![山口県で一番の都会<br />西日本最大の貿易港としての地位を20世紀半ばまで保持した街。<br />源平の決戦や、高杉晋作や伊藤博文が活躍した幕末など、興味深い歴史スポットを巡ります。後半は、明治以降のレトロ建築を巡ります。<br /><br />おことわり<br />長府・徳山・清元は支藩のために、幕末の志士は、日本史では一律長州藩士として扱われますが、今回は支藩にもスポットを当てているので、あえて萩藩・長府藩etc.と表記します。<br /><br />幕末期はグレゴリオ暦、括弧内に旧暦(太陰暦)で表記します。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/74/15/650x_11741573.jpg?updated_at=1659906185)
2021/12/27 - 2021/12/27
1020位(同エリア1397件中)
gianiさん
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山口県で一番の都会
西日本最大の貿易港としての地位を20世紀半ばまで保持した街。
源平の決戦や、高杉晋作や伊藤博文が活躍した幕末など、興味深い歴史スポットを巡ります。後半は、明治以降のレトロ建築を巡ります。
おことわり
長府・徳山・清元は支藩のために、幕末の志士は、日本史では一律長州藩士として扱われますが、今回は支藩にもスポットを当てているので、あえて萩藩・長府藩etc.と表記します。
幕末期はグレゴリオ暦、括弧内に旧暦(太陰暦)で表記します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、下関の歴史巡り。
古代山陽道を終点(亀山八幡宮下)から遡ります。現在の国道2号線です。 -
その前に、お得なフグ飯屋さんへ。
ふくの河久 グルメ・レストラン
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心と体のエネルギーをチャージ。
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下関六十ヶ町の氏神。895年に神託により建社。
主祭神は、仲哀天皇・神功(じんぐ)皇后夫妻と息子の応神天皇。代々の権力者の庇護をうけます。亀山八幡宮(山口県下関市) 寺・神社・教会
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九州を眺める景勝地としても知られ、幕末には亀山砲台が建設され、攘夷戦の火ぶたが切られました。
伊藤博文は、境内のお亀茶屋で働く木田梅子と出会い、翌年に結婚しています。 -
赤間神宮
859年に阿弥陀寺として開闢。
明治政府の政策で廃寺、赤間神社となる。
竜宮城を模した竜宮造りの水天門は、昭和40年建立。赤間神宮 寺・神社・教会
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境内には、壇ノ浦の戦いで入水した第81代安徳天皇の御陵が。
これ以降は、勅願寺となる。 -
七盛塚(平家塚)
壇ノ浦の戦いで散った平家一門14名を弔う。
上記の七名に盛の字が付くための通称。 -
七盛塚へ行く途中にあります。
源平絵巻と琵琶、甲冑が展示されています。赤間神宮宝物殿 美術館・博物館
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本殿
竜宮城を連想させます。入水の際に、海の中にも都はあります。と二位の尼(清盛夫人)が申し上げたからでしょうか? 6歳4か月で亡くなった幼帝の幸せを願う気持ちを感じさせます。 -
関門航路
関門海峡を縦断する全長50km幅500~2200mの海の道(旧建設省)。
S字型に湾曲している上に、幅が狭いところを毎日1000隻以上が往来する過密航路。
響灘海域と周防灘海域の潮位差によって、時速10ノット(18.5km/h)の潮流が発生することがネック。 -
一番狭い部分には、関門橋が架かります。
左右から絶えず大型船が往来し、見ていて飽きません。
私の旅行記は一貫して28mm単焦点レンズで撮影しているので、実際の視界は2~3倍大きく見えます。 -
国道2号線の歩道は、歩きやすいです。
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源平の決戦地です。
潮流の変化に敏感だった源氏が勝利しました。壇之浦古戦場跡(みもすそ川公園) 自然・景勝地
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幕末には、壇ノ浦砲台が築かれました。
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船舶向けの電光掲示板。
西向きの潮流であることを表示。 -
しばらくすると、潮速に変わります。
上と併せて、西向き4ノットの潮流とアピールしています。
※午前中は東向きです。 -
赤間神宮の赤鳥居が。元旦の若水は、ここから汲んで供えられます。
壇之浦の戦いで命からがら岸に泳ぎ着いた平家の武将が水溜まりを見つけて、飲んでみると真水だった。もう一口飲むと塩水になっており絶命したという伝説が残ります。平家の一杯水 名所・史跡
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前田砲台跡。
