしたことを後に後悔しています。 -
柳井3大偉人
活発な交流と資産の蓄積は、柳井に明治維新の息吹をもたらします。
岩成信比古(1790-1856):出雲で正統な国学を身に着けて帰郷し、柳井に尊王思想を浸透させます。
月性(1817-58):度々の遊学で海外情勢等の見識を広め、攘夷論と倒幕論をいち早く唱えます。
浦靱負(うら ゆきえ1795-1870):1863年まで長州藩家老として舵を取ります。柳井でも1842年に私塾を開いて、身分を問わず志士を育成しました。
※浦は現在の柳井市(旧阿月村)生まれですが、岩国藩ではなく長州藩の領地に相当します。 -
三者の相関図
月性は幼くして親を亡くした久坂玄瑞を養育し、松下村塾へ入門させます。若き日の吉田松陰は、月性の説く倒幕/攘夷は過激だと首をかしげますが、見識を広めるにつれて尊王攘夷へ傾倒します。1859年に松下村塾と藩校明倫館に確執が生じた際に、和解をあっせんします。若き日の月性に海外列強の情報や資金援助を惜しまなかったのが、竹馬の友で俵物を長崎奉行所へ納めていた商人の秋月若香でした。 -
20世紀の鉄道網発達で、北前航路は衰退します。写真は、柳井を母港とする回漕店(廻船業者)の引き札で、蒸気船を導入して瀬戸内海と大坂を結ぶ海運に携わっています。
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旧周防銀行本店(1907)
1900年に小田家が音頭を取って、地元有力者33名によって資金30万円で設立されたのが周防銀行です。県下最大の銀行として、本店を建設。現在は、1階が街並み資料館になっています。柳井市町並み資料館 美術館・博物館
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内部には、金庫も残っています。釜山にも支店を持ち、柳井は移民も多かったので、海外送金にも強い銀行でしたが、1927年に解散し、建物は百十銀行/合併後の山口銀行柳井支店として使用されました。
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県内の銀行建築としては、最古のものです。
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2階は、松島詩子(1905-96)の記念館になっています。
NHK紅白歌合戦には、第1回から11回連続で選ばれています。
※第2回は会場へ移動中に事故に遭い、出場が叶いませんでした。松島詩子記念館 名所・史跡
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一番有名なのは、この曲かと思います。
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周防銀行本店の向かいには元禄元年(1688)創業の「むろや」が建ちます。西日本最大級の油問屋として名を馳せ、廻船オーナーでもありました。建物は1701年築で、800坪(119×20m)と、日本最大級の商家建築です。小田家は、名字帯刀を許された家柄で、周防銀行創立の音頭を取った人物です。
柳井駅には機関区が設けられ優等列車も停車しますが、モータリゼーションの波に取り残され、時代が止まります。商家博物館むろやの園 美術館・博物館
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誓光寺境内には、地名の由来となった般若姫伝説の柳の井戸があります。不老長寿と美貌が叶う霊水とされます。
柳と井戸 名所・史跡
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独歩の散歩道を進むと、
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国木田独歩旧宅があります。
隣の田布施町で大失恋を経験した後、1892-94年まで2年間過ごした家です。国木田独歩旧宅 美術館・博物館
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旧市街の背後には、例の甘露醤油を世に出す佐川醤油店の資料館があります。
甘露醤油資料館(佐川醤油店) 美術館・博物館
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建物は、1868年に遠崎から移築された蔵です。
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醤油を仕込む桶は、1871年に吉野杉で作られたもので現役です。各桶は30石(5400リットル)の容積です。
