2024/04/27 - 2024/05/05
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ミズ旅撮る人さん
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2024年のGWは、四国を横断して九州・大分にフェリーで渡り、九州を横断して福岡・長崎・佐賀の各県を巡りました。後半は、福岡県大牟田市から熊本県に入り、フェリーで有明海を渡って、長崎県島原半島に行きます。島原でC12を訪ねて島原城と武家屋敷を見て歩きました。翌日は諫早でC57を訪ねて、「北緯33度線展望台」に行きました。その後「日本本土最西端の地」にも立ち寄って長崎の観光を終えます。
今回で、JR九州の工場で保存されている2輌の蒸気機関車と、壱岐の88622を除く九州のすべての機関車を訪ねました。
前後編で、GWの旅を終える筈だったのですが、佐賀と福岡の観光がボリュームがあったので、別に旅行記を書くことにします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 船 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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熊本県長洲港から有明フェリーで長崎県の島原半島に渡りました。多比良港から有明海に沿って南下し、島原市にやって来ました。
霊丘(れいきゅう)神社の鳥居の向こうに島原鉄道の線路があります。黒い蒸気機関車と黄色い島鉄の揃い踏みです。霊丘神社 寺・神社・教会
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鳥居の前を過ぎてすぐにある霊丘公園体育館駅です。
島原鉄道は諫早~島原港間を一日19往復しています。HPには以下のようなトピックスがありました。
「明治5年(1872年)新橋~横浜間を走った日本で最初の鉄道「1号機関車」は、明治44年(1911年)に鉄道院から島原鉄道へ払い下げられ、同年に開通した島原鉄道の「1号機関車」としても活躍しました。島原鉄道へやってきた、この「1号機関車」は島原半島で最後の活躍をすることとなります。」現在はさいたま市の鉄道博物館に保存展示されています。
https://www.shimatetsu.co.jp/first-locomotive/ -
霊丘神社の入口にある公園の端に蒸気機関車がいます。
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C1201。なんとも不思議なナンバーです。
C12の1号機ならC121になる筈。島原鉄道に配属された際に国鉄とは異なる形式でナンバーを付加したのでしょう。 -
C121は現存していませんが、C122は北海道の「三笠鉄道記念館」に保存展示されています。三笠では、S-304号機での動態保存が行われていて、運転体験もしています。昨年2回運転体験をして来ましたが、2024年は故障により全休が決まりました。
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昭和23年1月日本車両製造。走行距離853.096.8㎞。昭和43年廃車。
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ナンバープレートの下に日車(日本車輌)のマーク。昭和の年数が削られています。No.1532名古屋の銘があります。運転室の横には島原鉄道のマーク。
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かつて塗装をしっかりしたので持ちこたえていますが、動輪の塗装が剥がれて錆が出ています。
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コンパクトなC12は後ろ姿もスッキリ。軽く走って行きそうに見えます。
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右舷には島原鉄道のマークは見当たりません。
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運転室を覗き込みます。
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あれ?この機関車、地べたに置いてある?
