
1971/05/30 - 1971/06/26
8054位(同エリア10115件中)
ゆーちさん
この旅行記のスケジュール
1971/05/30
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リバプール港からダブリンへ
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ダブリンのステファンズグリーン(公園)
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北アイルランド ラーンのバリガリYH
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インバネスYH
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サフロンワルデンの民家に宿泊 ベリーさん宅
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ロイヤルヘイマット劇場で「Fiddlers on the roof]」屋根の上のバイオリン弾きを観る
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ナミュールYH
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ナミュール城塞(シタデル)に登る
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ブリュッセル 小便小僧
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ルクセンブルグYH
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マドリード 王立植物園
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マドリード スペイン広場
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マドリード 地下鉄アト―チャ駅
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この旅行記スケジュールを元に
1971年‘小田誠’の著書「何でも見てやろう」に影響され4か月間のヨーロッパひとり旅をした。50年前のヨーロッパにタイムスリップする。
往路はUSSRのアエロフロート機で羽田からロンドンまで16時間の飛行、ユーレイルパス最長3か月(約8万円)の有効期限を活用しユースホステル(YH)を頼りにヨーロッパ諸国を訪問した。欧州の鉄道乗り放題、時には知り合った仲間とヒッチハイクの気ままな旅だった。おかげで様々な国の人たちとの出会いと体験があった。
復路はパリから列車でモスクワまで、モスクワのホテルで一泊してからシベリア鉄道でナホトカ迄の旅、ナホトカから船で横浜までの2日間を加え13日間で帰国した。1ドル360円の時代である。
旅を終えてから約半世紀が過ぎ、記憶も薄れてきたので旅のまとめを記録してみようと思い立った。写真は当時のカメラなので画像は良くないが、この記録を見た方に楽しんでいただけたら嬉しい。絵葉書はすべて当時の物である。
第1弾は ロンドンからアイルランドへ渡る。アイルランドからスコットランドはインバネス、エディンバラ、南へ下ってサフロンワルデン、ロンドンに戻る。ドーバー海峡を船で渡り、オランダ、デンマーク、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグを訪問してパリからスペイン マドリッドまで夜行列車に乗る
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 ヒッチハイク 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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5月30日日曜日
忘れもしない出発の日。旅の手配は当時のJTBで事前に往復のチケット(約20万円)を確保した。往路はソビエト連邦のアエロフロート機で羽田からロンドンまで16時間程だった。モスクワまで10時間、シェレメチェボ空港で1時間休憩してロンドンまで5時間。到着までに三回も豪勢な食事が提供された。羽田空港(東京国際空港) 空港
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機内で隣席の方と三好達治の詩集の話をした。彼はヴァイオリン(ストラディバリウス当時2千万円以上)の輸入のための渡英だと言っていた。ヒースロー空港到着時間が遅れたため動揺する私を心配してくれたのは、彼を迎えに来た素敵な英国紳士だった。KING GEORGE Ⅵ MEMORIAL (ロンドンのYH)のチェックインまで付き添ってOKが出るまで交渉してくれた。
シェレメーチエヴォ国際空港 (SVO) 空港
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初めてのユースホステルでは、ヨークシャーの小学生達が宿泊しており、何かと親切にYHの決まりを教えてくれたり日本のことを聞いてきた。とてもかわいかったが、私も子供だと思われていたのかもしれない。 翌6月1日火 バッキンガム宮殿英王室の衛兵交代の儀式に遭遇。胸がわくわくする旅のはじまりだった。
バッキンガム宮殿の衛兵交替式 祭り・イベント
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衛兵の行進を横から真近に撮る。
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KING GEORGE Ⅵ MEMORIAL (ロンドンのYH)の朝食時に知り合った写真家のドイツ人(ハイデルベルグ在住)とビクトリア駅まで直行しグリーンパークで寛いだ。彼は一人暮らし。人生や結婚の話、絵や言葉の話などしばらく話し込んだ。東ドイツに母を一人残して西ドイツで働いている。誰かに指示されるのが嫌い。自由と孤独を選ぶと言っていた。
グリーン パーク 広場・公園
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雨に烟るロンドン橋。 当時の撮影場所からは大砲台が並んでいるのがみえるが、今はどうかわからない。ロンドンは午後8時半になっても陽が沈まなかった。
ロンドン橋 建造物