1863年にフランス軍によって破壊、翌年には連合国軍によって再破壊・占領されました。前田砲台跡 名所・史跡
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歴史は近世方面へ。
現在の関門連絡船は、堂崎の渡し跡を踏襲しています。
1550年にザビエルが本州初上陸を果たしたのも、ここです。
彼は山口の大内氏、京都の足利家を訪問しています。 -
与次兵衛ヶ瀬の碑
1592年、豊臣秀吉の船が「死の瀬」(岩礁)に乗り上げて危機一髪。
激しい潮流で誰も近づけない中、毛利秀元が小舟で秀吉を無事救出。
秀吉の船を漕いでいた明石与次兵衛は命をもって償います。
※毛利秀元は初代長府藩主になります。 -
与次兵衛ヶ瀬には角柱を立てて注意を喚起していましたが、
明治40年以降の関門航路の整備の一環として、安全かつ円滑な航海のために、明治45年に破砕されました。 -
赤間神宮の駐車場の隣り、阿弥陀寺(廃寺)公園にある石碑。
将軍代替わりの際に表敬訪問した朝鮮通信使は、(対馬を経由して、)「本土」へは此処が初上陸の地でした。 -
その横には、山陽道の本陣が。
伊藤家には、オランダ商館長一行なども立ち寄るスポットでした。
下関の古来の地名は、赤間。赤馬とも表記します。赤間関または馬関と呼ばれます。 -
809年創建で、赤間関最古の神社。赤間商人の信仰篤く、周囲の稲荷町は遊郭発祥の地でもある。遊郭は永田町の料亭のような役割も果たし、幕末は坂本龍馬をはじめとする志士が政治会談を重ねたスポット。
末広稲荷神社 寺・神社・教会
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久坂玄瑞率いる光明寺党の本拠地。
1863年6月25日(文久3年5月10日)には庚申丸に乗り込み、アメリカ船を攻撃します(第一次下関戦争)。国際法に反する違法行為でした。光明寺 寺・神社・教会
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物騒な雰囲気とは対照的な境内です。
本堂の柱には、刀傷が残ります。 -
上記の攘夷戦争は、亀山八幡宮境内からの砲弾から始まった。
余談ですが、庚申丸は7月20日(旧暦6/1)にアメリカ軍艦によって撃沈、7月24日(旧暦6/5)にはフランス軍が上陸して前田・壇ノ浦砲台を破壊します。 -
高杉晋作
萩藩士で、松下村塾で学ぶ。
尊王攘夷派で、1862年には江戸で攘夷活動するも謹慎。
第一次下関戦争勃発により、下関防衛の任を受けます。
写真は、長府の市立歴史博物館のもの。 -
漁港。
下関駅を挟んで下関港国際ターミナルの反対側にあります。
新地地区は、高杉晋作ゆかりのスポットが多く存在します。
新地は、静かで情緒豊かなお散歩エリアです。
彦島航路は、漁港から発着します。 -
漁港近所の食堂
学生時代の松田優作が足しげく通ったお店、 -
白石正一郎宅跡
高杉晋作の滞在先。海鮮問屋小倉屋の主人で尊王攘夷論者。
高杉晋作は7月26日(旧暦6/7)に白石宅で奇兵隊を結成し、白石も参加。資金面でも志士を援助します。手始めに、萩藩の出先機関である萩藩新地会所を襲撃します。
写真は、国道191号線に面した浜門跡で、当時は海岸線に接していました。現在は中国電力の敷地。新政府からの誘いを断って地元にとどまり、赤間神宮の2代目宮司を務めます。
※奇兵とは、正規兵の対義語です。有志で結成され、構成員は武士に限りませんでした。白石正一郎旧邸跡 名所・史跡
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大歳神社
平家の本陣彦島を見下ろす高台にあり、源義経が沐浴して戦勝祈願したスポット。翌1186年に地元漁師が武運長久の神として祀りました。
当社の氏子の一人が白石正一郎で、奇兵隊の旗を奉納しています。
写真は、攘夷必勝を願って白石が1862年に奉納した大鳥居。大歳神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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今更の情報なんですが、1940年開通の関門トンネル工事のために、数百メートル遷座しています。
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教法寺事件(9月28日 旧暦8/16)
騎兵隊は、教法寺を駐屯地にしていた萩藩正規軍(保守派)を襲撃して、相手方に死者を出します。この責任を取って、高杉は僅か4か月で奇兵隊総督を罷免されます。
※八月十八日の政変(翌々日の9月30日)では、孝明天皇・薩摩・京都守護職(会津)が、急進派の三条実美・長州を追放します。教法寺 寺・神社・教会
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第一次下関戦争で長州藩は関門海峡を封鎖し、外国船が航行できないようにします。
英米仏蘭4か国は連合艦隊を組織して、報復措置として下関を攻撃するべく出航します。伊藤博文が和睦に向かいますが間に合わず、1864年9月5日(元和元年8月5日)以降、連合艦隊は攻撃開始。砲台を破壊、占領します(第二次下関戦争)。
高杉は罪を許され、大使として講話をまとめ、下関を国際港として開放します。その時の通訳も、伊藤博文でした。 -