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ああ、一応線路はあるみたいだけど、線路が地面にめり込んでしまったのね。芝生は少し削って、ちゃんとしてあげたいなあ。
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左からも運転室を覗き込んでみます。あまり荒れた感じは無いですね。足回りだけはなんとかしてあげたい機関車でした。
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島原駅です。駅の真正面に島原城が見えるので、駅舎も城建築になっています。
島原鉄道では、「しまてつカフェトレイン和日旅(わびたび)」を月1回、日曜日に運行しています。諫早駅11:10発~島原駅13:10着(片道)ですが、料金に逆コースの片道切符が付いています(2日間有効)。島原城七万石武将隊が出迎えてくれ、島原城を楽しんで来られるようになっています。今、各地でお城を取り込んだ観光に力を入れていますね。島原駅 駅
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せっかくなので、島原城に立ち寄りました。ここはなんと、お城の真下まで車で上がることが出来ます。天守閣までが遠くて階段が多くて、城には行かれないという人にもお勧めです。
島原城 名所・史跡
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城の駐車場の一角に「車泊駐車スペース」がありました。大抵の観光施設は閉館してしまうと後は駐車場が空いてしまうので、こうして利用するのは賢いと思います。そうして道の駅にキャンプする車が減ってくれればいいな。
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東を見ると有明海が見えます。城の足元には武家屋敷跡や古い商家があります。
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2024年に島原城は築城400年を迎えました。
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1618年に松倉重政が島原城を着工、4~7年後に完成しました。
破風を持たない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して要所を三層櫓で固め、外郭は4㎞に亘り矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。 -
1637年の島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、
1792年の島原大変時には地震と津波にも耐えました。
明治維新で廃城になり、払い下げ、解体されました。
1964(昭和39)年に天守閣が復元されました。 -
島原城の展示品は他の城とは大きく異なります。かつての「隠れキリシタン」、現在で言う「潜伏キリシタン」の展示が秀逸です。1階がキリシタン史料の展示になります。
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「象牙製マリア像」
南蛮貿易と共に多くの宣教師が来日してキリスト教を布教した。この象牙製マリア像は日本への来航の途中で、宣教師が刻んだものと伝えられる。 -
「恵須」の風鈴
表面に恵須の文字が浮き彫りされている。恵須は「エス」と読み、イエスを意味するであろう。表面にゴルゴダの丘を暗示する絵も見られる。 -
「石像マリア観音」
キリスト教を布教するために来日した宣教師が、天草地方の石壁に掘りつけたものと言う。後世、切り取って伝えられたものである。 -
「マリア観音像」
徳川時代、キリシタン信徒は表面は仏教信者のように装い、実際はキリシタン宗門に対する信仰を保ち、マリア像に似たマリア観音を礼拝することに信仰の目的を達した。元来、マリア観音像は聖母マリアが御子キリストを抱いた像が多く、弾圧が厳しくなるにつれ、キリストが姿を消し、マリアだけになった。 -
観音菩薩とは、人々の苦しみの音(声)を観て(聞いて)、救いを与えてくださる方だと言われています。聖母マリアがキリストを抱いた像でも、キリスト教の取り締まりが厳しくなる中で、菩薩の中の慈母観音菩薩を礼拝するようになったようです。キリスト教徒の信仰対象となった観音が、マリア観音菩薩と呼ばれています。江戸期では、子の手を引く菩薩像でも咎められたようです。
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「隠しマリア聖像(画幅)」
2mもの大型画幅。マリア聖像が描き込まれていると言われる。 -
「祭壇用の織部燭台」
織部は南蛮文化を積極的に吸収し、焼き物の文様にも取り入れ、織部焼は日本人の美意識が最も明確に表れた焼きものだと言われている。この織部燭台は、南蛮人の表情を見事に出しているのが特徴である。 -
豊後国岡城主中川家の「中川クルス」紋
豊後国(大分県竹田市)岡城主中川家はかつてキリシタン大名で、領内には多くの信者が暮らしていた。その名残が家紋の中に伝えられている。 -
厨子入り青銅マリア観音像
青銅製のマリア観音像が家型の厨子に納められている所が珍しい。
中国で作られ渡来したものか。
マリアがキリストを抱きかかえているようです。 -
錨を下げた簪(かんざし)
キリスト教徒の希望が錨を以て表される。なお舟は、聖母マリアの象徴である。 -
影踏・踏絵
キリスト教禁止政策の中で信者を判別するために、キリスト像やマリア像を踏ませる「踏み絵」を実施した。初期は大型メダイを板に嵌め込んで使っていたが、不足して来たので、長崎奉行は板踏絵を作製した。島原藩では「板踏」とともに、「箱踏」といって穴を明けた箱に聖画像を入れた道具も利用していた。郡方役人が所持していた「影踏方一件」を見ると、島原藩の厳しいキリシタン取り締まりの実体がわかる。
