
2024/06/13 - 2024/06/13
7位(同エリア4579件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記382冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,266,275アクセス
- フォロワー165人
仏牙寺鹿王院(後編)は本堂でもある「昭堂」と佛牙舎利(釈迦の歯)を奉納している大厨子を安置する「舎利殿」を中心にレポいたします。
「昭堂」には、伝 運慶作の本尊 釈迦如来坐像と十大弟子像をはじめ普明国師(春屋妙葩)像、開基 足利義満公衣冠束帯姿像、中興の祖 虎岑和尚像などが安置されています。普明国師像の下には国師の塔所(宝筐塔=墓所)があり、昭堂は本尊を祀る本堂でもあり、また開山 普明国師を祀る開山堂でもあり、その御廟でもある重要な建物です。
「舎利殿」は、足利義満が鹿苑寺(金閣寺)を建立する前にこちらを建立したことから、秘かに「元金閣」とも呼ばれます。建物自体も立派ですが、佛牙舎利を奉納する大厨子も絢爛豪華です。全ての垂木の先端に彫られた龍の細やかな装飾には目を瞠るものがあり、四方を護る四天王像は邪鬼の色と顔の色を合わせているのも興味深いところです。また、『仏涅槃図』は釈迦の衣装などに線模様などが描かれており、その繊細さと巧みさに吃驚しました。
その他、客殿の北西角にある茶室「芥室(かいしつ)」並びにその露地ともなる後庭、参道脇にある竹林なども見所です。
ランチは鹿王院から徒歩15分程の距離にあるフレンチレストラン LE PLAT PLUSでランチコースをいただきました。本格的なフレンチをリーズナブルに味わえます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
鹿王院の絵図です。現在もほぼ変わっていません。
(『拾遺都名所図絵』巻之三より抜粋) -
回廊
客殿から昭堂へ向かいます。
客殿~昭堂~舎利殿はこのように瓦敷きの回廊で結ばれています。
正面左側に美しい樹形を魅せるのが推定樹齢100年超の赤松です。先代の住職が植えられたもので、寺院では「願(ぐわん)松」と呼ばれています。 -
回廊
回廊はこのようにジグザグになっています。 -
本庭 三尊石
舎利殿の基壇北東隅には「三尊石(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)」が配され、その手前に「礼拝石(坐禅石)」が据えられています。
向かって右(左脇侍)に文殊菩薩、左が普賢菩薩です。
余談ですが、小芝風花さん主演のフジテレビドラマ『大奥』のロケが鹿王院で行われ、江戸城庭園として鹿王院庭園が登場していました。また、往年の大奥シリーズでは『大奥 第一章』(2004年)や『大奥』(2006年)でも撮影地となっていました。更には『暴れん坊将軍』にも登場していますので、皆さんこの景観に見覚えがあるのではないでしょうか? -
回廊
回廊の左手にも小振りの沙羅双樹(夏椿)が植えられています。 -
昭堂
客殿から舎利殿に至る瓦敷き回廊の中ほどに、嵐山を借景に東面する昭堂があります。1676(延宝4)年の建立とされ、方三間の寄棟造、桟瓦葺で正面吹放裳階が施されています。
堂内中央には運慶作と伝わる本尊 釈迦如来坐像と十大弟子像が安置され、その周囲には普明国師(春屋妙葩)像、1675年以前の造立とされる開基 足利義満公衣冠束帯姿像、中興の祖である虎岑和尚像などが安置されています。
釈迦如来を本尊とする本堂ですが、普明国師像の下に国師の塔所(宝筐塔=墓所)があり、昭堂は本尊を祀る本堂でもあり、また開山 普明国師を祀る開山堂でもあり、その御廟でもあります。 -
昭堂
禅寺の象徴である火灯窓が目印です。
