2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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中欧4都市15日間の美術館巡り(Day7-2) ドレスデン アルテ・マイスター絵画館
ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、観られなかった作品がいくつかありましたが、その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会えました。
そして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2023年10月15日(日)(Day7-2)
今回はアルテ・マイスター絵画館Netherlandish paintingsエリアのレンブラントとフェルメールが中心です。
この絵画館のコレクションは、アウグスト強健王と息子のザクセン選帝侯アウグスト2世でありポーランド王アウグスト3世(以下、アウグスト3世)が主に収集したものです。
アウグスト強健王は多くの絵画を購入する一方、カトリックに改宗までして1697年に念願のポーランド王位を手に入れると、ワルシャワ王宮に所蔵されていたレンブラントを始めとする多くの絵画をドレスデンへ持って来ました。
さらに、息子のアウグスト3世は、もっぱら美術と音楽に情熱を注いだ生涯を送り、1748年、52歳の時に作成されたコレクション目録には全部で3592の美術品があり、ドレスデンの宮殿だけで500枚の絵画があったそうです。
この美術館もまた、他の多くの美術館同様、波乱万丈の歴史を経て今に至っています。 -
火鉢を持った老婦人:ピーテル・パウル・ルーベンス , 1616-1618年
人生の3段階を「石炭の残り火に息を吹きかけている少年」、「物思いに耽る若者」、「石炭の入った火鉢を持った老婦人」で表しています。
17世紀に入るとロウソクの光になどに照らし出された夜のシーンのキアロスクーロが大流行しており、各国の画家たちが腕を競って描いています。 -
若きサスキアの肖像:レンブラント・ファン・レイン, 1633年
サスキア・ファン・オイレンブルフは、1612年に裕福な家庭に生まれましたが、両親を早くに亡くし、姉夫婦に育てられました。
1633年に21歳のサスキアはレンブラントと婚約し、以降、レンブラントの多くの作品に描かれました。
サスキアは4人の子供を産み、そのうち3人は生後間もなく亡くなりました。
1641年には一人息子ティトゥスを産みましたが、その翌年の1642年に29歳で結核で亡くなってしまいました。
サスキアは多額の遺産を8か月の息子ティトゥスに相続させる遺書を残し、レンブラントには、再婚せず、ティトゥスが亡くなった場合にのみ遺産を使えるという条件を設けました。
一人息子のティトゥスは成人しましたが、短命で27歳で亡くなりました。
この作品の21歳のサスキアの意味深に見える表情は、何を物語っているのでしょうか? -
赤い花を持つサスキア:レンブラント・ファン・レイン , 1641年
愛、情熱、献身を象徴する赤いカーネーションを右手に持ち、胸に優しく左手を当てた穏やかな表情のサスキアが描かれています。
サスキアをモデルとする絵画は何枚も描かれていますが、この作品に描かれたサスキアが最もお気に入りです。
この頃のレンブラントは、アムステルダムに豪邸を構えて贅沢三昧の生活を送り、1641年には息子のティトゥスが誕生して順風満帆に見える人生を送っていました。
しかし、一方ではレンブラントは投機にも手を出して多額の損失を重ね始めており、親戚からはサスキアの財産を食いつぶしていると非難されるようになった時期でもありました。
この作品が描かれた翌年の1642年、サスキアは29歳という若さで亡くなりました。 -
夜警:レンブラント・ファン・レイン , 1642年
(2022年11月にアムステルダム国立美術館で撮影)
この時は修復中であったため、保護柵が写っています。
レンブラントは、「赤い花を持つサスキア」が描かれたのと同時期にアムステルダム火縄銃手組合から集団肖像画を受注しており、サスキアが亡くなったのと同年の1642年に、後に「夜警」と呼ばれるこの作品を完成させました。
フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長、そして、どう見ても妻サスキアにしか見えない火縄銃手組合のマスコットとされる女性の3人にスポットライトが当たっています。
恐らく、存命中のサスキアが描かれた最後の作品ではないでしょうか。 -
ガニュメデスの略奪:レンブラント・ファン・レイン , 1635年
ギリシア神話のゼウスが鷲に変身してガニュメデスを誘拐する場面が描かれています。
この題材は多くの画家たちに取り上げられており、ミケランジェロ、コレッジョ、ルーベンス、モローなどが描いた作品が有名です。
しかし、それらの作品ではガニュメデスは美しい若者として描かれており、レンブラントが描いたこの作品のように泣き叫びながらお漏らしする幼児として描かれているものは珍しいです。
この作品に対する解釈は諸説あり、「あまりに早く命を奪われる幼児」や「小便するプットー(天使)のモティーフを取り入れたコメディ」など、さまざまな解釈があるようです。 -
サムソンの婚宴:レンブラント・ファン・レイン, 1638年
旧約聖書の士師記に登場するサムソンを題材としています。
サムソンは敵方であるペリシテ人の妻を娶り、婚宴で30人の客に謎をかけ、賭けをしました。
答えがわからない客人たちが暴挙に出ることを恐れた新婦は、サムソンから答えを聞き出し、客人たちに教えました。
答えを言い当てられたサムソンは怒り狂い、別の30人のペリシテ人を殺し、妻の許を去りました。
後に和解を求めてサムソンが戻ると、義父はサムソンの妻を既に花婿付添人であった客の男に嫁がせてしまっており、代わりに妹を娶るよう提案しました。
これに激怒したサムソンは「今度はペリシテ人に害を加えても罪はない」と宣言しました。