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原材料となる大豆1tを蒸し、小麦1tは炒ります。
両者を種麹と混ぜて、麹室で30時間寝かせます。
麹(2t)を桶に投入し、塩水を加えて1年半熟成させます。麹と塩水が混ざって熟成するともろみになります。熟成期間中は、定期的に櫂で混ぜて諸味に酸素を送り込みます。 -
麹菌の酵素は、大豆タンパクをアミノ酸に変えて旨味を出します。また小麦の澱粉を糖分に変え、糖分の一部はアルコール発酵して香りや色合い等を出します。麹菌だけでなく、乳酸菌も作用します。
もろみを搾ると、生(き)醤油の出来上がりです。加熱殺菌すれば、濃い口しょうゆになります。 -
甘露醤油づくり
1年半かけて熟成した生醤油に、麹2t(蒸した大豆と煎った小麦に種麹を加えて30時間麹室で寝かしたもの)を加え、桶に入れて1年半熟成させます。もろみを搾れば、甘露生醤油になり、加熱殺菌すると甘露醤油になります。 -
濃い口しょうゆと比べて、甘露醤油は2倍の麹菌と2倍の熟成期間を経て、旨味が強くなります。一方で、塩分は13%と低めです。試しに買ってみましたが、濃厚です。
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こちらは白壁街並みにある佐川醤油の路面店。風が凪ぐと、金魚はへたっています。
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金魚ちょうちんは、醤油蔵に隣接する西蔵で販売しています。完成品とキット両方を選べます。あと、ワークショップも併設して、組み立てながら彩色もできます。
やない西蔵 名所・史跡
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甘露醤油重枝醤油店は、戦前の宮内省御用達という札を見つけました。
重枝醤油店甘露醤油 専門店
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街並みを後にして、
柳井駅から防長交通の路線バスで上関へ向かいます。
室津半島東岸を県道74号線に沿って走行。柳井駅 駅
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途中には、1956年に柳井市に編入された旧阿月村を走行します。村役場(現支所)近くの小学校跡には、浦靱負が1842年に開いた私塾「克己堂」の門が保存されています。
克己堂の門 名所・史跡
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阿月の古地図
青丸が克己堂です。浦家は毛利水軍の幹部として村上水軍等を傘下に置き、藩政期は海の東玄関の上関を守りました。家老も輩する寄組という家格に属し、阿月村に領地を賜り、代々本拠地としました。幹部なので原則萩城勤務です。地図は、北が右側、上が西側です。 -
終点の上関で下車し、目の前の坂を上ると村上水軍の城跡があります。
現在の今治市宮窪(伊予大島/能島)を本拠地とした海上勢力です↓
https://4travel.jp/travelogue/11773956
※水軍は現代語で、当時は「海賊」と呼ばれましたが、現在のニュアンス(ならず者 略奪行為)とは大きく異なり、否定的な意味合いは一切ありませんでした。 -
彼らは(海が狭まる)海峡に関所(海関)を設けて、帆別銭/荷駄銭を徴収して免符(通行許可と航海の安全を保障)を発行しました。村上水軍は、海峡が林立する芸予を軸に瀬戸内海を実効支配し、徴税権を行使しました。
権力者の受注に応じて、船団を組織して護送する海運業も請け負ったり武装して合戦に臨む傭兵等、様々な側面を持ちます。一方で、関所破り等の掟を超えた行為には、焼き討ちなどの報復が伴いました。 -
上関城山
能島村上水軍の村上義顕が、15世紀初め頃この地に城を築いて代々上関海峡を監視しました。
熊毛水道の陸地化で、室津半島と長嶋に挟まれる幅200mにも満たない上関海峡が交通/西域の要衝となります。城山歴史公園 公園・植物園
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現在は公園として整備されています。
大内/毛利/織田/豊臣といった支配者と手を組んで独自勢力として生き残りますが、天下統一を目前にした1588年に秀吉が布告した海賊禁止令で自治権を失います。 -
長州藩は、上関/中関/下関に関所を設けて、瀬戸内海を監視しました(防長の三海関)。
上関は長島の北端に位置し、長州藩領海の東の玄関に位置する交通/軍事の要衝です。 -