『拾遺都名所図絵』では「釈迦堂」と記されています。
因みに『拾遺都名所図絵』の絵図と現在の鹿王院は、建造物名は舎利殿以外はすべて異なるものの、主要部分の状態は土蔵がない以外はほぼ変わっていません。ただし、主要部分の周囲の堀は現在は見られません。 -
昭堂
堂内は写真等の撮影が禁じられているため、鹿王院HPに載せられている画像を引用して説明していきます。
釈迦如来坐像像は南北朝期の作、十大弟子像は鎌倉時代の慶派仏師の作とされますが、寺伝では共に運慶作と伝えています。尚、十大弟子像に関しては、阿難と舎利弗以外は特定されていないそうです。
また、釈迦如来坐像と十大弟子は応仁の乱の際、衣笠の等持院に避難させたそうですが、十大弟子像の1体が行方不明になり、数年後に栂ノ尾の閻魔堂で発見されたと伝えます。因みに十大弟子とは、釈迦生存中の最も優れた実在の弟子を言い、十大弟子中の迦葉に拈華微笑の因縁から伝えられ、更に迦葉から阿難を経て、後に達磨に伝えられ今日に至ります。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
昭堂
左上から時計回りに、開基 足利義満公衣冠束帯姿像、開山 普明国師(春屋妙葩)像、中興の祖 虎岑和尚像、弥勒菩薩像になります。
普明国師像の下方には国師の塔所(宝筐塔=墓所)があるそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
回廊
昭堂から舎利殿へと続く回廊です。 -
舎利殿
江戸時代初期に客殿の東北部に再建された禅宗様を基調とした建物ですが、1763(宝暦13)年に現在地に移築しています。2023年10月に修復工事が完了しています。
単層方三間、四周裳階付とし、屋根は宝形造、桟瓦葺となっています。裳階があるため、外観は2層のように見えます。 -
舎利殿 扁額「駄都殿」
「舎利」を古代インドのサンスクリット語では「駄都(だつ)」と呼ぶため、舎利殿は別名「駄都殿」とも言います。 -
舎利殿 扁額「駄都殿」
扁額には「天龍桂州(桂洲道倫)書」とあります。
上の落款は「道倫之印」と読めますが、下は「桂州」でしょうか?
天龍桂州は、江戸時代中期における「禅語の研究」で知られる臨済宗の高僧であり、1777(安永6)年に天龍寺221世 住職となりました。禅の語録に見られる俗語に注解を施した『諸録俗語解』の撰述者のひとりです。出家して延慶庵で雲崖の教えを受け、丹波法常寺の大道文可にも参じました。後に延慶庵を継ぎました。書画を得意としていたようです。 -
舎利殿 大厨子
堂内は写真等の撮影が禁じられているため、鹿王院HPに載せられている画像を引用して説明していきます。
内陣は方一間で、その中央にある方形の須弥壇上には、四方開きの四方同形の軒唐破風を備えた大厨子(多宝塔)が安置されています。その大厨子の中に佛牙舎利(釈迦の歯)が納められています。大厨子の四方には、佛牙舎利を守るべく、仏法を護持する四天王像が祀られています。その無骨な立ち姿と共に、彩色の鮮やかさやその力強いポーズに心惹かれます。また、大厨子の上方には他に類を見ない色彩豊かな『雲龍図』が描かれた八角天蓋が吊るされており、各辺には豪華な垂飾が幽かに揺れています。『雲龍図』には「法の雨を降らせる」という意味があります。天井は小組入格天井です。須弥壇周りの円柱は相互に虹梁で繋がれ、大柱の貫には獏や象、獅子の木鼻が彫られています。
佛牙舎利は印度→兜卒天→中国へと伝わった不可思議な舎利とされ、釈迦の歯であり、説法をされる口にあるもの故、殊更に尊い舎利とされています。