左:踏絵(レプリカ) 右:踏箱(島原藩オリジナル) -
殉教の地・雲仙地獄
雲仙火山は霊地として古くから知られていた。訪れた巡礼者は火山の噴火口を間近に見て、その様子から「地獄」と呼んでいた。灼熱の地面、煮えたぎる湯を地獄に例え、悪者が陥る所と伝えられた。この「地獄」がキリスト教弾圧時代に、拷問と処刑場に利用されたのである。それを地獄責めと言った。
松倉重政が新領主として入封すると、厳しくキリスト教を取り締まった。各地で棄教を勧める拷問が始まった。1627年頃から地獄責めが始まり、島原半島や長崎から信者が引き立てられた。
地獄の熱湯を浴びせては棄教を迫り、棄教に応じなければ容赦なく地獄に投げ込んだ。それで多くの信者が殉教した。この悲惨な様子はヨーロッパにも伝えられたほどで、モンタヌス画「地獄責め図」が残されている。
この他、殉教の地として、有馬川、島原海などがあって、殉教した内堀作右衛門たち島原地方の信者37名は福者の位に認められた。 -
これほどの弾圧があっても、密かに信仰を守った人達を隠れ(潜伏)キリシタンと言う。
1804年、島原藩の預地である天草で5千人がいたと言う。
右下の写真は大日如来の背後に鏡を置いて、後頭部に磔刑図があることを示していますが、実物を見てもよくわかりませんでした。 -
「羽柴コレクション」羽柴政寿氏が収集されたキリシタン資料の一部。
ギヤマン(ガラス)。フランス・ロシア・ボヘミアなどから多くのガラス工芸品が伝わった。 -
どんなものをガラスに混ぜるとこうなるのでしょう。縁の繊細な形が手作業を感じさせます。
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キリシタン鍔(つば)
キリスト教が盛んだった戦国末期に多くのキリシタン武将がいた。彼らは刀にキリシタン鍔を用いていた。それが後世、一種のアクセサリーとなって続いて行く。 -
2階は郷土史料、3階は民俗史料となっています。
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貝合わせの貝桶。
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濁手 花鳥文陶額 重要無形文化財指定 13代酒井田柿右衛門
13代目は1972(昭和47)年に紫綬褒章を受賞しています。
明後日の有田陶器市が楽しみです。 -
大判小判って、色・柄・形色々あるんですね。
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精霊流し
8月15日、盂蘭盆の宵を彩る「精霊流し」は、島原の伝統行事の一つ。その歴史は300年以上で、島原の乱以来、仏教を普及させるために、或いはキリスト教を信仰する人たちが悟られないようにするために、このような賑やかな物になったと言われています。 -
島原城の天守から見た雲仙普賢岳です。膝元に西の櫓が見えます。国の名城画などを展示しています。
城泊の駐車場のそばには、「西望記念館」があります。同じような櫓の中に、長崎の平和祈念象の作者である北村西望の作品が展示されています。
島原城の展示品は他の城よりも内容が濃く、ボリュームがあるので時間に余裕が必要です。この後に武家屋敷を訪れるので、時間が足りませんでした。 -
城から真っ直ぐに伸びた七万石坂の先には大手門を模した島原駅が建っています。曇っていてわかりづらいですが、背後に有明海が広がっています。対岸は熊本です。
実際に大手門が建っていた場所は市役所と城の間辺りで、その先は港になっていました。 -
天守から展望を楽しんでいると、何やら声が聞こえます。呼びかけているような・・・足元の長崎県立島原商業高等学校のグラウンドで、二人の女の子が大声で呼びかけています。身体全体で飛び跳ね、手を振ります。こちらも思わず大きく手を振りました。すると、自分たちの呼びかけが届いたことがわかり、盛大に喜んでくれました。どうして彼女たちが呼び掛けていたのかわかりませんが、楽しい一時でした。
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キャッスルモンスター。初めて知りました。是非見てみたいです。
「島原城 夜の陣」というイベントを原則毎週土曜日に開催しています。第十弾開催期間 2024年4月6日(土)~2025年3月29日(土)
開館時間は18:30~21:00(最終入館20:30)、大人:1,000円(税込) / 小中高生:600円(税込)です。
この時にもキャッスルモンスターが見られるそうです。 -
島原城とともに、整備された武家屋敷を見に来ました。
中央を流れる水路の両側に武家屋敷はずらっと並んでいます。 -
武家屋敷が残っている所はいろいろありますが、真ん中が水路なのは初めて見ました。個人的には雄大でどっかと構えた南国風の鹿児島県知覧の武家屋敷が一番好きです。
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武家屋敷は居住者のいる家が多く、内部を公開しているのは3軒だけです。
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武家屋敷の北の角にある「山本邸(明治元年建設)」です。
山本家の初代佐五左衛門は、忠房公の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利公時代から家臣となり、1774年島原への所管の所替えに際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に仕えました。17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものです。 -