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ロンドンのYHには連泊できなかったので、ダブリンに向けてロンドンを18:30に発つ。イングランド ヨークシャー地方リバプールへ。
当時流行した「マンチェスター&リバプール」を何回も口ずさんでいた。しかしこの歌の内容は奴隷売買の港であったリバプールがマンチェスターの発展を支えた時代を皮肉るもので、私はその歴史に気付いていなかった。 -
ロンドン→リバプール→ダブリンまでの列車と船で一緒だったアン。私の旅の計画に驚いていた。ロンドンの看護学校の二年生でアイルランドの南に12人の家族と共に住んでいた。彼女のおかげで船中泊も安心だった。
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リバプール郊外
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リバプール駅付近の夕陽。リバプール発19時半のダブリン行きの船に乗る。
リバプール港ビルディング (ドック ビルディング) 建造物
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翌朝、6月2日水 7:00 ダブリンに到着 雨のステファンズ・グリーン。ユースホステルは原則15~16時から宿泊申込みを受付ける。17~18時にベッドルームが開けられ朝9~10時にクローズ。門限は22~23時位。
Travelodge Stephens Green ホテル
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ダブリンの雨は覚悟はしていたが、どしゃ降りだった。
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6月3日木 ダブリンの市街地図を見ながら町を散策。知人に頼まれたお宅を探す。探し当てたが、当人は留守で夫人が対応してくれた。
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訪問先ではショートケーキとミルクコーヒーを頂いた。お土産にいただいたエプロン。アイリッシュコーヒーの淹れ方が書いてある。
親切にもわざわざユースホステルのバス停まで送ってくれた。 -
Dublin Liffey川とFour Courts のサンセット(絵葉書)ユースホステルはコンフリー駅から2.5km、リフィ川にかかるオコンネル橋から南へ向かいトリニティ大学・ステファン公園を過ぎたところにある。最後に案内してくれたおばあさんは日本人の手先の器用さを褒めながらユース迄連れて行ってくれた。
リフィ川 滝・河川・湖
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ダブリンのYHで知り合ったアメリカ人。彼女もひとり旅だった。一緒にミルクを飲みながらいろいろ話した。彼女は反戦運動に興味があると言っていた。のちにベルギーのブリュッセルで再会する。
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6月4日(金) アイルランドの首都ダブリン発11:00 、ベルファスト発14:05の列車で北アイルランドのLARNEに15:00着。YH迄の交通手段が不明確だったので、約8㎞の海沿いの道をリュックを背負って90分ほど歩いた。私も若かった。
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ひっそりとしたLARNE市郊外のバリガリYH 北アイルランドの首都ベルファストの北西にある小さな港町の北にある。ここではオーストラリア、カナダの女性たちと情報交換。ベルファストでは軍がうるさいから写真撮影に気を付けるとか、宗教上の紛争中なので怖かったとか。一週間のヒッチハイクに誘われたが断った。
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このYHの左手の丘の上から北アイルランドの海を望む。YHの前の海岸にシロクマに見立てた岩のオブジェを見つけた。誰かが目と鼻を描いたようだ。シロクマはこの辺りのアイドルだそう。このホステルは清潔で寛ぐのに格好の場所と一泊先輩のスミスという青年が言っていた。
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この丘に放牧されている牛たちがこっちを向いて「よく来たね」と言っているようで親近感を覚えた。
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翌日スコットランドに渡る。イギリスとアイルランドを結ぶ航路は図のように他にもいくつかあった。復路は紺色で示した一番北のルートLARNE11:00発→STRANREAR着13:00だった。そこからグラスゴーまでカナダの女の子とヒッチハイク。バロッホ駅まで1時間の汽車の旅。そこから徒歩30分、お城のようなロッホローモンドYHを目指した。
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ロッホローモンドYHはとても人気のあるユースホステルだったが満杯で断られた。ロッホとは湖のことでネッシーが住むというネス湖もその一つである。ここからグラスゴーまで鉄道で約1時間。YHを断られたメンバーと一緒にグラスゴーに戻りInverbergのYHへ行く。
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Glasgowからインバネスへ向かう。乗車券(British Railways Board)
片道19ペンスと5ペンス(当時1ポンド864円1ペンスは8.64円)
ピンクはFishレストランのチケット こんな時チケットは薄れた記憶の証明になるので取っておいて良かったとつくづく思う。 -
スコットランド インバネスにある山小屋風のYHに宿泊した。向こうに立っているホストの丹精込めた自慢のお庭がきれいだった。ちなみに朝食はコーンフレイクとミルク。 インバネスはネッシー伝説のネス湖への拠点である。
Inverness station 駅
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YHの傍を流れるインヴァネス川
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インバネスのYH で出会ったユダヤ系のアメリカ人女性Cassとロンドンまでヒッチハイクする事になった。彼女は若いがしっかり者のお姉さんタイプでアメリカ(カリフォルニア)で貸アパート業を営んでいた。