大厨子が御開帳されるのは年に1日、10月15日だけです。佛牙舎利が博多港に到着したのが10月15日だったことに因み、毎年その日を「舎利会(しゃりえ)」と定めて御開帳されます。因みに佛牙舎利は、直径10cm程の水晶玉を抉ってその中に奉納されており、長寿延命のご利益があるそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
舎利殿 大厨子
軸物は『仏涅槃図』1幅と円山応挙の弟子 山跡鶴嶺筆『十六羅漢図』16幅が掛けられています。『仏涅槃図』は第13世 松嶺昌柏和尚が父と外祖父の菩提を弔うため、母 延寿院に喜捨させて妙心寺の中天和尚に求めて奉納させたものです。
『仏涅槃図』についての解説をしておきます。釈迦のお母様が長寿の薬を入れた袋を天空より投じたところ、樹木の枝に引っかかってしまい釈迦には届きませんでした。図には入滅した釈迦を見て悲しむ人々や十二支が描かれています。薬を処方することを「投薬」と言いますが、この故事が元になっているそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
舎利殿 八角天蓋『雲龍図』
舎利殿では地元ガイドの方から丁寧な説明をしていただき、『仏涅槃図』や佛牙舎利を奉納している大厨子の詳細を知ることができました。
『仏涅槃図』は懐中電灯を照らすことで(堂内が暗いため)釈迦の着衣などに描かれた細かい線状模様などが鮮明に見えるようになり、その繊細さと巧みさに吃驚しました。通常なら特別拝観で展示される類の寺宝と思われますが、堂内の暗さが絵具の劣化を抑制しているものと窺えます。
また大厨子の全ての垂木の先端に彫られた龍の細やかな装飾には目を瞠るものがあり、四方を護る四天王像は踏みつけている邪鬼の色と顔の色を合わせているのも興味深いところです。更には、大厨子に施された紋章は足利義満の家紋「五七の桐」と天皇家の「十六弁八重表菊紋」を交互にあしらっています。このことから、舎利殿は焼失したものの、大厨子は焼失を免れたと思われるとガイドの方は語られていました。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
舎利殿 八角天蓋『雲龍図』
鹿王院で購入した絵葉書をスキャンした画像です。
デジタル技術を駆使して往時の色彩を再現したものだそうです。
この龍には9つの動物などが描かれているそうです。
頭は「駱駝」、胴は「蛇」、腹は「蛤」、角は「鹿」、耳は「牛」、目は「兎」、鱗は「鯉」、手のひらは「虎」、爪は「鷹」。 -
舎利殿
鎌倉との縁は「佛牙舎利」に留まらず、鎌倉市内を走る「江ノ電」と鹿王院の最寄り駅「鹿王院」を有する「嵐電」にも及び、両電鉄は2009年に姉妹提携しているほどです。2024年10月に15周年を迎える運びとなり、共同PR事業「あたらしいコトみつけよう」をスタートしています。
その第1回 が「喧騒の先の、静けさへ ~ 円覚寺舎利殿・鹿王院舎利殿」です。 -
本庭 沙羅双樹(夏椿)
舎利殿からは比較的間近に沙羅双樹が見られます。
釈迦の故事に基づき、双樹と称するためこの春椿の古木は元々は2株だったそうです。しかし何時の頃か、幹が連理し、根っこは2株ながら1本の樹木になったそうです。
ここで開山 春屋妙葩(しゅんおくみょうは)について紹介しておきます。
妙葩は1311(応永元)年に甲斐国に生まれ、幼少時から神童と称され、母は早くから夢窓疎石にその将来を託す決意を固めていました。7歳の時、美濃に居た夢窓に付いて修学を始め、15歳で出家得度し、夢窓が後醍醐天皇の招請を受けて南禅寺住持となると妙葩は夢窓に隋して上洛し、元翁本元の侍者になりました。
室町幕府が滅んだ1334(建武元)年、夢窓が南禅寺に入山するとその翌年に春屋も上洛し、1336(建武3)年には南禅寺住持の清拙正澄に任じられました。 -
本庭 沙羅双樹(夏椿)
6月半ばですが、花が沢山咲いています。また、蕾も潤沢にあります。