麓へ降ります。
中関は現在の防府市に位置し、向島と本州に挟まれた海峡に位置し、伊予/豊後航路の要衝(南への玄関)です。
下関は、言わずと知れた本州と九州に挟まれた海峡に位置し、西の玄関でした↓
https://4travel.jp/travelogue/11741573上関海峡 自然・景勝地
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上関には、昔ながらの路地が遺ります。モータリゼーション到来までは目抜き道路でした。
この辻を斜め右へ行くと、超専寺があります。国賓の外交使節「朝鮮通信使」が通過滞在の際は、長州藩家老が宿舎にしました。 -
鄙びた港町です。
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崖沿いに町役場が建ちます。役場は明関寺跡に建ち、左隣には阿弥陀寺が残ります。いずれも、朝鮮通信使寄港時には案内役を務める対馬藩主の宿舎になりました。
対馬藩は釜山に商館を持ち、朝鮮と交易を許された唯一の藩でした。藩主の宗氏は室町時代から朝鮮と外交関係があり、朝鮮出兵後に徳川幕府が和睦する際にも実務を担いました。 -
役場から海へ降りると、離島航路の桟橋があります。
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反対側を向くと、東山口信金の入る3階建てビルが見えます。旧上関番所跡です。
番所は関所(幕府設置)の藩バージョンで、通行人や積み荷を取り締まり、荷物に運上銀(関税)を掛けました。上関は中関/下関と並ぶ海関で、船内の乗客や積み荷を取締り、課税しました。 -
元々は長島の南側の四代地区にありましたが、交通の便が悪く業務連絡に難があったので、1707年に北側の現在地に移転しました。当初は仮の建物でしたが、1711年の第8回朝鮮通信使寄港に備えて、立派な建物(下関と同レベル)になりました。
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信金の裏隣には、町の保健センターが建ちます。ここは、朝鮮通信使が上関に上陸した際、中官/下官の宿舎となった御客屋(新御茶屋)が建っていました。
後に、同地には1760年代の御蔵会所を皮切りに越荷業務を行う会所が設置されます(石碑)。越荷とは長州藩のローカルな業界用語で、廻船を通して下関~大坂へ運ばれる日本海沿岸の物産のことです。 -
積荷の売りさばきを望む他藩の廻船に対して、倉庫を貸して積荷を陸揚げさせて商談が成立するまでそれを質物として銀を貸し付けたり(金融業)、蔵敷料を徴収(倉庫業)しました。業務は藩の越荷方という役所が管轄し、莫大な利益を上げます。
利益は、1764年に開設した撫育方という役所が吸い上げ、藩の特別会計/機密費となりました。港湾整備、天災時の救済金/国防費等に充てました。余談ですが、撫育方は抜け荷を取り締まる八幡改方を吸収して、長崎で密輸に勤しむ等多くの違法行為で倒幕資金を蓄えます。 -
唐人橋跡
唐人とは(西洋人を除く)外国人全般のことで、朝鮮通信使は江戸まで11往復していますが、最低でも片道は必ず上関に帰港/上陸して宿泊しました。唐人橋は、使節上陸時に雁木(岸壁)と船を結ぶために準備された仮桟橋で、一行が宿舎に着くまでに土を踏むことが無いよう道中には莚を敷く等の特別な配慮がなされました。 -
現在の唐人橋跡。
古地図を見ると、海沿いの県道は明治以降の埋立地に通っています。 -
唐人橋を渡ると、御茶屋がありました。
御茶屋は藩主の別邸で、鷹狩/領内巡回/参勤交代の際に休息/宿泊しました。上関は参勤交代の経路に当たり、使用頻度の高い建物でした。御茶屋正門跡には、当時の石垣が現存します。 -
高さ5mの石垣で、階段の部分は明治に石を積んで埋められました。上関御茶屋は藩主のみならず、西国大名も参勤交代時に利用したり、幕府の使者や朝鮮通信使の上官も宿泊しました。
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石垣の上の御茶屋は3000坪の面積でした。1870年に建物は取り壊され、熊毛高等学校となります。現在は、ひまわり畑です。
余談ですが、かつて水軍を率いた村上氏は長州藩御船手組頭(水運部門のトップ)を務め、朝鮮通信使のための航海(下関~上関)を取り仕切っています。 -
一面のひまわり畑で、右側には番所建物が移築されています。
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御茶屋を守るために祀られた住吉神社
この辺までが、御茶屋だったようです。
海峡が狭まる(幅170m)場所には、1969年に上関大橋が架かります。 -