荻野流一貫目青銅砲(1844)
萩の鋳物師郡司喜平治信安が制作。フランスの戦利品として持ち去られます。パリのアンヴァリッド軍事博物館から貸与されたものが、市立歴史博物館に展示されています。 -
木製の大砲(豊浦小学校より寄託)
下関戦争での大砲不足を補うために急遽作成。竹で筒を縛っています。
明治35年の天覧用に複製したものが、市立歴史博物館に展示。 -
下関は長府藩の領地のため、外国に開放するには萩藩と領地を交換する必要が生じました。そのために、長府藩や攘夷に固執する勢力と対立し、命を狙われます。1865年1月12日(元和元年12月15日)に、高杉は功山寺で奇兵隊を率いて挙兵します。
写真は、とっくり小路にある井戸で、長府藩の暗殺者の手を逃れるために丸一日潜伏します。これがもとで体をこわしたと言われています。ひょうたん井戸 名所・史跡
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人ひとりが、やっとのスペースです。
下関戦争の講話で多額の賠償を課されますが、長州藩には履行不可能とされ、幕府が支払うことになり、幕府の恨みをを買います。これ以降、長州藩は英国と接近、犬猿の仲だった薩摩とも同盟を結びます。 -
とっくり小路
情緒ある小径です。 -
長崎出身の砲術家、中島名左衛門の墓所。
長州の戦力では、異国船を打ち払えないことを冷静に分析したために、久坂玄瑞率いる光明寺党に暗殺されました。本堂に刀痕も残ります。妙蓮寺 寺・神社・教会
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馬関越荷方役所跡
1865年には高杉晋作が頭人に就任し、明治維新の財源となる。
越荷=越後方面から回送される昆布、数の子などの積荷。
1840年に萩藩が開設。日本海側からの物資が集まる特性を活かし、積荷を担保に保管・金融・販売を行い、大きな利益を上げた。 -
1866年7月18日(慶応2年6月7日)から始まった四境戦争のうち、小倉口の戦闘(慶応2年6月17日~)が最も激しく、高杉晋作らの奇兵隊の活躍もあり、10月10日(旧暦8/1)に小倉城は落城。城内の太鼓を戦利品として持ち帰り、戦勝祈願を行った当社に奉納されました。
平氏が壇ノ浦へ逃れた1185年に創建。厳島神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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新地の庄屋林算九郎邸跡
肺結核が悪化した高杉は、小倉口の戦闘の指揮を任せ、療養生活に入ります。その甲斐もなく、1867年5月17日(慶応3年4月14日)に、高杉晋作はここで息を引き取りました。27歳8か月の生涯でした。
大政奉還は、半年後の1867年11月9日に実現します。高杉東行終焉之地 名所・史跡
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明治維新後も、繁栄は止まりません。1889年(明治22年)に最初の市制が施行された自治体の一つです。当時は、赤間関市という名称でした。特に、大陸との窓口として繁栄。現在の下関駅界隈には、現在の下関港国際ターミナルとコリアンタウンが林立します。
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次に歴史に登場するのは、1895年(明治28年)。
料亭兼旅館の春帆楼で、日清戦争の講和会議が行われました。
敷地には、昭和12年に開館した日清講話記念館があります。 -
会議は2階の大広間で3/20~4/17まで行われ、日本側の全権大使は内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光、清国は李鴻章でした。
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椅子は、蒔絵を施された高級品。浜離宮から会議用に下賜。
当時の建物は空襲で焼失しています。 -
引接寺
天津条約以来の旧知の間柄だった伊藤は、船泊するつもりだった李鴻章を気遣い、宿舎として提供。
3/24の会議後、帰途に就き山陽道を歩く李鴻章が狙撃され遭難します。
※遭難:生死にかかわる危険。現在は、山や海でのシーンに限定して使用。 -
シャクヤクの屏風
引接寺の接見の間に設置。 -
一命をとりとめた李鴻章は4/10に復帰。春帆楼への往復は、山沿いの小径に変更されました。現在は、李鴻章道として親しまれています。
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4/17に下関条約が締結され、4/21には詔勅として、国民に公示されました。今でいう官報による公示ですね。
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春帆楼ですが、先立つ明治21年に伊藤博文がフグ料理を解禁するきっかけの場となりました。詳しいエピソードは、ネット検索してみてください。
※下関のフグ料理は、日本遺産を構成しています。 -
引き続き、日本遺産を構成するレトロ建築を紹介。
旧赤間関郵便電信局(1900年M.33)
レンガ造りの2階建て。現役郵便局では最古の建築。ちなみに丸ポストは1901年発祥。 -