1339(暦応2)年に後醍醐天皇が没すると、その菩提を弔うため、夢窓は、足利尊氏や直義に天龍寺創建を勧め、自ら開山となりました。妙葩もその造営を助け、1345(康永4)年の開堂の儀では維那を勤め、法会に際して経巻の読誦を先導しました。因みに妙葩は、音声和雅と称される程の美声の持ち主でした。また同年、35歳の妙葩は夢窓から道号「春屋」と法衣を授けられ、名実ともに夢窓の後継者として認められました。
夢窓の示寂後、1363(貞治2)年に天龍寺の住職を継ぎ、天龍寺金剛院(開山春屋)、嵯峨持地院(開山夢窓疎石)、嵯峨勝光庵(開山春屋)の3院を管領し、金剛院を中心に夢窓派の発展に尽力しました。実は春屋は、幅広い教養と人脈を持つ多才で有能な僧でした。特に造寺勧進事業に並外れた才能を持ち、焼失した天龍寺の復興や臨川寺の再興を果たしました。また聖一派の東福寺に通天橋を架けたり、相国寺造営にも手腕を発揮しました。 -
本庭 沙羅双樹(夏椿)
朝に咲き、夜には落ちてしまう夏椿の「1日花」は、儚さの象徴にもなっており、『平家物語』の平家一門の「盛者必衰」の言葉が日本人には刺さります。特に鹿王院では青苔の上に散る姿にこの上ない趣が感じられます。
1366(貞治5)年、後光厳天皇は春屋に南禅寺の伽藍造営を命じましたが、山門の建造を巡って問題が勃発。園城寺や延暦寺からの山門破却要請に対し、管領 細川頼之が延暦寺宗徒の暴力に屈して朝廷に上奏し、その結果山門は破却されました。やがて頼之が春屋を南禅寺住持に招じるも、春屋はそれを固辞。また、頼之が非純禅的な僧 龍湫周沢を南禅寺住持としたことで両者の関係は更に悪化。やがて春屋は、頼之が春屋を天龍寺雲居庵塔主から追放する陰謀を察知し、その後10年に亘って丹後国雲門寺に隠棲するに至りました。この間、頼之は春屋の門下230人の名籍を削り、門下は四散したと伝えます。 -
本庭 沙羅双樹(夏椿)
一方、夏椿の純白の花が青苔の上に多数散り嵌められた光景は、入滅寸前に釈迦が目にした夜空に煌めく綺羅星に見えなくもありません。
1379(康暦元)年、細川頼之が失脚し、斯波義将が管領に就いて室町幕府第3代将軍 足利義満が実権を握ると、
義満の懇願により丹後国に隠棲していた春屋が申し合わせたように上洛しました。義満が10歳の時に57歳の春屋と出会って以来、南北朝の分裂が続き、相次ぐ戦乱と守護大名たちの離反が続く時代背景の中、春屋は義満の精神的支柱となり、厚い信頼を得ていました。春屋は義満の帰依を受けた臨済宗の第一級の禅僧であり、上洛して2ヶ月後には南禅寺住職に任命され、また同年10月には義満の要請により、全国の禅宗寺院を統括する天下僧録司に任命されました。また春屋は帰依を受けていた後円融天皇に授衣した際、天皇から「智覚普明国師」の号を贈られ、「僧中の龍、法中の王者なり」と讃えられました。そして、義満から同年11月に宝幢寺を嵯峨に建立する発願を受けたのです。春屋69歳の晩秋のことでした。 -
本庭 ウマスギゴケ(馬杉苔)
初椿の花はクッションの利いたこの杉苔の上に儚くポトリと落ちます。
宝幢寺並びに鹿王院が創建されると、金剛院に替えて新たな活動拠点とし、金剛院等の所領の大半を宝幢寺と鹿王院に寄付しました。それに加え、足利義満をはじめ春屋に帰依していた公家や武将からも多大な所領寄進を受け、宝幢寺と鹿王院の運営基盤を固めました。
1385(至徳2)年に宝幢寺仏殿も落慶し、その翌年に春屋は宝幢寺住持を退き、汝霖妙佐に譲りましたが、その後も退隠せず精力的に活動を続け、寺格を十刹中五位に昇進させました。また『鹿王院遺訓』を著し、鹿王院運営の規範としました。