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二人でまずは「もっと北へ行ってみよう」ということになり、スコットランド北限の町OBANを訪れる。その日は Stirling YH に泊まる。
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OBANから南下する途中、茶色の牛(ジャージー種?)が放牧されていた。
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スコットランドで最大の都市エディンバラにやってきた。市街の大きな花時計に職人さんが花を植えていた。
エディンバラ ウェーバリー駅 駅
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エディンバラ城 あのチャールズ王子とダイアナ妃が子供たち二人を育てる事になるお城だったとは、、、。ここから順調にCassとスターリング泊、ニューカッスル泊(1.25 ポンド)、ケンブリッジ、、、とヒッチハイクをくりかえし、順調にロンドンに近づくが、、。
エディンバラ城 城・宮殿
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6月8日(火) ロンドンのちょっと北にある小さな町「サフロンワルデン」のYH が閉まっていてCassと二人で途方に暮れていた時、黄色いチューリップを手籠にいっぱい持った背の高い白髪の老婦人が「どうしたの?」と声を掛けてくれた。
事情を知った彼女はMiss Barry(ベリー)という名前で「家でよかったら」と言って二人を写真の自宅に泊めてくれたのである。玄関にベリーとキャスが写っている。 -
一人暮らしなのに家の中は3階建てで素晴らしく整い、調度品などもマッチしてとても居心地のよいお宅だった。私達は3階に泊めてもらった。
心尽くしの手料理をご馳走になった。確かシチューとお肉と野菜、パンだったと思う。これはその時出されたナプキンのROBINの絵柄である。 -
当時のロンドンの地下鉄路線図 翌日別れを告げた私たちは「帰国したら手紙を出そう」と誓った。しかしベリーおばあちゃんから手紙の返事は返ってこなかった。かなりご高齢だったから何かあったのかもしれない。ロンドンの街を歩いていた時「こんにちは!」と背の高い日本のビジネスマン風の男性から声をかけられた。たったそれだけだったが嬉しかった。
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6月9日(水)
CassのリクエストでロンドンHaymarketのHer Majesty’s劇場に行くシアターロイヤル ヘイマーケット 劇場・ホール・ショー
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ちょうど「Fiddlers on the roof(屋根の上のバイオリン弾き)」の上演中で人生で初めて観たミュージカルだった。今でもこの音楽を聴くと懐かしさがよみがえる。
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6月11日(金) Cassと別れたあと、私は船でロンドンからオランダのデンハーグに向かう。フェリーで知り合ったオランダの青年。自転車でイギリスの旅を終え帰るところだった。
6月12日(土)船中泊で翌日の朝到着。デンハーグの港から街まで私は鉄道で、彼は自転車でしばらく並走したのを覚えている。 デンハーグYH泊デンハーグ中央駅 駅
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6月13日(日)デンハーグからアムステルダムまでバイクに乗せてくれるという親切な女性がいて甘えた。風を切って走ったので髪がガチガチになり有料トイレで梳かしていると、番をしているおばさんが珍しそうにジロジロ見ていた。
ここはアムステルダムのナショナルモニュメント広場(絵葉書)。ヒッピーのような若者がボーッと時間を過ごしていた。私も同様に暇をつぶした。 -
6月15日火
アムステルダムのYHで出会った浜松の人と一緒に市内観光をする。ダムの決壊を防ぎ街を守ったという少年の像のポーズ。アムステルダム美術館ではゴッホの自画像を鑑賞した。アムステルダム国立美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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6月15日 アムステルダム美術館で見た羽橋。オランダの街ではよく見かけた。これは絵葉書。
ゴッホ美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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「アンネ・フランクの家」の窓から見た中庭の風景である。ギシギシ音の出る階段を上がると正面に本棚があり、それがアンネの部屋に通じる秘密のドアだった。彼女の見たに違いない風景を見て彼女が窮屈な生活に耐えながらも夢を描いていた心情を想像した。
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6月17日木
アムステルダムからデンマークへ向かった。北欧では一番面積の小さい農業国である。 -
船で渡る。写真の男性はデンマークの農業について色々話しコーヒーをご馳走してくれた人。
コペンハーゲン中央駅の横のチボリ遊園地はクローズだったが、入口の壁の黒と青の絶妙な配色に見入っている日本人がいて同郷だと知ったときは驚いた。写真は無いが「近所の人によろしく言ってくれ」と頼まれたが実現していない。チボリ公園 テーマパーク・動物園・水族館・植物園
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デンマークの車窓風景。ローカル列車に乗り、ユトランド半島をまわる。
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デンマークの農村風景。 コペンハーゲン泊
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アムステルダムに戻り、フランクフルト行の切符をゲットする。
アムステルダム中央駅 駅
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6月18日金
ライン川下りの観光船。私は雨の中、ライン川左岸をケルン大聖堂までさかのぼって歩いた。ケルン泊 -