旧下関領事館(1906年M.39)
レンガ塀も、外交施設の特徴。広島・山口・福岡・大分を管轄。
領事以外にも、海事監督官が駐在していた。 -
旧宮崎商館(1907年M.40)
石炭輸出業を営む商館。現時点では、歯科が営業中。
江戸時代は問屋業が栄えましたが、明治以降は商社と銀行が地域経済を牽引します。 -
旧秋田商会ビル(1915年T.4)
鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階、塔屋と屋上庭園があります。 -
ファサード
西日本初の鉄筋コンクリート造りの事務所建築です。 -
1階は事務所。
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天井も高いです。
秋田商会は、材木取引(商社)・海運を兼ね、大陸にも進出していました。 -
2階と3階は住居部。板張りの廊下。
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外壁に反して、住居部は書院造。
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3階の大広間
20畳だが、敷居を外して52畳まで拡張可能。 -
純和風を守るためにコンクリート柱を使わずに、梁で支えています。
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塔屋・屋上庭園(共に非公開)へ続く階段
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手動エレベータ
1階の台所、2階の食堂、3階の居間、屋上(庭園でパーティする)を結ぶ荷物専用。 -
トイレも最初から水洗でした。
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旧三井銀行下関支店(1920年T.9)
百十銀行本店、山口銀行本店を経て、昭和40年まで営業。
レンガおよび鉄筋根コンクリート造り。 -
やまぎん史料館の一部として、内部が公開されています。
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山口銀行が誕生した昭和19年当時の姿に修復されています。
三井銀行時代の格子は、ブロンズ製でした。 -
山口銀行はカーペットを曳いて営業していましたが、床面は竣工当時の亀甲タイルで装飾されていました。
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南階段は、ヒノキ造り。
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2階の彫刻
中央の三本の矢の教えを中心に、下関での大内氏の日明貿易、萩の松下村塾、岩国の錦帯橋など、山口県の精神産業文化が描かれています。 -
山口銀行
明治11年の第百十銀行を母体に、昭和19年に県内の主要銀行6行の合併で誕生。唯一の県下本店銀行。礎石には、毛利元就の百万一心の文字が。
※元就は築城の際の人柱を廃止して、上記の言葉を石に刻んだ。実際には、一日一力一心を百万一力と読ませた。 -
旧逓信省下関郵便局電話課庁舎(1924年T.13)
電話需要の増加に伴って建設。 -
電話交換手は女性限定の職種で、3交代制で24時間操業でした。
当初の人員は、女性185名、男性50名。男性は、設備機械のメンテナンス担当でした。 -
建物の裏側から撮影。正面よりもキュートです。
女性の職場だったこともあり、現在は地元の一大映画スター田中絹代ぶんか館になっています。 -
2階の屋上、および3階休憩室。
当時の写真では、読書やオルガン演奏の様子が写っています。 -
職場の様子。交換手は和装で業務を行いました。
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上3枚:東京中央電信局(1925年)
下:東京中央電話局牛込分局(1922年) -
上:大阪中央電話局難波分局(1922年)
中:大阪中央電信局(1927年)
下:東京中央電話局青山分極(1922年) -
東洋捕鯨株式会社下関支店(1926年T.15)
大正期の日本の捕鯨を独占していた。日本捕鯨、日本水産(ニッスイ)となる。 -
内部。おしゃれです。
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現在は蜂谷ビルの名称で、レストラン等が入ります。
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山陽ホテル(1932年S.7)跡
山陽鉄道が下関まで伸長した明治35年に開業。写真の建物は2代目で、昭和7年築。昭和17年の関門トンネル開通で廃業。戦後は、国鉄事務所を経て2011年まで存在。 -
旧不動貯蓄銀行下関支店(1934年S.9)
鉄筋コンクリート3階建て、画期的な免震基礎を持つ。
現在は、ろうきん下関支店。 -
関門トンネルが開通して関門連絡船が廃止されると、下関は素通りされます。
大陸の植民地も失い、人の往来は激減します。それでも、山口県第一の都市です。
現在も釜山、太倉(中国)との定期航路があります。 -
おしまい。
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