1387(嘉慶元)年、春屋は中風(脳卒中)により半身不随となり再び鹿王院に居を移しましたが、翌年8月13日に78年の生涯を閉じました。全身を鹿王院に塔した他、春屋の寿塔であった南禅寺龍華院、相国寺大智院、建長寺龍興院に分塔されました。こうした由緒を受け、宝幢寺と鹿王院は普明門派の僧侶が住持を歴住し、同門派の中心寺院として現代まで法灯を受け継いできました。これが春屋門派を鹿王門派と称する所以です。 -
庭園 三尊石と礼拝石(坐禅石)
裏側から見た画像です。
正面からでは判り難いのですが、左脇侍 文殊菩薩はこのように他の2石から少し引いた位置に立てられています。その理由は定かではありません。
その後宝幢寺は、歴代足利将軍家の外護と莫大な寺領や多数の末寺を得て隆盛しましたが、応仁の乱を機に衰退・廃絶する憂き目に遭い、その開山塔所「鹿王院」のみ再建されたのでした。
しかしその鹿王院も、1596(文禄5)年の伏見大地震で倒壊しました。
寛文年間(1661~73年)には、徳川四天王のひとりである酒井忠次の子 忠知とその本家庄内藩酒井家及び膳所藩本多家と縁戚らによって鹿王院が再興されました。現在の鹿王院の堂宇の大半は忠知の意を受けた5男 虎岑玄竹和尚によって築かれ、中興開山と位置付けられています。この時に寺号を「鹿王院」とし、以後、天龍寺の外塔頭に属しました。
虎岑玄竹は鹿王院・瑞応・正円・金剛・龍済の五寺を復刻したことから「五所中興」と称された人物です。鹿王院の復興に際しては、虎岑が酒井忠次の孫であったことから、庄内藩系の酒井家が全面的に支援したようです。
1968(昭和43)年3月、鹿王院は臨済宗単立寺院としての道を歩み始め、今日に至ります。 -
土蔵
本庭の東南角に建つのが、宝形造、桟瓦葺の宝蔵です。
創建年代は不詳ですが、『拾遺都名所図絵』が描かれた江戸時代初期にはこの土蔵は存在しなかったようです。 -
本庭 カゴノキ(鹿子の木)
ガイドさん曰く、「創建年代からある古木」だそうです。
クスノキ科ハマビワ属の常緑性高木です。成長すると樹皮の模様が「鹿の子」に似るとして命名されました。埼玉県坂戸市多和目天神社にある巨木は、馴染みのない樹種だったことから、この地では暫く「ナンジャモンジャの木」と呼ばれていたそうです。
開花は7~9月で、クスノキやゲッケイジュに似た淡い黄色の花を咲かせます。
花言葉は「異彩」「魅力」「特別」。
品格がありながらも、独特の個性を表すカゴノキらしい言葉が並んでいます。 -
唐門
一間一戸薬医門で、屋根は切妻造、本瓦葺です。
木立の中に埋もれるようにひっそりと佇んでおり、どことなく詫び寂を湛える門です。 -
唐門
『拾遺都名所図絵』から察するに、この門は宝幢寺塔頭時代は山門の位置付けと思われます。
とすれば、客殿に掲げられていた扁額「鹿王院」は、元々はこの門に掲げられていたものと窺えます。 -
イヌマキ(犬槇)
唐門の脇に聳える巨大なイヌマキも創建年代に植樹されたものと伝わります。
イヌマキという名の由来には諸説ありますが、上品なイメージを持つコウヤマキをホンマキと呼ぶのに対し、葉や姿形が劣る本種をイヌマキと呼ぶようになったというのが定説です。
井上靖著『あすなろ物語』で知られる「アスナロ」というヒノキ科の樹木がありますが、伊豆地方ではイヌマキをアスナロと言います。異なる樹木が何故同じ名前で呼ばれているのか不思議ですが、伊豆育ちの井上靖も「アスナロ」は「イヌマキ」のことを指すと勘違いしていたことが、井上靖著『あすなろう』(『あすなろ物語』ではありません。)を読むと判ります。その一節を紹介しておきます。
…「あすなろうという木を知っていますか」…
「あすなろうって、槇(マキ)の木のことでしょう」…
「伊豆ではそう言いますが、そりゃお誤りですよ。ほんとはあすなろうと言えば羅漢柏の事です。マツ科の植物で…」と、あすなろうの説明を始めた。羅漢柏は大変よく檜に似ている木で、そのあすなろうという別名も「あすは檜になろう、あすは檜になろう」と言う言葉が詰まって、あすなろうとなったと言うのである。