ケルン大聖堂のそばの騎士像
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雨に煙るケルン大聖堂。ドイツ独自の垂直性を重視したゴシック建築として世界最大規模の大きさはバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ第二位の大きさだそう。 高さが157m,40 階建てのビルに相当するという。建物は全体に黒ずんで見えた。
13世紀の着工から完成までに600年余りかかり1880年に完成した。厚い信仰心が無いとできないこと。年間数百万人もの巡礼者が訪れる。 ケルン泊ケルン大聖堂 寺院・教会
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ライン下りの汽車の窓から高い所に古城を仰ぐ。 マインツ⇔コブレンツ間
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ライン下りの車窓から ドイツの民家はドッシリした構えが多い。
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6月19日土 ベルギーのナミュールYHに泊まる。ブリュッセルから南東へ 62km のNamurはフランス系のワーロニー地方の大都市。中世は軍事上の重要地点だったので戦禍を逃れ、古城が最も美しい姿をとどめている。日本人の女性二人旅。一人は何と私と同じ職業だった。
観光案内所 (ナミュール) 散歩・街歩き
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町の中央を流れるMEUSE(ムーズ)川。ナミュールはブリュッセルとルクセンブルグの間にある。
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ナミュールの城塞に登る途中の岩肌の緑が雨上がりで新鮮な美しさだった。
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ナミュール城塞に登り切った所からの景色 ムーズ川とサンブル川の合流する場所にできた街だがその合流点にある岩山に立つのがシタデル(城塞)で、旧市街や周辺の眺めがとても良かった。
城砦 (シタデル) 建造物
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雰囲気のある陶器作りのおみやげ屋さん。陶製葉っぱに黒の紐がついたネックレスを買う
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陶製のネックレスは今でも私のお気に入りだ。
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6月20日(日)
ベルギー ブリュッセルの中央駅から徒歩10分。小便小僧はセーラー服を着ていた。この像は15世紀半ばブリュッセルに城を構えたブラバン侯の王子が城を包囲した敵軍に向かって木の上から小便をひっかけて敵を侮った事を表現していると伝えられる。ブリュッセル泊小便小僧 建造物
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ここは町の北部ラーケン公園のそば。1958年のブリュッセル万博の時に建てられたシンボルタワー「原子の塔」だそう。ルクセンブルク泊
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6月22日(火)
ルクセンブルクのYH の朝の風景。ホステルは中央駅からバスで10分位北にある。女性一人旅も多い。ルクセンブルクは「小さい城」という意味でその名のとおり沢山の城がある。町は渓谷をはさんで新旧に分かれているそうだ。宿泊25~30フラン 1フラン7円 -
6月22日(火)
パリ行のTEE(特急)列車の同じコンパートメントに座るドイツ人のおじさんに家族の思いなど色々尋問?され、お説教かと思いきや結局励まされた。パリではYH が取れず無口で無愛想なフランス人の女の子と相部屋の安いホテルに宿泊した。朝食は勿論croissantとチーズとカフェオレ。美味しかった。30Fを二人で割り勘にする。 -
6月23日水
パリの早朝散歩。セーヌ河畔で油絵を描いていた日本人(横須賀出身)と少し話す。 この日の夜パリから寝台車でスペイン マドリッドへ向かった。Austeritz駅発18:05 途中乗り換えた。パリのセーヌ河岸 史跡・遺跡
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6月24日木 01:15Heydaye発 Madrid には朝の9:30頃到着。
ユーレイルパスには寝台料金は含まれていなかった。別料金が痛かったが乗るしかなかった。マドリッド市内の王立植物園 植栽が幾何学的 マドリッド泊。王立植物園 テーマパーク・動物園・水族館・植物園
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6月25日(金)
マドリッドスペイン広場のドン・キホーテの像スペイン広場 広場・公園
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マドリッドでMetroに乗りあちこちへ移動した。YHは北駅から地下鉄で行ける大学都市の中にあった。トロリーバス9番でも行ける。宿泊40ペセタ 夕食45、朝食15ペセタ。地下鉄料金は2ペセタ。1ペセタは5.14円
アトーチャ駅 (地下鉄) 駅
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ドイツのハンブルグから旅行中の日本の男性二人と一緒に観光する。自称プレイボーイとのこと
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6月25日
プラド美術館に行く。その前にある温泉のような噴水、間欠泉?プラド美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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6月25日
プラド美術館の入場券 -
Madorid銀行。「BANCO de MADRID」のデザイン文字が印象的だった。
翌日ポルトガルのリスボンへ向かう。
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ユースホステル一人旅
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