レンブラントはこの時期に旧約聖書を題材とした歴史画を多く描いており、本作品を描く前に「舅を脅かすサムソン」を描いていました。 -
舅を脅かすサムソン:レンブラント・ファン・レイン , 1635年
(2023年10月にゲメルデガレリーで撮影)
戻ったサムソンは妻が別の男に与えられたことを知り、怒りに駆られて義父を脅す場面です。 -
真珠で飾った帽子を被る男の肖像:レンブラント・ファン・レイン , 1667年
ポーランド・リトアニア共和国の国王ヤン2世はオランダ絵画を収集しており、この作品を特にお気に入りでした。
しかし、ヤン2世が退位し、後に即位したアウグスト強健王はこの作品をドレスデンへ持ち去ってしまいました。 -
取り持ち女:ヨハネス・フェルメール, 1656年
フェルメールが描いた最初期の風俗画であり、娼家が描かれています。
描かれている女性二人のうち、左側の黒い頭巾を被った人物が娼婦と客の仲介をする「取り持ち女」と呼ばれる女性であり、男性二人のうち左側の人物はフェルメールの自画像だとする説があります。
この作品は、「天文学者」、「地理学者」とともに、フェルメール自身の署名と制作年が記されている3点の絵画の一つであり、さまざまな意味でフェルメールのフォロワーが特に注目する作品でもあります。
この作品はディルク・ファン・バビューレンが描いた風俗画「取り持ち女」に多大な影響を受けていると見られています。
フェルメールはそれまで宗教・歴史画を描いていましたが、1656年に描いたこの作品で風俗画に方向転換したと考えられています。
フェルメールと同居していた裕福な義理の母マーリア・ティンスは、ファン・バビューレンの工房作の「取り持ち女」を所有していたことが分かっており、また歴史画も多く所持していたため、フェルメールは義理の母の絵画コレクションから多くの影響を受けたと推測されています。
さらに、フェルメールは1650年頃から同時代の画家ピーテル・デ・ホーホと親しい友人関係にあり、互いの作品に影響を及ぼしあったことでも知られています。
フェルメールが風俗画に転換したのは、デ・ホーホの影響があったとする説もあります。
一方のデ・ホーホは初期の作品では人物の表情に重点を置いた乱痴気騒ぎ、酔っぱらいや愚かさを描いていましたが、1657年頃からその作風は急激に変化し、市民の家庭空間に人物を配置し、事物の質感や差し込む光を繊細に表現したフェルメール風の作品が多くなりました。
フェルメールは1661-1662年頃に描いた風俗画「紳士とワインを飲む女」でデ・ホーホの「中庭で煙草を吸う男と酒を飲む女」の構図を真似ています。
デ・ホーホは1664年頃に描いた「金(貨)を量る女」でフェルメールが描いた「天秤を量る女」を真似しています。
この頃、二人は本当に仲が良かったんですね。 -
取り持ち女:ディルク・ファン・バビューレン , 1622年頃
(Public domain, Wikimedia Commons よりダウンロード)
16世紀のオランダでは教訓や警句を込めた風俗画(寓意画)が流行し、「売春宿 (Bordeeltjes )」とよばれるジャンルは堕落や放蕩の象徴として描かれて、見る人に警告を与えるものでした。
ファン・バビューレンがカラヴァッジョ風に画面いっぱいに大胆に人物を描いた「取り持ち女」は、当時人気がありました。
この作品には、ファン・バビューレン自身が描いたもの、ファン・バビューレンの工房が制作したものとして、少なくとも三つのバージョンが残っており、更に20世紀の有名な贋作者ハン・ファン・メーヘレンによる贋作も存在します。 -
ヴァージナルの前に座る女:ヨハネス・フェルメール , 1670年 - 1672年頃
(2022年11月にロンドン ナショナルギャラリーで撮影)
本作品と1664年頃に制作された「合奏」の背景には、ファン・バビューレンの「取り持ち女」が画中画として描かれており、フェルメールがファン・バビューレンの「取り持ち女」に特別な(たぶん性的な)意味を持たせたのであろうと推測されています。
ちなみに、「合奏」は1990年にイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から盗まれて以来、所在不明となっています。 -
窓辺で手紙を読む女:ヨハネス・フェルメール, 1657年 - 1659年頃
1742年にアウグスト3世によってレンブラントの作品として購入されました。
その後、ピーテル・デ・ホーホの作品と誤って再鑑定され、1860年になってようやくフェルメールの作品と判明しました。
現在では信じがたいことですが、フェルメールの作品は彼の死後すぐに忘れ去られてしまい、19世紀半ばに再評価されるまで、黄金時代のオランダの風俗画家として有名だったのは、ハブリエル・メツーやピーテル・デ・ホーホでした。
フェルメールを再発見・評価したのは、フランスの美術評論家トレ・ビュルガー(本名:エティエンヌ・ジョゼフ・テオフィル・トレ)です。
1842年に初めて訪れたマウリッツハイス美術館で「デルフトの眺望」を見て画家フェルメールに関心を持ち、以来20年以上にわたってフェルメールを研究しました。
トレ・ビュルガーがいなければ、フェルメールは今頃いったい・・・?
この作品は1979年のX線調査で背景にキューピッドが描かれた画中画が塗り潰されていることが判明し、フェルメール自身が消したと考えられてきました。
しかし、2019年になってキューピッドの画中画を消したのはフェルメールではなく、他の何者かであると発表されました。
フェルメールの絵画は19世紀半ばに再評価されるまで知名度が非常に低かったため、絵の価値を高めるためにピーテル・デ・ホーホの偽の署名が付けられることさえありました。
そのため、何らかの目的で画中画を消すことはあり得ると想像されています。 -
ヴァージナルの前に立つ女:ヨハネス・フェルメール, 1670年 - 1672年頃
(2022年11月にロンドン ナショナルギャラリーで撮影)
本作品でも「窓辺で手紙を読む女」と同じキューピッドが画中画で描かれており、キューピッドの当時の寓意は「恋人はただ1人だけを愛するべき」とされています。
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