「それが証拠にはあすなろうと言う字も翌檜と書きます」とIは畳の上に字を書いてみせた。… -
回廊
客殿へ戻る途中、回廊から左奥にある茶室が少しだけ見られます。
余談ですが、「厭離庵(えんりあん)」もかつては鹿王院の末庵でした。
冷泉家の遠祖 藤原定家が小倉百人一首を編纂した「小倉山荘」の旧跡に建てられた近代数寄屋建築「厭離庵」は、定家の後裔に当たる冷泉家が、荒廃を惜しんで1736(元文元)年頃に庵を結び再興したものです。
その後、1772(安永元)年より天龍寺派「鹿王院」の末庵となり、「厭離庵」の名はこの時に霊元天皇から授かったものです。
やがて「厭離庵」を1910(明治43)~大正時代にかけて再興したのが貴族院議員 大村彦太郎でした。その際、山岡鉄舟の娘 素心尼が住職として入り、以来臨済宗天龍寺派の尼寺となっています。 -
渡り廊下
趣きを湛えた茶室への渡り廊下です。
静寂の中、「鴬張り」さながらの軋み音が詫び寂びを湛えます。 -
茶室「芥室(かいしつ)」
客殿の左奥には近世に作庭された露地(後庭)があり、更にその先には非公開の茶室「芥室」があります。平屋入母屋造で、右側にあるのが6畳の茶室です。
『大河内山荘』を建立した往時の時代劇スター 大河内傳次郎が普明国師55 年忌を機に1936(昭和11)年に隠寮として寄進したものです。傳次郎が、山荘の茶室「滴水庵」を鹿王院から譲り受けた返礼だったそうです。 -
後庭
茶室の前には燈籠や飛び石が配され、本庭と同じく苔地の枯山水を基調とした露地です。 -
後庭
大河内傳次郎が築いた「大河内山荘庭園」と同じく昭和の名工数寄屋師 笛吹嘉一郎が建築に携わっています。名称は普明国師の号「芥室」に因み、「取るに足りない小さなもの」という意です。
客殿北側は昭和時代前期~中期に改修を重ねており、その設計は古美術研究家 中野楚渓氏、施工は造園家 田中泰治氏によります。田中泰治氏は「銀閣寺」出入庭師として知られ、京都をはじめ日本各地の古庭園の修復に携わり、故郷の新潟県内で名園を手掛けられた田中泰阿弥氏その人です。 -
茶室「芥室」
左側にあるのは4畳半の茶室です。
蹲踞と沓掛石が添えられています。
左奥は竹林のように窺えますが、立入ることはできません。 -
渡り廊下
茶室への渡り廊下です。 -
庫裡前庭
庫裡まで戻ってきました。
庫裡玄関から眺める前庭です。 -
参道
中門から眺める参道です。 -
参道 コハウチワカエデ(小羽団扇楓)
カエデの一種で、ハウチワカエデに似ていますが、葉の大きさが少し小振りのためコハウチワカエデと名付けられていました。
ハウチワカエデの名の由来は、葉の形が天狗が手にする団扇と似ており、その団扇は鳥の羽で作られていることから「羽団扇」と呼ばれることに因みます。
葉は切れ込みが浅く丸みを帯びており、「羽団扇」と言うよりも「赤ちゃんの手」のような可愛らしい形をしています。 -
三社大明神
参道の途中で道が二手に分かれており、右手に折れると鹿王院の鎮守の三社大明神が佇みます。 -
三社大明神
一般的には伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社または春日大社を三社と称し、神仏分離令が発布される前は鎮守社が寺院の境内にあることも珍しくありませんでした。 -
三社大明神
社殿の脇には大きな甕のようなものが安置されています。
屋根の樋に繋げられていることから、社殿の水受けを兼ねた手水鉢と窺えます。
ふと仰ぎ見ると、甕の上にはセンダンの木が生い茂っています。 -
三社大明神
甕の水面に浮かんでいるのは、すでに枯れてしまっていますが、センダン(栴檀)の花びらのようです。センダンの花が舞い落ちる頃(6月初旬頃)には、水面を淡紫色に染め上げていたことでしょう。