上関海峡は、現在も一日に1000隻以上が通行する過密地帯です。
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けっこう良い景色。
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超専寺所蔵の「朝鮮通信使船上関来航図」
右下には、正使乗船/副使乗船/従事乗船および正使卜船/副使卜船、水船/水船支配、左下には村上衆乗船/対馬御座船が描かれます。1748年に描かれた第8回通信使は、総勢477名でした。
※卜線は荷物船、水船は飲料水を搭載。 -
古地図
本土から長島を眺める視点で、北は右斜め下の方向です。
黒:上関大橋
水色:住吉神社
赤:御茶屋
紫:唐人橋
黄:客屋/越荷会所
青:上関番所
緑:阿弥陀寺
黄緑:超専寺
白:上関城 -
橋からは、周防大島が見えます。
1866年に、第二次長州征伐の緒戦が行われた場所です。
手前は、本土の室津半島です。 -
橋は、大型船が航行できるように高所に架かります。
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四境戦争(大島口の戦い)
1866年に幕府軍が小倉/芸州/石州/周防大島の4方向から長州を攻め込んだ戦争で、一般に第二次長州征伐と呼ばれます。緒戦は柳井沖に浮かぶ大島からでした。
大島は松山藩(松平家)率いる幕府軍に占領されましたが、長州軍はゲリラ戦法を採用し、最新式銃の使用で立ち向かいます。海戦では、田杉晋作率いる艦隊が幕府艦隊に勝利します。戦局の大きな要素は、大島島民が尊王倒幕思想で教化されていたために、長州軍に協力したことです。幕府軍は、大島から撤退します。 -
浦親教は、父が家老職を務める際は、阿月で領地運営を一任されますが、藩職に就くと山口遷府後は萩城代を務めます。大島口の戦いでは、克己堂から多くの第二奇兵隊員を輩出します。自身も浦阿月隊を結成して、地形を熟知したゲリラ戦を繰り広げます。
※奇兵とは、士農工商の身分を関係なく編成された兵隊で、戦闘は武士の仕事という江戸時代の常識を覆した編成です。第二騎兵隊も、結成後藩の正規軍に編入されます。 -
本土(室津)から見た長島(上関)。現在は、上関町ですが、江戸時代から室津村として上関村と対を為していました。
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室津には、肥後屋跡の石碑があります。
道の駅の向かいで、かつて中央公民館が建っていた場所です。 -
1863年八月十八日の政変で都落ちした七卿のうち三卿が宿泊しています。翌64年に帰京時に五卿が宿泊し、藩主毛利敬親と会談しています。ほかにも幕末の志士が多く宿泊しています。
※このあと鞆の浦で蛤御門の戦いで長州軍が敗北したことを知り、長州へ引き返します。 -
隣には、上関町郷土資料館があります。四階楼という歴史的建造物に入居しています。
四階楼 名所・史跡
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汽船問屋「佐波屋」店主の小方謙九郎(1835-1913)によって、1879年に建造されます。当時の価格で3000万円を掛けています。
擬洋風建築で木造4階建てという希少さと文化的価値が相まって、国の重文指定。 -
四階まで登るのは、ちょっと勇気がいります。軒高9.7m棟高11.8m。
和室18畳でフランス製のステンドグラスが填められています。 -
天井中央には、鳳凰の鏝(こて)絵。
当初は店舗兼饗応のために利用されます。 -
3階には、茶室があります。
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6畳の和室には、唐獅子牡丹の鏝絵。
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歴史を感じます。
汽船宿/旅館として、1991年まで営業していました。 -
1階の菊水の鏝絵
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1,2階は展示室になっています。
写真は、1935年頃の石炭運搬船。 -
町の名所一覧。
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バスで引き揚げます。
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おまけ
次は、光市を訪れます↓
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