小さな欄間に風流な絵が施されていました。
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次は対岸にある「篠塚邸」に行きます。
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篠塚邸です。確かに塀や門がありません。山本邸だけが特別だったのですね。
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三河(愛知県)深溝で代々順右衛門を称した篠塚氏は、1669年
松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から、7万石島原城主として移された時に従って来て、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。屋敷坪数はこの辺りすべて3畝(90坪)である。 -
武家屋敷の庭が好きです。
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一般公開はされていませんが、「囲碁 武家屋敷」として活用されている屋敷もあります。
松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせました(上士は城内に取り込んでいます)。長さ400mの屋敷町を8箇所造り、約90坪の屋敷に建坪約25坪で、屋根は藁葺きの家が約700軒ありました。1775年頃には石垣などを整備しています。 -
島原藩士屋敷図
城と共に囲まれた部分に住んでいたのが上士で、現在地を含むたくさんの屋敷町が下士の住居でした。 -
水路の先に左側に「鳥田家」の看板があります。
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ゆっくり散策して「鳥田家」に着いたところで、中から女性が現れ、看板を仕舞おうとしました。しまった時間を気にしないで歩いてしまったので、閉館時間を過ぎてしまったらしい。「あ」お互いに顔を見合わせて、つと口から声が出ました。すると、女性は笑顔で「どうぞ、ごゆっくり見て行ってください。」と言ってくださいました。申し訳ありません。見せていただきます。
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これまでの2軒とは違い、生活の様子がよくわかります。見られてよかったです。
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この屋敷は、奥にこの女性が住んでいます。だから何となく「展示品」とは違う雰囲気があるのでしょう。
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鳥田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封に伴って、三河国吉田、丹波国福知山と転じ、1669年島原に入った。歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受けている。この辺り一帯は、中・下級武士の屋敷で、家ごとに枇杷・柿・柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れるのは往時の生活用水路で、2㎞離れた温泉熊野神社から引いたものです。飲用水にもなっていたので、水奉行を置くなどして管理していました。その水で、五右衛門風呂を沸かしたのですね。
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柑橘類の白い花が、今年もいっぱい咲いています。甘い香りが漂っています。バナナが生っているお宅もありました。
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現在、観光地として残っている武家屋敷は水路のある一本道だけですが、この脇道の先にも、たくさんの屋敷が並んでいたのです。
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諫早にある長崎県立総合運動公園に来ました。
案内図にSLの表記はないのですが、中央の「ちびっこ広場」と「第3駐車場」の間に茶色い線で表されているのが蒸気機関車です。 -
なかなか立派な保存設備です。久々に腕木信号もありました。
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今回の表紙です。C5795。
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よく管理されている車体はシリンダーも綺麗です。
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昭和14年3月23日日立製作所製造。走行距離3,262.151㎞。
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昭和14年名古屋・20年金沢・39年富山・40年豊岡・47年人吉・48年宮崎・49年鹿児島の各機関区で活躍し、昭和50年1月26日に廃車となりました。
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地面には除草シートまで敷いてあります。
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尾灯は復元されています。でも何故ナンバープレートはC57と95が離れているのかな?複製だからなのか、日立製だから?