日本の古色に楝(おうち)色があり、少し青みがかった淡紫色です。かの清少納言も『枕草子』(37段「木の花は」)で 「木のさまにくげなれど、楝の花いとをかし。かれがれに様異に咲きて、かならず五月五日にあふもをかし」と綴っています。実は、「楝(あふち)」はセンダンの古名です。花の様子をたなびく紫雲に例えて「雲見草」の別名もあります。この花を紫の紙で細く巻いて結わえた花束も彼女のお気に入りだったようです(同39段)。
因みに清少納言が何故、楝の木の形を不格好と感じたのかは不明ですが、センダンの枝は広い角度で枝分かれすることが多く、自由奔放な枝ぶりを指しているのかもしれません。 -
センダンの花(ご参考まで)
センダンの花びらは小型の淡紫色です。派手さこそありませんが、落ち着いた上品な感じがする花です。
山上憶良も『万葉集』で「楝」を詠んでいます。
「妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくにも」
この歌は、山上憶良が、妻を亡くした大伴旅人の悲しみを旅人に代わって詠んだ「日本挽歌」の中の一首です。ここでは旅人の妻 大友郎女(いらつめ)の象徴として、また旅人の心中の思いに楝の花の印象を重ねています。 -
春香稲荷大神
春香稲荷大神は『拾遺名所図絵』にも見られますが、現在の社の建立は比較的新しいように窺えます。
鳥居2基の背面には、各陰刻で右に「平成十四年五月吉日建之」、左に「町内一同」とあります。 -
唐門
ここからは唐門が近くから見られます。
むくり屋根だったのは意外です。
京言葉では「柔らかな丸み」のことを「むくり」と表現し、むくり屋根の特徴は屋根がなだらかに弓なりに曲がっていることです。全体の勾配をきつくせず、水量が多い軒先の勾配だけ大きく取る工夫ともされます。
「むくり」の典型は玉手箱や硯箱の蓋、茶碗など生活に密着しているものの中に見られます。また「てりむくり」とも呼ばれる日本建築を象徴する緩やかなS字曲線は、日本独自の形状であり、神社仏閣の唐破風や神輿の屋根などに見られます。因みに、スカイツリーにも「てりむくり」が採用されています。頂部から足元に向かって変化するしなやかな曲線が、スカイツリーに凛とした佇まいと優美な雰囲気を生み出しています。 -
竹林の小径
三社大明神の左手奥には水墨画を彷彿とさせる竹林が続き、涼やかな風が流れています。サラサラと葉擦れの音を傍らに聴き取れる小径は、新たな「映えスポット」となるかもしれません。 -
竹林の小径
青紅葉と竹林のコラボレーションです。
嵯峨野の竹林とまではいきませんが、青紅葉参道と青苔の枯山水庭園を堪能した後にリフレッシュできる空間です。
2021年から一般公開されています。 -
総門
参道脇には椿の木が何本も見られ、鹿王院ではこの実を搾って椿油を作るそうです。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS(ル・プラ・プリュ)
1989年、「本格的なフレンチを気軽にリーズナブルに味わって欲しい」というコンセプトのもとにオープンしました。以来、嵯峨嵐山にありながら、まるでパリのビストロにでも居るかのような気分になれるレストランとして地元で親しまれています。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
シェフは、京都の老舗フレンチ「萬養軒」を経て、フランスの星付きビストロ「ロイヤルグレー」や「ル・ムーラン・ド・ムージャン」、シャトーレストラン等で研鑽を積んだ実力派です。しかも本格的なフレンチながら、リーズナブルに舌鼓を打つことができます。
また、シェフは料理人になる前はインテリアデザインを学んでいたこともあり、レストランの外観や内装は自らデザインされたそうです。パリの街並みにあっても違和感のない、お洒落な赤いテントが目印です。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
店内はアンティークが並んでいます。
開店直後の入店時はすいていましたが、すぐに満席になりました。
平日でも予約なしでは席が取れません。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
天井にある4連ランプもお洒落です。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
「Bコースランチ」を予約していたので、ほぼ定刻に運ばれてきました。
【前菜】「オードブル盛り合わせ」
見た目の鮮やかさもさることながら、魚貝に野菜、ミートといったバランスの取れた盛り付けも魅力です。女性からの「ちょっとずついろいろなものを食べたい」というリクエストに応えた自慢の一品だそうです。
ムール貝やサーモンの燻製、帆立の貝柱、サラミソーセージ、生ハムなど、どれも美味しかったです。しかもこれだけでお腹いっぱいになりそうなボリュームです。(季節により内容は変わります。) -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
【主菜】+パン
フランス産ラム肩肉の煮込み、アリッサ入りナヴァラン風(ラム肉と野菜の煮込み料理)。
一言で表現すれば、「ビーツのないボルシチ」です。トッピングされた世界最小のショートパスタ「クスクス」がよいアクセントになっています。「クスクス」の発祥地は北アフリカ沿岸部のアルジェリアやモロッコですが、フランスでは「クスクススムール」や「スムール」と呼び、広く親しまれています。
アリッサは北アフリカ生まれの辛み調味料です。具体的に言えば、豆板醤に近い赤い唐辛子のペースト状もので、チュニジアが発祥だそうです。辛味は控え目ですので、ご安心を…。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
【主菜】+パン
「本日のお魚料理」は五島列島産 珍魚「イラ」のポワレでした。
イラはスズキ目ベラ亜目ベラ科に属する魚です。
柔らかくほんのり甘味がある白身魚で、熱を通すと身が締まって更に旨味が増します。また、皮のパリパリ感と身の柔らかさの対比が食感のアクセントになっています。一風変わった魚名ですが、捕まえようとすると逆に噛みつきに来るから「イライラしている魚」「イライラさせられる魚」を文字って名付けられたそうです。
添えられている野菜は、手前がポテト、奥はズッキーニとトマトと色彩的にも工夫されています。バターソースは薄味で、あくまでも主役を引き立てる脇役に徹しており、ベストマッチでした。 -
フレンチレストラン LE PLAT PLUS
【スープ】コーンポタージュ
【デザート】季節を意識したキュートなデザートです。
メロンのフレッシュやイタリアのフレッシュチーズ「マスカルポーネ」のチーズケーキなど。
余談ですが、「マスカルポーネ」の原産地はイタリアのロンバルディア地方で、古くは生乳の脂肪分が増す冬にしか作られない貴重なチーズでした。12世紀にイタリアを訪れてこのチーズを食べたスペイン総督が「マス・ケ・ブエノ」(なんて素晴らしい!)と称賛したことが「マスカルポーネ」という名前の由来とされます。
これにコーヒー(エスプレッソ)あるいは紅茶が付きます。
お腹いっぱいになった所で、次の目的地「車折神社」へ駒を進めます。
この続きは、問柳尋花 京都嵯峨野逍遙③車折神社(前編)でお届けします。
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