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運転室に入ることが出来ます。
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う~~ん、私の美的感覚とは著しく異なるペインティング。外観がいいだけに、残念。
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逆転機・(単独・自動)ブレーキ弁ハンドル・加減弁ハンドルが揃っています。
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速度計。
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電源スイッチはカバーが無くなっています。
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味わいが深~い部品。
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逆転棒。ネジの溝が光っています。これは回るのかな?回してみれば良かった。
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炭水車の上に自由に入れる機関車は、そうはありません。上部には石炭、その下に水。そういう構造が体感できます。
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厚く塗り固められた足回り。個体番号の気配もありません。
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隣にちびっこ広場があるけれど、休日には子供たちは遊びに来てくれるのかな?淋しい余生ではありませんように。
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諫早から大村湾の西側の半島の更に西側、国道202号線を北上しています。ちらっと山の上に黒崎教会が見えました。ド・ロ神父の指導で1899年から建設計画が進行、1920年に完成したレンガ造りのカトリック教会です。
黒崎教会 寺・神社・教会
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出津(しつ)教会堂です。ここもド・ロ神父が、1882年に私財を投じて建てたレンガ造りのカトリック教会。
出津教会 寺・神社・教会
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池島が見えて来ました。右奥の大きな島が炭鉱の島・池島です。
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真ん中位にフェリー乗り場があります。右側に白く団地が見えます。
池島は、端島(軍艦島)同様炭鉱の島で、たくさんの団地が建てられて、今でも住人たちが暮らしています。池島炭鉱 名所・史跡
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2018年2月に訪れて旅行記を書いています。高台には夥しい数の団地が建設され、炭鉱からの熱湯を引く配管が頭の上に続いていました。そこに今でもわずかに暮らす人々。そして猫。炭鉱の規模にも驚きました。今度訪れる時は炭鉱ツアーに参加したいな。
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大島大橋を渡って大島に来ました。県道15号線が通行止めだったので山の中の迂回路を走ることになりました。途中に太田尾教会があったので立ち寄りました。昭和4年に建てられています。周囲の道は狭くて急な坂道で、一方通行でなかったら、どうにもならない道でした。
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大島の更に西の端、崎戸島にある「北緯33度線展望台」を目指してやって来ました。
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しかし、寒風が吹きつけて厳しかった上に雨まで降って来たので、遠望するだけにしました。
北緯33度線展望台 名所・史跡
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佐世保を通り越して更に北上し、とうとう「日本本土最西端」にやって来ました。
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地図に「海中遊歩道」と書かれていた道です。満潮時には海に沈むのでしょうか。
※振り返って見ています。 -
「日本本土最西端の地」の碑です。水平線には平戸島が見えています。平戸大橋で本土と繋がっています。平戸が島でなかったら、最西端の地はもう少し西になった事でしょう。平戸には「本土と繋がった道の最西端」というのがあるそうです。
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碑の真後ろの丘には「四極交流広場」というものがあります。
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四極とは、本土の東西南北端を指すのでした。それぞれの駅には行ったけれど、最南端の岬は行かなかったです。西大山駅には行ったのになあ。開聞岳の景色がすごくいいですね。
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国土地理院のお墨付きが出たので、立派な石碑が建ちました。
今回はここまで。前後編で終わらなかったので、佐賀・福岡編を次回にします。(SLは出て来ません)伊万里・有田の陶器市と旧伊藤伝右衛門邸がメインです。日本本土最西端「神崎鼻公園」 公園・植物園
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